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短編の本棚

作者:九藤 朋
 死産だった。

 一晩中、戦ってのち、私は敗れた。
 死というものに、やがて生まれ出づる筈だった命を持って行かれた。

 医師に見せられた嬰児の遺体は、既に人の子の形を成していた。
 私はその子を、最早冷たくなろうとしているその子を抱いた。
 熱の足りない、生温かいゴムのような感触。
 涙が滝のように流れた。
 その滝は轟轟としてとめどなく、私は獣のような呻き声を上げた。
 真実、その時の私は児を亡くした一匹の獣であったろう。

 色んな慰めを受けた。

「お気の毒なことでした」
「まだあなたは若いから次があるよ」
「いつまでも落ち込んでいては子供も成仏できないよ」


 何が解るか。

 私のこの絶望の、ひとかけらなりと解るものか。
 解るものかと思いながら、私はぼうとした表情で慰めを聞いていた。
 死産届というものがあるのだと初めて知った。
 煩雑な現実の諸作業が煩わしかった。

 世界の明るいものの全てが妬ましく、また、疎ましかった。
 いつまでも部屋に閉じ籠り、家事も放置した。
 家の中は荒れたが、夫は私を責めなかった。仕事に行きながら必死に、彼に出来る範囲の家事をこなそうとしていた。
 私を労わりながら。
 私は私の殻に籠っていたが、結婚した相手がこの人で良かったとぼんやり思っていた。

 まるで私一人が水の中にいて、あたりはぼわぼわとした水槽のようだった。
 鋭角な事物から、私は遮蔽されていた。
 夢現を漂う感覚を、私は私に赦した。
 そのくらい赦されて欲しい、私はあの子を喪ったのだから、と。
 自らに、世の中に言い訳した。

 光や、巡る時節までは、それでも私に容赦してくれなかった。
 あの子がいないのに、春が来た。
 あの子がいないのに、春が来た。
 酷く冷徹なことに思えた。

 それでも少しは外に出ようと、夫が私を連れ出した。
 私は人形のように従順に、夫に手を引かれて歩いた。

 たんぽぽ。
 すみれ。
 つくし。

 子供に教えるように、夫が平明な口調で私にそれらを指差して言った。
 柔らかな緑の、萌ゆる季節は、私に希望というものを押しつけがましく受け取らせようとしているようだった。

 たんぽぽ。
 すみれ。
 つくし。

 私の足が止まると、夫も止まった。
 そして夫は人目を憚らず私を抱き締めた。
 その時私は子供のように泣きじゃくっていたのだ。
 あの子が欲しかったのよと、子供のように子供を望んだ。
 夫はうん、そうだねと何度も何度も言った。

 たんぽぽ。
 すみれ。
 つくし。

 私はそれらを一輪、一本ずつ摘んで、リビングのテーブルに飾った。
 それは私が久し振りに行った能動的で前向きな行動だった。

 夏が過ぎ、秋が来て。

 私の心は緩々と癒えていった。
 時折、家の外から聴こえる子供の声などに胸は痛むが、涙して、そうして、浄化して、私は絶望を飼い慣らした。











 長い長い戦いだった。
 人生には戦いが多い。

 やがて訪れた冬、新しい命が宿ったと知った私の胸中を、誰も正確には推し量れまい。
 神はいるのだと思った。

 泣いて泣いて泣き尽くした。
 亡くした子を想い、新しい命を想い。
 夫も泣いていた。
 ああ、私は夫に大きな負担ばかりをかけていた。
 今改めてそのことに思い至った。
 人は希望を持つと視野を広げる。


 子供の名前をどうしようかと夫に訊かれ、私は答えた。
 この名前しかないと思った。

 光。

 光。私はあなたが生まれるはるかに前から、あなたを愛し続けてきた。

 あなたはそのことを知らなくて良い。
 ただ、今度こそ無事にこの腕に抱かれて。生まれてきて。

 私に光をもたらして。





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