アメとムチ
翌日の朝食の席は、疾風が一番乗りだった。
一応、行ってやると旭緋に宣言した手前、遅れるわけにはいかないと思ったのだ。
たとえ、それが老人に混じっての、ラジオ体操であろうと。
しかし、六時十五分をまわった頃には、せっかく早起きした意味もなくなりそうな気がしてきた。
旭緋が来ない。
疾風は時間を気にしすぎるあまり、たべものもロクにのどを通らなかった。
それに、妙にそわそわしていたせいで、杏子に指摘されてしまう。
「今朝はぜんぜんたべないのね。それに、さっきから時計ばっかり見てるけど、どうしたの?」
できれば、女の子が家に迎えにくるなどと言いたくはなかった。
だが、どちらにしろ訪ねてくるのだから、説明しないわけにもいかない。
「いや、旭緋が……ラジオ体操に、一緒に行こうって言ってて」
言いながら、疾風は壁の時計を見た。すでに六時二十分を指している。おかしい。
「あら、でももう時間がないわよ。二十五分集合なんでしょう」
杏子も、村のラジオ体操に関して知ってはいる。仕事の都合で参加できないだけで。
「うん……」
ちなみに、このやりとりのあいだ、要はあいかわらずひとことも話していない。
疾風は、たべかけの朝食に目をやった。
「杏子さん、ごめん。戻ってきたらたべるから。オレ、ちょっと見てくるよ」
疾風は、とりあえず集合場所である公民館に行ってみることにした。
「いってらっしゃい」
慌てて出ていく疾風の後ろから、杏子の声が飛んできた。
遠くから、ラジオ体操の声が聞こえてくる。
疾風は公民館前に走りこんだ。息をきらしながら、周囲を見わたす。
いた。
旭緋は、ちょうど木の陰になる場所で、ぶんぶんと腕を振り回していた。
疾風のほうを一瞥すると、また素知らぬ顔で体操を続けている。
きのう、あれだけ念を押していったくせに、自分が約束をすっぽかすとは。
彼はその様子を見ながら、どうしたものか考えた。なにか、理由があるはずだった。
体操が終わると、参加者たちはぞろぞろと公民館に入っていく。
旭緋もカードを手に、お年寄りたちの列にくっついて歩いているのが見えた。
しかたなく、疾風もその流れに続く。
「よぉ、坊主。重役出勤たぁ、偉くなったもんだなぁ、おい」
村長が近づいてきた。その手には、ラジオ体操カード。
「まぁ来るだけマシか。ほれ、坊主のぶん」
「ありがとう、ございます」
疾風は、手渡されたカードに目を落とした。今日の日づけのマスに、うさぎのスタンプが押されている。
旭緋の姿を探すと、おばあさんたちと一緒に、給茶器のお茶を飲んでいた。
彼女は疾風と目が合うと、ふいっと顔をそらす。
疾風はわけがわからず、その場に立ち尽くした。
本来なら、理由を問い詰めたいところだった。だが、和やかな場の雰囲気を乱すのもしのびない。
しばらく迷ったが、そのままひとりで帰ることにした。
そもそも、女の子とは総じて気まぐれなものなのだ。疾風も、付き合っている彼女にさんざん振り回されたから、それは理解しているつもりだった。
疾風は、とぼとぼと帰路についた。
なんだか、どっと疲れた。まだ、一日は始まったばかりだというのに。
背後に人の気配を感じて、疾風は振り向く。
旭緋が、絶妙な距離を空けてうしろを歩いていた。彼女の家がどこかは知らない。だが、叔父夫婦の家は、一軒だけ村のはずれに建っているのだ。
どう考えても、疾風の後をつけてきたのに違いなかった。
ストーカーかよ。
疾風は苦笑する。本当に子どもだなぁ、と半ばあきれつつ、しかし、そこが微笑ましくもあった。
ここは大人が折れるべきなのだろう。
疾風は立ち止まると、黙って旭緋がくるのを待った。
旭緋は、こちらを探るような表情で、ゆっくりと歩いてくる。
おそらく、疾風がなにも言わずに帰ってしまったのが、気になっているのだ。
わざと怒らせるような行動をとるくせに、いざ相手に無視されると、不安でたまらない。まるで、母親の気を引こうと悪さをする幼児か、好きな子にいじわるばかりしてしまう男児——。
そこまで考えて、疾風はすこし困ったことになったな、と思う。
昨夜の、旭緋の態度。付き合っている彼女の話が出たとたん、不機嫌になっていたこと。
単純に、疾風に恋人がいるというのが気に食わないだけなのだろう。
だからといって、自分から言い出した約束を破るのは、いくらなんでもルール違反だ。
旭緋のほうを見ると、口を真一文字に結んで近づいてきている。
そして、なんだか悲壮さすら感じさせる表情で、疾風の側に立った。
まいったなぁ、と疾風は思った。どう対応したものか思案する。
村のお年寄りの旭緋に対する態度を見ていても、彼女が甘やかされて育っていることは想像できた。
見た目よりずっと精神年齢が低そうに感じるのも、そのせいだろう。
ともあれ、相手はまだ子どもなのだ。ここはうまく飴と鞭を使い分けて、軌道修正をしてやらなければ。
「あのさぁ。きのう、迎えに来るって言ったの誰だっけ?」
疾風は、とりあえず鞭のほうでいこう、と決めた。
旭緋は黙ったまま、うつむいている。
「オレ、約束まもらないヤツは嫌いだから」
疾風は、ちょっとキツすぎたかな、とは思った。しかし、今後のことを考えると、これくらい言って釘を刺しておく必要がある。
思えば、初対面の疾風にすぐ懐いてしまったのも気になっていた。
おそらく、今の旭緋は刷り込みされた雛の状態なのだ。
見知らぬ男にあんなにフレンドリーに接しているようでは、この先どうなるか心配になってくる。
彼女は、若い男に対する免疫が、あまりにもなさすぎた。
旭緋は下を向いたまま、肩を小刻みにふるわせている。
ぽたぽたと雫が垂れ、地面にちいさな染みができていった。
「反省しろよ」
疾風は言ってしまってから、われながら芸のないセリフだな、と自分が反省した。
わざと早足で家に戻る。旭緋がついてくる様子はない。
当たり前か。
疾風は、駆け寄って謝りたくなる衝動を必死で抑えた。
これは、彼女のためだ、と自分に言い聞かせる。
こんな短期間でのぼせあがってしまう感情なんて、冷めるのも早い。
きっとあしたの朝は、何事もなかったかのように迎えにくるだろう。現に、きのうはそうだったじゃないか。
疾風は、そっとうしろの様子をうかがった。旭緋は、まだその場に立ち尽くしている。
やはり言いすぎたのだろうか。
しかし、いまさら戻るのもなんだかカッコ悪い。
疾風は小走りになった。そして、今度は家に着くまで、振り向くことはしなかった。
家に戻ると、すでに叔父夫婦は職場に行ったあとだった。
ダイニングテーブルには、疾風の残した朝食がラップをかけて置いてある。
しかし、いまはとてもたべる気がしなかった。
疾風は、暗い気持ちのまま自室へと向かった。
デスクの上に置いたままの、タブレット端末を手に取る。
イラスト制作用のアプリを開き「asahi」とタイトルのついたフォルダをタップした。
いくつかのサムネイルが表示される。どれも、同じ少女のスケッチだ。
疾風はそのなかの一枚を開く。木々のあいだを跳ねる旭緋を描いたものだった。
まるで、うさぎのような少女。
疾風はむかし、菖蒲から聞かされた話を思い出す。
うさぎがさみしくて死ぬなんていうのは、嘘だ。
野生動物の習性で、彼らは病気になってもそれを隠して平然を装う。そして、飼い主のいないあいだにとつぜん死んでしまう。
帰ってきたとたん、愛しいペットの亡骸を目にした飼い主は、かんちがいするのだ。
自分がひとりぼっちにしたから、この子は死んでしまったのだ、と。
疾風は端末の電源をオフにすると、デスクのうえに戻した。
ベッドに寝転んで、目を閉じる。
細い肩をふるわせて、泣いていた旭緋。
自分がひとりぼっちにしたから、あの子は泣いてしまった。
ふいに、旭緋の姿が、ちいさな頃の疾風と重なった。
なぜか胸が締めつけられるように、苦しくなってくる。
疾風はタオルケットを身体に巻きつけ、ひざを抱えて丸くなった。
これ以上は、思いだしちゃいけない。
そして、そのまま眠りの世界へと引きこまれていった。




