母親
「実は、自殺した女性信者と疾風氏との関係は、わかっていないのだよ」
紫苑の言葉を受けて、疾風のなかに様々な疑問がうずまいた。
「オレが、祖母に引き取られたのは……どうして」
「一連のテロ事件を受けて、教団内部に警察が入ってね。そのときに、施設にいた子どもたちは全員保護された。そのなかに、キミも含まれていたというわけさ」
疾風はさまざまなキーワードから、当時の記憶をぼんやりと思い出し始めていた。
大勢の人間が、変な黒っぽいものを自分に向けている。
そちらに顔を向けると、すさまじい音とともに、まぶしい光が絶え間なく身体中に降り注いだ。
いまから思うとあれは、報道陣のカメラだったのではないだろうか。
「さっきの、もう一度見せてくれる?」
杏子からファイルを受け取ると、疾風は写真の載っている記事を探した。
ほどなく見つかったものに写っていたのは、捜査員らしき女性に抱きかかえられた幼児。顔にモザイクがかかっているが、おそらくこれが自分なのだろう。
記事の見出しは『カナリア教、一斉捜査』となっており、写真のキャプションには『監禁されていた未成年の信者を保護』と書いてある。
記事の内容自体は、幹部の信者を逮捕したときの状況説明に終始していた。個人情報に配慮したためか、疾風を含めた子どもたちに関する説明はほとんどないようだ。
「あの一斉捜査のあと、匿名の投書が新聞社に送られてきたの。保護された子どものひとりが、作家兼イラストレーターである竜胆菖蒲の孫だ、って」
ファイルには、その投書のコピーも挟んであった。乱暴に書き殴ったような文字。詳細はなにも書かれていない。
「幸いその新聞社とお母さんは懇意にしていたから、情報が他に漏れることはなかった。後にDNA判定で親族だと認定されたから、あなたを正式に養子として迎えることにしたのよ。ただ、父親に関してはなにもわからない。実の母親とは、縁を切ってしまっているから」
杏子はそう言って、自分の端末を操作し始めた。ひとりの女性の画像を表示させる。
「このひとが、あなたの母親よ」
その女性の顔には見覚えがあった。柔道のオリンピックメダリスト。名前は、吉鷹葵。苗字が違うのは、幼少のころに養子に出されたからだという。
「そのあたりの事情は、私も知らないの。お母さんは絶対に彼女の話をしないし……ただね、すこしおかしなことがあって」
「おかしなこと?」
「そう。吉鷹選手は、一度も産休を取ったことがないのよ。それどころか、あなたを産んだはずの時期に世界選手権の連覇までしている」
「それって……」
「考えられる可能性としては、体外授精をして、別の女性に産ませた。代理母ってやつね」
アスリート——それもメダリストであれば、妊娠・出産でブランクをつくりたくないことは理解できなくもない。
だがそれにしたって、わざわざそこまでして子どもが欲しかったというのだろうか。しかも自分では育てずに、宗教団体の施設に預けていたというのに。
一体、自分はなんのために生まれてきたのか。
そんな疑問が頭をよぎり、疾風の背筋につめたいものが走った。
施設にいたころの記憶。
さむい。
——さみしい。
いまなら、当時の心境を言葉で表現することもできる。
だが、あのときは……ただひたすら、こころがからっぽだった気がする。
がらんどうの自分。
喜び、怒り、哀しみ……感情が、なにもない。
誰も、与えてはくれなかったから。
「ハヤテくん……?」
急に全身を寒気が襲い始め、疾風は震えが止まらなくなる。
異変に気付いた旭緋が、彼の背中にそっと手をそえた。
「旭緋」
疾風はその存在を確かめるように、彼女の名前を呼んだ。
そうだ。いまのオレは、からっぽなんかじゃない。
菖蒲が、杏子が、そして……旭緋が、与えてくれたから。
疾風は、自分の頬を生温かいなにかが伝っていることに気が付いた。
目の前の旭緋もおなじように静かに泣いている。
そっとその涙をぬぐってやると、彼女はポケットからハンカチを取り出して疾風に差し出した。
「ありがとう」
疾風がつぶやくと、旭緋は、泣きながら微笑んだ。
疾風のことを励ますように。そして、慈しむように。
大丈夫だ。いまの自分には、一緒に涙を流してくれる女の子が、そばにいる。
疾風は落ち着きを取り戻すと、あらためて自身の母親について考えた。
むかし、自分が児童養護施設に預けられていたと思い込んでいたときも、育児放棄されたことに憤りを感じたことはあった。
だが、まさか……母親は、その胎内ですら自分を育てていなかったというのか。
もちろん、なにか事情があってのことなら仕方がない。しかし生まれてからすぐに施設——それも、新興宗教団体——に捨てられていたとは。
「まさか、自殺した女性信者って、その……代理、母……?」
「考えられなくはないわね。ただ、飛び降り事件のすぐ後にテロが起きて、警察の捜査が始まったから……そのあたりのことは、調べようがなかったのよ」
疾風はもういちど、あの場面を思い浮かべた。窓の前に立つ女性。一体彼女は、自分にとってどういう存在だったのだろう。
そもそも『母親』というのがどういうものなのか、疾風にはわからない。
菖蒲は自身のことを名前で呼ばせていたし、周囲も見た目から彼の祖母だと認識していた。
幼稚園に通うようになって、どうやらほかの子どもたちには父・母という存在がいるらしいと知ってからも、疾風はあまり自分の家庭が特殊だとは思っていなかった。
幸い、疾風の周りのひとたちは両親がいないことを特別視するようなことはなかったから、そこまで切実に実の親について知りたいという欲求もわかなかった。
やはりどこか自分には、欠落している部分があるのかもしれない。
疾風はぼんやりと、旭緋から受け取ったハンカチを見つめた。ピンクいろのハートが、ワンポイントで刺繍されている。
元カノと幼馴染に裏切られてもたいしたショックは受けなかったことといい、実の母親の話を聞かされてもどこか他人ごとのように感じてしまっていることといい……あの児童精神科の医師が言っていたことを鵜呑みにするのは癪だったが、やはりおさないころの環境が影響しているのは間違いないのだろう。
「杏子さんは、その……吉鷹さんのことは、知ってるの?」
「子どものころ一緒に住んでいた期間はあったはずだけど、あまり覚えていないわ。大人になってからはまったく会っていないわね」
そう言えば、縁を切ったと言っていたな。
菖蒲が吉鷹葵について一切話をしなかったのも、そのことと関係があるのだろう。
「会ってみたいと、思う?」
問われて、疾風は言葉に詰まった。
横に座る旭緋の顔を見る。彼女は、実の両親について知っているのだろうか。
じっと、灰青いろの瞳をのぞきこむ。不安げな顔をした自分が映りこんでいるのに気付いて、目を伏せた。
「いまさら会っても……オレの母親は、菖蒲さんだけだ」
ぽつりとつぶやく。
ただ、血の繋がりがあるというだけの、見知らぬ他人だ、と自分に言い聞かせる。
正直なところ、会ってみたいという気持ちがないわけではなかった。
しかし菖蒲の心情を慮るに、自分がそんな感情を持ち合わせることは、なにかいけないことのように思えてしまう。
「オレは、両親はずっと死んだものだと思って生きてきた。だから、これからも、それでいいよ。だいたいさ、オリンピック選手が親だなんて言われても困っちゃうよ。オレ自身は、運動なんて全然できないのに」
冗談めかして言ってみたが、語尾が震えてしまった。
そんな疾風を、杏子はさみしそうな顔で見つめていた。




