約束
七月の最終日。午後になって、紫苑と瑠璃が村に戻って来た。
疾風はさっそく村長の家を訪ね、紫苑に例の計画について相談することにした。
「ワタシが留守のあいだに、大変なことになっていたのだね。力になれなくて申し訳ない」
紫苑は、いつになく元気のない様子だった。
「いえ、紫苑さんはなにも悪くないですよ。さすがに国が相手では……」
疾風は逆に申し訳なくなって、彼女をなぐさめる。
「それでも疾風氏は、旭緋嬢とともに逃避行をする覚悟なのだね」
どうしたらそういう解釈になるのか、疾風は不思議で仕方なかった。頭が良すぎると、逆に一般常識を忘れていくものなのだろうか。
「別にふたりで駆け落ちするってわけじゃないんで」
やはり、紫苑は紫苑だった。疾風は心配して損した、と思う。
「ところで、あのワンピースの話なんだがね」
なぜか沈んだ調子のままで、紫苑が言った。
「あ、そういえば取りに行ってくださったんですよね。せっかくだから、できれば無駄にしたくないとは思ってるんですけど」
「それが……どうも手違いがあったようで、取り置きの申し込みが重複して受理されていたらしいんだ」
いわばダブルブッキングといったところか。疾風は、やっと彼女が落ち込んでいた理由がわかった。
「当然、店側の落ち度だがね。そこで、もう一件の取り置き先に連絡してもらったところ、どうやら先方は芸能関係者だったらしい。撮影に使用させてくれさえすれば、あとはこちらに譲るという話で決着はついたのだが」
「良かったじゃないですか。こっちも、別にもう急ぎではなくなったんだし」
ここまでの話を聞いた限りでは、紫苑がなぜこうも暗くなってしまったのか、疾風にはどうにもわからない。
「それは良いんだよ。ワタシが許せないのは、あの可憐なデザインのワンピースをアイドル風情が着用するという事実! しかも、あまつさえグラビア撮影なんぞしようと企てているのだよ? なんという暴挙だ!! これはもう、全世界のロリータを敵に回すことと同じだ、いわば我々に対する宣戦布告だ!!!」
「アイドル……ですか」
紫苑の怒りの沸点はさっぱり理解できなかったが、それにしてもまたアイドルか。なんだか偶然にしては出来すぎてはいないだろうか、と疾風は思う。
「まぁたとえ相手が国が認めたアイドルであろうと、わが軍の姫が圧勝だがな!」
このひとは一体、なにと戦っているのだろう。拳を高く振り上げてエキサイトする紫苑を眺めながら、疾風はちいさくため息をついた。
「失礼、思わず魂の叫びが漏れてしまったようだ。話を戻そう。それで、疾風氏は具体的な計画は立ててみたのかね?」
意外と早く落ち着きを取り戻した紫苑は、きちんと座りなおして言った。
「まだ、そこまでは。一応、オレの夏休み中で、あまり遠くじゃない、ひとの少なそうな場所にしようとは考えてます」
「ふむ。どうせなら、旭緋嬢の希望を叶えてやってはどうだね」
その言葉を聞いて、疾風ははっとなった。そうだ、バレないようにということばかり考えて、肝心な旭緋の意見はなにも聞いていない。
「確かにそうですね。旭緋が行きたいところがあるなら、そこを最優先にします」
「なんにしろ、疾風氏は大船に乗ったつもりでいたまえよ。相手がどういった手段を講じてくるかしれないが、このワタシが協力する以上、すくなくとも国のネットワーク関連はほぼ手中に収めているということだからね」
「はぁ……?」
紫苑はロボット工学の専攻だったはずだ。たしかにネット関係の知識も必要だろうが、それにしてはすこし大げさすぎるのではなかろうか。
腑に落ちない顔をしている疾風を見て、紫苑は不敵な笑みを浮かべた。
「そうか、誰もワタシの前歴のことは話していないのだね。実はそのむかし、個人的に国のネットワークの保守点検をしていたことがあってね」
疾風は、なんだかきな臭いことになってきたな、と思った。非常に嫌な予感がするが、とりあえずここは黙っておく。
「ありていに言えば、ハッキングをやっていた、というわけさ」
やっぱり。疾風の予想通りの展開であった。
彼はすでに、そんなことくらいではおどろかないようになってしまっていた。ここに来てからの短い間——特に昨日の件などで、どこか感覚が麻痺してしまっていたのだ。
「おや、意外と冷静なのだね。まぁ、このワタシを見ていれば天才的なハッカーだったということくらい、予想はつくといったところかな?」
紫苑はなんだか楽しそうに言った。もちろん、いままでの彼女の様子からそんな前歴など想像できるはずもないのだが。
なんにしろ疾風にしてみれば、もういまとなってはハッカーでもテロリストでもなんでも来やがれといった心境である。
「あれ? じゃあ、紫苑さんに頼めば向こうの動きは筒抜けってことなんですか?」
ハッカー、というひびきから、疾風はそんなことを連想した。
「いや、ワタシにハッキングの高等技術があるということは、当然公安も把握しているよ。だから、たとえば通信をのぞき見することは可能かもしれないが、システムに侵入した痕跡を完全に消すことは難しいだろうね。向こうもそれなりのスキルの者を擁していることが前提だが」
それを聞いて、疾風はおそろしい事実に行き当たった。
「むしろ……いままでのこっちのメールや通話が、公安に漏れていた可能性のほうが高いってことか」
疾風のつぶやきに、紫苑がすこし首をかしげる。
「どうだろうね。ワタシが知っている限りでは、警察はそこまで旭緋嬢のことを危険視しているわけではないはずだ。おそらく、今回の件が漏れる以前は周囲の人間まで範囲を広めて監視していたということはないだろう。本人の端末くらいは常時チェックしているかもしれないが」
それを聞いた疾風は、旭緋が自分の端末から連絡したがらないわけがようやくわかった。
一体彼女は、自分の状況をどこまで理解しているのだろうか。
どちらにしても、これではあまりにも自由がなさすぎる。
「計画がバレた以上、監視が厳しくなったと考えたほうがいいわけですね」
「そういうことだ。問題は、こちらの手の内が向こうにはわかってしまっていることだな。逆に我々は、敵側の組織についてほとんど情報がないときている」
敵、と紫苑が言ったことが、疾風は意外だった。いまは協力してくれているとはいえ、どちらかといえば政府側の人間だと思っていたのだ。
「村長は、旭緋の監視役は叔父と、村の人の誰かだって言ってましたけど」
「うむ。朝比奈医師は政府に委託されてここに来た人間だからね。あぁ、でも杏子に関しては心配する必要はない。むしろこちら側だ。彼女はいわば、スパイだからな」
「スパイ?」
どんどん物騒な話に発展していくな。疾風はあまりにも現実感がなさすぎて、まるでひとごとのように思ってしまう。
「この件に関しては、本人から聞きたまえ。個人的な話でもあるし、ワタシから言うべきではないからね。教えてもらえるかどうかは別だが」
そうは言われても、まさか「あなたはホントはスパイなんですか?」などと訊けるはずもない。
「わかりました。でもオレは、叔母の過去について詮索する気はありませんから……ただ、今回の件をどこまで話していいか迷っていたんです。でも、そういうことなら全部説明して協力してもらっても大丈夫ですね」
「もちろん。機密保持という点では、彼女ほど信用に値する人間はいない。むしろそれを隠すために、ふだんはああいった空気を読まない人物を演じているのだからな」
杏子まで別の人格を演じていたとは。一体全体、彼女たちは何者なんだろう?
ここまでくると、例の演劇サークルやら劇団とやらも怪しい団体のように思えてくる。
「じゃあ、叔母には今日の夜にでも話すとして……旭緋に希望を聞いておかないと。いま、この家にいますか?」
「ワタシが来たときは村長と畑にいたがね」
疾風が訪ねたときも、出迎えたのは瑠璃だった。では、まだ畑にいるだろうか。
「居場所を調べてみるかい?」
紫苑が、そばにあったメガネに手を伸ばした。それを見て、疾風は躊躇する。
これでは、自分まで旭緋を監視しているようではないか。
そう思うと、どうにも抵抗があった。
「いや……やめておきます。とりあえず畑のほうを見に行って、旭緋がいなかったら……オレ、しばらく丘のうえで休んでますから。もし彼女に会ったら、そこにいるって伝えてください」
「承知した」
紫苑はにっこりと微笑んだ。そして、すこし間を置いてから、こう言った。
「この村に来たのが、キミでほんとうに良かったとこころから思うよ。旭緋嬢を、よろしく頼む」
疾風は、おおきくうなずいた。




