大きな森の小さな集落
ターゲットの接近を確認。これより監視を開始する。
接触の模様は中継および本日中にレポートを送信する予定。
***
ちいさなモニターに、一面の緑が映し出された。
カメラの視点がゆっくりと動き出す。
やがて、国道から逸れたところに一本だけのびている、森のなかのせまい道が見えてきた。
そこを一台の小型車が、音もなくすべるように進んでいる。
後部座席に、ぽつんと人影がひとつ。
その人物は景色を楽しむでもなく、ただ流れていく木々を眺めていた。
小さな白い顔は、不安げにも、なにかにいら立っているようにも見えた。
***
高校の夏休み初日。竜胆疾風は、とある小さな集落にむかう車のなかにいた。
本来なら、もっと明るい気分で迎えていたはずの日だ。
期待と気だるさが入りまじった、不思議な高揚感に包まれるはずの長期休暇。
しかし疾風は今、このうえなく重い気分を抱えて、ここに座っている。
モーター音やタイヤノイズが遮断され、ひっそりと静まりかえっている車内。
彼はせまい座席の隅に身体を押しつけるような姿勢で、じっと窓のそとを見ていた。
付き合っている彼女に呼び出され意識を失った日から、半月あまりが経過していた。
あの日以来、疾風の身体は教室に入るたびに、なにかしらの異変を起こすようになる。それは頭痛であったり、意識の喪失であったりと、その時々によって違った。
夏休みが始まるまでのあいだ、あちこちの病院を巡った。検査入院に明け暮れる日々。おかげで、終業式をふくめて学校にはロクに行けていない。
あらゆる診療科をたらい回しにされるうち唯一それらしい診断を受けたのが、アレルギー科だった。
香料に過敏に反応する体質。体調不良の原因として指摘された可能性のなかでは、一番まともな理由だ。
発症のきっかけが、付き合っている彼女が変えたばかりのシャンプーだったというところだけは、納得がいかなかったが。
しかし、具体的にどういった物質にアレルギーを起こすのかは、いまいちはっきりしていない。いくら検査を重ねても判明しなかったのだ。
むしろ体質によるものではなく、精神的な理由——たとえば、バラの香りにトラウマがあるとか——なのではないか、と疑われる始末だった。
とりあえず今は、刺激の強い人工的な香料を吸いこまないように、自身で気をつけるしかない。
原因がはっきりしていない以上、自衛するに越したことはないからだ。
特に香水や柔軟剤は、いまや疾風にとっての天敵なのである。
ここに来るまでに起きた様々な出来事を思い出し、疾風はますます落ちこんでいくのを感じた。
もろもろの都合による、意にそわない夏休みの予定。それも、暗い気分に拍車をかける。
彼はこれからの一か月あまり、この広大な森に囲まれた、小さな村のなかで過ごすことになっていた。
疾風としてはあきらかに不便な田舎になど、できることなら行きたくはなかった。
しかし、本人の意向はことごとく無視された。
大人たちの思惑はわかっている。彼の現状を、無理やりにでも変えたいのだ。
環境が違えば、事態も好転するのではないか。そんな周囲の期待が、今の疾風の肩にはずっしりと重くのしかかっている。
視界の先には、ただ森が広がるばかり。ひたすら、かわり映えのない景色が続く。
それに合わせて、どんどん気分も落ちこんでいく。
「目的地マデ、アト五分デス」
無音だった空間に、抑揚のないアナウンスがひびいた。ひどく棒読みのナビゲーションシステム。疾風は首だけを動かして、誰もいない運転席をにらみつける。
音声データのアップデートさぼってるな。いつのバージョンだよこれ。
普段なら気にならないような、些細な出来事だった。だが、それすらも今の疾風の神経にさわる。
気持ちを切り替えようと、疾風は車内を見わたした。小柄な彼ですら窮屈に感じるほどの、せまい空間。
これといって興味を引くような物も見当たらず、疾風はしかたなくまた窓のそとを眺める。
ぼんやりと、深い緑色が流れていくのを目で追う。その光景にも飽きて、目を閉じようとしたそのとき。
視線の先で何かが光ったような気がして、疾風は身を乗り出した。森のむこう、小高い丘のうえ。夏の日差しに照らされて、きらきらと輝いているものがある。
彼は目をこらした。一瞬、それが人影のように見えたのだ。しかし、車がスピードを落とすにつれて背の高い木々があらわれ、視界をふさいでしまう。
疾風はわざと乱暴に音をたて、座席に背中をあずけた。
自分がなにかしようとするたびに、こうして邪魔が入るのだ。
ああ、イライラする。今の自分の状況にも、それをまねいたこころの弱さにも。
疾風の生い立ちは、少々複雑だった。
生まれてすぐに施設に預けられ、四歳で祖母の菖蒲に引き取られた。両親の顔は知らない。
そのあたりの事情は、竜胆家のなかで一種のタブーのようになっている。彼は、詳しいことをなにも聞かされないまま育った。
引き取られてから通う羽目になった、児童精神科。あの、銀縁メガネを中指でクイクイ押し上げる癖のある、ヤブ医者。
倒れたことを報告すると、ヤツはバラの香りにまつわる過去の記憶が倒れた原因なのではないかと言った。
あの主治医はいつもそうなのだ。疾風の様子がおかしいと言っては、すぐにおさないころの環境が悪かったせいにする。
催眠療法だかで調べてみたいとも言われたが、疾風は丁重にお断りしてやった。
彼は、医者とのやり取りを思い出してますます腹が立ってくる。
「とまれ」
衝動的に大声が出た。徐行していた電気式の無人運転車が、ゆっくりと動きを止める。
「ここで降りる」
どうせあと少しで到着するところだったのだ。あの光の正体を確かめてから目的地に行ったところで、たいした不都合もないだろう。どうせ時間だけは、たっぷりあるのだから。
疾風は支払いの手続きをすませ、車から降りた。トランクから小型のスーツケースを取り出す。荷物はこれひとつだけだった。
腕につけている端末を操作して、スーツケースが彼を自動追尾するように設定する。これで準備はOKだ。
車を見送ると、疾風は先ほどの丘を探し始めた。
本来なら、これから世話になる人たちの職場まで顔を見せに行かなくてはいけない。だが、あえて後回しにした。
これは彼なりの、大人に対するささやかな反抗だった。
端末で表示した航空写真と合わせて、大体の場所の見当をつける。すこしずつ来た道を戻りながら、木々の間をのぞいて丘を探した。
やはり車と徒歩では距離感が違って、思いのほか歩きまわっている気がしてくる。
ようやく丘のてっぺんが視界に入ってきたが、今度はどうやって行けばいいのかがわからない。
あちこち探していると、一か所、なんとか人が通ることのできそうな獣道を見つけることができた。
だが、疾風は入口でしばらく逡巡した。このところ、ロクに運動もしていなかった彼は、自分の体力に自信がなかったのだ。すでに今でも足が少し痛む。
こんな森の中に入っていって、はたして大丈夫だろうか。
着いて早々に遭難なんて、シャレにもならない。
そう思いながらも、車から見た人影を確認しておきたい気持ちのほうが勝った。
いざとなったら、端末から助けを呼べばいい。
疾風は、スーツケースを木の陰に隠した。人通りはなさそうだから、盗まれる心配もないだろう。そもそも、たいした荷物は入っていない。
呼吸をととのえると、疾風は一歩を踏み出した。
森のなかは思っていたよりも数段うす暗かった。足元が見えにくいうえに、木の根がそこら中に飛び出している。疾風は、何度もつまずいて転びそうになった。
これは本格的に、ジョギングでも始めないとヤバイな。
自分の体力が予想以上に落ちていることを実感して、疾風のなかに危機感が芽生えた。
思えばここ数週間はほとんど病院か、自宅で部屋に引きこもっているかのどちらかだった。
そもそもふだんの彼にしても、基本は圧倒的なインドア派なのだ。運動といえば登下校と体育の授業くらいのものである。
それらを全くしていないだけで、ここまで身体が鈍ってしまうとは。
疾風は足の痛さに耐えかねて、座って休憩できる場所がないか周囲を見わたす。すると、暗いトーンの風景のなかで、何か白っぽいものが浮かび上がっていることに気がついた。
疾風はなるべく音を立てないように、慎重にそちらのほうに近づいていった。
距離が縮まるにつれて、どうやらそれが人の頭のようだということがわかってくる。疾風は、嫌な予感がしてきた。心臓が早鐘を打ちはじめる。
暗い森のなかで、木の陰からのぞいている白髪。そこから連想されるもの。
白骨死体。自殺、もしくは、死体遺棄。
どこかで聞いたワードが、彼の足をすくませる。
さらに間の悪いことに、急に日が翳って周囲の闇が濃くなった。遠くからカラスの鳴き声まで聞こえてくる。
引き返そうかと思ったその時、ほんの少しだけ頭が動いたような気がした。耳をすますと、ゆっくりとした呼吸音も聞こえてくる。どうやら、白髪の老人が木にもたれかかって眠っているだけのようだ。
疾風は深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。かすかな、あまいにおい。
彼は用心のために、常備しているマスクをつけた。しっかりと自身の鼻と口を覆っていることを確認する。
足音を忍ばせて、眠っている人物の前にまわりこんだ。