アサヒのひみつ
丘のうえに、よわい風が吹いた。旭緋のほうから、かすかにあまい香りがただよってくる。
「そういえば旭緋ってさ。なんか、バニラみたいなニオイがするよな」
そのことは、彼女に会ってからずっと気になっていた。いろいろありすぎて、本人には訊きそびれていたが。
「あー……」
その言葉を聞いて、旭緋はなぜか、言葉を濁した。
なにか考えこむように、遠くを見る。
触れてはいけないことだったろうか。疾風は、旭緋の表情をうかがった。
彼女は、怒っているわけではなさそうだ。ただ、どう説明したものか迷っているような感じ。
疾風は、それ以上は追及しなかった。言いたくないことなら、別にかまわない。
そのまま黙って、空を見上げる。見わたす限りの、青。
「今日は雲がぜんぜんないな」
ぽつりとつぶやいた。夏の日差しがまぶしくて、手をかざす。
「ハヤテくん、肌のいろ白すぎだから、すこしは焼けばいいよ」
日傘のしたで旭緋が笑う。その肌は、透き通るように白い。
「肌のいろだけ健康的になってもなぁ……」
疾風は半そでのTシャツからのぞく、自分の細い腕を見た。
「えー、いいじゃん。あたしはすぐ炎症起こすから、日焼けできないもん」
そう言うと、旭緋は手首のブレスレットを太陽の光にかざした。白かった石が青っぽくなり、どんどんいろが濃く変わっていく。
深い青に染まったところで、あたりにブザーがひびいた。
「これ、紫外線量を計測してるの。警告値になると、音がなるんだよ」
旭緋がブレスレットをさわると、音が止まる。
「それで、日傘に長そでなのか」
「基本的には、日焼けどめを貼るだけでも大丈夫なんだけどね」
旭緋はそう言って、自分のひざを撫でた。
そういえば、菖蒲が愚痴をこぼしていた。最近の化粧品は、使い方がややこしい、と。
どうやら肌に塗るのではなく、シート状にして貼るものが主流になっているらしい。
疾風は、となりに座る旭緋を眺めた。彼女は、ミニスカートで脚を普通に出している。それなら、長そでも着る必要はないのではなかろうか。
疾風がそんなことを考えていると、背後から声が聞こえてきた。
「おーじょーうー、さまぁーっ!」
瑠璃が、旭緋を呼ぶ声。
「あ、しまったー。通知オフにしておくの、忘れてた」
旭緋が、ぺろっと舌を出す。
「通知?」
「そう。警告値になると、瑠璃にわかるようになってるの」
世話役というのは、そういう意味合いもあるのか。疾風は納得した。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
旭緋のよこに立った瑠璃は、なぜかサングラスを手にしている。
「ごめん……ハヤテくんに見せようと思って、わざといろ変えたから」
すまなそうに言った旭緋に、瑠璃はサングラスを差し出した。
「とにかく、規則ですから」
どうやらアラームが鳴ったら、さらに日焼け対策をしないといけないようになっているらしい。
「大変なんだな」
体質で苦労するつらさは、疾風も身をもって知っている。
「まぁ、あたしはまだ軽いほうだし」
旭緋は受け取ったサングラスを掛けた。フレームが大きいので、小さな彼女の顔は半分ほど隠れてしまう。
日傘の下でもなお、白銀の髪は自ら発光しているかのようにうつくしい。
「あー、だれか野焼きしてる」
旭緋がつぶやいた。視線の先では、白い煙がもくもくと立ちのぼっていた。よわい風に乗って、一瞬だけ焦げ臭さが鼻をつき、すぐに消えていく。
かわりに、旭緋の身体から発せられるあまい香りが、強くなった。
「野焼き?」
疾風にとっては、聞きなじみのない言葉だった。
「もー、これだから都会っ子はー。畑で出たゴミを、燃やしてるの」
「あぁ、たき火みたいなもんか」
疾風たちがのぼってきた坂のむこうは、もうもうと煙がたちこめている。
こんな風に、外で物を燃やすことが普通だとは。それは、疾風にとってカルチャーショックだった。
自宅周辺で同じことをしようものなら、すぐ消防に通報されそうだな、と思う。
「人間空気清浄機の出番ですね」
瑠璃が、不思議な言い回しをした。疾風はわけがわからずに、瑠璃の顔を見る。あいかわらずの無表情だ。
「もー、その呼び方やめてー。だいたい、清浄するわけじゃないし」
旭緋は露骨に顔をしかめていた。
「空気清浄機って、なにそれ」
瑠璃の発言がなにを指すのか。意味が通じない疾風は、ふたりの会話についていけない。
旭緋が、じっと疾風の顔を見つめた。
「ハヤテくん。さっき、なんであたしから、あまいにおいがするか、って訊いたでしょ?」
旭緋が、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
疾風はちいさくうなずく。
「あたしね……においを、変えられるの」
「変える……?」
疾風は一瞬、旭緋が冗談を言っているのかと思った。だが、彼女の顔は真剣そのものだ。
「ちょっと、一緒に来て」
旭緋が立ち上がる。疾風はわけがわからないまま、彼女にしたがった。
そこは、畑と呼ぶにはいささかコンパクトな、どちらかというと家庭菜園といった趣の場所だった。
診療所にいたおばあさんが、腰をかがめて草取りをしている。
いまや野焼きの煙は、すごい勢いで夏の澄みわたった空に広がっていた。
だが、その光景に反して周囲にはあまい香りがただよい、さながら洋菓子店にでも迷いこんだかのような空気になっている。
目の前の煙と、広がるにおいのちぐはぐさ。
おばあさんが顔を上げて、くんくんと周囲のにおいを嗅いでいる。
旭緋の姿をみとめて、にっこりと笑った。
「あぁ、アサヒちゃん。あんたが来てくれると、ケムリもええにおいやわぁ」
疾風は、先ほどの旭緋の言葉を思いかえした。においを、変える。
「おばあちゃん、手伝うね。ハヤテくん、いっしょに草取りしよ」
旭緋に言われるがまま、疾風は草むしりを手伝うことになった。畑に入るなど、小学校の授業でやらされて以来だ。
彼女のとなりにしゃがみこみ、見よう見まねで生えている雑草を引っこ抜く。
「このにおい……」
疾風は、ようやく口を開いた。旭緋の言った意味が、やっとつかめてくる。
これだけ煙が出ているのに、まったく臭いと感じない。そして、このあまい香り。
ただ、のどには違和感があった。目もすこし痛い。
「あたしね、人がイヤだなーって思うにおいを、変えられるの」
旭緋がもういちど説明した。さすがにこの状態を体験してしまうと、納得するよりほかにない。
しかし、いくら彼女の見た目が常人離れしているとはいえ、このような特殊能力を持っているとは。
「なんで……こんなこと、できるんだ?」
疾風の疑問ももっともだった。実際にこうして現場にいてすら、にわかには信じがたい話だ。
「わかんない。調べたいって言われたこともあるけど……なんか、怖くて」
当然、彼女の身体をくわしく調べてみたいと思う人間は、いくらでもいるだろう。
疾風は、自分が倒れた原因を特定するために、検査漬けになったことを思い出す。しかも彼女の場合、病気の検査とはわけがちがうのだ。
まして、旭緋は女の子である。不安に感じる気持ちもわかった。
疾風はほかにもあれこれ訊いてみたかったが、思いとどまった。最初に質問したときから、旭緋はあまりこのことについて、言いたくなさそうだったから。
すっかりおとなしくなってしまった旭緋が心配になって、疾風ははげましになるような台詞を必死で考えた。
「イヤなニオイを嗅がなくても済むって、いいと思うけどな。さっき、おばあさんも喜んでたし」
旭緋の表情が、すこしやわらいだ。しかし、またすぐに曇ってしまう。
「でもね、変えられるのは、ニオイだけ。たとえば……ガス漏れしてても、わからないの。気づかないうちに、倒れちゃう」
普通、一般に流通するガスの類には、漏れたことがわかるよう、わざと臭いがつけてある。
しかし旭緋のそばでは不快な臭気がなくなってしまうので、ガスに気がつかないまま中毒になってしまう、というわけだった。
「そう、か。いいことばっかりってわけでも、ないんだな」
なんだか逆効果になってしまった気がして、疾風は落ちこむ。
「このブレスレットね。紫外線だけじゃなくて、有害物質の警告もついてるの。あたしの心拍とかモニターして、異常があったら瑠璃に知らせたり」
しょんぼりしている疾風を安心させようと思ったのか、旭緋が話題を変えた。
疾風は、すこし離れたところで畑に水やりをしている瑠璃のほうを見た。
世話役。今の説明を聞いて、先ほどまでとは意味合いが違ったように感じてくる。
疾風はなんと言っていいものかわからず、困ってしまった。
気の利いたことを言って、旭緋をなぐさめてあげたかった。だが、こういうときに限って、なにも思いつかない。
旭緋も、黙って地面を見つめていた。目の前の草を抜くことに、集中しようとしているかのように。
草むしりが終わる頃には、煙の勢いもだいぶおさまった。日も傾いてきている。
「さて、そろそろ帰るかねぇ。あんたたち、手伝ってくれてありがとうね」
おばあさんが火の後始末をするあいだ、疾風たちふたりは雑草を木の根元に集めた。
そのあいだ、どちらも、ひとことも話さなかった。
ふたりは気まずい雰囲気のまま、それぞれの家に帰った。