あのときのはなし
北でも南でも、東でも西でもないところに、海に突き出た岬があった。岬の先端、ひょろひょろと立つ古い灯台には、一人の少女が住んでいる。名前はモーリ。髪は海風に晒されて、いつもぱさぱさだ。
モーリを訪ねて、時々男の人魚が岬を訪れる。名前はメメン。黒髪に海の瞳をしている。鱗は森の色だった。
二人は一緒に春の花、夏の海、秋の森、そして冬の夜を楽しんだ。そしてもちろん、時折喧嘩もした。モーリとメメンは友達だった。
春の雨が降っている。さあさあと海に降る雨の音は、しかし風の音に負けてしまって、耳を澄まさなければ到底聞こえない。
強くなったり弱くなったり、癖のある潮風がまた唐突に強く吹いた。モーリの差す傘の柄がゆん、とたわむ。四方八方へ髪をなぶる風をものともせず、モーリは首を傾けて一心に雨の音を聞いている。
「そろそろ帰ろう」
ふいに思いついたようにメメンが言った。岩の上に並んで腰かけた二人の足のいくぶんか下で、海がぐろぐろとうねっている。少しずつ夜が近づいていた。
「もう?」
不満気にモーリが言った。小さな唇が尖る。
「もう、だ」
黒いくせっ毛を雨に濡らして、おごそかにメメンが頷いた。
「じゃあ、最後におはなしをしてよ」
「なんの?」
「あの時の」
「あの時?」
「ごまかさないで。あの時ったらあの時よ!」
焦れたモーリがばたばたと足を揺らした。すっかり濡れて濃い色になった臙脂の靴が雨の帷を束の間切り裂く。
「分かった、分かった」
腕を組んだメメンがごろりと岩に寝そべった。降ろしていた足をいそいそと引き上げて、モーリが黒髪を見下ろす。ちらりと海色の目が傍らの少女を見る。わくわくと乗り出された小さな体に、諦めたように目を閉じて、メメンがようやく口を開いた。
「あれは夏のことだった」
「暑い日ね」
「そう、とても暑い日だった。海の中まで気温が上がるような気がした。これは滅多にないことだぞ、とメメンは思った。きっと何かが起こるぞ。見たこともないものが来るぞ、と」
「来たのね?」
膝をぎゅっと抱えて、嬉しそうにモーリが言った。
「ああ、来た。今まで見たことないものだ」
「それは何?」
「女の子さ」
「女の子!」
真面目な顔でメメンが言うのに合わせて、モーリがきききっと歯をむき出して笑った。
「そう、女の子」
「茶色の髪のね」
「ああ」
「黒い目で、ワンピースを着てるの」
「ああ、そのとおり」
小さく頷いてメメンは欠伸をした。
「女の子はワンピースを着ていた。ずだ袋みたいな奇妙な形だ」
「だってずだ袋だったんだもの」
「でも俺はそんなこと知らない」
「そうね。なら仕方ないわね」
「そうさ」
頷いて、そこでメメンは初めて気が付いたように顰めた顔を上げた。
「おい。あんまり邪魔をするんなら、この続きはモーリに喋ってもらうぞ」
「私に?」
「そうさ」
「いいわよ」
きょとん、と瞬いたのも束の間、モーリは快活に返事をした。傘の下、風に暴れる髪をかき上げて、少女は楽しそうに口を開く。
「その女の子はメメンに言うの。こんにちは、いい天気ね!なのにメメンは返事もしない」
「なにしろ初めて会った女の子だから」
呆れた声音でメメンが呟いた。そうね、なら仕方ないわね、とモーリが優しく頷いた。
「失礼なんじゃない?って女の子が言って、メメンは慌てて、こんにちは、って答えます。ここに住むのよ、と私が言って、メメンが、それは素敵だ、って言いました」
ゆらゆらと前後に体を揺らして、モーリが楽しげに話を続ける。メメンは目を閉じてそれを聞いている。雨は少しずつ強まっている。
「お隣さんですか、と私は聞きました。メメンは、そうなるかな、と言いました。仲良く出来るかしら、って私が言って、メメンが、そうなるといいな、と言いました」
「ああ」
「そして私たちは手始めにご飯を一緒に食べました。メメンのお魚はとても美味しかったです」
傘を揺らしてモーリが笑う。メメンの首がこくり、と動いた。
「そして、二人はほんとうに仲良くすることになりました。めでたし、めでたし!」
高らかに終わりを宣言して、小さな指が空を指さした。メメンは俯いて黙っている。
「ねえ、聞いてるの?」
訝しげな声を上げたモーリの傍らで、いつの間にかメメンは眠っていた。頬杖の上で、黒髪が危なっかしくゆら、ゆら、と揺れている。モーリは驚いてそれを見つめた。やがて、ふふ、と楽しそうな笑みを漏らした。
いつの間にか傘を叩く雨音は風にかき消されない程に育っていた。びしょ濡れになった靴を見下ろして、今さらモーリは小さく顔をしかめた。
「おやすみなさい」
すっかり眠り込んでいるメメンに声をかける。額に貼り付いた髪をそっと戻してやってから、モーリは立ち上がった。
小さな靴が水たまりを踏んでぱしゃりと音を立てた。やがて、灯台までの細い道を小さな赤い傘が登って行った。