起
梅雨でもないのによく雨が降る。
その日も朝から激しい雨が降り続いていた。
べとりと体にまとわりつくシャツが自らの汗によるものなのか、それとも前も見えないほどの霧雨のせいなのか朝宮誠は判断がつかなかった。
もっともどちらにせよ不快なことには変わりはないのだが。
しかし本当に不快なのはそんなことではない。最近は胸糞悪くなるようなヤマばかり聞く。朝宮が刑事になったばかりの頃はそんなことはなかったはずだ。
やれ"中学生が母親を刺殺した"だの"高校生がクラスメートをリンチの上、殺害"だのろくな話がない。
この間も緊急の出動がかかって現場に駆けつければガイシャはまだ生後間もない女の子だった。
まったく胸糞悪い。
おまけにガキの犯した事件は責任能力すら問えないことも多い。
だれがこんな世の中にしたんだろうか。
朝宮は口から煙を吐き出すと手にした煙草をグラウンドに向かって放り投げた。
私立清霜高等学校。
ここが今回の事件現場だった。
極めつけの胸糞悪さ。
事件は1週間前の終業式に起こった。
式のために全校生徒と教員たちが体育館に集まったところ、2年C組の生徒と担任だけがひとりも来ていなかった。
不審に思った学年主任の青井信二が教室まで様子を窺いに行くとそこはすでに全てが終わったあと。
惨劇の場と化していたという。
血溜まりの中にひとりたたずむ少女。
青井が小さく悲鳴を上げると少女は振り向き微かに笑ったらしい。
"女子高生クラスメート全員皆殺し"
このセンセーショナルな謳い文句はワイドショーの話題を独占中だ。
週が明けて発売された週刊誌もやはり面白おかしく事件のことを書き立てた。
まったく、本当に胸糞悪い。
世の中どうかしている。
「あの、刑事さん。お煙草はご遠慮頂いても宜しいでしょうか。一応、生徒もいるものですから」
おそるおそる女性教諭が声をかけてくる。まだ若い。幼さが顔にも残っている。
「ご、ごめんなさいっ」
少し観察していたら睨まれたと思ったのだろうか女性教諭は足早に校舎の中へ駆け去った。まったく何だってんだ。
「はは、朝宮さんは顔が怖すぎるんですよ。相棒のぼくでも夜に会うとビビりますから」
「うるせえな」
葦月秀一。
朝宮より7つ若い25歳。
だが高卒の自分と違って葦月はキャリアだ。階級は巡査部長の自分よりひとつ上の警部補。本来なら敬語を使わなければならない相手。
もっとも朝宮にそんなことを気にするような配慮はさらさらない。
俺より後に入ってきたんだから後輩は後輩だ。敬意をはらってもらいたいならまずは実績を挙げてみろ。
口には出さないが朝宮のキャリアに対する風当たりの強さを感じ取っている人間は署内にも多い。
葦月もその当たりは心得ている。
意外と勘は悪くない。
それにそうでなくては検挙率ナンバーワンの自分の相棒など務まらない。
まあこと今回の事件に関しては始めからホシは割れているのだが。
現行犯逮捕。
本当にどうかしている。
「で、何か新しい証言は引き出せたのか?」
「いえ、これで1週間。もうここで集められることはないでしょう。捜査は完全に行き詰まりましたね」
「わかったふうな口聞くんじゃねーよ」
舌打ちをすると朝宮は煙草に火を点けた。どうもこのところタバコも酒も不味くてかなわない。
だったらやめればいいものを、それでも手放せない自分に余計に苛つく。
「また怒られますよ。校内は禁煙です」
「ちっ、そうだったな」
点けたばかりの煙草を靴の裏で揉み消すと再びグラウンドに放り捨てた。
朝宮の苛つきの原因はこの事件の不可解さにある。
終業式の日に2年C組の女生徒がクラスメートと担任を殺害。通報を受けて駆けつけた警官に特に抵抗を示すこともなくその場で逮捕。
至って明白な事件である。
にも関わらずこの事件にはふたつの不可解な点があった。
第一点。
凶器なき殺人。
生徒たちは鋭い刃物のようなものでズタズタに切り裂かれて即死、担任の教諭は刃物による傷もあったものの、直接の死因は鈍器で殴られたことによる頭蓋骨の損傷。
刃物と鈍器。
少なくともこの事件にはふたつの凶器が使用されている。
だが今日に至るまで凶器は校舎のどこからも発見されてはいなかった。
近隣の捜索も続けられているがこれといった物証が挙がったという報告はない。
だいいちほぼ現行犯で逮捕されているのだ。凶器を隠すような時間がどこにあったというのか。
第二点。
動機。
事件の加害者、少女Aこと蓮見リリは物静かで人付き合いを得意とするタイプではなかったがだからといって決していじめられていたという訳でもなかったし、特に不登校であったり非行に走っていたわけでもなかった。
つまり学校生活での問題が彼女にこの事件を引き起こさせたとは考えづらいのだ。
蓮見は今に至るまで犯行の動機を一切語ってはいない。
いったい何が少女をクラス全員皆殺しなどという狂気に駆り立てたのか。
推測の糸口すら見つかってはいなかった。
「おい帰るぞ、葦月。運転!」
端から見れば顰蹙ものだ。
上下関係は絶対の警察組織に置いて上司に車を運転させるなどもっての他だ。
それもこれも全部この事件のせいだ。
何で俺がこんな吐き気のするような事件を担当しなくちゃいけないんだ。
ふざけやがって。
署につくと荒っぽく鞄をデスクに投げ捨て、ジャケットに着いたしずくを払う。
ぱらぱらと水滴が落ちると事務の中年女が嫌そうに眉をしかめた。
何だよ、文句があるなら言えよ。
「コーヒー」
「もう、自分でやってくださいよ。今時こういうのパワハラになりますからね」
若い署員が苦笑しながらそれでもコーヒーを持ってくる。濃いめの化粧に綺麗に整えられたネイル。
ゆとりが。刑事舐めてんのか。
パワハラ?
俺に意見するなんて百年早いんだよ、ブス。
「おう、調度良かった、朝宮君。証言取れたぞ、事件は終わりだ」
課長が慌ただしく調書を持ってきた。
だがどこか浮かない表情だ。
「まったく酷いもんだよ。これじゃ精神鑑定は間違いないね。世間じゃ少年法がどうとかそんな話題で持ちきりだけどこんなヤツ、どうやって裁くわけ?」
「見せてください」
普段からぼやきが多い課長だが聞き捨てならない言葉があった。
精神鑑定?
おいおい、また責任能力の話かよ。
「なんだよ、こりゃ」
蓮見の証言はおよそ常識の範疇を超えていた。
"担任の吉岡先生は悪魔でした。私はそれに気づきながらあの日まで彼を処理することができずにいました。彼が巧妙だったからです。決してひとりにならず、隙を見せない。人間と同じような知性と行動パターンを有していました。そして運命の日は訪れてしまった。彼は終業式の日、その本性を現しました。まさか表だって事を起こすとは思っていなかった私の判断ミスでしかありません。彼の狙いは私ひとりでした。巻き込んでしまったみんなには申し訳なかったとしか言いようがありませんが。私にはあの場で処理に当たるしかもはや方法はありませんでした。悪魔を処理したのです。魔法少女として"
「イカれてやがる」
「まったくだ。いずれにせよ彼女は保護観察下に入る。事件は終わったんだよ、朝宮君」
冗談じゃないぞ。
朝宮は壁を思いきり殴り付けた。
暴いてやる。
ガキだからって容赦はしない。
大人をバカにしやがって。
何を隠しているのか洗いざらい吐かせてやる。
「この調書お借りします」
「ちょっと朝宮君!」
課長がうろたえていたが構いはしない。
このまま絶対に終わらせるか。