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異変


 見慣れた光景が目の前に広がり始め、疾風はやては家の近くまで来たことを実感する。

 端末から自宅に電話をかけた。着く前に連絡してくれと菖蒲あやめに言われていたのだ。

 しかし、ふだんなら二、三回のコールで出るはずだが、どれだけ鳴らしても反応がない。留守番電話に切り替わらないのも不自然だった。


「どうしたの?」


 眉をひそめて通話を切った疾風を見て、旭緋あさひが心配そうな声で訊いた。


「いや……菖蒲さん、電話に出ないんだよ。近くまで来たら教えろって言ってたのに」


 いら立ちよりは困惑のほうが大きかった。安否確認サービスの最初の時間は、たしか午前八時のはずだ。疾風は時計を確認する。十時半。通知が来ていないということは、朝はなにも問題がなかったということになる。


 疾風は気持ちばかりが焦っていた。こういうときに自動運転車は不便だ。もうすこしスピードを上げて急いでもらいたいものだが、法定速度を守るように設定されているのでどうにもならない。


 きっと、なにか買い忘れて近所の店にでも出かけているんだ。

 そんな風に考えて、なんとか気持ちを落ち着かせようとする。こんなことがあるから、すぐに連絡のつく端末を持ち歩けと日頃からきょうに口を酸っぱくして言われているのに……。



 やがて、車がスピードを落とし始めた。疾風は深呼吸をする。大丈夫。なにも起こってはいない。


「ここが、ハヤテくんの家?」


 旭緋がべったりと窓に張り付いてそとを見上げている。

 目の前には、真っ白な壁がまぶしい二階建ての一軒家があった。


「そう。ちょっと、旭緋たちは車で待ってて」


 疾風は車から降りると、見慣れた玄関に向かった。顔認証システムが作動し、ほどなく扉の鍵が開く。

 ドアノブに触れた瞬間、疾風は思わず手を引っ込めた。異常につめたい。まるで氷を触ったかのようだった。

 背後から足音がして、彼は振り向いた。護衛のひとりが、玄関に走ってくる。


「なにかあったのか?」


「ドアノブが……まるで、凍っているみたいになってて」


 男性がそれを聞いて、スーツのポケットから白手袋を取り出した。すばやくそれを両手にはめ、ドアノブに手をかける。

 ゆっくりとドアが開いていく。そのすき間から、冷気が流れ出してきた。


「なんだよ、これ……」


 疾風はつぶやくと、ただ呆然とその場に立ち尽くした。足元から、どんどん周囲の気温が下がっていく。


「君はそこで待っていてくれ。様子を見てくる」


 男性が襟もとに付けた小型マイクに小声で話しかけると、もうひとりが走り寄って来た。そのまま、ふたりで家に入っていく。

 疾風は、開いたドアのあいだからなかをのぞいた。吐く息が白く染まる。まるで冷蔵庫のようだ。

 空調のトラブルだろうか。まさか、菖蒲は家に……。


 嫌な予感がして、疾風は自分の腕を両手で強く掴んだ。震えているのは、寒さのせいだけではない。


 やがて、なかから連絡を受けたのか、もうひとりの護衛も玄関に来た。


「とりあえず、車のなかに戻っていなさい」


 うながされて振り返ると、車のなかから心配そうにこちらを見ている旭緋と目が合った。安心させようと口元を動かしてみるが、ぎこちない表情になってしまう。

 ゆっくりと車まで戻る。旭緋の隣に座ると、彼女の手がほおに触れた。


「ハヤテくん……顔が、真っ青になってる。ほっぺたも、すごくつめたい」


 そう言って、両手で彼のほおを包み込んだ。

 助手席の百合子ゆりこは、ほかのひとたちと連絡を取り合っているようだ。だが、はい、はいと返事をするばかりなので、状況はまるでわからない。


「なかは……どうなっているんですか」


 通話が途切れたのを見はからって、疾風が訊いた。百合子は迷うような表情をしたあと、玄関のほうに目をやる。


「いま……あなたのお母さまが、居間で倒れているのがみつかって……これから、リーダーが病院に搬送するそうです」


 半ば予想していたことではあった。だが、やはりこうして事実として聞かされてしまうと、ショックが大きすぎてそれ以上はなにも言えなくなってしまう。

 疾風のほおを包んでいた旭緋の手が離れ、今度は彼の手をぎゅっと握った。


 やがて、百合子が瑠璃るりに指示を出して車をバックさせると、別の一台が玄関に横付けされた。毛布——おそらく、なかにいるのは菖蒲だ——を抱えた男性が家から出てきて、その車に乗り込む。


「リーダーは医学の心得もある方ですから。応急処置はほどこしてあります」


 百合子がちいさな声でつぶやくと、菖蒲を乗せた車が発進した。疾風たちもそのあとに続く。

 なにがどうなっているのか、疾風は混乱した頭で、先ほど起きた出来事を必死で思い出そうとした。

 まだ、指先がじんじんとしびれている気がする。旭緋の手のぬくもりが、だんだんと彼の精神を落ち着かせていった。


 おそらく、あの冷気は空調の故障なのだろう。では、一体いつから? 

 セキュリティから通知が来ていないということは、八時の時点ではまだ……そこまで考えて、疾風は思い出した。

 そうだ。あのサービスは、あらかじめ外出の予定を入れておけば、作動しない仕組みになっている。


 まさか疾風が家に行く当日の朝に外出の予定を入れるとは思えなかったが、空調と同時に機械のトラブルが起きたこともありえなくはない。

 安否確認があてにならない以上、菖蒲がいつ倒れたのかを予測することは、いまの疾風には不可能だった。

 もっと情報が欲しい。だが、百合子は張り詰めた表情で黙り込んでしまっていて、とても話しかけられる雰囲気ではない、


 菖蒲と最後に話したのは二日前、八月六日の夜。それ以降に、セキュリティの不具合があったのだとしたら……。

 疾風は、つながれたままの旭緋の手に視線を落とした。気持ちを静めようと意識する。

 大丈夫だ。応急処置はしたと言っていた。それはすくなくとも、発見された時点では菖蒲は生きていたという意味だ。


 

 車が総合病院の駐車場に入っていく。菖蒲を乗せた車が、救急センターの建物に向かって走っていくのが見えた。


「申し訳ないのだけど、リーダーの指示で……私たちは、ここでしばらく待機します」


 広大な駐車場のすみに停車すると、百合子が言った。


「え? だって、オレは菖蒲さんの家族で、息子なんですよ。どうして付き添ってはいけないんですか」


「リーダーの命令ですから……それに、いまあなたが向こうに行ったところで結局はおなじことですよ。お母さまに会うことはできません」


 思いのほか冷静に返されて、疾風は黙った。しかし、救急搬送された家族に付き添えないなんてことがあるだろうか? もちろん処置の現場に入ることは許されないとしても、部屋のそとで待つとか……。


 そこまで考えて、疾風はいままでの一連の出来事の不自然さに気付く。

 彼が玄関で手間取っていたのは、ほんの数分だったはずだ。その割には、護衛のひとり——おそらく、あれがリーダー——がすぐに走り寄って来た。

 たしかに訓練されたプロなのだから、仕事が早いのは当然なのだろう。それにしたって、対応があまりにも素早すぎるのではないか?


 まさか、こうなることをあるていど予想していたというのだろうか。

 背筋がすうっとつめたくなる感覚がして、また身体の震えが戻ってくる。


「ハヤテくん」


 旭緋が、握っていた手をそっと離した。疾風の肩に腕をまわし、あたためるように自分のほうに引き寄せる。

 疾風はされるがままの状態で、彼女に身体をあずけた。


「いま、連絡がありました。お母さまに会ってもいいそうです。行きましょう」


 遠くで、百合子の声がした。

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