うさぎのハンコ
初日の報告。
ターゲットと実験体の接触を確認。計画は無事に成功した模様。
引き続き、監視を行う。
***
翌朝。疾風は目を開くと、飛び込んできた光景に違和感を覚えた。見慣れない天井。
そうか、叔父夫婦の家に泊まっているんだな、と思い出す。
きのうは慣れない道を歩いたせいか、いつもよりずっとはやい時間に眠ってしまった。
疾風は、サイドテーブルに置いてあった端末を手に取る。時間は、もうすぐ六時。
通知がなにもないことを確かめ、もとの場所に戻した。
朝食をすませた叔父夫婦が出ていくと、疾風はなにもすることがなくなってしまう。
当初は、家事の手伝いでも、と思っていた。しかし、この家ではあらゆるものが自動化されている。
杏子があれこれセットし終わったあとは、機械におまかせなのだった。
疾風が自室に戻ろうとすると、インターフォンが鳴った。おもわず壁の時計を確認する。まだ七時すぎ。
なんとなく、訪問者の正体がわかったような気がした。疾風はモニターをチェックしてみる。
案の定、銀髪の美少女が、画面のむこうにいた。
疾風はすばやく身なりをチェックすると、そそくさと玄関に向かう。
そっとドアを開ける。そこには、腕を組んで仁王立ちになった旭緋が立っていた。
きょうは、サーモンピンクのサマーニットに、細身のデニムパンツというコーディネイトだ。
その表情は、なぜか眉間にしわを寄せた険しいものになっている。
疾風は、きのうのことを思い出した。おたがい、なんとなく暗い感じで別れたのはたしかだ。
しかし、彼女を怒らせるようなことをした覚えはなかった。むしろ、こんな朝はやくに訪ねてこられて、こちらが文句を言いたいくらいである。
「おはよう」
疾風はとりあえず、旭緋を刺激しないように無難な挨拶だけしてみた。
「ハヤテくん、なんでラジオ体操こなかったの!」
旭緋が、ぷんぷんおこっている。
上目遣いににらみつけてくる顔は、怖いというより逆にキュートですらあった。
「へ?」
疾風は、自分でもおどろくほどマヌケな声を出してしまう。旭緋の言葉が、あまりにも意外なものだったので。
「らじお、たいそう?」
思わず訊きかえした。
「そう。杏子さんから聞いてないの? 六時二十五分に、公民館前に集合って」
旭緋は、怒る気が失せたようだった。おそらく、疾風がマヌケな顔できょとんとしているせいだろう。
「学校の、夏休みの宿題。都会の子は、ラジオ体操やらないの?」
疾風は、ようやく事態を飲みこんだ。
「あのさ。オレ、もう高校生だし」
「え、高校って、ラジオ体操ないの」
旭緋は心底おどろいた顔をする。どうも彼女は、世間知らずなところがあるようだった。
「そもそも、ラジオ体操って家でするもんだろ」
生まれてこのかた、疾風は学校行事以外でそんなことをしたおぼえがない。
「えぇ~。このへんでは、みんな集まってやるんだよ」
旭緋はそう言うと、首からさげていたひもを、細い指でつまみあげた。その先には、紙製のカードがぶらさがっている。
「参加すると、これにハンコ押してもらえるし」
「そんなの、見たことない」
「ええぇ~……」
疾風のすげない返事に、旭緋は信じられない、という顔になった。
旭緋の説明によると、この集落では、毎朝住民総出でラジオ体操をする習わしがあるそうだ。
さすがに叔父夫婦は参加していないらしいが、村のお年寄りは残らず集まってくるという。
しかも、村長手作りのラジオ体操カードまで配布している気合の入れようである。
「オレの時は、家で時間どおりに動画視聴すれば、端末にチェックされる仕組みだったけど」
そのシステムのおかげで、小中学生だったころの疾風はズルしまくっていた。
国営放送が中継する動画を、設定した端末で自動再生する。そして、自分は寝ていたのだ。同級生の大半も、似たようなものだった。
「あたしも、宿題のは同じだけど……ほら、このハンコかわいくない?」
旭緋はそう言って、カードを疾風の目の前に突きつけた。そこには、ピンクいろのインクで、うさぎ柄のスタンプが押されている。
「あ、そう……」
疾風は、朝からハイテンションの旭緋についていけなかった。昨日のことなどは、すっかり彼女の頭から消え去っている様子だ。
「ちゃんと、ハヤテくんのぶんのカードも、もらってあげるから。明日からは、一緒にいこ?」
男子高校生が、お年寄りにまじって体操か。疾風は、その光景を想像してげんなりした。
それでも、美少女に可愛らしい声でお願いされてしまうと、むげに断ることはむずかしい。
「一緒に、って、これから毎朝、ウチまで迎えに来てくれるわけ?」
「うん」
旭緋が、こっくりとうなずいた。
「しかたないなぁ。そこまでするなら、行ってやるよ」
疾風は、いかにも大儀そうに言ってやった。決して、お願いした時の旭緋が可愛かったから従うわけではないのだ、と主張したつもりである。
「むー、ハヤテくん、なんか偉そう」
旭緋は微妙に納得のいかないような、複雑な顔をした。
「じゃあ、明日の朝、ちゃんと起きてね?」
「ハイハイ」
「むむー」
疾風は、彼女をからかうのがだんだん楽しくなってきていた。
旭緋はそのあとも、疾風にさんざん念を押してから、やっと帰っていった。
ラジオ体操か。覚えてるかな。
疾風は、ふんわりとただようバニラの香りを吸いこむ。
面倒ではあるが、体力をとりもどすためには有効かもしれない。そんな風に自分を納得させる。
あくまで、健康増進のためだ。美少女に毎朝お迎えに来てもらうことがお目当てではない。
疾風は、自分で自分にそう言い聞かせた。
リビングにもどる。からっぽの部屋を見て、なんだかすこし寂しい気持ちになった。そのことに、疾風は自分でもおどろく。
そして、旭緋のせいだ、と思った。
その場がぱっと明るくなる、まるで夏の太陽のような、彼女の纏う空気。
そのぶん、離れてしまうと、ひとりになった静けさとの落差を感じてしまう。
沈んでゆく太陽を見送る、あの感じ。夕暮れどきの、センチメンタル。
疾風はだんだんと、そんな自分がおかしく思えてくる。
付き合っている彼女と一緒にいることすら面倒に感じるのに、この変わりようはどうしたことか。
きのう会ったばかりの、それも小学生の女の子と、もっと話していたいだなんて。
そう、旭緋はまだ小学生なのだ。どれだけ見た目が大人っぽいとしても。
彼女が、今までに接したことのないタイプだということも、大きいのかもしれない。
なにより、あの美しい容姿からは想像もつかない、無邪気な言動。いくら眺めていても、飽きそうになかった。
うさぎのハンコ、か。
自分のほうこそ、野うさぎみたいにぴょんぴょん跳ねてたくせに。
疾風は、そのときの旭緋を思い出して、すこし笑った。
疾風は自室に戻ると、昨夜自宅から届いた箱を開けた。中からタブレット端末を取り出す。
タッチペンを手に持つと、イラスト作成用のアプリを開く。絵を描くことは、彼の数少ない趣味のひとつだ。
疾風は、とある場面を思い出しながらペンを走らせた。
しばらく夢中で線を重ね続ける。できたのは、木にもたれて眠る、少女のスケッチ。
彼はその絵に「Sleeping Beauty」とタイトルをつけた。