学生街の喫茶店
翌朝、疾風は見事に寝坊した。
昨夜ダム湖から帰ったあと、妙な高揚感に包まれていたことは覚えている。
自室のベッドに横になっても、ほとんど眠れなかった。
時々うとうとしては起きることを繰り返し、明け方になってから、ようやく寝たような気がする。
疾風は、サイドテーブルの端末を見た。すでに十時をまわっている。杏子から、メッセージが届いていた。
そこに書いてあったのは、けさの顛末だった。それを読んで、彼はため息をつく。
どうやら旭緋は、朝ちゃんと迎えに来てくれたらしい。だが、疾風に知らせないまま、杏子が帰してしまったのだそうだ。
おそらく昨夜のことがあるので、気をきかせたつもりなのだろう。疲れているみたいだから寝かせておいてあげて、とかなんとか。
どうしたもんかなぁ。
疾風は悩みつつ、身支度をととのえた。
こういうときに、旭緋と連絡がとれるといいんだけどな、と思う。
とりあえず腹ごしらえをすることにして、したに降りた。
もそもそと朝食を摂りながら、ぼんやりと旭緋のことを考える。
自分なりに、今後の方針をきちんと決めておきたい。
昨夜も、あれこれと対策を練ってはみた。結局のところ、付かず離れず彼女を見守るくらいしか、できそうになかったが。
一定の距離を保って接する必要があるのは当然として、彼女の自立を促すには、どうするのが最善なのだろうか?
しかし、疾風自身が自立しているとは言い難い状況なのだから、あまり説得力がなさそうなところが問題だった。
やはりここは、村長に相談するべきか。
そう考えて、疾風はすこし憂鬱になった。大人に頼ることが、好きではないのだ。
そして、頼らざるを得ない自分が情けなくなるという負のループに陥るのが、いつもの彼のパターンだった。
食べ終わった食器を片付けながら、とりあえず散歩にでも出よう、と思う。
あわよくば、旭緋とばったり出会うかも、などと期待しているわけではない。決して。
疾風は、丘までのゆるやかな坂を、ゆっくりとのぼっていった。ふんわりと香る、あまいバニラ。
果たせるかな、そこには銀髪の少女が佇んでいた。くるくると、白い日傘をまわしながら。
今日の彼女は、ギンガムチェックのシャツワンピース姿だった。白と青の組み合わせが夏らしく、いかにも涼しげである。
ちなみに疾風のほうは、あいかわらずのTシャツとジャージだ。
「おっそーい!」
振り向いた旭緋は、ぷりぷりと怒っていた。
「もう、一時間くらい待ってたんだよ! ちがうな、もっと!! 三時間くらい!!!」
いきなり時間が三倍になっている。滅茶苦茶な理屈だ。
「いや、約束とかしてないし」
疾風は思わず、減らず口をたたいてしまう。
「そうだけどー」
旭緋が口ごもった。ばつの悪そうな顔でうつむく。白いスニーカーを履いた足で、草を蹴った。
「ごめんな。今朝、迎えに来てくれたんだろ?」
疾風が謝ったとたん、旭緋の顔がぱっと明るくなった。実にわかりやすい。
「いいよ、そんなの。疲れてたんでしょ? それ、あたしのせいだし……」
一応、自覚はあるようだった。反省もしているらしい。
旭緋はその場に座りこむと、疾風のほうを見上げた。ぽんぽん、と、となりの地面をたたいている。
疾風はうながされるまま、そこに腰をおろした。
「そういえばさ、旭緋って連絡とれる端末とか、持ってないの?」
疾風は、けさ思いついたことをさっそく訊いてみた。
「持ってる、けど……」
旭緋は言いかけて、疾風の顔をじっと見つめる。
「なに? 教えられない事情でもあるわけ」
「そういうわけじゃないけどー。だってさ、そうやって簡単に連絡が取れるようになったらさー。ハヤテくん、家から出てこなくなりそうだもん」
旭緋の指摘に、疾風はぐうの音も出ない。十分に、あり得る話だった。
「否定はできないな」
たしかに、手軽に連絡が取れるのは便利な反面、直接やりとりすることが減る。
世の中では、文明の利器が人とのコミュニケーションを奪った反動も起こっている。昨今では、繋がりやら触れ合いやらを重視する風潮になっているのも、事実だった。
「まぁ、村長さんの連絡先は聞いたから。最悪、そっちでいいか」
よほどのことがない限りは、使いそうになかったが。
「おーじょうー、さ、まー!」
毎度毎度、瑠璃はかならず大声でさけんで登場するな。疾風は思いながら、坂のほうを振り返る。
ものすごいスピードで、瑠璃は丘をのぼってきた。まったく息を切らしていないことに、違和感を覚えてしまう。アンドロイドなのだから、当たり前の話なのだが。
「今日の午後、マスターがこちらに来られるそうです」
瑠璃が、あいかわらず無表情のままで報告する。
マスター。疾風の頭に、ヒゲを生やしたロマンスグレーの姿が思い浮かんだ。カウンターのなかに立って、サイフォンで淹れたコーヒーを、カップに注いでいる。もちろん、白いワイシャツに赤の蝶ネクタイ、黒いベスト着用である。
疾風にとってマスターとは、喫茶店の主人のイメージなのだった。
「ほんとー? じゃあ、ハヤテくんに紹介しないとね」
旭緋が嬉しそうに言った。
「マスター?」
「うん。あたしの後見人で、瑠璃をつくったひと」
「へぇ」
創造主という意味でのマスターか。疾風は納得した。
瑠璃をつくった、というのは、おそらく設計者という意味だと思われる。
疾風のなかで、マスターのイメージが更新された。今度は大学教授のような、ぱりっとした白衣姿の紳士のイメージだ。
それに、旭緋の後見人であるという。彼女が、高性能のアンドロイドを所有している理由が、やっとわかった。
「午後から、ってことはー、一時くらいに、ハヤテくんとこ迎えに行くね!」
旭緋がはりきって言った。こちらの都合などはお構いなしだ。
「別にいいけどさ……」
疾風は言いながら、彼女にも、もうすこし相手の立場を慮るということを教えてやらないとなぁ、と思う。
旭緋と別れ、疾風はさきに家に帰った。
自室のベッドに腰かけて、小さく息をはく。
後見人、ねぇ。
自分の服を見る。さすがに、このかっこうで会うのはまずいのだろうか。
しかし、わざわざ着替えていくのも大げさな気がする。
昼食の席で、杏子はけさのことを詫びた。
「大丈夫。さっき、旭緋に会って謝っておいたから」
疾風がそう言うと、杏子はおおげさにおどろいた顔をする。
「あら、わざわざ会いに行ったの? 疾風が? へえぇ~」
恥ずかしくなってうつむく疾風。
われ関せず、といった調子で食事を続ける要。
杏子はなにごともなかったかのように、別の話題を持ち出している。
彼女のことは嫌いなわけではないが、こういうデリカシーに欠けたところが、疾風はどうにも苦手だった。
疾風が片付けを手伝っていると、杏子は思い出したように話しはじめた。
「あ、今日の夜だけど、私の友人が訪ねてくるの。疾風にも会ってほしいんだけど、いいかしら」
なぜ、そういうことはもっとはやく言っておいてくれないのだろうか。
疾風は思ったが、とりあえずうなずく。
「たぶん、来るのは八時くらいかな。あら、いけない、時間が。じゃあ、よろしくね!」
杏子は時計を見るなり、またしてもさっさと出ていってしまった。
このタイミングを考えるかぎり、友人というのは例の旭緋の後見人か、その関係者なのだろう。
こんな辺鄙な村に、そうそう外部から人が訪れるとは思えない。
どうして自分に会わせたいのかはよくわからなかったが、断る理由も思いつかなかった。
疾風のなかの後見人のイメージがさらに上書きされて、偏屈そうな銀縁メガネの男になった。
べつに着替えなくてもよさそうだな。
疾風は、リビングのソファに腰かけて、旭緋を待った。




