碧空
目の前を、黒い服の一団が通り過ぎていく。
疾風は革張りのソファに身体を埋め、その様子をぼんやりと眺めていた。
時折、場内にアナウンスがひびく。そのたびに別の集団が次々と立ち上がり、建物の奥に消えていった。
あのあと——病院の個室で、疾風はすっかりつめたくなった菖蒲の遺体と対面した。
まるで眠っているかのように、安らかな顔をしていた。そんなありきたりな感想しか浮かばない自分が、すこし哀しい。
連絡を受けてナース服のまま駆け付けた杏子が、遺体にとりすがって泣いていたことを思い出す。
その様子はまるで、ドラマのワンシーンのようだった。画面の向こうで繰り返される、陳腐なシナリオ。
そこからいままでの疾風の記憶は曖昧だ。今日が一体いつで、自分がどこにいるのかすらしっかりと把握できていない。
ただ、菖蒲の身体は、いままさにこの世界から失われようとしている。
もう、会えない。笑い合うことも、喧嘩することも、手をつなぐことも、なにもできなくなってしまう。
疾風はぼんやりとした頭で、結局プレゼントは渡せなかったな、と思った。
緩慢な動作で上着のポケットに手を入れると、なめらかな布の感触が指先に触れる。
たたんでおいたスカーフを取り出し、ひざのうえにひろげてみた。
うつくしい碧が、暗い風景のなかでより一層あざやかに浮かび上がる。
菖蒲の好きだった、晴れ渡った空のいろ。
棺に入れることも考えたが、疾風はあえて自分で持っていることに決めていた。
これは、戒めだ。菖蒲の異変に気付けなかった自分。たったひとりで、逝かせてしまった後悔のしるし。
火葬場からホテルに戻る車のなかでも、杏子はずっと涙を流していた。涙腺が壊れてしまったかのようだ。
遺骨が納められた容器を、包んだ風呂敷ごしにずっと撫でつづけている。
「これで、良かったのかしら……いくらお母さんの遺言だからって、まさか直葬だなんて」
ちいさくつぶやいているのが聞こえてきたが、疾風はそれには答えない。
菖蒲は、納棺後すぐに荼毘に付された。
通常執り行われるはずの一連の儀式は、本人の遺志によって見送られたのだ。
そもそも、彼女は無宗教である。かねてから葬式など必要ない、と言っていたことは、杏子も知っているはずだった。
疾風自身は、それを菖蒲らしいなと感じている。祖母は、他人に迷惑をかけることを極端に嫌うひとだったから。
しかし杏子は、弁護士から遺言の件を聞かされたときから、ずっと「ほんとうに大丈夫かしら」と言い続けていた。
やはり通夜も告別式もなしというのは、彼女にとっては戸惑いのほうが大きいのだろう。
ホテルのロビーでは、紫苑がふたりの帰りを待っていた。
「今回のことは、ほんとうに……なんと言っていいか」
黒のスーツを着た彼女は憔悴しきった様子でそう言うと、杏子のそばに行き、その身体を抱きしめる。
ふたりのすすり泣く声を聞きながら、疾風は周囲を見渡した。平日の午後だからか、ロビーは閑散としていて、自分たちのほかには誰もいない。
「旭緋は……どうしていますか」
ようやく落ち着いた紫苑に訊ねる。
「部屋で休んでいるよ。今夜、村長が迎えに来るそうだから……」
旭緋は、一連の出来事にショックを受けて寝込んでいた。村のそとに出てきたことだけでも精神的に負担がおおきいだろうに、そのうえこんなことが起きたのでは、普通にしていられるほうがおかしい。
「ちょっと、様子を見てきます」
疾風は、着慣れない喪服のせいでぎくしゃくした足取りのまま、エレベーターホールに向かった。慌てて用意した既製品なので、微妙にサイズが合っていなくて動きにくい。
本来なら、学生である疾風は制服を着用すれば済むはずだった。しかし警察が現場検証と称して自宅を立ち入り禁止にしてしまったので、取りに行くことができなかったのだ。
よく考えてみるとおかしな話だった。警察は、菖蒲の死因を心不全と断定し、事件性はないと明言している。よって遺体の解剖は行われていない。
その一方で、疾風の自宅の空調が壊れていた件は徹底的に原因究明する構えなのだ。
警察の動きを見ている限り、今回の事件にカナリア教が絡んでいるのは間違いなさそうだった。
しかし、菖蒲と教団のつながりはよくわからない。疾風を引き取ったことや、小説の題材にしていたことくらいしか思いつかないが、ほかにも知らないところでなにかあったのかもしれない。
上昇していく箱のなかで、疾風は菖蒲の言葉を思い出していた。
うさぎがさみしくて死ぬなんていうのは、嘘だ。
では、人間は?
孤独に苛まれたとき、ひとは、果たして平気でいられるのだろうか。
ひとりぼっちで、からっぽだったころの自分。
まだおさなすぎて、死というものが理解できていなかったあのころ。
それでも……あのまま、誰にもなにも与えられることなく閉じ込められていたとしたら。
さみしくて、死んでしまっていたのではないだろうか。
また、疾風の身体を寒気が襲った。自分自身を抱きすくめるように、両腕をまわす。
さむい——さみしい。
菖蒲も、そうだったのだろうか。
たったひとりで、あのつめたい部屋のなかで。
目の前の扉が開く。疾風は追い出されるような気持ちで、エレベーターからおりた。
絨毯が敷き詰められた廊下の先に、百合子が立っているのが見える。こちらに顔を向けてはいるが、目は合わせない。
疾風はゆっくりと彼女のほうに歩いていった。
「鈴懸さんはお休みになっていますから、いまは会えません」
すげなく面会を断られて、疾風はちいさくため息をつく。
「……ごめんなさい。ほんとうは、私も会わせてあげたいの。でも……」
消え入るような声で、百合子がつぶやいた。立場上、どうすることもできないのであろうことは理解できる。こんな風に声に出してしまうあたり、彼女にはまだ職務に徹しきれていない青さが感じられた。
「ありがとうございます。旭緋を……お願いします」
いまの疾風には、こう言うのが精いっぱいだった。なにも考えずにここまで来てしまったが、自分自身も、弱っている彼女をなぐさめられるような精神状態ではない。
毛足の長い絨毯に沈み込む革靴をどうにか動かしながら、疾風は自分の泊まっている部屋の前まで歩いた。
カードキーを取ろうとポケットを探る。手をそとに出した瞬間、スカーフが床に落ちた。
赤を基調としたなかに、一ヵ所だけ青空がひろがる。
疾風は、視界がぼんやりとにじんでいくことに気が付いた。
ぎゅっと目を閉じて、涙が零れそうになるのをやり過ごす。
そういえば、菖蒲に対面してからいままで、ほとんど泣くことがなかった。
そのことに思い至ると、疾風はまた、自分の身体の中心にぽっかりと穴が空いてしまったような気がした。
ようやくドアを開けると、部屋のなかに転がり込む。よろよろとベッドまで近づき、そのまま倒れ込んだ。
堰を切ったように涙が流れ始める。
瞳からあふれる液体は、とどまるところを知らなかった。
あとからあとから、いままで意識せずに我慢していたぶんも全部、一度にあふれ出していくようだった。
目の前の白い世界を見つめたまま、疾風は長いあいだひとりで泣いた。
声を出すこともなく、ただ、静かに、流れるにまかせて。
ようやくおさまってくると、あおむけになって顔だけをよこに向ける。
おおきな窓に、レースのカーテンがひかれていた。その向こう、都会のくすんだ空が見えている。
菖蒲はもう、あの空のうえに行ってしまっただろうか。
願わくば、こんな空ではなく、うつくしく澄んだ青空のもとへ旅立ってほしい。
そんなことを考えながら、目を閉じる。旭緋の姿が浮かんだ。
いつか——きれいな空の見える場所に、彼女と行こう。
そして、今度こそ菖蒲に紹介してやろう。
疾風が初めてこころから好きだと——まもってあげたいと思う、夏の太陽のような女の子を。




