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海と美少女


 畑にはだれもいなかった。行き違いになったのか、どこか別の場所にいるのか……疾風はやては、仕方なく丘へ向かう道へ歩いていく。


 坂にさしかかったところで、ふと最初にこの村に来たときのことを思い出した。

 車のなかから見た、あの光。

 いまになって思えば、あれも監視の一環だったのかもしれない。


 よく考えてみると、旭緋あさひを村から出すことに関してはえらく神経質な公安が、逆に外部からやってくる人間をノーチェックで通しているとは思えなかった。

 疾風が村を訪れることは、(かなめ)もかなり早い段階から知っていたはずだ。そこからすぐに情報が伝わっていたのだとしたら、いくら身内といえども、それなりに身辺調査などを行っていたのではないだろうか。


 おそらく、いまでは疾風も()()()()()としてマークされているに違いない。

 最初にここに来た段階では無害だったはずのいち男子高校生が、いまや警察のブラックリスト入りとは。ほんの一週間とすこしのあいだに、ずいぶんと立場が変わってしまったものだ。


 夏休みが終わるまでこの村に留まることは、難しいのかもしれないな。

 疾風はそう考え、ますます計画を急がなくてはいけないと焦った。

 場所をどこにするにしろ、ある程度日程を決めておかなくては。


 

 丘のうえまで来ると、疾風はいつもの場所に腰をおろした。端末にカレンダーを表示させる。

 明日から次の月に入るわけだが、中旬は一般的な社会人であれば仕事は長期の休みになるはずだ。

 となると、できればその前に決行してしまいたい。

 一旦は中止にしたわけだから、公安もまさかこんなにはやく動くとは予想しないのではないだろうか。


 そんなことを考えながら、疾風は目の前の景色を眺めた。

 あざやかな緑が、一面に広がっている。

 最初に、ここへ来た日。不安な気持ちを抱えて、でもそれを必死で押し隠そうといら立っていたことを思い出す。


 あのときはひたすら自分のことだけを考えて、ただ一刻もはやく元の生活にもどりたいと、それだけを考えていたのだったな。

 旭緋に出逢ったことで、疾風自身もずいぶんと変わったように思う。

 ひとりの女の子との出逢いが、いまではこんなにも自分に影響を与えているのだ。


 疾風はそのことに戸惑い、でも、良かったな、と思った。

 紫苑しおんも「この村に来たのがキミで良かった」と言ってくれていた。

 できることなら、旭緋もおなじように思っていてくれたら、と願わずにはいられない。


 

 ぼんやりといままでのことを思い返していると、ふいにあまい香りを感じた。

 坂のほうを振り返る。まだ、人影は見えない。

 やがて視界に、白いものが映った。


 疾風は前に向き直って目を閉じる。ふんわりと香る、あまいバニラ。どこか、なつかしさを感じさせる香り。

 これが、旭緋をこの村に縛りつけていることに思い当たり、疾風は苦々しい気持ちになってしまう。



「ハヤテくん、ごめんね。待った?」


 まるで待ち合わせに遅れてきた恋人のようなセリフだ。


「いいよ、別に約束してたわけじゃないし。オレが勝手に待ってたんだから」


 振り返ってそう言うと、旭緋がにっこりと笑った。


「ハヤテくんは、やさしいね」


 そう言って、隣に座る。そういえば逆の立場だったときは、旭緋は滅茶苦茶なことを言って怒っていたな。

 そんなことを思い出して、つい顔が笑ってしまう。



「紫苑さんから聞いたよ。ハヤテくんが、あたしの行きたいところに、連れて行ってくれるって」


 旭緋は、立てたひざのうえに片頬をつけた姿勢で、疾風のほうを見た。


「うん。できれば、どこへでも……って言ってやりたいところだけど。さすがに限界はあるからな? 日帰りできるくらいの距離じゃないと、むずかしいだろ」


「わかってるよー。あたしねぇ、いっかい、海を見てみたいな」


 無邪気にそう言われて、疾風は固まった。よりによって、このタイミングで海ときたか。

 もちろん、旭緋はそんな彼の事情を知らない。まさか説明して希望を変えてもらうわけにもいかず、疾風はすこし困った。


「海か……海水浴場とかだと、観光客が多そうだしなぁ」


 なんとなく否定するようなことを言ってしまう。これではわざわざ彼女の希望を訊いた意味がない。


「でもさ、紫苑さんも言ってたけど、ひとが多いほうが隠れやすいんじゃないかなぁ? 万が一見つかってもさ、逃げやすいと思うし」


 旭緋の意見も一理あった。まして変装して紛れ込むとなれば、たしかに人混みのほうが見つかりにくいかもしれない。


「それもそうだな。じゃあ、わざとひとの多そうなときを狙って行ってみるか。そういや、旭緋って泳げるの?」


 海、と聞いて、なんとなくそんなことを連想する。


「そんなわけないじゃん」


 一蹴いっしゅうされて、疾風は笑った。


「旭緋だったら、ダム湖を泳いで横断くらいしてるのかと思った」


「ちょっとー、あの湖どれだけ広いと思ってるの? 船でも向こう岸まで行くのに結構かかるんだよ」


 旭緋が、顔を上げてぷくっと頬をふくらませる。


「へぇ、船なんてあるんだ」

 

 言いながら、疾風はふくらんだ彼女のほっぺたを、指でつついてみた。思いのほかぷにぷにした感触がしておもしろい。


「やーめーてー」


 笑いながら旭緋が避ける。お返し、と言って、疾風の両頬を手でつまんだ。


「痛い痛い」


 そんな風にじゃれあいながら、疾風は頭の片隅では冷静に計画を練っていた。

 この村からいちばん近い海で、ひとが集まるところ。そうなると、やはりあのスライドショーで見た海岸になりそうだ。


 疾風は、わざわざそんな場所に行くつもりはなかった。海でさえあればいいのなら、候補はほかにいくらでもある。

 しかし、別の場所をあれこれ思い浮かべてみて、やがてひとつの結論に達する。

 逆に、あえてあの海岸に行ってみたらどうだろう? そして、嫌な記憶を上書きしてしまえばいい。

 旭緋とふたりで、いまのようにじゃれあって。もっと、おもいっきりはしゃいで。


 そんな風に思えたことが、疾風には意外だった。

 いままでのように嫌な記憶から逃げるのではなく、正面から向き合う。

 ひとりでは辛いことかもしれないが、旭緋がいてくれるなら、きっと大丈夫だ。


『ハヤテくんと一緒だったら、きっと大丈夫だと思うから』


 そう言った彼女の、うつくしく透きとおった瞳を思い出す。

 疾風は、目の前の顔をのぞきこんだ。

 灰青いろの、大きな宝石がかがやいている。


 オレが、このかがやきを守ってやる。たとえ、なにがあっても。



「どうしたの?」


 急に黙った疾風を見て、旭緋が不思議そうな顔で言った。


「いや……さすがに、泳ぐのはちょっと無理かもしれないけど。砂のなかに埋めてやるくらいはできるかなー、と思って」


 疾風は照れくさくなって、つい茶化してしまった。

 砂の中から顔だけを出している旭緋を想像して、思わず笑みがこぼれる。


「なにそれー。そんなの、埋まるのはハヤテくんに決まってるじゃん」


「埋まってるあいだに旭緋がさらわれたらヤバイじゃん」


 ひとしきり文句を言うと、ふたりは顔を見合わせてくすくすと笑った。



「でもさー。海に行くとなると、あのワンピースじゃ目立っちゃうかな?」


「あぁ……別にいいんじゃない、また別の機会でも。旭緋の好きな服を着ていきなよ」


 また紫苑に変な屁理屈を並べられそうだが、一生着てやらないというわけではないのだ。

 疾風の言葉に、旭緋はいつものようにあごに指を当てて考えこんだ。


「ハヤテくんは……どういう服がいいと思う?」


「へ?」


 急に意外な質問をされて、疾風はおどろいた。女の子の服のことなんて、さっぱりわからない。


「あー、あれでいいんじゃない、前に来てたシャツワンピース。青と白の」


 涼しげにスカートのすそをひるがえしていた旭緋の姿を思い出して、疾風が言う。


「ハヤテくんは、ああいうのが好き?」


 重ねて問われて、疾風は苦笑する。そして、つい可愛いなぁ、などと思ってしまった。どうやら、旭緋は彼に気に入られようとして質問責めにしているようだ。


「心配しなくても、旭緋はなに着たってカワイイよ。ひょっとして、自分が美人だってこと、自覚してないの?」


 疾風が言ったとたん、旭緋が目をまるくした。白い顔が、ピンクいろに上気して染まっていく。


「なにそれ。そんなの……そんなこと、男のひとに初めて言われた……」


 ぼそぼそとつぶやいて、うつむいてしまう。耳まで真っ赤になっている。


「いや、でも真面目な話、そこらのアイドルなんかよりよっぽど美形だと思うよ、旭緋は」


 今度はもうすこし真面目な口調で、疾風は言った。思わずアイドルを引き合いに出してしまったのは、おそらく紫苑の影響だ。

 

「とにかく、服は旭緋に任せるよ。髪型と化粧は、叔母に頼んでおくから」


 疾風の言葉に、旭緋はうつむいたままちいさくうなずいた。

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