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森の奥へ


 日曜日は、これぞピクニック日和と言って差し支えないような、すばらしい晴天になった。

 村長の家に集合してから、森へと出発する。

 疾風はやてにとっては初めて通る道だったが、思っていたよりも歩きやすい。学者が研究のために来ることがあるという話だったから、そのときのために整備してあるのだろう。


 きょうが軽快に先を歩いていく姿を眺めながら、疾風は意外とアウトドア派なのだな、と思う。ふだんあまり動いている感じではないが、知らないところで鍛えているのかもしれない。

 杏子のすぐ後ろをいく紫苑しおんは、いくぶん足取りが重かった。彼女はあまり運動が得意ではないらしい。

 

 かくいう疾風も、必死でふたりのあとを追いかけていた。旭緋あさひが心配そうに横にくっついている。

 しんがりは瑠璃るりがつとめる形で、総勢五人のパーティは目的地へと向かった。



 しかし、どんどん森の奥に突き進んでいく杏子に、疾風は不安を覚え始める。

 横の旭緋を見ると、彼女もあまりうきうきとした様子ではない。やがて、前のふたりに聞こえないように、声をひそめて疾風に話しかけてきた。


「このまま行くと、立ち入り禁止区域なんだけど……杏子さん、まさかあの建物に行くつもりなのかなぁ」


「例の、むかし森の所有者が住んでたっていう?」


 疾風も小声で答えながら、杏子の背中を見る。


「うん。この先でお弁当を広げられるような場所って、他にないもん」


「でも、旭緋の居場所って公安が監視してるんだろ。立ち入り禁止の場所に入ったらマズくない?」


 そもそも前科があるのだから、バレてもおとがめはないものなのかもしれないが。


「あのときは、紫苑さんがうまくごまかしてくれて……」


 旭緋がうつむきがちに、ぼそぼそとつぶやく。一応、悪いことをしたという自覚はあるようだ。


「それなら、今回もしっかり対策済なんだろうな。それにしても、なんでまた……」



 そんなことを話し合っているうちに、木々のすきまから建物が見えてきた。

 周囲に柵のようなものはなにもない。立ち入り禁止と言っても、明確に区切ってあるわけではなさそうだった。


 杏子と紫苑は躊躇ためらうことなく建物に近づいていく。

 それは住宅というよりも、なにかの施設のようだった。かつては立派な外観だったのだろうが、いまは壁全体をツタが覆い隠している。 

 その割に窓の部分は光が入るように整えられていて、どうやらいまでもひとの手が入っているように思われた。

 一体だれがこんな場所にある、だれも訪れることのない建物を整備しているというのか。



 ふたりの後を追って反対側にまわると、おおきな木の扉が目をひいた。両開きの、まるで教会の入口のような造りである。

 屋根を見上げても、十字架のようなものは見当たらない。一体どういった目的で建てられたものなのだろう。判別できるような看板なども特にないようだ。


「思ったよりちゃんとした形で残っているのね。入っても大丈夫そう?」


 建物のそとを一周してきた杏子が、紫苑に訊いた。


「誰か管理している者がいるのかもしれないな。一応、瑠璃に見てきてもらおうか」


 その言葉を受けて、後ろに控えていた瑠璃が入口へと向かった。扉の前に立ち、両手で押し開く。ギギー、ときしむ音をあげながら、おおきな扉が徐々に動いていった。

 

 開いたすきまからなかをのぞくと、やはり礼拝堂のような造りになっている。

 木でできた床は磨き込まれており、窓から差し込む光を反射してかがやいていた。中央の通路の両側には木のベンチがずらっと並んでいる。正面にはステンドグラス。


 本来なら、キリスト像といった信仰の対象になるものが設置されているはずだと思うのだが、そういったたぐいは一切見当たらない。



 強度などをチェックしているのだろう、瑠璃があちこち見渡している。なにかセンサーのようなものが内蔵されているのかもしれなかった。


「問題ありません」


 ひととおり確認を終えた瑠璃が、そとに出てきた。


「これって、一体なんの建物なの?」


 疾風の疑問に、杏子はすこし考える素振りをした。そして、紫苑に視線を送る。


「とりあえず、なかに入ってみたまえ。おそらく、奥に小部屋があるはずだよ」


 紫苑はそう言って、建物の入口に近づいていった。その口ぶりから、彼女はどうやら建物の構造を知っているらしい。

 いぶかしげな顔をしている疾風たちを置き去りにして、杏子と一緒に扉の向こうに行ってしまう。

 疾風は仕方なく、そのあとに続いた。旭緋がその背中にぴったりと張りつく。



 紫苑の言う通り、礼拝堂の隅にはちいさな扉があった。

 ここが教会だとするなら、懺悔ざんげ室のようなものだろうか。

 瑠璃が扉を開けてなかに入る。すぐに出てきて、先ほどと同じように「問題ありません」と言った。


「疾風、ちょっとここに入ってみて」


「……なんで、オレが」


 急にそんなことを言われて、疾風は躊躇ちゅうちょした。なにも知らないまま杏子に従ってしまっていいものか。


「怖い?」


 そう言った杏子の表情は、真剣そのものだった。決してからかっている感じではない。

 怖くないと言ったら嘘になる。彼女の態度や、思わせぶりな台詞から考えて——おそらくこの場所は、疾風の過去に関連しているのではないか。根拠などなにもなかったが、彼はほとんどそのことを確信していた。


 疾風は黙って、部屋の前に立った。なかは暗くてよく見えないが、あまり広くはなさそうだ。

 入って右側の壁には窓があるらしく、分厚いカーテンがひかれている。家具はなにも置かれていない。


 杏子は疾風の横をすり抜けて、先に部屋へと入った。まっすぐ右に向かう。

 そして勢いよく、カーテンを開いた。

 窓からの光が部屋へと差し込む。杏子はそれを背にして立つと、ジーンズのポケットからちいさな筒を取り出した。あの、バラの香水。


「まさか……」


 疾風はつぶやいて、ふらふらとした足取りで部屋のなかへすすんでいく。

 杏子が、部屋中に香水を振りまいた。


「ハヤテくん」


 ぼんやりとした頭の中に、旭緋の声が届く。疾風ははっとして、彼女のほうを向いた。

 心配そうに自分を見つめている。


 こんなに至近距離に旭緋がいるのに……いま、疾風の身体を包んでいる香りは、いつものバニラではなかった。


 疾風は正面に向き直った。おおきな窓を背に、杏子がこちらを見て立っている。光を受けたその姿。そして——バラの、香り。

 ここで意識を失うわけにはいかない。そう思っても、身体からだんだんと力が抜けていくのがわかった。


「どうし、て。においが、変わらないんだ……?」


 ちいさくつぶやくと、疾風はその場にくずおれた。座り込んだために、視点が変わる。そのとたん、急に頭のなかにはっきりとしたイメージがよみがえった。


 そうだ。オレは、この景色を知っている。

 ちょうど、このあたり……あのときは、立っていても目の高さはいまと同じくらいだった。

 目の前に立つ女性。背にした窓から差し込む陽の光。かぐわしいバラの香りが身体を包み、そして——。


 一瞬、杏子の身体から、紅いバラの花びらが舞い散ったような気がした。


 違う。あれは、花じゃない。


 飛び散った、鮮血。



 疾風は目を見開いたまま、その場で固まっていた。

 あのとき、ここに立っていた女性の姿を、必死で思い出そうとする。

 しかし、逆光でかげったその顔は、どうしても思い浮かべることができない。


 疾風は、ゆっくりと自分の両手を顔の前に持ち上げた。その手のひらに、べったりと紅い血がついている。


 鼻をつく、血なまぐさいにおい。バラの香りをかき消すように広がったそれは、疾風の身体にまとわりついて離れない。


 

 疾風は沸きあがってくるイメージを振り払うように、両手を高くあげた。そのまま、いきおいよく床に叩きつける。


 ばん、とかわいたおおきな音が、部屋中にひびいた。


 手のひらに、じんじんとした痛みが広がる。そして、ひんやりとした床の感触が、彼の意識を現実へと引き戻した。


「ここが、オレの……トラウマの原因になった場所」


 顔を上げた疾風は、黙ったまま自分を見下ろしている杏子に向かって言った。

 彼女は目を閉じると、ちいさくうなずく。


「ここはね、カナリア教……あの、テロを起こした宗教団体の、支部だったところよ」

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