避難所
車のヘッドライトに照らし出された景色を見て、疾風は息を飲んだ。
たっぷりの水をたたえた湖が、視界いっぱいに広がっている。月光を鏡のように反射したそれは、どこまでも果てしなく続いているかのように感じられた。
やがて、車はダム湖にそってカーブを始めた。今度は、助手席側の窓から外をのぞいてみる。
ちょうど雲が出てきたらしく、月の光が弱まった。ライトの灯りも当たらないために、景色のトーンが一段階暗くなる。
先ほどまではうつくしくかがやいていた湖が、途端にその表情を豹変させた。
まるで墨のようないろをした水面。それは不穏な空気をただよわせ、不気味な印象を疾風に与える。
このしたに、村が沈んでいるのか。
そう思うと、ますます恐怖感がつのった。
「あそこやな」
村長の言葉に目を向ける。向かって右側、ヘッドライトの光が届かなくてよく見えないが、たしかに人影があった。
暗闇にぼんやりと浮かぶ、白いエプロン。瑠璃だ。
彼女は、とつぜん車道に出てきた。障害物を感知した車が、やや乱暴に、その場で止まる。
「あけろ」
疾風がするどい口調で命令すると、自動制御のドアが反応した。
ドアが開くまでの時間が、ひどくもどかしい。こういうときに限って、いやにゆっくりと感じられるのはなぜだろう。
疾風は、隙間に身体をすべらせるようにして外に飛び出すと、瑠璃のところへ駆け寄った。
「旭緋は!?」
瑠璃が、手に持ったライトを点けた。道路の脇に明かりを向ける。芝生になっている場所に、うずくまるちいさな影。
「旭緋……」
疾風はゆっくりと、旭緋のほうに近づいていった。彼女が顔をあげる。
ライトに照らし出されたその表情が、疾風の姿を認めたとたんに、ゆがんだ。
「旭緋、ごめん。ひどいこと言って」
光を受けた、旭緋の虹彩。紫水晶が、うるんでゆらめいていた。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと雫がこぼれ落ちる。口を開いてなにかを話そうとするが、声にならないようだった。
疾風は彼女のとなりにしゃがみこんだ。涙をぬぐってやろうと手をのばしかけて、躊躇する。
「おい、坊主」
その声に振り向くと、いつの間にか車から降りてきていた村長が、道路に立っていた。
「わしと瑠璃は、先に軽トラまで戻るでな。お前さんたちは、そっちの車で帰ってこい」
村長が指さした方向には、一台の小型車が停まっていた。
「でも……」
疾風が口ごもると、村長がくいくいと手招きをする。その側まで行くと、ぐいっと肩をつかんで引き寄せられた。
「ええか。旭緋になんかあったら、アヤメさんにあることないこと吹き込んだるでな」
村長が、疾風の耳元でドスの効いた声で脅してくる。
疾風は、こくこくとうなずいた。どうやら、菖蒲の恐ろしさは村長もよくご存知のようだった。
「タイムリミットは、そうやな……日付が変わる前までや」
疾風はすばやく端末を確認した。午後十時半。
村長はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面に電話番号を表示させた。
「旧式の機械しか持っとらんでな……なんかあったら、ここに連絡せい。ほれ、はよ控えんかい」
疾風はあわてて、音声入力で電話帳に保存した。
「坊主、頼んだぞ!」
村長は、瑠璃を従えてセダンに乗り込んだ。Uターンすると、来た道をゆっくりと戻っていく。
その車体を見送りながら、疾風は旭緋のところまで歩いた。
もう一度、旭緋のよこに並ぶ。そのまま芝生のうえに座った。
旭緋は、くすんくすんと鼻を鳴らしながら、手で涙をぬぐっている。
「旭緋、ハンカチとか持ってないわけ?」
「ある……」
旭緋はちいさな声で答えると、ポケットからタオルハンカチを取り出した。それで顔を押さえる。
疾風はその様子を見ながら、これからどうしたものか考えた。
「旭緋はさ、怖くない? オレと、こんな暗い場所で、ふたりっきりで」
変化球すぎるかとも思った。だがとりあえずは、旭緋が自分をどういう存在だと捉えているのか、知っておきたい。
「ハヤテくんに嫌われることのほうが、こわい」
旭緋がつぶやく。
「うーん、でもさ。まだ会ったばかりだし。それにオレ、夏のあいだしか村にいないしさ。たとえ嫌われたとしても、あんまり関係なくない?」
疾風の台詞に、旭緋が目を見開いた。信じられない、とでも言いたげな顔だ。
「会ったばっかとか、そんなの関係ないよ。あたしが、ハヤテくんと仲良くなりたいって、思ったんだから」
こうまで直球で言われてしまうと、疾風はまわりくどい言い方は無駄に思えてくる。
「それって、オレが……その、女みたいで、子どもっぽい見た目だから?」
疾風は、ずっと気になっていたことを訊いてみた。自分で自分の傷を抉っている感じもしたが。
「どうだろ? でも、最初にぱっと見たときに、なんかビビッときたの」
「ビビッと、ねぇ……」
なんとも抽象的な表現だった。
疾風は肌寒さを感じて、自分の腕を抱きかかえる。七月とはいえ、いまは夜なうえに、標高がたかい山のなかだ。思いのほか、気温がさがっているようだった。
旭緋をよく見ると、しっかりと上着を羽織っている。
「あの、ハヤテくん」
旭緋が、真剣なまなざしで疾風をじっと見つめた。
「ごめん、なさい。けさ。約束、やぶって」
あまりにも深刻そうに言うので、疾風は逆に笑ってしまった。
「ちょっとー、人が真面目に謝ってるのに、笑うってひどくない?」
ようやくいつもの旭緋にもどった感じだった。そんな彼女が可愛くて、疾風はそのちいさな頭を撫でてやる。
「よしよし。旭緋ちゃんは、いいこでしゅねー」
「むーーー」
怒った顔をしながらも、旭緋はおとなしく頭を触らせていた。
すべすべの彼女の髪の感触を、たしかめる。
疾風はあらためて、無事でよかった、と思った。
車の中で聞いた、村長の願い。疾風は、それを無駄にしたくないと考えていた。
しかし、旭緋はまだ、こんなにも子どもなのだ。
将来的に村を出ていくにしても、これからすこしずつ、世間について教えてやればいいのではないか。
その手助けをしてやること。いまの疾風にできるのは、それくらいだろう。
ともあれ、まずは関係を修復しなくては始まらない。その段階は、とりあえずクリアできたようだった。
「よし、お姫さまのご機嫌も直ったみたいだし、帰るか」
「えー、もう?」
旭緋が声をあげる。いま泣いたカラスがなんとやら、だ。
「早く帰らないと、いろいろとマズいんだよ。オレは杏子さんに連絡するから、旭緋は車のルート設定してよ」
疾風が急かすと、旭緋はしぶしぶ立ち上がった。車のほうにとぼとぼと歩いていく。
その様子を確認して、疾風は端末から電話帳を呼び出した。
おそらく杏子のところには、村長から一報がはいっているだろう。だが、こちらからも一応、旭緋が無事であることを伝えておきたかった。
ふたりで車のうしろに並んで座る。ふんわりとバニラが香った。
「あれ、車って一台だけ?」
本来なら、旭緋と瑠璃で一台ずつ乗ってきているはずだ。
「うん。あたしは、歩いてここまで来たから」
ごく当たり前のことのように、旭緋が言う。
「うへぇ……どれだけ体力あるんだよ」
村からゲートまで歩くだけでも、かなりの距離だ。しかも、行きはすべて登り坂である。
「そりゃ、都会の軟弱ものとはワケがちがうからー」
旭緋は得意げに言った。こればかりは、疾風も黙るしかない。
「でもさ、嫌われたくない人を、ダムまで呼びつけるってひどくない?」
今度はこちらのターンだ。予想通り、旭緋が黙りこむ。
「あそこだったら、謝れるかなぁ、って、思ったんだもん」
旭緋がぽつんとつぶやいた。
なにか、あの場所は彼女にとって特別なのかもしれない。
そういえば、村長も言っていた。怒られるたびに、逃げこむところ。
「あの水の底に村がひとつ沈んでるなんて、信じられないな」
疾風がうしろを振りかえる。深い闇のなかで、静かに眠る村。
「村の建物は、ほとんど取り壊されてるけどね。小学校だけは、そのままだよ」
旭緋が、すこしさみしそうに言った。
「ダムが完成したのって、わりと最近の話?」
「そうだね。着工してから、五年くらいかかったんじゃないかなぁ」
旭緋が指を折って計算している。たしかにあの規模なら、それくらいの期間は必要なのだろう。
「今度は、あかるいときに来ようね」
そう言って、旭緋がにっこりと笑った。




