護衛
八月、最初の日。
疾風は生まれて初めて、徹夜というものを経験した。ふわふわした足取りのまま、したにおりていく。
食卓でぼーっとしていると、要が席につく気配がした。ふと顔をあげた瞬間に、目が合ってしまう。
「おはようございます……」
視線をそらすのも不自然な気がして、とりあえず挨拶をしてみた。
「おはよう。なんだか調子が悪そうだけれど、大丈夫かい?」
いつも朝は眠そうにしている要が、珍しく話しかけてくる。
やはり他人の体調には敏感なのだろう。さすがは医者といったところか。
疾風は妙なことを感心しながら、ちいさくうなずいた。
「ちょっと、ネットしてたら寝るのが遅くなってしまって。でも、大丈夫です」
「あら、夜更かしして風邪でもひかれたら大変だわ。気をつけなさいよ」
夜更かしと風邪との関連性はよくわからなかったが、疾風は「うん」と返事をして、食事にとりかかった。
迎えに来た旭緋と一緒に玄関を出る。
今日の彼女は、オフホワイトにちいさな青い花を散りばめたワンピース姿だ。ラジオ体操をするにしては、動きにくそうな服装である。
疾風は、昨日好みを訊かれたせいかな、と思った。どうやら女の子らしいかっこうが好きだと認定されたようだ。
それはそれで別にかまわないのだが、これから旭緋は毎日ワンピースで通すつもりなのだろうか。
彼女は日傘をくるくると回しながら、ちらちらと疾風のほうをうかがっている。
これは……ひょっとして、今日の服についてなにか言われるのを待っているということか。
疾風は苦笑しながら、どう評価してやったものか迷った。褒めてやらなくてはへそを曲げることだけは、はっきりしているが。
「そのワンピース、夏らしくていいね」
なんとなく無難な言い方で済ませてしまった。旭緋が釈然としない顔で見ている。
「ところでさ、海に行く話なんだけど……」
なにやら文句を言われそうな雰囲気を察して、疾風はすばやく話題を変えた。昨夜、杏子と話した内容を説明する。
「あたしは、べつにハヤテくんの家でもいいよ? 菖蒲さんにも会ってみたいし」
意外とあっさりと旭緋は承諾した。もちろん気を遣ってくれているのかもしれなかったが。
「それなら話は早いな。外出許可が取れるのなら、もちろんそのほうがいいわけだし」
「そうだねぇ……でも、朝比奈先生に頼むよりは、紫苑さんに言ったほうがいいんじゃないかなぁ」
旭緋が、言いにくそうにぼそぼそとつぶやく。
「なんで?」
「うーん……あたし、朝比奈先生ってなんか苦手。なに考えてるかわかんないんだもん」
たしかに表情が乏しいうえに口数も少ないから、小学生の女の子にしてみればとっつきにくい相手なのだろう。
「まぁ、紫苑さんや村長さんにもいちど相談したほうがいいだろうしね。わかった。叔父には話さずに、なんとか許可をもらってみるよ」
疾風の言葉に、旭緋はにっこりと笑った。
体操が終わると、疾風たちは村長の家に向かった。紫苑も交えて、今後について相談することになったのだ。
和室に顔を揃えた四人は、それぞれの主張をし合った。
やはり村長と紫苑は外出許可を申請することを渋ったが、疾風はなんとかふたりを言いくるめることに成功する。
ここは年長者から、というわけで、村長が政府のほうに連絡することに決まった。
村長は険しい顔でスマートフォンを手にすると、部屋の隅に行って電話をかけ始める。
その様子を見ながら、疾風は目の前に置いてあった緑茶のはいった湯呑みに手を伸ばした。
「うわ、なんだこれ」
ひとくち飲んだとたんに苦みが広がって、疾風はつい大声を出してしまう。
「ごめん、葉っぱ入れすぎたかなぁ?」
横に座っていた旭緋が、しょんぼりした顔で謝った。
「そうだな……オレは緑茶なら、もうすこし薄いほうが」
旭緋があまりにも落ち込んでいるので、疾風はそう言ってなぐさめてみる。
それにしても、料理下手らしいのは紫苑の話で予想していたが、お茶すら満足に淹れられないレベルだったとは。
まぁ、まだ小学生だしな。幸い、周囲には料理上手が揃っているようだから、花嫁修業には困らないだろう。
そんなことを考えながら旭緋のほうを見ると、もうけろっとした顔でせんべいをかじっていた。
村長が電話を終えたらしく、疾風たちの前に座りなおす。
「坊主の家に行くだけなら問題ないとさ。ただし、向こうの護衛を付けるのが条件や」
「護衛、ですか」
またずいぶんとご大層な。疾風は護衛と聞いて、要人の周囲をかためる黒服をイメージしてしまう。
「旭緋のそばに女性がひとりと、あとは周辺を警備する人間が数名っちゅー話やが、実際は護衛というより監視やろうな」
「瑠璃がいればなんの問題もないのだがね。あれには格闘術もインプット済だし、運動能力の点では申し分のないボディガードなのだから」
紫苑が納得いかないといった顔でつぶやいた。
結局、八月八日の朝から疾風の自宅に行き、昼食を摂ってから帰宅するというスケジュールで話がまとまった。
あまりにもあっさりと事が運んで、疾風は拍子抜けしてしまう。
「海は、またの機会に、だな」
村長の家の玄関に立って、疾風はそう言った。旭緋が、すこし残念そうな顔でうなずく。
「うん。でも、ハヤテくんと一緒に出かけられるんなら、あたしはどこでもいいから」
そう言って笑顔を見せる彼女の頭を、疾風は優しく撫でてやった。てれる旭緋。
「それにさ、ダム湖もあかるいときに行こうって言ってただろ? べつに村のそとに出るわけじゃなくても、じゅうぶんデートっぽいじゃん」
冗談めかして言ったら、旭緋の顔がますます赤くなった。
疾風はそれを見て満足すると、軽やかな足取りで家に戻った。
自室に戻るとさっそく、疾風は自宅に電話をかけた。できるだけ早く家に戻ることを伝えておかないと、菖蒲が怒るに決まっているからだ。
しかし、またしても留守番電話に切り替わってしまった。デフォルトのままの合成音が、メッセージをどうぞ、と告げている。
疾風は通話を終了させ、今度は端末にカレンダーを表示させた。もう旅行に出かけてしまっているとしても、さすがに一週間後には家に帰っているだろう。
また日曜あたりにかけ直すか、と思いながら、ほかの通知をチェックする。なにもないことを確認し、疾風は杏子の帰宅を待った。
今日は水曜だから、彼女は午後から在宅のはずだ。ゆっくり今後のことを相談できる。
しかし、先週よりもすこし遅い時間に戻ってきた杏子は、なにやら妙にあわてていた。
「前に話していた、ジャーナリストの子ね。急に連絡が来て、会いたいって言われちゃったのよ。近くまで来ているんですって。これから一緒にごはん食べてくるわ。今日は要さんも医師会の集まりがあるそうだから、申し訳ないけど留守番お願いね」
そう言いながらすばやくひとりぶんの昼食の準備をすると、着替えをしてばたばたと家を出ていってしまう。
疑問をはさむ暇もなかった疾風は、しかたなくひとりで食事をした。
できれば今日の話を杏子にも説明しておきたかったが、まだ予定の日までは余裕がある。
疾風は食事を済ませると後片付けをし、留守番を仰せつかった手前、自室にはいかずリビングで過ごすことにした。
そして、ソファに座っているうちに、いつの間にか眠ってしまったのだった。
物音がして目覚めた疾風は、玄関のほうをのぞいてみる。要が帰ってきたようだ。
端末の時計を確認したら、すでに二十時を過ぎていた。
「杏子はまだ帰ってきていないんだね」
それだけを言うと、彼はさっさと書斎に行ってしまった。疾風はその背中を眺めて、ひとりため息をつく。
紫苑の言葉を借りるなら、彼も旭緋にとっては敵側の人間なのだ。
あまり接することはないにしても、身内である叔父が監視役という立場だという事実は、疾風を憂鬱な気分にさせる。
あまり空腹は感じなかったが、ありあわせのもので夕食にした。要は出てこないので、おそらくそとで食べてきたのだろう。
風呂を済ませ、寝る準備を整えても、杏子は戻らなかった。




