科学者の憑き物 前編
「君は、妖術、というものを信じているかい?」
薄暗い研究室の中で、液晶から目を離さずに科学者が問う。
部屋の電気は点いておらず、机に並べられた試験管に入った怪しい液体を、唯一の光源であるパソコンから漏れ出す光が不気味に照らしている。
「妖術。太古より狸、狐、木、人ならざるものが遣い、人を惑わし、狂わせた呪い」
パソコンから目を離し、彼はその白髪を掻き揚げてにやりと笑う。
「_____________さて、猫は貴方だ。では箱は?」
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「シュレーディンガーの猫___ってなんです?」
朝日差し込む店内。コーヒーをすすりながら、栗色の髪の少女はマスターを見つめる。
「それまた難しい質問をするね、桐花さん」
まだ大学生のようにも見える若いマスターは、カウンターの後ろのキッチンからくるりと身を翻し、デザートを桐花と呼ばれた少女の元へ置く。
「試作品ですが、味は保証しますよ」
薄く表面を焼かれた餅でかたどられた盃に、イチゴがちょこんと乗っかった奇妙なデザートがカウンターに置かれる。
「へえ......。こりゃまた珍しいものを作りましたね? で、この新作のタイトルは?」
桐花は、物珍しそうに皿の上のいちご大福を覗き込む。
「そうですね......。試作品28号、改め『カナエ』でどうでしょう?」
「なんと。マスターがここの下でやってる和菓子屋さんと同じ名前ですね! じゃあこれがそこの看板商品ですか?」
「まあ、当面はね」
マスターはコーヒーをもう一杯淹れ、桐花に笑いかける。
「さて、シュレーディンガーの猫の話をしましょうか」
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「さて、シュレーディンガーの猫の話をしましょうか」
僕は、そう彼女に言った。
僕は、ここ喫茶のマスターだ。
ここにはお客さんがコーヒーを飲みに来るのだが、偶に、悩みを抱えて来る人がここを訪れる。
彼らは皆、『大事なことを忘れている人たち』だ。
忘れていることにすら忘れ、何かに悩んでいる人たちが僕の元へ相談を持ちかける。何故ならそれは、僕が『他人が忘れてしまった記憶を見ることができる』からだ。
僕は忘れてしまった記憶を結晶にし、その記憶の中の世界を傍観することで事実をその人に伝える、いわばメッセンジャー。
というわけで、ここには記憶をなくした誰かが相談に来ることもあるし、今回の彼女のように、ただ悩みを相談しに来る人もいる。
「そもそも、どうして桐花さんは『シュレーディンガーの猫』なんて言葉について知ろうと思ったんだい?」
そうなんですよ、と彼女は不服そうに口を尖らせ、髪の毛をくるくると指で回す。
「昨日、変な手紙が届いたんですよ。これなんですけど......」
彼女が差し出した封筒の中には、週刊誌の切り抜きで『箱の中の猫は誰?』と綴られていた。
「気味が悪かったんですけど、ちょっと興味を持って、『箱の中の猫』ってネットで調べてみたんですよ。そしたらその......『シュレーディンガーの猫』っていう言葉がたくさん出てきて、よくわからなかったんでマスターに聞いてみようかと」
「成る程。ではわかりやすく説明しましょう。.........シュレディンガーの猫というのはつまり、『生きながら死んでいる猫』の話です」
「生きながら......死んでいる?」
「そう。例えば、ここに蓋のついた箱と、猫を用意します。箱の中には、とある確率で作動する毒ガスの発生装置があります。今、猫を箱の中に入れて、蓋を閉めます」
「可哀想......」
「そうかな? もしかしたら毒ガスの発生装置は作動しないかもしれない。作動する確率が50%だったら、箱の中の猫は半分の確率で生きていて、半分の確率で死んでいるよね。もし蓋を開けて猫が死んでいたとしても、パラレルワールドでは生きていた、なんてことはなんら不思議ではない。ここまで大丈夫?」
「んまぁ、理論上ではそうですね」
「そう! これはあくまで理論上の話なんだ」
僕は一息つき、コーヒーを冷ましてから慎重にすする。
どうぞ、と促すと、彼女は『カナエ』を手に取り、一口食む。
美味しい、と驚きの混じった声が溢れる。
「それは良かった......さて、話を戻そう。桐花さん、今、この箱の中にいる猫は、死んでいますか? それとも生きていますか?」
「それは......蓋を開けてみないとわかりません。だって中が見えないから」
「そうだね。もし箱が透明なら、すぐに結果を知ることができる。答えは、生きているか、死んでいるか、そのどちらかに収束する。でも箱の中身は見えないから、蓋を開ける前の箱の中の猫は、生きていながら死んでいるんだ。これが、シュレーディンガーの猫」
ふぅん、と彼女は呟く。
「つまり、誰かが観測しないと、箱の中の結果は同時に存在してるってこと?」
「その通り。さすがは桐花さん」
褒めても何も出ませんよ、とイチゴを口に放り込む桐花。
からんからん、と呼び鈴が鳴り、メイド服を着た少女が元気よく入店してきた。
「どうもー! シフトの時間ですー」
「あいも変わらずハイテンションだね。ほら、もうお客さんいるんだから、しっかりしなさいな」
ありゃりゃ、と舌を出し、カウンターに入り込む彼女。
「それじゃあ、私はこれで失礼しますね。質問、答えてくれてありがとうございました」
「あれれ、桐花さんもう行っちゃうのかい? それじゃあまた」
「はい.........あ、マスター。ひとつ伝え忘れてました。この手紙の差出人がですね.........」
そう言って彼女はバッグからもう一度封筒を取り出し、裏返す。
そこには、とある高名な科学者の名前が書いてあった。
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「ねえマスター。あの手紙は本当にあの相模 一将から送られてきたのかな?」
無人となった店内で、猫耳バンドをつけた少女が僕に問いかける。
「さあ、それはどうだろう。本人かもしれないし、その名を騙った偽者かもしれない。でも一番の問題は、『箱の中の猫は誰?』というこの文言だね。.........それと、店の中で猫耳をつけないように。ここはメイド喫茶じゃない、と何回言ったらわかるんだい、京香?」
はぁい、と渋々猫耳を外すこの少女は羅胤・カティ・京香。古都、京都の名家、羅胤家の跡取り娘なのだが、訳あってうちの喫茶店で看板娘として働いてもらっている。名前が長いので、僕は彼女を「京香」と呼んでいる。
「でもマスター。相模一将と言ったら、期待のノーベル賞候補者の一人ですよ? 物理学会の先駆者と名高いですし、なんでも、量子力学の矛盾を解明したらしいです。そんな有名人さんが、一市民に手紙を送りますかね?」
そうだね、と軽く相槌を打って、僕はカウンターの席に座る。
カウンターに肘をついて、僕をみつめる京香。
僕は軽く笑いかけ、目を閉じる。
「おそらく、彼女___桐花さんが猫なのでしょう。だとしたら、『箱』、とは?」
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桐花____佐上桐花は、暗い夜道を歩いていた。
長い髪の毛が、風に揺られてふわりとなびく。煌々と辺りを照らす電灯で、地面に影が落ちる。
________尾行られている。
彼女は、ちらちらと後ろを気にしながら歩みを早める。
勘違いではない。喫茶店を出た後図書館に寄ったのだが、そこから出てきてから今に至るまで、誰かが後をつけている。
回り道をしても、人混みに紛れても、何かが距離を保ち、ついてまわってきている。
焦燥感が彼女を包み、足を速めさせる。
後、あと2つ角を曲がれば自宅のマンションがある。そこまで行けば、
あと、
あとすこし。
無意識のうちに駆け出す。
後ろの足音が、切って走る風の音でかき消される。
ひゅうひゅうと耳を突く音が不気味さを加速させる。
マンションが見える。あの3階の自室がゴールだ。
ハイヒールを履いていないのがせめてもの救いか、と彼女は頭の片隅で考える。
それが、彼女の最後の思考となった。
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「これが、彼女の《記憶》です」
桐花さんが何者かに襲われて救急搬送された、との一報を受けてから丸一日。店を閉めた後に僕は、カウンターの上に青い宝石を音もなく置く。
青い宝石は部屋の照明を受けてキラキラと光る。その中心、透明な宝石の真ん中には、何やら実験室のようなものがうっすらと浮かび上がっている。
「彼女は今昏睡状態。面会謝絶で集中治療を受けています。頭部を強く殴られたらしく、犯人はまだ見つかっていません。この結晶は彼女が、病院に運び込まれた時に握りしめていたものです」
「どうしてそんな物をマスターが持ってるんですか?」
オレンジジュースをストローで飲む京香の疑問に、僕は微笑みを返事の代わりとする。
「まあ、僕にも色々と伝手があるのです。彼女が目覚める前に、この謎を解き明かしてしまいましょう」
「謎って?」
「まず一つ目。『箱の中の猫は誰?』の文言を送りつけたのは誰なのか、その意図はなんなのか。二つ目、桐花さんを殴りつけたのは誰なのか。動機はなんなのか」
「......それが全部、この記憶の結晶でわかるんですか?」
「さあ。でも、僕らはそれを推理しないといけない。僕と関わったことで結晶化する記憶は、その人にとって本当に大事な記憶です。必ず、この事件のヒントが隠されている」
そう一旦区切り、オレンジジュースを美味しそうに飲む京香へと視線を向ける。
「僕は、ただ傍観することしかできない。それは貴女も一緒だ。記憶を曲げることは、その人の今を捻じ曲げてしまうから。でも、貴女はその点においては最適な傍観者だ。記憶の世界で、何が中核を担うのかを見抜く素質が貴女にはある。だから......」
「だから、一緒について来てくれ、と? 全くマスターは。こんなに長い付き合いなのに、まだ私の考えがわからないのですか?」
オレンジジュースを飲み干し、にやりと笑う京香。
「移りゆく世の傍観者の役を古来より担う、羅胤家。その42代目として、望むところです。桐花さんの記憶の旅、地の果てまでお供します」
彼女は僕の手を握る。
僕はゆっくり頷き返し、青い宝石の上にもう片方の手を重ねる。
「さあ、謎解きの時間です」




