うさちゃん
作戦は第二フェイズへ移行。
監視は継続とする。
***
八月八日。その日は、生憎の曇り空だった。予報では昼前から雨となっている。
昨日とおなじくラジオ体操は休みになったので、疾風はふだんよりゆったりと朝食を摂っていた。
「いよいよね。まぁドア・ツー・ドアみたいなもんだし、危険なこともないでしょうけど……一応、気をつけてね」
杏子は相変わらずの調子で謎のセリフを言うと、仕事に出かけて行った。
食後のコーヒーを飲みながら、疾風は壁の時計を見る。午前七時過ぎ。まだ、出発までには時間があった。
疾風は自室に戻ると、床に置いてあるスーツケースを見た。ここ数日、いつ旭緋に渡すかで迷っている。目につくたびに、早く渡したくてうずうずしてしまうのだ。
彼女のよろこぶ顔が見たい。その欲求に逆らえなくなってしまう。
やっぱり今日にしようか。疾風はそう思って、スーツケースを部屋の真ん中に持ってくる。
どうしてもっと早く渡してくれなかったの、と怒られそうな気もしたが、それならそれで構わない。なんなら、お土産を山ほど買ってやって詰めて帰ればいい。
疾風は旭緋のおどろく顔を想像して、にやにやと笑いながら持ち手に結んだリボンを整えた。
はやく彼女に会いたい。
ようやく予定の時間が近くなり、疾風は叔父夫婦の家を出た。さっそくスーツケースの自動追尾機能を使ってみようかと思ったが、旭緋がすねそうだったのでやめた。
タイヤを地面から浮き上がらせて、伸縮製の取っ手を伸ばす。そのまま自分で引っ張っていくことにした。
待ち合わせ場所である村の入口まで行く途中、何人かの老人に声をかけられた。アサヒをよろしく、と口を揃えて言われるので、疾風はなんだか変な気分になってしまう。
やがて道の先に、村長と紫苑の姿が見えた。
「あ、ハヤテくん!」
ふたりの陰から旭緋が顔を出す。例の、セーラー襟のワンピースを着ていた。ウエストがきゅっと締まったデザインなので、スタイルの良さが際立っている。
「いいね、そのワンピース。すごくよく似合う」
疾風が誉めると、旭緋は嬉しそうに笑った。ほおがピンクいろに染まる。
「なんか、荷物多くない?」
旭緋が、疾風の後ろにあるスーツケースを見つけて言った。
「いや……オレがこんないろ持ち歩いてたらヤバイだろ。しかもリボンまで付けて」
なんだか想定していたのとはちがう雰囲気になってしまって、疾風は戸惑った。思い付きで持ってきてしまったので、どう渡すかしっかり考えていなかったのだ。
「これ、旭緋にやるよ」
「へ?」
素っ気ない疾風の言い方に、旭緋が目を丸くして固まっている。
「だから。今日が無事に終わったら、村のそとに出られるようになるかもしれないし。旅行に行くなら、必要だろ?」
喜ぶ顔を想像していた疾風は、なんか違うな、と思いながら必死で説明した。
それを聞いていた旭緋の瞳に、どんどん涙が溜まっていく。
やがて、両手で顔を覆ってしゃがみこんでしまった。そして肩を震わせて泣きだしてしまう。
「……え?」
今度は疾風のおどろく番だった。予想外の展開に、どうしたらいいのかわからない。
「あーあー、せっかくの門出に、主役を泣かせてしまってどうするんだい」
一部始終を見ていた紫苑が苦笑している。
「ほれ、ちゃんと責任とってなぐさめてやらんか」
村長に背中を押されて、疾風はよろよろと旭緋に近寄った。彼女の目の前に、同じようにしゃがみ込む。
「えー、っと。ごめん。泣かせようってつもりじゃなくて……その、オレが最初に来た日にさ。旭緋が、すごくうらやましそうにオレのスーツケースを眺めてたから……これあげたら喜ぶんじゃないか、って思って……」
しどろもどろになりながらも、疾風は一所懸命、自分の気持ちを伝えようと言葉を紡いだ。
旭緋が顔を上げる。おおきな瞳からは、とめどなく雫が零れ落ちている。
疾風は躊躇うことなく、その涙をぬぐってやった。
「……あたし、ほんとは、泣きたくなんてないの。すごく、うれしいのに……でも、どうしても、止まらないの」
旭緋はしゃくりあげながら、疾風の目をじっと見つめる。
「ありがとう。いままでもらったもののなかで、いちばんうれしい」
そう言って笑うと、旭緋は立ち上がって、スーツケースのほうに向かった。
「でもね……ハヤテくんが、覚えててくれたことのほうが、うれしいな。あたし、いつか……こんなスーツケースを持って、いろんなとこに行ってみたいって、思ってたの」
やわらかな微笑みを浮かべながら、持ち手のリボンをそっと撫でる。
その光景を眺めながら、疾風はあたたかい気持ちが胸のなかに広がるのを感じていた。
「あの、感動的な場面に水を差すようで大変申し訳ないのですが……そろそろ出発しないと、その、時間が」
おそるおそる、といった調子で、百合子が言った。
「うわあ、ごめんなさい! どうしよう。これ、持って行っても大丈夫?」
旭緋は大事そうにスーツケースを抱えると、百合子に向かって訊いた。
「もちろんいいですよ。じゃあ、こちらに」
百合子はそう言って、スーツケースを受け取ろうと手を伸ばした。
「あ……一緒に、持ったまま乗っちゃダメですか……?」
旭緋がちいさい声で訊ねると、百合子が微笑んだ。
「ふふ、なんかうさぎみたいだね。名前どうしよっかなー」
車の後部座席、疾風の隣に座った旭緋は、スーツケースを抱えて嬉しそうに言った。
「名前? スーツケースに?」
「なんでー。べつにいいじゃん。うーんとー、うさちゃんとぴょんちゃん、どっちがいいかな?」
「お好きなように。旭緋のなんだから」
疾風は若干あきれつつも、旭緋がよろこんでいるならまぁいいか、と思った。相変わらず壊滅的なネーミングセンスだが、それすらも可愛いと思えてくるから不思議だ。
視線を前に移すと、助手席に座っている百合子の肩が小刻みに震えていることに気がついた。おそらく笑いをこらえているのだろう。
今度はフロントガラスの向こう、前方に停まっている車を見た。後方にも同じ車がおり、疾風たちを挟むようなかたちで進むことになっている。それぞれに護衛の男性がふたりずつ乗っているはずだった。
「目的地までは一時間ほどですが、安全のため休憩はなしの予定です。もしトイレに行きたくなったら、できるだけ早めに言ってくださいね」
百合子はナビシステムを操作しながら言った。運転席には瑠璃が座っているが、基本的には設定したルートを自動で走るだけなので運転をするわけではない。
「たのしみだなー!」
旭緋は満面の笑みで窓のそとを見ている。やがて、車がゆっくりと走り出した。
しばらく走って国道に入ると、旭緋の様子が変わった。真剣な眼差しでそとを凝視している。まだこのあたりは木々が並んでいるだけなのだが、それでも彼女にとっては、何年ぶりに村の景色以外のものを見ることになるのだろうか。
黙り込んでしまった旭緋を眺めながら、疾風は家に着いてからのことを考えた。
旭緋には一応、例のサインの件は話してある。アイドルの女の子についても、基本的な情報は教え込んであった。
ただ、なにぶん付け焼刃なので心もとないのは確かだ。
まぁ、オレと瑠璃でなんとかするしかないか。
疾風は、そのあたりのことはあまり心配していなかった。杏子からざっくりと説明はしてくれているらしいし、菖蒲は勘のいいひとだから、おそらく忖度してくれるだろう。
窓のそとの景色が、だんだんと都会に近づいてきたことを示している。
疾風はなつかしいと思うと同時に、なぜか憂鬱な気分になっていた。自分でも、その理由はわからなかった。




