名前はまだない。
この物語は、ノンフィクションであり、事実に基づいています。
就活とはなんだろうか?何のためにするのだろうか?そう思ったことはないだろうか?私は、今現在疑問を抱いている。読んでいるあなたはどんな人だろうか?働いている?勉強をしに学校へ行っている?あなたはそれが本心?
そんなたくさんの疑問が募りに募って、今私は小説を書いている。文体なんて知らない。書きたいから書いている。苦しいから書いている。どうすればいいか分からないほど、もがいているから書いている。
読みたい人は読めばいいし、読みたくない人は読まなくて構わない。ただ、あなたの本心ってなんだろうか。
この作品は、長編小説と呼ばれるものでも短編小説でもない。ただの自己満日記である。
もしこの日記があなたに共感の光を灯したなら、あなたと私は繋がっているということだろう。
これから、現在の私の説明をする必要がある。誰だって悩むだろうし、どうしてここまで悩んでいるのか?気になる人もいると思う。私はAki。名前はまだない。
時を遡るほど4年前。私には夢があった。それは先生になるという夢だ。当時私は、野球に明け暮れていた。
ただひたすらにボールを追いかけて、たまにはこけて、たまには友達と笑いながら練習する毎日。あの時はあれが楽しかった。練習に向かってチームが一直線に進んでいく。そこまで強いチームではなかったが、高校野球が今までの野球人生の中で一番辛く、一番充実していただろう。
そんな私の高校野球人生もあっけなく終わり、いよいよ進路を決めるという段階に入った。あなたも体験したことがあるだろう。急に選択肢を決めなくてはいけない時間。
他の野球部のみんなは野球推薦や、指定校推薦を選び、いい大学からそこそこの大学、底辺の大学まで選ぶ基準は様々だ。生まれてこの方野球推薦に縁がない私としては、指定校推薦か、一般入試しか残っていない。
そこで私が選んだのは一般入試。しんどいのはわかっていたが、下を見るのは嫌だった。そこから英語と国語の猛特訓が始まり、野球から勉強へ熱意を注ぐものが変わった。
参考までに、その時の英語のスコアを挙げるとすると偏差値が32くらいだ。私よりも当時の先生の方が驚いていた。高3の9月なのに偏差値32は驚異だ。ある意味。先生ももちろん志望校を下げるかと思いきや、偏差値65の大学を目指そうと言われた。その期待とも捉えることができる反応が私の心に火をつけた。どうやら素晴らしい先生に恵まれたらしい。
それからというもの勉強尽くし。1に英語、2に英語、3、4がなくて5に国語(そこは英語ちゃうんかい)という感じでひたすら勉強をした。幸いにも友達に恵まれており、共に勉強をしてくれる友達もいた。その友達は私が思うに努力の天才で、生まれて今までこいつを超える努力は見たことがない。
そんな友達がいれば、必然と自分も頑張れる。そんな環境だった。だが、結果はそんな甘いものではなく、公募推薦は全落ち。大きくお金を無駄にした。もちろん無駄ではないことはわかっているが、まだ戦いは続くのかと思うと、辛かった。周りのみんなは進路が次々と決まっていき、クラスで入試をする人は少人数だった。そんな環境でも励ましくれる友達のおかげで、なんとか踏ん張れた。この場を借りてお礼を言う。ありがとう。
そんな感じで一般入試に挑戦し、第一志望とはいかなかったが、第二志望の大学に合格した。その頃の英語の偏差値は65まで上がっていた。結果が上がっていくにつれて、人は面白いものでその教科のことを好きになっていく。
情熱は探すものではなく、育むものとはよく言ったものだ。
私の友達の努力の天才も、見事第一志望に合格し、お互い満足のいく結果となった。そして、私の高校生活は終わり、大学生活へと移行する。舞台は大阪。大都会だ。
大学に入り、一人暮らしを始めた。田舎育ちの大学で、初めて一人暮らしを体験する諸君。知っておくといい。地面が歪むぞ。私は、一人っ子でとびきり寂しがり屋ともあり、初めの方は本当に辛かった。メモで自分自身に励ます文を書いていたりもした。それがむしろ逆効果だったりして、なおさら寂しくなったりした。友達に毎日夜に電話をしたりしてなんとか日々を乗り切っていた。
学校が始まり、友達が全くいない環境で友達作り。意外とすんなり友達ができた。クラスでも話しかけてくれる人はいて、サークルでは多くの友達に恵まれた。だが、心から気を許せる友達を一から作っていくのは難しい。
初めの方は地元最高!と思っていた。大阪の人は自分のことばっかりだなと思いながら、毎日が辛かったのを覚えている。でも友達を捨てるなんてことはできず、どうしてここまで価値観が違うのだろうと何度悩んだことか。
それから、色々あってサークルはやめ、もっと本気で体を動かしたいと思うようになった。ボクシングやラクロス部などをみて、ここは怖いなと思いながら色々な部活を見学した。そこで行き着いたのが、ハンドボール部。見学に行った時はみんながシャイで、自己主張が少ない。少し地元っぽいなと思いながらそこに決めた。話していくと案の定地方出身が多く、やけに安心感があったのはこのせいかと感じた。
大学生活はやっと充実しだし、大阪も悪くないなと思い出すようになり、少しずつ都会に馴染んでいった。
大学2回生の夏、カンボジアにスタディアップツアーとしてボランティアをすることになった。友達の誘いで、ワクワクと不安が両方備わった感情と共に、カンボジアへ訪れた。
そこでみたのは貧困、よりも「格差」といった方が正しいだろう。両親と手を繋いでスーパーでお買い物をしている子供もいれば、観光地で物乞いをして稼いでいる子供もいれば、ゴミの上で物を拾いながら、日銭を稼いでいる子供もいる。どれも皆同じ子供であって、同じではない。人は生まれながらにして平等ではないことを知った。
私の夢は相変わらず教師になることだったので、教育を中心にカンボジアで観察をしていたのだが、観光地的にはいい国である。観光に来る人の多くがリピーターと聞くが、それくらい想像しているよりもいい国だなと感じた。(料理はハズレが多かった)そんなこんなで私のカンボジア旅が終わるのかと思いきや、そうではなかった。ここで幸運なのか不幸の入り口なのかわからない出会いに遭遇する。
カンボジアにはツアーで行ったので、同じ世代の人たちが20名くらいいた。そして一日見学して思ったことや、一つのテーマについて語り合い、意見を交わした。そこで私は驚いた。今までの私が見る世界は香川県の同じ高校の野球部が大半だったが、同世代の人たちはどこまで広い世界を見ているのか?私が思っているよりももっと広い世界について考えている仲間の姿を見て、感銘を受けた。自分にももっとできることはあるんじゃないかと思うようになり、さらに勉強と行動をしよう!と決意した。今思えば、このことが幸運の始まり(自分変わりの始まり)であり、不幸の始まりだったのかもしれない。
それからと言うもの行動に重きを置くことになった。私はこの時代を行動時代(サル時代)と読んでいる。自分は何がしたいのだろうか?を問いかけ、ただそれを実行に移すのみ。例えば、私は国際的に貢献したいと思い、海外支援ボランティアを見たりした。だが、これは合ってないなと思い、じゃあ何がしたいのだろうと考えたところ、行き着いた答えが芸能界。俳優のオーディションを受けた。最初に受けたオーディションは順調に進んでいき、合格寸前まできた。しかし、そのオーディションを受かるには20万初期費用として必要と言われ、サルのように動いていた私は必死に親を説得した。その結果、丁重に断られ実現はしなかった。今思うと怪しさ満点だが、その頃は気づかないものである。
次はモデル活動をしようと考えた。顔は良くないが、体型は身長が高く足も長いのでいけるだろうと思っていた。これもオーディションで順調に進み、ランウェイに出ることになった。お金はかかったのだが、親や友達も見にきてくれて、選ばれはしなかったものの自分的には満足した。そしてランウェイに出てみて感じた。この世界には自分よりもかっこいい人は山ほどいるし、報われない人も山ほどいる。そんな世界で自分は生き残れるのだろうか?と考えたところ、何か秀でてる特技があるわけでもない私にとっては、不可能に近かった。そしてこの道はやめた。
それからというもの、私は知性を磨かなくてはいけないと思い大学3回生の頃に本を読む習慣をつける。これが自分にハマったらしく、段々と本を読むのが大好きになった。
自分が興味を持った本を読んでいき、自分の知識を蓄えていった。そして蓄えた知識を友達に話しながら、少しずつ思考力が育まれているのがわかった。そうなってくると、この頃からひとつ思うことがあった。「私は本当に先生になるのだろうか?」という疑問である。今まで純粋に進んできた教師の道に疑問を抱いてしまった。どうして自分は教師を目指しているのか分からなくなった。私の夢は教師になること。教師になったその先は?今でも本当に教師になりたいの?知るということは、発見の先にもっと深く自分と向き合うことになる。ここで初めて自分の行動に疑問を持ってしまった。
その疑問を持ったまま、私は小学校の教育実習に行くことになった。大体の教職をとっている学生は、教育実習を経て先生になるかを決めるらしい。私もそうしてみようと思い、教育実習に行った。そこでみたのは、苦しい本当の現場の姿だった。先生の人数が足りず、皆さんギリギリまで仕事をして、次の日を迎えるという毎日。もちろんストレスも溜まるだろう。教育実習生にかまっている時間など、どこにもないのだ。
そうなってくると必然と実習生へのあたりは強くなる。案の定私と指導教員の仲は悪くなった。しかし、子供のためにと思い頑張った。そのために頑張ることはできた。ただ、学校への自分の印象は最悪だった。
小学校の先生は無いなと思いつつ、実習も終わり、同級生の実習はどうなのか?と聞いた。すると、最高!子供が可愛いと反応が返ってくることが多かった。
正直耳を疑った。自分が体験したことと、返事が食い違っているからだ。私が仕事をできなかっただけなのかなと思うよになった。しかし、いつまでも腐ってはいけないと思い、対抗策を考えた。それは、心理学である。人の心理を知り、上手に促せる人間になりたいと思うようになった。心理学を理解すれば、実習での経験が活かされるのではないか?と考えたからだ。それからというもの持ち前の勉強好きを発揮し、本や心理学を専門としている人の動画を漁った。
大学3回生の12月頃、あなたは何をしていただろうか?就活をしていた人もいれば、私のように教員採用試験に向けて勉強を開始した人もいれば、経験していない人もいる。
この時期は大学生にとって運命の分かれ目になるとも言っていいだろう。どうしてって?就活をしてみれば分かるさ。
この時期の私は、改めて先生になろうとしていた。もっと本音で言えば、それ以外の選択肢を選ぶより、小学校の先生になる方が楽だった。もちろん教員採用試験が楽だとかそういうことを言う気はない。今現在も勉強は続けているが、正直難しいし、覚えることはたくさんある。
そういう楽ではなく、自分の選択肢を並べた上で、その選択肢がメンタル的にも体力的にも楽であり、妥当だということだ。その時の私の選択肢を軽く並べてみよう。
①小学校の教師②中学校、高校の教師(英語)③就職④海外か日本の大学院。
並べたはいいものの、大学院は金銭面の問題があり、就職は魅力的な企業が無く(そこまで調べていない)、英語の教師は試験に合格するだけの英語力がないので必然と小学校の教師になった。半ば諦めの選択肢だ。教育にはとても関心があるのだが、したいことと一致しているわけでもないのでそこまで気は乗らなかった。しかし、試験をする上で中途半端な気持ちでは、モチベーションが維持することは難しい。ということで教員採用試験トップ合格を目標に勉強を続けてきた。
時は流れ、3回生の2月。親と話すことになった。今の自分の現状。本当は就職を考えていて、いきたい業界はないがもっと自分の可能性を追求したいということ。20代はもっと自分にスキルを身につけて、基盤を作りたいという望みなどを親に本音でぶつけた。その結果、親は私のことを心配し、親としての思いと経験を語ってくれた。いわば、このまま先生を目指してみたらどうか?ということである。親は無責任なことは言わない。親は子を一番に心配し、だからこそ苦労する人生を歩んで欲しくない。そういう生き物なのである。私は反抗する気持ちよりも、親の思いの方に惹かれ、先生になる決定をした。
4回生になり、世間はコロナ一色。外へ出れない状況で、中々勉強に手を付けづらい状況だった。それでも毎日の勉強時間は確保する。自分はトップ合格するんだという思いのもと、効率重視の勉強法を繰り返していた。しかし、思いは自分がしたいことにふけっている。そのころの自分がしたこととは、自分のビジネスを持つこと。つまり、起業である。本を読む習慣が身につき、知恵も蓄積していく中でアイディアを考えることが楽しみになっていた。その中でも特にビジネスを考えることが好きで、人をどうやったら巻き込めるかを常に考えていた。そんな私だが、教員採用試験の勉強を続けることは楽しくなっていた。人はできるようになれば、その行いについて情熱を持つようになる。
情熱は見つけにいくものではく、育まれるものなのだ。
5月頃、一人の尊敬している先輩から連絡が来た。
連絡の内容は、今教師として働いていて感じたことを私にぶつけてくれた。その先輩は、年齢が私の一つ上で考え方が似ており、私の一歩先を歩んでくれている人だ。先輩は、今の現場で働いて自分ができることは限られていること、去年もっと深く考えて行動すれば良かったことなどを語ってくれた。私は納得することしかできなかった。そして、先輩に今の自分の思いを話した。すると「Akiは保守的だね」と言われてしまった。先輩が見てる景色とAkiが見ている景色はまるで違う。そのことは分かっているようで、分かっていなかった。自分が見ている景色は、みんなが見ている景色だと勘違いをしていた。いつのまにか保守的な自分に気付かず、行動することができなくなっていた。行動時代をサル時代と呼ぶのなら、この保守的時代を人間時代と呼ぼう。大人になるにつれて、行動をすることを恐れ、人間は立場を変えることが難しい生きものである。改めて私は人間だと感じた。ある意味。
私は広角レンズがほしい。
それから行動を始めた。まずは自分はどこに興味があるのか?という疑問だ。それはすぐに見つかった。私は以前から人のキャリア教育に興味があり、仕事とは?働くとは?を多くの人に聞いてみたいと思っていた。その分野に関わりたいと思い、人材会社やキャリアに携わる会社を調べ出した。5月下旬ということもあり、大手は新卒採用を締め切っているところも多かった。
就活で大きなイベントは3つ。一つ目は、自己分析。自分がどこに興味があるのかを探り、強みを見出す。二つ目は、企業見つけ。業界研究とも呼ばれるものだ。私はこの作業が一番難しいと思っている。三つ目は、面接対策。自分の強みや経験を言語化し、簡潔明瞭が求められる。この3つの作業のほかに重要なことはある。インターンだ。もしこの文章を就活生が読んでいるのなら、企業を絞りインターンに行くことをお勧めする。そして人事に会うことだ。
この作業を改めて行い、エントリーをしていった。私は好奇心旺盛なので、ビジネスで興味を持っていたマーケティング分野や広告分野などにもエントリーを行った。だが、そんなすんなりいくわけもない。
また、始めたこととして、ブログ制作がある。興味のまま働く人たちをインタビューし、そこで感じたことをブログに書いていくというものだ。最近は、初心者でもサイトを制作できる時代。便利とは、流れが速いものである。少しずつ文章が上手になってきてはいる。しかし、課題はまだ多く、改善の余地がある。
現状はこんな感じ。
どうして私はこんな日記のような文章を書こうと思ったのか?それは最近就活やインタビューをして感じた違和感からである。最近インタビューをさせてもらって軸という言葉や個性、オリジナリティという言葉をよく聞く。自分の軸を見つけよう!自分だけの強みはきっとある。探すんだ!などである。かくいう私も、今日言われた。仮面なんか外して、自分の内面にある自己理解が大切であると。今のあなたは、すごい人たちの言葉を借りて生きているだけであって、自己軸ではなく、他者軸になっていると。
その通りだと思う。私は、自分にこれといった個性がない。最近漫画で個性が発現する大人気漫画があるが、何度この漫画のように個性が発現したらと願ったことか。これは中二病なのだろうか。皆さんも個性を探したことはないだろうか?
私は自分に自慢するような個性がないことをコンプレックスだと思っている。だからこそ、有名人の言葉や科学の力を借りて、自分を色付けていくことが好きだ。
例えその行いが、仮面をつける行為だとしても、私はこれからもそうしていくだろう。自己理解をするよりよっぽど楽だからだ。そうやって私のように、人の意見をそのまま自分の意見にしている人はいるのではないだろうか?私がこの日記を書いた理由。それは自己理解をするためである。あなたに届けるためでもなく、ただ自分のために書いてみた。1万字にも満たないこの文章は拙くて、どうしようもない文章なのかもしれない。しかし、私にとってはこの小説は大切な文章であり、本当の履歴書なのかもしれない。あなたも小説がてら、自分の本当の履歴書を書いてみることをお勧めする。
文章なんて拙くたって構わない。あなたが満足すれば、それで良いのだ。最後に一言。改めて感じたことを最後に記して終えようと思う。
情熱は探すものではなく、見つけに行くものではない。自分の内面と対話し、育んでいくものなのだ。
私の名前はAki。名前はまだない。
この作品があなたに考えるきっかけを見出せたなら、それ以上の喜びはございません。