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桃の缶詰


 目を開けると、そこは()()小部屋だった。

 まただ、と疾風はやては思う。明晰めいせき夢。


 やはり、目の前に立つ女性の顔はぼんやりとしていた。

 腰あたりまで伸びた長い黒髪。いやに丈のながい真っ白なドレスをまとっている。装飾などはなにもほどこされていない。


 疾風は目を閉じ——実際には、そうしたつもりになって——いまの状況を思い浮かべる。

 ここは叔父夫婦の家で、自分は熱を出して自室のベッドに横になっているのだ、と。


 

 ドアが静かに開く気配がして、疾風はそちらのほうに目を向けた。

 紫苑しおんがゆっくりと顔を出す。


「おや、起こしてしまったかな」


「いえ、ちょうど目が覚めたところでしたから」


 彼女はそれを聞くと、柔らかく微笑んだ。手にしたビニール袋を掲げる。


きょうから寝込んでいると聞いてね。陣中見舞いを持ってきたよ」


 この場合はただの見舞いのような気もするが、疾風には突っ込む気力もなかった。

 紫苑は椅子を持ってきてベッドの横に座ると、ガサガサと音を立てて中味を取り出す。

 現れたのは缶詰だった。


「病気のときの定番といえば桃缶だからね。遠慮なく食べたまえ」


 そう言ってサイドテーブルに置いた。缶詰だけ出されて食べろと言われても困ってしまうが、疾風は一応礼を述べておく。


「わざわざすみません。買いに行ってくださったんですか?」


「いや。村長の家の台所から失敬してきた。心配しなくても、ちゃんとあとで買って返しておくよ」


 なんとも紫苑らしい感じがして、疾風はちいさく笑った。


「実はね、心配していたのだよ。昨日のキミが、あまりにも落ち着いていたものだから。しかし、熱を出したと聞いて安心した。やはり人の子であったか、とね」


 今度は()()()()()ことを言い出した彼女は、いつもとすこし雰囲気が違うように感じられた。物言いは変わらないが、口調がやさしい気がする。


「たぶん……オレが落ち着いていられたのは、旭緋あさひがいてくれたからだと思います。理由はわからないけど」


「そうか。やはりキミたちは、どこかで通じ合っている部分があるのだろうね」


 たしか、村長も同じことを言っていた。生い立ちの複雑さがそう思わせるのだろうか。


「あの、ちょっと気になっていることがあるんですけど」


 疾風は、昨日の紫苑が言っていたことを思い出していた。


「旭緋を村のそとに出すことで、テロリストをおびき出すって話……あれは、カナリア教の残党が彼女の能力を知っていること前提なんですよね?」


「あぁ……我々はそう考えているが、確たる証拠はない。ただ、カナリア教に限らず、犯罪者集団に旭緋嬢の情報が渡っている可能性は否定できない」


「それは、ダムに沈むまえの村にいた人たちのなかの誰かが、そういった組織に情報を提供しているってことですか」


「そうだね。公安がどこまでつかんでいるかまではわからないが……所詮ワタシもこの件に関しては、部外者扱いだから」


 どうやら紫苑は思っていたほど、公安と通じているわけではないらしい。

 疾風はさらに、ずっと疑問に思っていたことを口にした。


「紫苑さんは、どうして旭緋の後見人になったんですか?」


「ワタシの父親は、遺伝子工学の博士でね。例のガス爆発事故のあと、旭緋嬢に会っているのだよ。DNA検査をして彼女の能力を調べようとしたんだ。村長の強硬な反対もあって、実現はしなかったが」


「そうだったんですか」


「父は、旭緋嬢の境遇にいたく同情してね。瑠璃るりを監視役に付けることを提案したのも彼なんだ。その後……事情があって、連絡が取れない状態になってしまって……父の意志を受けて、ワタシが後見人になったというわけさ」


 事情、という言い方に、このひともまたなにか特別な家庭に生まれ育ったひとなのだな、と疾風は思った。

 自分たちに協力してくれているのも、そういった背景が関係しているのかもしれなかった。


 紫苑は立ち上がると、袋のなかからスプーンを取り出して缶詰のうえに置いた。


「とにかく、キミは自分の身体をしっかり治すことをいちばんに考えたまえ。明日は例の護衛とやらが打ち合わせに来るらしいから」


 そうだ。明後日には、旭緋を連れてこの村を出る。寝ている場合ではないのだ。


「わかりました。たぶん、しばらく寝ていれば大丈夫ですから……桃缶、ありがとうございました」


 疾風の言葉に、紫苑はにっこりと笑った。



 紫苑が出て行ったあと、疾風はしばらく横になったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。

 彼女とのやりとりでわかったこともあるが、逆に謎も増えてしまった。

 なにかひとつ疑問が解消すると、それに付随した別の疑問がいくつも沸いて出てきてしまう。これではきりがない。


 疾風はゆっくりと起き上がり、缶詰を手に取った。ずっしりと重い。

 タブに手をかけて開けようとするが、力が入らずに思いのほか手間取ってしまう。

 ようやくふたが開くと、つやつやとした白い果実が目に入った。

 部屋にただよう、あまい香り。


 スプーンですくって口に運びながら、疾風はなつかしい味だな、と思った。

 菖蒲あやめもなぜか、彼が熱を出すと桃の缶詰を食べさせてくれたのだ。

 ひんやりとつめたくてあまいそのたべものは、疾風をやさしい気持ちにする。

 

 さすがに全部はたべきれなくて、疾風は半分ほど持て余してしまった。

 仕方なく、片手に持って部屋を出る。おぼつかない足取りで階段をおりていくと、ダイニングテーブルのうえに食事が用意されていた。


 みんな、すこしオレを甘やかしすぎじゃないかな。

 昨日あんなことがあったあとだから気を遣ってくれているのだろうが、なんだか自分がちいさな子どもに戻ったような気がしてしまう。


 疾風は缶詰の中味を別の容器に移し、冷蔵庫にしまった。

 杏子が心配するといけないので、置いてあったサンドイッチをつまむ。

 菖蒲直伝の、きゅうりだけをはさんだシンプルなそれを、疾風はゆっくりと味わった。



 夕方には熱も下がり、疾風はまた自宅に電話をしてみた。今度は二回目のコールで菖蒲が出る。


「何度か電話してくれたようだけど、なにかあったの?」


 特に変わった様子はない。ほんとうに旅行に行っていただけのようだ。

 疾風は明後日の帰宅について告げ、ざっくりと事情を説明する。

 おどろいたのは、菖蒲がすでにだいたいの話を杏子から聞いていたことだった。

 あれだけ連絡することをしぶっていたのに、どういう風の吹き回しだろうか。


「心配しなくても、きちんと準備はしておきますよ。それより、熱を出したんですって? 気をつけないとダメよ。あなたもむかしはしょっちゅう高熱を出して……」


 老人特有のむかし話が始まって、疾風はてきとうに相槌を打った。ヘタに話をさえぎりでもしたら、余計に長引くのは経験上わかっている。


「杏子にもよろしく伝えておいてね」


 ひととおり言いたいことを言うと、菖蒲は満足したのか通話を切り上げた。

 なんとかこれで、用事はひとつ片付いた。

 思っていたよりふつうに会話ができて、疾風はほっとしていた。

 やはり出生の秘密を知ってしまった身としては、どうしても気が張ってしまう。

 

 これなら実際に会っても大丈夫そうだな。

 そう思って、旭緋の顔を思い浮かべる。

 たぶん、あいつがいるからそれどころじゃないだろうし……。


 菖蒲は、旭緋のことをどう思うだろう。

 なんだか恋人を紹介するような気分になってしまい、疾風は自分のほおをつねって気を引き締めたのだった。

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