前進
うっとりと夜明けの海を眺めていた旭緋が、おどろいた顔をして疾風のほうを見た。
「なんで……まだ、夏休みのあいだは村にいられるんでしょ?」
疾風はそれには答えず、空いているほうの手で旭緋の髪を撫でようとし……思い直して、彼女のほおに優しく触れた。
もともとは療養のために訪れた場所であり、原因が判明して倒れる心配がなくなった以上、村に留まる理由はもうないのだ。
「オレさ。旭緋に海を見せてやりたい、って思って、ここまで来たけど……みんなの協力がなかったら無理だった。オレひとりでは、なにも出来なかった」
旭緋の瞳が、うるんでゆらめいている。髪のいろは違っても、うつくしい紫水晶はそのままだ。
「オレ、旭緋のこと……すごく大事なんだよ。まもってあげたい、って、思う。でもさ、このままじゃ……いまのままのオレでは、きみをまもれない」
ほおに触れていた手に、雫が零れ落ちた。
指でゆっくりとぬぐってやるが、あとからあとからあふれ出してきて、とても間に合わない。
「だから、もっと勉強して……それこそ、政府の役人にでもなっちゃうとかさ。警察でもいいけど。あ、でも副署長はなんか頼りない感じだったよな」
疾風はわざと明るく振る舞って、必死で笑顔をつくった。旭緋のほおを、むにむにとつかむ。
それでも、彼女の涙は止まらなかった。
「そんなの……村にいたって、勉強はできるじゃん。あたしと一緒に、遠隔授業受ければいいじゃん……」
旭緋が、ぷくっとほおをふくらませた。
「それなんだけどさ。逆のほうがよくない?」
「へ?」
「だからさ。旭緋が、オレのところに来て……そこから、通学すればいいんだよ。だって、村のそとに出ても大丈夫ってわかったんだから。オレひとりじゃ、あの家広すぎるし」
旭緋が、ぽかんとした顔で疾風の顔を見つめている。おどろいたせいか、涙は止まっていた。
「え、え、なにそれ。そんなこと、できるの?」
「いや、もちろん村長さんが許してくれないと無理だけど。あと、一応あの……水嶋だっけ? アイツとか。もちろん、オレの総力を結集して論破してやるつもりだけどさ」
疾風は、ちょっと紫苑っぽい言い回しだな、などと思いながら、そんなことを言ってみた。旭緋の顔が、みるみる笑顔に変わっていく。
「そうする! あたし、ハヤテくんと一緒にいる!! ずっと!!!」
それが、彼女のこころからの笑顔に見えて、疾風は思わずその細い身体をぎゅっと抱きしめた。
なにか言ってあげなくては、と思うのだが、言葉が出てこない。
旭緋もおなじなのか、黙ったまま疾風の背に手をまわすと、ぐっと力をこめてくる。
「でも、今日の脱走がバレたらダメって言われるかもなぁ」
疾風がちいさくつぶやくと、旭緋の手がばんばん、と彼の背中を叩いた。
「……紫苑さんも、ハッキングの腕が鈍ったのかな」
横目で港の入口を見ると、こちらに向かって走ってくる数台の車が見えた。
ふたりは、いったん村に戻ることになった。
旭緋と一緒に、お菓子がぱんぱんに詰まったスーツケースを従えて村に戻ると、入口で村長と杏子が出迎えてくれる。
「ただいま!」
元気そうな彼女の様子に、ふたりともほっとした顔をしていた。村長は疾風の首に腕をまわし、もう片方の手でその頭を乱暴に撫でまわす。
「坊主、ありがとな。まぁ、まだ解決せなあかん問題は山積みやが……まずは、これで一歩前進や」
耳元でぼそぼそとつぶやくと、村長は手を離してニヤリと笑った。
ようやく解放された疾風は、くしゃくしゃの髪のままでぺこりとお辞儀をする。
「アヤメさんは……あれが、あのひとの運命やったんや。坊主にはどうすることもできんかったことや。あまり、気に病むなよ」
不意に意味深なことを言われて、疾風は顔を上げて村長の顔を見た。口元は笑っているが、目には涙が溜まっている。
「運命……」
その単語に含まれる意味。あのつめたい部屋で、ひとりぼっちで逝ってしまったことが、菖蒲の運命だったというのだろうか。
疾風は村長の涙から目をそらすように、杏子のほうを見た。旭緋と並んで、スーツケースの中味を物色している。
「杏子さんも、いろいろとありがとう。今日は、紫苑さんは来てないの?」
「紫苑は躍起になって、瑠璃をハッキングした犯人を捜してるわ。あなたたちによろしく、って」
杏子は笑顔でそう言うと、さっそくキャンディの袋を開けて口に放り込む。
あまいバニラミルクの香りが周囲に広がった。
「そうですか……あれ、じゃあ瑠璃さんはいま村にはいないんですか?」
「ええ、紫苑の研究室よ。旭緋ちゃんの監視体制についてはこれから見直すらしいから、しばらくはおとなしくしていないとダメよ」
旭緋の能力について新事実がわかったいま、政府がどういう対応をするのかはまったく見当がつかない。
疾風は、杏子から手渡されたキャンディをじっと見つめた。旭緋の身体からは、まだバニラの香りはしてこない。
「紫苑さんは……旭緋の能力は、村を出たら消えるって言ってました」
「そうらしいわね。ひょっとしたら、向こうはその可能性をわかっていたのかもしれないわ。紫苑を含めて、ね」
「それじゃ、ますます旭緋をそとに出さないようにする理由がわからなくなるよ」
またしても新たな疑問が生まれ、疾風は頭を抱えた。これでは、なにも解決していないのと同じだ。
「なんにしろ、向こうの動き次第ね。そうそう、あの水嶋だっけ? 顔を真っ赤にして怒鳴り込んできたわよ~。一緒に来た副署長が必死でなだめてたけど」
水嶋の名前を聞いて、疾風は名刺の件を思い出した。あのことはみんなにも話しておいたほうがいいのだろうか。
迷っていると、村のほうから百合子が走って来た。
「みなさん、こんなところで立ち話してないで公民館に行ってくださいよ!」
「あれ、なんで七川さんが?」
「引き続き鈴懸さんのお世話をするように、上から言われたんです。あのアンドロイドの代わりに」
「へぇ……?」
百合子はお世話という言い方をしたが、政府側はまだ監視を解くつもりはないということだ。
旭緋は、ばつの悪そうな顔で百合子を見ている。あれだけ邪険に扱っていたのだから、気まずいのも当然だ。
公民館に向かう道中、疾風たちはずっと減給された百合子の恨み節を聞かされる羽目になった。
会議室をのぞくと、苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んだ水嶋が、部屋中をうろうろと歩き回っていた。副署長があとを追いかけながらなにやら必死で話しかけている。
水嶋は疾風たちの姿を認めると、鬼の形相になってまくしたてた。
「あんたたちは、国をバカにしているのか!? 時代が時代なら、不敬罪でしょっぴかれるところだぞ!」
まるで自分が国の代表だとでも言わんばかりの口調に、疾風はおもわず笑ってしまう。それがますます彼の怒りに油を注いでしまったようで、水嶋はそこら中に唾をとばして怒鳴り散らした。
結局、その場は水嶋の意味不明な説教を聞かされただけで終わってしまい、今後のことについてはなにもわからないままだった。
副署長と百合子に挟まれて、ようやく気の済んだ水嶋が送り出されていく。
「あの若造は、一体なにしに来たんや……」
村長のつぶやきに、旭緋が「さあ?」と両手を持ち上げた。




