しらべはアマリリス
ふいに、どこからかブツッと音がしたかと思うと、大音量で音楽が流れてきた。割れているので聞き取りにくいが、知っているメロディだ。
「うわー、もうお昼?」
旭緋がうえを見て言う。その視線の先には、四方に向けて取り付けられた拡声スピーカーがある。どうやら、そこから時報を流しているようだった。
「やっぱり、都会には防災無線とかないんだね」
ぽかんと見上げている疾風に、旭緋がそう言って笑った。
「こんなのあったら、すぐ騒音で苦情が来るだろうな」
疾風の自宅がある住宅街は、都心に近いわりに閑静なところがウリだ。保育園や学校を建てる計画が持ち上がるだけで、反対運動が起きるような土地柄である。
「らーりーらーりー、らーりーらーー」
旭緋が、流れてきたメロディを口ずさんでいた。
「それ、メロディはなんとなく覚えてるけど、歌詞は忘れてるな」
疾風の言葉に、旭緋ははりきって最初から歌ってくれた。お世辞にも、上手とは言えなかったが。
瑠璃が昼食の準備をすると言って先に帰ったので、ふたりで診療所まで歩くことになった。
「えーっと、鈴懸さん?」
疾風は、彼女をどう呼んだものか迷った。
「アサヒでいいよ。あたしもハヤテくんって呼んでるし」
そう言われてみれば、たしかにいつの間にか名前で呼ばれていた気がする。
「じゃあ、旭緋さん」
「うーん……なんかイヤ」
旭緋は首をかしげている。しっくりこないらしい。
「嫌って言われても。だったら旭緋ちゃん? 小さい子どもみたいだな」
「子どもじゃないもん! これでも小五だもん!!」
旭緋はぷりぷりと怒りだした。
疾風はそれよりも、旭緋が小学生だったことに衝撃を受けた。
彼女は見た目だけなら大人っぽいし、身長も疾風とさほど変わらない。高校生ではないかと思っていたくらいだ。
たしかに言動は、それにしては幼い感じだったが。
「わかったよ、旭緋って呼ぶ」
いきなり呼び捨てなのもすこし抵抗があったが、本人がそうしろと言うのだからしかたがない。
「それなら許す」
旭緋はなぜか偉そうに言って、すたすたと歩いていく。
「ちょっと待って」
疾風は、腕につけている端末を操作する。スーツケースが、彼を自動追尾するように設定し直した。
「かわいいー」
うしろからついてくるスーツケースを、旭緋はそう評した。ちらちらと振り返っては、ちゃんと動いていることを確認している。
「これって浮いてるの?」
「そう。だから、これだけ道が悪くても大丈夫」
村までの道は舗装されていないので、普通に動かしたのでは小石などに引っかかって倒れてしまう。
「すごいねぇ、いいこだねー」
旭緋はにこにこ笑顔でスーツケースを見守っていた。まるでわが子のような扱いである。
叔父夫婦の職場である診療所は、民宿の立ちならぶ、村のメインストリートの一角にあった。
疾風がスーツケースの設定を解除する。
「がんばったねぇ、いいこいいこ」
旭緋はなぜか、持ち手の部分をよしよしと撫でた。
彼女が外でスーツケースの番をしてくれると言うので、疾風はひとりで診療所の入口に向かった。
診療時間の表示には、正午までと書いてある。だが、ガラス戸に近づくと自動ドアが開いた。
せまい待合室では、おばあさんが座ってテレビを観ていた。奥の扉が開いて、女性が顔を出す。
「船津さん、どうぞー。あら、疾風来てたの。ちょっとそこ座って待ってて」
疾風の叔母、杏子はあいかわらずの早口でまくしたてると、ソファに向かって顎をしゃくった。
明るい茶髪のショートカットに、ピンクいろの、ワンピースタイプのナース服を着ている。
「あぁ、この人が甥っ子さん。こんな遠いところまで、よう来なさったねぇ」
おばあさんはそう言って、にこにこと笑った。かなりの高齢に見えるが、しっかりとした足取りで診察室にむかっていく。
杏子はおばあさんと入れ替わりに診察室から出てくると、疾風の隣に座って彼の顔を覗きこんだ。
「どう、身体の調子は。あ、これ家の鍵ね」
そう言って、、服の前ポケットからカードキーを取り出す。
「ありがとう」
疾風は受け取ると、杏子の様子をうかがった。連絡が遅れたことを怒っている感じはしない。
彼女との関係性もまた、少々複雑だった。
杏子は、菖蒲から見れば次女にあたる。だが、正確には疾風の叔母ではない。
なぜなら、疾風は引き取られた際に菖蒲の養子になっているからだ。ただ便宜上、姉というのも変なので周囲には叔母と言っている。
「これで午前の診療は終わりだから。三十分くらい後に、いちど家に戻るわ。申し訳ないけど、昼食はそのときね」
「わかった」
診察室からおばあさんが出て来たので、杏子は受付に行った。ここでは、彼女が看護師と事務員を兼ねているらしい。どうやら、受付の自動化はすすんでいないようである。
疾風は立ち上がると、おばあさんに会釈をして出口にむかう。
「おなかが空いてるなら、てきとうにキッチンにあるもの食べていいわよ」
杏子の言葉に、疾風は片手を挙げて応えた。
診療所から出てくると、旭緋が道の端でしゃがみこんでいた。しげしげとスーツケースを眺めている。
「そんなにめずらしい?」
疾風が話しかけると、彼女は立ち上がって、また持ち手を撫でた。
「あたし、旅行とかしたことないから。こういうの、持ってないの」
その顔がすこし寂しそうに見える。
疾風はなんとなく、理由を察した。おそらくは彼女の外見に起因するのだろう。
「箱入りなんだな」
茶化すように言うと、旭緋が笑顔になる。
「眠れる森の美女じゃなくて?」
旭緋は自分で言っておかしかったのか、くるくると日傘をまわしながら、くすくすと笑った。
疾風は、彼女を最初に見た時のことを思い出す。起きる前であれば、ぴったりな配役だったかもしれない。
「自分で勝手に起きてなかったっけ」
「いいのー。あたしは、王子さまを自ら探しに行く主義だから」
ねー、となぜかスーツケースに話しかけている。
たしかに、彼女はなにもしないで待っているタイプには見えないな、と疾風は思う。
「旭緋、昼メシ食べに帰りなよ。瑠璃さん待ってるだろ」
疾風の言葉に、旭緋は不満そうな顔をした。
「うーん……じゃあ、そうする」
しばらく考えて結論を出すと、彼女はスーツケースに向かって「またね」と手をふった。
「オレには挨拶なしなの?」
その様子を見て、疾風は思わず言ってしまった。なんだか物に嫉妬しているようで恥ずかしくなる。
「ハヤテくんは、また会えるからいいの」
「あ、そう」
疾風の、照れ隠しのそっけない返事に、旭緋がむっとしたのがわかった。
「ところで、ハヤテくんは家の場所知ってるの?」
「ご心配なく」
疾風は、腕の端末を操作した。ホログラムに地図が表示される。場所のデータは、事前に叔父から受け取ってあった。
家までのナビをセットし、スーツケースにそのデータを移す。すると、スーツケースが勝手に動き始めた。
「あとは、こいつについていけばいいってわけ」
「すごーい! ほんとにおりこうさんだねぇ」
旭緋がすなおに感心してくれるので、疾風は気分が良くなった。
「じゃあ、また」
「うん」
旭緋はふたたび、スーツケースに向かって手をふった。
地図によると、家は診療所からそこそこ離れたところにあった。
スーツケースの後をついて歩きながら、疾風は周囲を見わたす。村の中心部をはずれると、あとは基本的にどこを見ても木ばかりだ。まったく人の気配を感じない。
この集落には、およそ十世帯ほどが暮らしていると聞いていた。
住民のせめて一人くらい、その辺を歩いていても良いのではないだろうか。
疾風は、先ほど瑠璃の言っていた『半径百メートル圏内に人がいない』という話を思い出す。
結局、目的地に着くまで誰とも会うことはなかった。