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北でも南でも、東でも西でもないところに、海に突き出た岬があった。岬の先端、ひょろひょろと立つ古い灯台には、一人の少女が住んでいる。名前はモーリ。髪は海風に晒されて、いつもぱさぱさだ。

モーリを訪ねて、時々男の人魚が岬を訪れる。名前はメメン。黒髪に海の瞳をしている。鱗は森の色だった。

二人は一緒に鬼ごっこや、かくれんぼや、棒倒しや、連想ゲームを楽しんだ。そしてもちろん、時折喧嘩もした。モーリとメメンは友達だった。


 ざあんざあんと、波が海の歌を歌っている。倒れた大木に腰かけて、メメンはそれを難しい顔で眺めていた。隣に座るモーリは膝の上で貝殻を選り分けるのに夢中だ。

 モーリ、とメメンが言った。両手に握った貝を交互に眺めながら、なあに?とモーリが答えた。返事をしながら、桃色の貝とミルク色の貝と、一体どちらが珍しいかしら、とモーリは考えた。作りかけの足飾りは完成が近い。森のように様々な色を宿すメメンの鱗に、映えるのはどちらだろう。深い色に時折きらりと光を宿す彼の鱗がモーリは好きだった。思索に更ける少女を見下ろして、なあモーリ、とメメンがもう一度名前を呼んだ。

「今日はそろそろ帰った方がいい」

「どうしてよ?」

 水を差されてむっとした声でモーリが言った。視線は手のひらに落としたまま。あと一つ繫げば完成だ。大きさで言えばミルク色の方がちょうどいいかもしれない。

「時化がくる」

「しけ?」

 手の中の貝殻を握り込んでモーリが顔を上げた。こちらを見上げる小さな瞳に、メメンが小さく肩をすくめる。

「夜の間にざっと荒れる。外に出してるもんを仕舞って、さっさと寝てしまった方がいい」

 語るメメンの声は真面目で、それ故になんだか白けてしまって、モーリは渋々膝の上の貝殻を砂浜に払い落とした。波に濡れた細かな砂に、貝殻がぼすりとくぐもった音を立てた。それが如何にもいじけて聞こえて、モーリはむっつりと唇を結んだ。

「分かった。じゃあね」

「おう」

 落とされた小さな声にメメンが優しく苦笑する。

「また明日選べばいいだろ」

「何よ。分かってるわよ。わたし何も言ってないでしょ」

明日じゃなくて今日やりたいのだ。どうしてそれが分からないのだろう、と頬を膨らませて、でも説明するのも癪で、モーリはくるりと踵を返した。明日な、と言うメメンの声が背中を追いかけてきて、けれどモーリはそれを無視した。

 細い道は石が転がり時折うねり、決して走りやすい道ではない。しかしモーリはここを駆けるのが好きだった。

山羊が岩場を駆けるような軽やかさで、小さな脚が小路を俊敏に上がる。ざあんざあん、と遠く後ろで海の音がしていた。ふと振り向いてみた海岸にはもう誰もいなかった。顔を顰めて、モーリは残りの道を駆け昇った。


 小さなキッチンで小さな器で、モーリは冷たいスープを飲んだ。月曜は魚のスープと決まっている。本当はモーリはその味付けがあまり好きではないのだけれど、決まりは決まりだった。

「好き嫌いをしていると大きくなれませんよ」

 スプーンを置いて、モーリは前に読んだ絵本に出てきた母親の口真似をした。キッチンの壁にモーリの声が反射してあちこちに響く。普段なら面白く思うはずのそれがどこか薄っぺらく聞こえて、モーリは慌てて食器を流しへ投げ出した。毎日見て見慣れたはずの、タイルの青い水玉模様が、まるで目のようにモーリを見つめている。

格子状の窓からは外が見える。空には雨雲が分厚く垂れ込めている。海はすっかり灰色だった。羽目殺しの窓ガラスを風が揺らした。ガタガタ、と窓枠が震える。まるで世界全てが寄ってたかってモーリを脅かそうとしているような気がして、無性に腹が立って、モーリは歯を剥き出した。風が何さ、時化が何さ。

「私なんてもうずっと、ずうっと昔からここに住んでるんだからね」

 ふん、と鼻を鳴らしてモーリはカーテンを勢いよく閉めた。くすんだ黄色のカーテンが、その扱いに抗議するようにゆらゆらと揺れた。


 寝室は二階だ。灯台は実際見かけよりも随分小さく、一階のキッチンと三階のランプ室を除けば、眠るスペースが確保出来るのは二階しかない。もちろん、だからと言って仕方なく住んでいる訳ではなく、モーリはこの灯台をちゃんと気に入って住んでいたし、寝室はその中でも一番のお気に入りだ。

 絨毯は一年を通して長い毛のふわふわしたものだ。窓の横には小さなベッド、中央に白い丸テーブル。扉を閉めるなり履いていた靴を蹴飛ばして、モーリは絨毯の毛を足の指でぐしゃぐしゃと掴んだ。肌をそよそよと撫でる柔らかな感触にくすくすと笑う。

 笑ってしまえばなんだか気が晴れて、モーリはさっさとベッドに入ってしまうことにした。外は依然風が吹き荒んでいる。おやすみなさい、と呟いて毛布を被る。窓の傍に伸びた木の枝が揺れて小さくカタカタ鳴った。


 ふと、目が覚めたのは真夜中だった。

 寝ぼけ眼をこすりながらモーリは首をもたげた。一度眠ってしまえば朝まで目覚めないことがほとんどなのに、珍しいこともあるものだ、とモーリは自分で自分を不思議に思った。

 見えた窓の外には、黒い夜空を背景に灰色の静寂がさえざえと広がっている。そこで初めて、モーリは外がひどく静かであることに気が付いた。月明かりが砂浜や岩盤を照らしている。今日は満月のようだった。木々が地面に尖った影を伸ばしている。時化の予兆は何処にもなく、メメンの嘘つき、とモーリは布団の中でちいさく口を尖らせた。

 ふと、何か動く影を目にした気がして、モーリはベッドの上にぐいと体を起こした。灯台の建つ狭い岬から海へ、ひょろひょろと道が続いている。そこにどろりとした黒いものがあった。

 なんだろう、あれは。

 どろどろとした黒い塊が細い道の上にあった。大きさは小型の岩ほどだろうか。泥のような光沢が月光にぬらぬらとしている。のろり、のろり、とじわじわ道を登る影がじろりと、こちらを見た、ような気がした。

 知らないうちに跳ね上がった自分の肩に自分で驚く。咄嗟にベッドの上に立ち上がると踵がぼすりと布団に埋まった。

 あれは悪いものだ、とモーリは思った。悪いもの、怖いもの、いけないもの。

何処かに隠れなくては。

ベッドから飛び降りて、モーリは部屋のドアに飛びついた。ばたん、と大きな音をたてて扉が閉じる。廊下は暗い。

木の床を素足のまま走る。ひんやりと冷気が足をのぼった気がしてふるりと体が震えた。

 廊下の端にある階段を勢いよく駆け上がり、モーリはランプ室に飛び込んだ。周囲をぐるりと窓ガラスが取り囲む円形の3階は、岬とその先に広がる海がよく見える。見慣れたはずの光景に、モーリは何故かぞっとした。漆黒にうねる海面は、昼間と同じものとは到底思えない。

 中央の巨大なランプによじ登り、天井とランプの隙間にモーリはその小さな体を潜めた。ぺたりとランプに付けた両手からひんやりとした感覚が伝わる。

 きっとあれは海から登って来たのだろう。

 とりあえず姿勢を落ち着けたところで、思考は自然にあの影のことへと流れた。危なっかしくぐらぐら揺れていた黒の塊。つつけばぐずぐずと崩れそうだった。ランプの上からでは窓の外がうまく見えず、モーリは内心で歯噛みした。

 きっとあの影は一歩一歩、道を登っている。どろんとした体はじわじわと水が浸水するように先へ進み、影が進んだ後の地面はじっとりと黒ずんでいる。幅が大きく狭まった部分で、無理やりぐいと体を押せば、両脇の砂がぱらぱらと削られて落ちる。黒い夜空にぽかりと浮いた月の光を受けて背中が場違いにきらきらと光る。

 きっと悪いものを持ってきたのだ。この世のすべての悪いもの。海の向こうからこの場所まで。空腹や、ケンカや、嫌な音を鳴らす機械や、そういうもの全ての化身。

 目を見開いてモーリは部屋の隅の暗がりをじっと見つめた。影はきっと道を上がるうちにこの灯台に気が付く。あれはなんだろう、と影は思うだろうか。いや、きっとそんな思考力なんてないのだ。だってあれは悪いもの。目に入ったものを、目があるかは分からないけれど、とにかく気が付いたもの全てに取りつくに決まっている。そう思ってモーリはぞっとした。大事な自分の家を汚される訳にはいかない。

 灯台のドアに影はどすんとぶつかる。最初の一回ではドアは開かない。何回もぶつかって、ようやく開いたドアにどろどろした体を捻じ込む。ドア枠に体がこすれて、ところどころ黒く汚れる。汚れは滲みみたいにじわりと広がる。ああ、お気に入りのドアなのに、と思ってモーリは手のひらを握りしめる。

 急に広くなった空間に、少しの間、影は不思議そうに動きを止める。やがてのろのろと部屋を一周する。置いてある椅子や、鉢植えは影に倒されて割れてしまう。やがて階段を見つけた影は床を進むよりもっとのろい動きで一段目に足をかける。階段はぎしぎしと音を立てる。寝室のドアを押し開けて、影は絨毯にぼたぼたと染みを落とす。黄色のベッドカバーは泥でぐちゃぐちゃ。そのまま廊下に出て、廊下を進んで、階段を上って、廊下を進んで、端まで進んで、その先のドアを見て、さあ、今度は、そのドアに……!

 がくん、と首が揺れて、はっとモーリは目を覚ました。

 ずっと体を縮めていたせいで、体のあちこちが軋んでしまったようだった。ランプ室は明るさで満ちていた。ずるりとランプを滑り降りたモーリを春の朝日がまぶしく照らし出した。ぎゅっと眉間に皺を寄せてモーリは外を見下ろした。狭い岬のところどころ茂みや花が揺れている。海は青く日差しを受けてきらきらと輝いている。海まで続く道も、いつも通りの道だった。

 影は、と思って、モーリはふと昨夜の風景を思い出した。

 小道を登る得体の知れない、海から来た、悪い影。

 メメン、と呟いてモーリはその場を駆け出した。


 駆け降りる小道は本当に正真正銘いつものままだった。黒い染みも、削れた様子も、なぎ倒された草もない。モーリのつま先が蹴った小石が勢いよく坂を転がり落ちた。

 そしてメメンもいつものまま、入江で寝そべっているのだった。はあ、はあ、と息を切らして駆け込んだモーリを、紺碧の瞳が不思議そうに見た。

「おはよう、モーリ」

「………」

「どうしたんだ、そんなに急いで」

 靴は、と言う彼の言葉にふと見下ろせば、素足のまま駆けてきてしまったらしかった。再び顔を上げてぽかんとメメンを見て、やっとモーリは痛む喉に思いきり顔を顰めた。

「知らない」

「知らないって、」

「知らないったら知らない!」

 むかむかと湧き上がった激情に任せてモーリは叫んだ。小さな足を踏み鳴らせば、砂に小さな跡がいくつもざんざんと残った。

「メメンの嘘つき!ばか!もう!なんなのよ!もう!」

 なんだか無性に泣いてしまいたくて、けれどそれも悔しくて猛烈につんとする鼻奥を無視して、飛び跳ねながらモーリはぶんぶんと両腕を振り回した。

「もう、知らないったら、もう」

 涙声のモーリをじっと見つめて、やがてメメンは頬杖をついた。なんだか余裕ぶったみたいな、意味深な視線に腹が立ってモーリは彼を睨み付けた。

「なによ」

「何も?」

「なによううう」

 うーと唸ってどすんどすんと跳ねるモーリに、メメンが軽く肩をすくめた。ざあんざあんと背後ですっかり穏やかな春の波の音がする。

「何があったか知らないが、好きにしたら」

「ううううう!」

「話したければ、その後話せよ」

 それでモーリはその日の午前中ずっと、思う存分癇癪を起したのだった。


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