おやすみ電話
予想通り、納戸にあった衣装はむかし疾風が着せられていたものだった。
杏子によると、捨てるのが勿体なくて、ずっととってあったのだという。
あなたに娘ができたら譲ってあげるわ、とからかわれて、彼はさっさと自室に引き上げた。
疾風が寝る準備を終えたところで、部屋に着信音が鳴りひびいた。
今日は電話してばっかりだな、とうんざりしつつ、端末をチェックする。
てっきり菖蒲から折り返してきたのだろうと思っていたら、表示されていたのは村長の名前だった。
これといって思い当たる用件はないが、十中八九、旭緋に関することに違いない。
「もしもし……?」
おそるおそる疾風が電話に出ると、予想しなかった声が耳に飛びこんできた。
「あ、ハヤテくん? あたし、旭緋」
スピーカーを通した声は、いつもよりトーンが高い。なんだか妙に可愛らしい感じがして、疾風は耳元がくすぐったくなってしまう。
「なんだよ、わざわざ村長さんに電話借りたのか」
照れ臭くて、つい乱暴な口調になった。
「だって、非通知だとつながらないんだもん」
旭緋が、いかにも疾風が悪いかのように言う。
たしかに彼の端末では、着信した番号が非通知の場合、履歴だけが残るように設定されていた。
「そんなの、普通にかけてくればいいだけの話だろ。なに、そこまでしてオレに番号を知られたくないわけ?」
前にも似たようなことがあったな、と思いながら、疾風はすこし不思議に思う。あのときの旭緋は、手軽に連絡が取れるようになってしまうことを嫌がっていた。
しかし、ここまで頑なに教えたがらないのは、他にも理由があるのかもしれない。
「あたしは、すぐに電話番号を教えたりしない主義なの。そんなに軽いオンナじゃないんだから!」
思ってもみなかった答えが返ってきて、疾風は苦笑する。しかしその言葉は、小学生のセリフとはとても思えなかった。一体だれが、旭緋にこのような入れ知恵をしているのだろう。
容疑者の顔はいくつか浮かんだが、いまはそれを追及している場合ではない。
「わざわざこんな時間に電話してきたんだから、大事な用なんだろ。一体なに?」
「むー。ハヤテくん、なんか機嫌悪い」
お前のせいだろ、とよっぽど言ってやりたかったが、疾風は黙った。
旭緋と電話で話すのはこれが初めてだ。照れ隠しで、ふだんよりぶっきらぼうになってしまっていることは否定できない。
「オレ、電話って苦手なんだよ」
つい言い訳をしてしまう。ほんとうのことではあるのだが、こんな子どもっぽいことを言っていてはあきれられてしまうだろうか。
「ふぅん? カノジョとは話さないの?」
話題が予期しない方向に逸れた。なんだか雲行きが怪しくなってくる。
「そんなの、いまは関係ない話だろ。用がないなら切るぞ」
昨日の今日で、さすがに元カノの話をする気分にはなれない。
「え、ちょっと待って待って。ちゃんと言うから、切っちゃやだ」
旭緋が焦った声を出した。
その慌てぶりに、疾風は思わずにやついてしまう。そして、これが電話でよかったと思った。
「あのね、明日のラジオ体操……ハヤテくんの家まで、迎えに行けなくなって」
旭緋は急に申し訳なさそうな声になると、理由を説明し始めた。
彼女の話によると、先ほど、紫苑が瑠璃を連れて研究室に帰ってしまったらしい。そのため、旭緋はひとりで出歩くことが出来なくなったのだそうだ。
ふだん、お互い村のなかにいるぶんには、瑠璃の移動速度ならすぐに駆けつけられるから問題ない。彼女がメンテナンスなどで村から出る必要のあるときは、旭緋は出来るだけ村長の近くにいるようにしているとのことだった。
「あれ? じゃあ、旭緋がダム湖に行ったとき、瑠璃さんはどうしてたの」
村のなか、という制限があるのなら、距離的には微妙なところだ。
「んー、詳しいことはよくわかんないんだけど。たぶん、ある程度あたしと離れた段階で、追いかけてくるんじゃないかなぁ……いつも、気が付いたら近くにいるから」
ほんとうに監視役なんだな。疾風はそう思って、複雑な気持ちになった。
それはつまり、たとえ将来的に旭緋が村から自由に出られるようになったとしても、常に瑠璃が後をついて回るということだ。
「ぜんぜん家から出られないってわけじゃないから。明日は、公民館で待ってるね」
旭緋が、すこししょんぼりした感じで言った。
「そっか。まぁ、気が向いたら行ってやるよ」
疾風がからかうと、電話口の向こうで旭緋が唸るのが聞こえてくる。
「ほら、子どもはとっくに寝る時間だろ? 明日起きられなくなるぞ」
さらにダメ押しをしてやった。
「そこまでコドモじゃないもん! ハヤテくんこそ、あたしが行かないと寝坊するでしょ。あ、そうだ! 明日の朝、電話で起こしてあげよっか!?」
いかにも良いことを思いついた、といった調子で、旭緋が叫ぶ。
「でも、また村長さんに電話借りるんだろ。別にいいよ、ちゃんと起きるから」
さすがにモーニングコールまでさせているとあっては、なにを言われるかわかったものではない。
「ほんとにー? ぜったいぜったい、ぜったいだよ?」
ここまで信用がないというのも、すこし悲しいものがあった。
「ハイハイ」
わざとおざなりに返事をする。
「むーー」
またしても旭緋の唸り声を聞きながら、疾風は必死で笑いを堪えていた。
「じゃあ、ちゃんと明日は自分で起きてね!」
「わかったよ。おやすみ」
疾風はやや強引に、話を切り上げる。
いつまででも声を聞いていたいという気持ちもあったが、もう夜の十一時になろうというところなのだ。小学生ならとっくに寝る時間だろう。
しかし疾風の言葉のあと、なぜか長い間があった。
「また、明日ね。おやすみなさい」
旭緋がどこか残念そうな声音でつぶやくように言ったのを最後に、通話は切れた。
彼女もまだ話したがっていたのかもしれないと思って、すこし寂しくなる。
疾風は端末をマナーモードにして、サイドテーブルに置いた。先ほどまでの会話を反芻する。
ふいに、猛烈に恥ずかしさが襲ってきた。
特に最後は、何気なく挨拶をしたつもりだったが、よく考えるとこれではまるで恋人同士のようではないか。
いったんそう思ってしまうと、なんともこそばゆいような変な感じがしてきて、疾風はいきおいをつけてベッドに転がる。そして、ごろごろと意味もなく寝返りを繰り返した。
女の子と電話で話す。たったそれだけのことで、こんなにも気分が浮上するとは。
いままでに付き合ってきた女の子と、電話くらいしたことは何度もある。しかし、彼女たちは一方的に自分の話をするだけで満足するタイプばかりだったから、あまりこちらからなにかを言ったような覚えがない。
さっきまで交わしていた言葉を、もういちど思い返す。
ふだんよりすこしだけ高かった旭緋の声。彼女からただよう香りのような、あまくて、どこかなつかしい……。
目を閉じると、なぜかむくれた旭緋の顔が浮かんだ。
明日はちゃんと起きて、約束を守ってやらないとな。
そして、旭緋が迎えをすっぽかしたときのことを思い出す。
あのときの彼女の姿を思い浮かべると、疾風はまだ胸が痛んだ。
もう、あんな思いはさせたくない。
また、自身のこころの奥底にずっと、ある感情が沈澱したままであることに、疾風は気がついていた。
もう、独りには戻りたくない。
人のあたたかさを知ってしまったいま、あのころに帰ることは、自分にとって絶望を意味している。
疾風は、寂しいと思う感情を必死で意識のそとに追いやった。
先ほどの電話や、いままでの記憶をひとつひとつ確かめてゆく。
やがて、穏やかな気持ちを取り戻した彼は、ゆっくりと眠りに落ちていった。




