事件
先ほど浮かんだイメージ。あれは、自分がまだおさなかったころのものに違いない。
「オレがいた施設って、ひょっとして」
疾風の疑問に、杏子がはっきり「そうよ」と答えた。
カナリア教。一時期世間で騒がれていたから、疾風も名前くらいは聞いたことがある。
菖蒲が自作の題材にしていた団体でもあった。
ということは、疾風の実の母親は、その新興宗教の信者だったということか。
彼はずっと、自分が預けられていたのは児童養護施設なのだと思い込んでいた。
「正確に言うと、この部屋は事件の現場ではないわ。あなたがいたのは、教団の本部だから。ただ、基本的な建物の造りは共通している……条件が揃えば、きっと思い出せるはずだと考えたの」
ここは、トラウマの原因となるなにかが起きた場所ではない。その事実に、疾風はすこしほっとする。
部屋の入口でじっと様子をうかがっていた旭緋が、おそるおそるなかに入ってきた。疾風の隣に、おなじように座り込む。その顔を見ると、いまにも泣きそうになっていた。
「でも……旭緋がこんなに近くにいるのに、どうしてバラの香りがするんだろう?」
疾風の問いに、杏子は力なく首を振った。どうやらその原因まではわからないらしい。
旭緋の後から部屋に入って来た紫苑が、なかを見渡している。やがて、すこし考え込んでから、口を開いた。
「これは、推測だが。実際に事件の起きた場所は、こことは違ってもっと建物の高層階だったのだよ。部屋の構造はまったくおなじだがね。疾風氏が最初に意識を失った教室というのも、学校の三階にあるのだろう?」
それを聞いた疾風は、過去の記憶を探った。そういえば……ぼんやりとだが、らせん階段をのぼっていたことがあったような気がする。
だとするならば、彼のトラウマを引き出すキーワードは、三つだけではなかったのだ。
窓の前に立つ女性。その後ろから差し込む陽の光。バラの香り。そして、場所が建物の二階以上であること。
「それなら、あの実験は? 他の条件はなにも揃っていなかったのに、バラの香りはしなかった」
旭緋が、例のシャンプーを使用して行った実験。あのときはたしかに、彼女の能力は発動していた。
「逆にあの実験によって、あなたの捉え方が変わったのよ。バラの香りだけでは意識を失うことはない、とわかったからじゃないかしら。なんにしろ、精神状態に左右されて症状が違ってくることは確かね」
杏子はそう言って、疾風のほうに歩み寄った。
「床のうえじゃ冷たいでしょう。むこうに行って、椅子に座ってから話すわ。あの日……あなたの身に、なにが起きたのか」
礼拝堂のベンチに座って、杏子は弁当を広げ始めた。
「せっかく作ったんだし、食べてからにしましょうか」
疾風は半ばヤケになって、その大量の料理を口に運んだ。
こんなときでも腹は減るし、手作りの弁当は素直においしいと思える。
そういえば、旭緋は味覚がどうとか言っていたな。
疾風が彼女の様子をうかがうと、ひとりだけちいさな弁当箱を持参してきていた。おそらく専用の味付けになっているのだろう。
早々に食べ終わった疾風は、あらためて周囲を観察してみる。
一見すると、よくあるキリスト教系の教会のように思えた。ただし、十字架やキリスト像などの宗派を表すようなものはなにもない。
そういえば、カナリア教というのは信仰対象を持たないことが特徴の団体だった気がする。
幾何学模様のステンドグラスをぼんやりと眺めていると、ふとなにかが引っかかった。
目を細めて見てみたり、すこし身体を離してみたりするうちに、色のパターンがなんとなくヒトの顔のように思えてくる。
そう意識して見ると、髪にあたる部分は白、瞳は赤……。
まさか。
疾風はその模様から視線をはずし、旭緋のほうを見た。彼女にそっくりの、人形。
いくらなんでも、発想が突飛すぎる。そもそもこの宗教施設には、信仰する対象はなにもないはずなのだ。
昼食が済むと、杏子は傍らに置いたトートバックから一冊のファイルを取り出した。
「ネットに上げていた記事をプリントアウトしたものだから、読みにくいかもしれないけど。いろいろ事情があって、いまはデータの形であちこちに置いておきたくないのよ」
「それは、テロを起こした団体に関連することだから?」
受け取ったファイルをぺらぺらとめくりながら、疾風が訊いた。
「そう。本体である教団は既に幹部が軒並み逮捕されて解体したけれど、残党がいまだに活動を続けているの。特に最近は、過激な思想を持つ分派が勢力を伸ばしているから……あ、この記事ね」
不意に杏子に言われて、疾風はページを繰る手を止めた。
見出しに「カナリア教本部で起こった悲劇」とおどろおどろしい赤文字で書いてある。
「あなたに関連する事柄は、冒頭部分でしか触れていないけれど」
その記事は、教団施設で起こった女性信者の飛び降り自殺に関する話で始まっていた。
「飛び降り……」
疾風は、先ほど入った部屋で思い出したイメージを、もう一度再現しようとしてみた。
しかし、窓際に立つ女性が動いた記憶がない。
はっきりと浮かぶのは、その身体から舞い散る紅い花びら。そして、血のにおい。
「これを書いたのは、この前話していたジャーナリストの子よ。元信者からの聞き取りで構成した記事だから、事実とは異なっている可能性もある。そのひとの話だと、亡くなった女性信者はちいさな子どもと一緒に小部屋にいたときに、窓から身を投げたらしいわ」
「たしかに、女性が飛び降りたっていう記憶はオレにはない。でも、意識障害になる原因のひとつに、高層階っていう条件があるのなら……覚えていないだけで、やっぱりこの記事は合っているのかもしれない」
なにしろ、せいぜい三歳ころの出来事だ。それに、目の前でひとがひとり死んでいるのだから、ショックで詳細を忘れてしまっている可能性もある。
「この記事では触れていないけれど、現場の状況とあなたが倒れたときの話には共通項が多い。ただ、部屋にはバラの花を飾ったりはしていなかったようだし、女性も香水をつけていなかったらしいから……ほかの第三者がいた可能性が高いわね」
「この現場にオレがいたっていうのは、どうしてわかったの?」
「当時本部にいた子どものなかで、現場にいた子とおなじ年齢なのはあなたしかいなかったそうよ。そこは話を訊いた元信者が断言しているみたい」
疾風は必死に事件のことを思い出そうとしたが、あの小部屋で見た以上の詳しいことはどうしてもわからなかった。
なにより、あの鮮血……。においまでが鮮明に浮かんだということは、幻だったとはとても思えない。
「残念ながら私は教団の信者ではないから、いまとなっては、ほんとうのことを知るのはむずかしいかもしれないわね。ジャーナリストの子……千草って言うんだけど、彼女にもこのあいだ会ったときに確認してみたの。話を聞いた元信者のひととは、連絡が取れなくなったって言っていたわ」
疾風は、記事の最初にあった記者の名前を確認した。青海千草と書いてある。
「そもそも、この自殺した女性っていうのは……オレの、母親……なの?」
「いいえ」
杏子に断言されて、疾風は首をかしげた。てっきり、目の前で母親が亡くなったショックがトラウマになっているのだと思っていた。
どちらにしても、こんなに重大な事実を目の前に突きつけられているというのに、どこか他人事のように感じている自分がいる。
疾風は頭の芯が妙に冴えわたって、ふだんよりも冷静になっているような気さえしていた。
そんな彼の様子を心配してか、隣に座る旭緋や遠巻きに見守っている紫苑の表情は固い。
「なんか……一度にいろいろありすぎて……ほんとうに自分の身に起きたことなのか、実感が湧かないよ」
疾風がぼそぼそとつぶやいてうつむくと、視界にほっそりとした白い指先が映った。
ファイルを持った彼の手に、旭緋の手が重なる。
顔を上げて彼女の顔を見ると、ぎこちなく微笑んでいた。
その儚げな表情。自分のことで精いっぱいだろうに、疾風のことをこころから心配してくれているように思える。
そうだ。オレは、過去の嫌な記憶とも向き合うことを決めたはずだった。
旭緋と一緒なら、乗り越えられる、と。
疾風は、ファイルを杏子に差し出した。彼女が受け取るのを確認すると、空いたほうの手で、旭緋の手をぎゅっと握り締める。
その様子を見た杏子が、すこし驚いた顔をした。
「オレは、大丈夫だから……杏子さんたちが知っていることを、ぜんぶ教えてほしい」
なにも知らないままでは、立ち向かう術もわからない。
疾風は、覚悟を決めた。
もう、逃げない。
「彼の言う通りだ。我々がここに連れてきた以上、すべてをきちんと説明する義務がある。ワタシが知っている範囲のことで良ければ話そう」
いつの間にか近づいてきた紫苑が、杏子の横に座った。四人が、ひとつのベンチに横並びになる。
通路側に立っている瑠璃が、いつもの無表情のままこちらを見ていた。




