都会から来てもジャージ
疾風はてっきり、少女が自分のことを知っているものだと思いこんでいた。
あまりにも親しげに声をかけてくるので、かんちがいしていたのだ。せまい集落のことだから、来訪者の情報はとっくに行きわたっているのだろう、と。
「診療所の、朝比奈先生のお客さんですね」
疾風が口を開くよりはやく、瑠璃が言った。
「あぁ、そっか! って、知ってるんじゃん!!」
少女が機嫌をそこねたのか、ぷくーっと、先ほどよりもいきおいよく頬をふくらませた。疾風はあっけに取られて彼女を見つめる。
ひとしきり瑠璃に文句を言ったあと、少女は疾風のほうをむいた。頭のてっぺんから足のつま先まで、彼の全身をじっくりと眺める。
「高校生の男のひと、って聞いてたんだけど……なんか、思ってたよりも、ちっちゃくてカワイイね」
そのセリフに、疾風は眉をしかめた。
たしかに予想どおり、村民に彼の話は伝わっているらしい。
問題は、少女が疾風の正体に気づかなかった理由である。
おそらく、彼女が想像するところの高校生男子と、疾風の容姿が噛み合わなかったのだろう。
さらに、初対面なのにやけにフレンドリーに接してきたわけ。
見た目が女っぽくて童顔だから危険そうに見えなかった、といったところではないのか?
疾風は、どんどんネガティブな思考にハマっていくのを止められなかった。
険しい表情で黙りこくっている疾風を見て、少女は首をかしげる。
自分が、彼のコンプレックスを的確に、しかもかなりの深度で突いてしまったことには、気づいていない様子だった。
「お嬢さま、まずは自己紹介をなさらないと」
瑠璃が話題を変えてくれたので、疾風はすこしホッとする。
「そうだね。あたしは、すずかけ あさひ。字はー」
そう言って、少女はきょろきょろとあたりを見まわした。なにか探しているようだ。
やがて、手近にあった細い枝を手に取ると、それで地面をがりがりとけずり始めた。
どうやら、漢字を説明するために、土のうえに字を書いているらしい。
他にいくらでも方法はありそうなものだ。しかし、彼女があまりにもがんばっているので、疾風は黙って見守ることにした。
アサヒと名乗った少女は、地面につぎつぎと線を足していく。その様子は、まるでおさない子どものようである。
「できた! どう、けっこううまく書けたんじゃない?」
アサヒはそう言うと、腰に手を当ててふんぞり返った。
その足元には、かなりのサイズで『鈴懸旭緋』と書いてある。画数が多いので、自然と字が大きくなってしまったようだ。
ドヤ顔でこちらを見てくる旭緋。
「いい、名前だね」
疾風はそう言うのがせいいっぱいだった。旭緋は、満足そうな表情でうなずいている。
「キミは?」
言うと同時に、旭緋がサッと枝を差し出した。それを受け取った疾風は、彼女の名前のしたに、同じようにして線を書いていく。
疾風が動かす枝のさきを、旭緋が真剣な顔で見つめていた。
思いのほか土が固い。苦労してようやく書き終えたころには、疾風の腕はしびれていた。
「りんどう、はやて」
疾風は、ぼそっとつぶやいた。地面に名前を書くなんて初めてだな、などとあらためて思う。そもそも最近では、手書きで文字を書く行為すらめずらしい。
「カッコイイ名前だねぇ」
旭緋は顔をあげると、疾風を見てにっこりと笑った。
「お嬢さま、そろそろ戻りましょう」
ふたりの様子をじっと眺めていた瑠璃が、口を開く。
「えー、もうちょっと遊びたいー」
旭緋のセリフに、疾風は苦笑した。まさか、遊び相手だと思われていたとは。
彼女の無邪気なふるまいに、疾風はいつのまにか、ささくれだった気分が浮上しているのを感じた。
「オレ、診療所に行くから」
疾風はそう言うと、端末の着信をチェックする。さすがに、いつまでも叔母を放っておくわけにはいかない。
「先に、着替えたほうがいいんじゃない?」
旭緋が、疾風のほうを見つめて言った。
疾風は自分の服に目をやる。泥だらけになった、白の半そでTシャツと黒いジャージ。
たしかにこれでは、叔母になにを言われるかわからない。汚れた理由を説明するのも面倒だった。
「着替えは、持ってきた荷物のなかにあるから……とりあえず、スーツケースを置いた場所まで戻るよ」
「そっかー。じゃあ行こ!」
旭緋は、なぜかうきうきとしていた。その表情は、はやくしろと言わんばかりである。
「ひょっとして、一緒に来るつもり?」
疾風の問いに、彼女はうんうんと首をたてに振る。
断る理由は、なさそうだった。
疾風が慎重に歩いてきた獣道を、旭緋は驚異のはやさで進んでいく。
あまつさえ、木の根っこのあいだをぴょんぴょんと飛び跳ねてすらいる。その姿は、まるで野うさぎだ。
「ねぇねぇ、ハヤテくん」
疾風の前にいた旭緋が、立ちどまって振りかえった。
「なんでこんなとこまで入ってきたの?」
もっともな疑問だった。初めて村に訪れた者が、わざわざ来るような場所ではないだろう。
「丘の上に、人影が見えたんだよ。なんか気になったから、確かめようと思って」
「ふ~ん?」
旭緋は、いまいち納得がいかない様子だった。
疾風にしても、自分で説明しておきながら、なんだか変な理由だなと感じる。
今になってみると、そこまでして確認しなくてはいけないものだったのかとすら思えてきた。
「あたし、朝は丘にいたの。眠たくなったから、木陰で昼寝してたけど」
旭緋の言葉を受けて、疾風は端末を確認した。操作の履歴から時間を逆算する。
「オレが人影を見たのは……たぶん、十時くらいじゃないかな」
「その時間だと、もう寝てたなぁ。でも、村の人だったら、こんな道から丘には行かないよ。お昼寝には、ちょうどいいけど」
そういえば、瑠璃は疾風とは逆の方向から来ていた。
「瑠璃さんは、誰か見かけませんでした?」
疾風のさらに後ろを歩いていた瑠璃は、その問いに足をとめる。
「半径百メートル圏内でしたら、生体反応はわかりますが。その時間帯に、あなたがた以外の人間は感知しておりません」
「はぁ、そうですか」
こうまではっきり言われてしまうと、彼女の証言は疑う余地もない。
疾風は、自分が見たものが本当に人影だったのか、自信がなくなってきた。
そもそも百メートル以内に、自分たち以外の人間がまったくいない環境というのも、おどろきだったが。
ようやく最初の場所まで戻ってくると、疾風は木の陰で着替えをした。
そそくさと汚れた服を脱ぎながら、あわてて新しいものを引っ張りだす。別に見られたところで減るようなものでもないのだが、なんとなく気恥ずかしい。
着替えおわると、疾風はスーツケースを引きずりながら道に出た。
待っていた旭緋は、フリルのついた白い日傘をさしていた。あらわれた疾風の姿を、また上から下まで眺める。
「ハヤテくんって、白いTシャツとジャージしか持ってないの?」
旭緋があきれたように言った。
「たまたまだよ」
疾風はあらためて自分の服を見てみる。白の半そでTシャツ、紺地にオレンジのラインが入ったジャージ。これでも一応、ブランドもののスポーツウェアである。
そもそもファッションに興味がない彼は、とにかく楽な服装が好みだった。
ただ菖蒲がそのあたりにはうるさい人で、家のなかでもみっともないかっこうはやめてくれと言ってくる。おたがいに妥協し合った結果、いまのようなすこしだけお洒落感のあるジャージ姿になったという経緯があった。
もちろん、付き合っている女の子と出かけるときなどはそれなりのかっこうもするが、今回はどうせ田舎だからと、たいした服は持ってこなかったのだ。
「都会からくるって聞いてたから、もっとオシャレなのかと思ってた」
旭緋のがっかりしたような声に、疾風はなんともいえない、複雑な気持ちになった。