大科学実験
夜の八時きっかりに、紫苑は訪ねてきた。
杏子に案内されてリビングに入ってくる。その姿を見た疾風は、一瞬その女性が誰なのか、わからなかった。
紫苑は、昼間とはまるで別人のようだったのだ。
髪は無造作に耳のしたで一本に束ねられ、前に垂らしてある。半袖の、身体のラインに沿ったTシャツに、スリムジーンズ。
メガネをかけていないせいか、ずいぶんと子どもっぽい印象である。
そして、紫苑のうしろにぴったりと張り付いている人物。
姿を見せる前から、疾風はすでにその香りで気付いていた。
おずおずと、らしくない雰囲気で旭緋が顔を出す。
風呂に入ってから急いで来たのか、髪がしっとりとした質感のままだ。紫苑とおなじく、長そでのTシャツにジーンズという軽装。
「なんで旭緋が?」
疾風が問う。昼間はなにも言っていなかったはずだ。
「この実験の主役は、キミと旭緋嬢だからね」
またしてもニヤニヤと笑いながら、紫苑が言った。
部屋に引っ込んだままの要を除いて、リビングに四人が顔を揃えた。
疾風と旭緋が並んでひとつのソファに座り、向かい側に杏子と紫苑が、それぞれ椅子に腰かけている。
「疾風。今日の旭緋ちゃん、すごくいい香りがするでしょう」
とつぜん、杏子が妙なことを言い出した。
疾風は、例の実験というのが始まったのだな、と察した。
ただ、彼女の意図するところまではまだわからない。
「あぁ、なんか甘い、バニラみたいな」
特に今は、香りが強く感じられた。
疾風の言葉に、杏子と紫苑がなにやら目配せをし合う。
おそらくは旭緋の能力に関連した実験なのだろうが、一体これからどうしようというのだろうか?
「やっぱり、思っていたとおりね」
杏子はそう言うと、履いているスカートのポケットに手を入れた。ごそごそと、なにかを探し始める。
「え、なんの話?」
疾風はさっぱり意味がわからず、旭緋を見た。彼女は、やけに真剣な表情をしている。
杏子が、ポケットから小さな筒のようなものを取り出した。透明なガラス製で、なかに液体が入っていることがわかる。
「ちょっと失礼」
ふたを開けてポンプを押すと、シュッという音とともに、細かな霧が出た。
あたりに、バニラの香りがただよう。
突然のことに、疾風はただ茫然としていた。
杏子が、香水を振りまいたらしいことはわかる。だが、なぜ急にそんなことをするのか。
彼の体質のことは、知っているはずなのに。
「バラの香水だな」
となりにいた紫苑が、そう言って疾風を見た。今、たしかにバラの香水と聞こえた。
「旭緋ちゃんも、似た香りがするわよね」
どういう意味だろう? 杏子の言葉に、疾風はますます混乱してくる。
「疾風、体調はどう」
杏子はそう言って、疾風の全身をチェックしているようだった。
「べつに、なんともない、けど」
疾風は、もういちど旭緋の顔を見る。
「ハヤテくん。あたし、今日、バラの匂いがするシャンプー、使ってみたの」
旭緋が、ひとことひとこと区切るように、ゆっくりと言った。
バラのシャンプー。まさか。
「あのね、疾風。これから説明することを、良く聞いてほしいの」
もったいぶった口調で、杏子が話し出す。
「旭緋ちゃんの……特性、というのかしら? 不快なにおいを変える能力のことは、疾風も知っているのよね」
疾風はちいさくうなずく。
「今、旭緋ちゃんからはバラの香りがしているのだけど。疾風は、それがバニラだと感じるのよね?」
杏子の質問の意味は掴みかねたが、疾風はとりあえず、もう一度うなずいた。
「バラの香りは、私たちにとって不快じゃない。だから、そのままの匂いがする」
そう言って、杏子が小さな筒——アトマイザーを、机の上に置いた。
疾風は、ようやく頭が追いついてくる。
「バラの香りがダメな疾風だけは、バニラだと感じてるってわけ」
杏子はなんだか楽しそうな様子で話をしていた。そういえば、この人は昔から超常現象やらの話が大好きだったことを、疾風は思い出す。
「例の、疾風の彼女が使ってたシャンプー。あれを、旭緋ちゃんに試してもらったの」
「あぁ、そういうこと……」
ようやく、疾風は杏子の目的がはっきりとわかった。
疾風の体調不良が香料のせいだという可能性が出てきたとき、菖蒲は、医療関係者である叔父夫婦に対策を相談していた。
しかし杏子は、原因となる物質が特定されないことに、疑問を呈していた。
そして、シャンプーに含まれている成分は無関係で、単純に、バラの香りそのものが要因なのではないかと疑っていたのだ。
それを証明するための実験。
疾風が倒れたときに嗅いだシャンプーを、旭緋が使う。
彼女の能力によって、疾風はバニラの匂いとして感じるようになる——バラの香りは、トラウマの原因という不快なもののはずだから——と仮定する。
その状態で発作が起きないのであれば、シャンプーの成分が体調不良の原因ではない、ということだ。なぜなら、旭緋の力はあくまで違うにおいに感じさせるだけだから。
単純に、バラの香りがトリガーになって、意識を失ったりしている。その時々によって症状が変わるのは、疾風の精神状態に左右されているから。
それが、杏子の仮説だったのだ。
「これで、直接的な原因が香料の成分ではない、ということははっきりしたわ。できれば旭緋ちゃんのいないところで、バラのにおいを嗅いでもらいたいところだけど」
杏子は若干がっかりした様子で言った。さすがにこれ以上、意識を失う危険のある実験を続けることは思いとどまったらしい。
「次は、根本的な原因を探る段階に移らなくてはいけないな」
それまで黙っていた紫苑が口を開く。
そう、これで香料アレルギーではないということはわかったが、バラの香りで体調不良になる理由はいまだ謎のままなのだ。
「それに関しては、すこし思い当たることがあるの」
杏子が含みを持たせた言い方をした。
「でもまぁ、今日のところはこれで十分よ。旭緋ちゃん、協力してくれてありがとう」
旭緋が、こくんと小さくうなずく。
神妙な顔をしたままなのは、緊張しているということなのだろうか。
疾風は声をかけてやりたいと思ったが、叔母コンビの前ではやぶへびになりそうだったので、止めておいた。
「それにしても、よく同じシャンプーが手に入ったね」
疾風は、杏子の手際のよさに舌を巻いていた。
「疾風がこっちに来ることが決まった時点で、準備を始めていたのよ。あなたの彼女、可愛らしい子ね」
その言葉に、疾風は迂闊なことを言ってしまったと焦った。
杏子がシャンプーの持ち主とコンタクトを取っているのは、かんがえてみれば当然の話である。
墓穴を掘ってしまったことを悔やみながら、疾風はおそるおそる旭緋の顔色をうかがった。
案の定、先ほどとはすこし違った仏頂面になっている。
それにしても、すこしは空気を読んでくれてもいいものだ。
こういうところが、杏子の悪い癖だった。旭緋が家出した理由も、村長から聞いて知っているはずなのに。
疾風が釈然としない思いで旭緋から視線を外すと、紫苑と目が合った。やれやれ、といった感じで苦笑している。
彼女も、杏子のこういった言動にはあきれている様子だった。
そういえば、このふたりの関係はなんなのだろう?
どちらも一筋縄ではいかない人物なところは共通しているが、疾風には接点が思い浮かばなかった。




