優しくてひどい人
その人は優しい人だと思う。
優しくて優しくて、とてもひどい人。
「これ、吉岡くんに届けてくれない?」
日直日誌を渡しに職員室を訪れたわたしに、妙子先生はついでの頼み事をした。わたしは苦い顔をした。
「そんな顔しないの。日直なんだからよろしくね」
そうやって押しつけられたプリント。こないだの英語の中間テストだった。げ、満点。ありえない。そこそこ勉強してるわたしだって、ぎりぎり8割しか取れなかったのに。ちなみに学年平均は4割っていうんだからもっとありえない。
「……はーい」
わたしは渋々日直日誌の代わりに英語の中間テストを受け取って、職員室を出た。
わたしがこんなに嫌な顔をする理由を、きっと妙子先生は知らない。
きっと、せっかくのテスト明けの放課後に頼み事をされて嫌なのだろうくらいにしか思ってない。それで良いけど、それで良くないのは妙子先生には言わないでおく。
わたしは教室に戻る前に、吉岡を探した。どうせ教室にはいない。だって、わたしが日直日誌を届けるために教室を出た時には人っ子一人教室にいなかった。
……一応、わたしの名誉のために明記しておくけれど、わたしに友達がいないわけではない。いることにはいる。宮原麻里奈という非常に非情な友達が。麻里奈は怒涛のテスト期間をくぐり抜け、入学以来一つの赤点なしにテストをクリアしたということで、ロマンティック恋の花咲く浮かれモードで意気揚々と片桐さんという社会人の彼氏とデートに向かった。
なお、麻里奈が一つの赤点なしにデートに向かえたのは、麻里奈が新作のコスメがどうこうとか最近渋谷で流行っているのはパンケーキだとか何とかという雑念と誘惑に負けず、一心不乱に勉強した、というわけではなくて、ほとんど朝夕問わずつきっきりで勉強を教えて、ここだけとれば赤点回避できるという重点をこれでもかというくらい教え込んだわたしの手柄だと思う。
そんなわたしは麻里奈から、
「ごめん、本当ありがとう!これでママも携帯止めないでくれるから!!本当感謝!本当莉央大好きー!!あっ、大輔の次にだけどね!」
という言葉とスマイルだけ頂いた。スマイル0円なり。片桐さんの次に、と言ってる時点で麻里奈の中のわたしがどんな地位を占めているのかおわかりいただけたと思う。今度、絶対フェリシアのガトーショコラ(税抜840円)おごってもらう。絶対にだ!
まぁ、そんな非情な友達はさておき、わたしは吉岡を探しに校内を探した。
ここまですることないんじゃないって思うし、教室戻って吉岡の机にテスト入れておけばそれで済む話なんだろうけど、まぁ、何となく。
それに、吉岡の居場所に検討はついていたし。
吉岡というのは、わたしのクラスメイト。吉岡葵って名前。実に女の子みたいな名前だなって思うけど、葵なんて名前は中性的な名前だからまぁありっちゃありの名前なんだろう。
吉岡葵は学年一の頭脳を誇る我が校期待の学生である、と言えば聞こえは良いし実際そうだと思う。悔しいけど。わたしもそこそこ頭は良い方だ。学年で一桁くらいに入るくらいには。けれども、吉岡ほど頭は良くないのは事実。
吉岡葵を語る上で重要な要素の一つが、学年一頭が良いことである。けれども、きっとさらに重要な要素はー。
北校舎裏を歩いていたわたしの耳に届いたのは女子生徒の声だった。
「吉岡先輩、わたし、あなたのことが好きです!!もし良かったら、付き合ってください!!」
(おーおー、告白ですか。また、わたしときたら何てタイミングで出くわしちゃったのか)
吉岡葵を語る要素の一つ。
それは、この男がとてもモテるということ。それはそれはおモテになられる。上級生同級生下級生、あらゆる女子からモテるのです。
わたしは吉岡とその女子生徒から見えないように隠れた。何か、家政婦になった気分。もしかしたら探偵なのかもしれないけれども。
見えないように、わたしはその姿を覗いた。別にゴシップネタが大好物ってわけじゃないけれど、こういうのが目の前で起きたらやっぱり見ちゃうでしょう。人間の性って奴だ。
(うわっ、可愛い子だなぁ。たぶん1年の佐久間千春さんだったかなぁ。派手な子じゃないけど可愛いって一部で話題だった気がする)
可愛い子の話っていうのは、高校ではそれはもうすぐに広まるネタの一つで、そのスピードは誰と誰がどこで不純異性交遊をしたかということや誰が不倫してるとか、そういういかにもゴシップと同じくらいのスピードで広まっていて、その話題にいなかったわたしでも何となく聞き覚えがあった。
確か佐久間さんには好きな人がいるとか何とか聞いた気がするんだけどなぁ。それが吉岡だったのかな。
そんなこと考えながら観察してたら、佐久間さんの正面にいる吉岡と目が合った、気がする。まずい。やっぱりタイミング間違えた。
ほとぼりが冷めた頃にまた訪ねよう、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られるって言うし。そう思って左足を一歩引いたのだが。
「莉央!」
げ、まさかのお呼びだし。ありえない。告白されてるっていうのに、他の女の名前を呼ぶか普通?ありえない。
吉岡の声に佐久間さんが振り向いた。吉岡だけならまだしも、佐久間さんに存在を確認された。逃げられない。きっと、まな板の鯉ってこういうことなんだと思う。そのことわざの意味を知ってはいても、まさかここで実体験するとは。できればそんな体験したくなかったけれど。
わたしは仕方なく吉岡の方へ向かった。これは確実にお呼びだし。もうご指名入ってしまった。佐久間さんの視線が痛い。もし視線が三次元化するんだったら、確実にわたしは今イガグリになってスプラッタなことになっている。想像するだけで痛いし、実際問題痛い。
吉岡に近づくと、腰に手が回って抱き寄せられる。手慣れすぎだと思う。そして、佐久間さんに見せつけるように、吉岡はわたしにキスをした。本当にありえない。突然のことにわたしは一瞬目を見開いてしまったけれど、それをおくびにも出さないように務めた。うっすら見えた佐久間さんの可愛い顔は、悲しみと驚きで歪んでいた。
わたしから唇を離した吉岡はにやりと笑った。
「……ま、そういうことだから」
今にも涙が溢れそうな顔で、佐久間さんはどこかへ走り出してしまった。佐久間さんの恋、ここに散る。きっと後で目が腫れてその可愛らしい奥二重が一重になって、チャームポイントの左目の泣きぼくろが文字通り涙の通り道になるんだろうな。
佐久間さんが失恋したのを見届けると、吉岡とわたしは互いのパーソナルスペースから離れた。
「お前、もっと上手く演技しろよ。何目ェ見開いてんだよ」
「……前よりは上達してると思いますー。そんなすぐ女優になんてなれません」
「良い加減演技派女優になれよ。この個性派女優、大根役者」
「それはちょっと無理ですね。ていうか、人使って告白断るとか最低の所業をしてる人に言われたかない」
そう。別にキスをする間柄だからと言って、わたしと吉岡は彼氏彼女の関係でも何でもない。ただのクラスメイト。けれど、クラスメイトよりはきっと深い関係なんだろうと思う。
端的に言えば、吉岡の体の良い告白除けという関係。
吉岡はこの通り大変モテる。確かに、いわゆる知的イケメン。吉岡にかかれば総メタルフレームの非オシャレアイテムでさえ、何か素敵に見えてしまうから驚き。ついでに言えば、人当たりも良い。誰にだって優しいしフレンドリーだから、大変モテる。毎週毎週告白されるレベル。
そんな大変モテる吉岡だけれど、大変性格が歪んでおられる。そんなに選り取り見取りなんだから、一人くらい付き合えば良いと思うのに、特定の人間と交際する予定はないらしい。かと言って、毎回毎回断るのも忍びない。好きな人がいるって言っても、諦めてくれない。付き合っている人がいると言っても、諦めてくれない。ほとほと困っていたある日の告白で、タイミングが悪いことに定評のあるわたしが通りかかってしまい、吉岡の体の良い告白除けの人身御供にされてしまったのであります。この時から、同じ相手に何度も告白されるということはなくなったらしく、それに味を占めた吉岡は、それからと言うもの、わたしは吉岡が告白される度に呼び出しを食らっていて、この始末。
「大体おせーんだよ、お前。もっと前にメールしただろうが。何やってんだよ」
「は?メール?」
わたしは携帯を開く。校内携帯使用禁止という校則を律儀に守っているので、気づかなかったが、メールが着てた。
『北校舎裏』
漢字四文字。愛想もへったくれもないメール。もうちょっと、依頼しているなら依頼しているなりのメールをいただきたいものである。
「……入ってた」
「だろ?」
「けど、わたし今日日直だったし。この時間、妙子先生に日誌渡しに職員室行ってたから」
「は?妙子?お前何でそんな大事なこと伝えねぇんだよ!!」
出た、妙子先生。
吉岡がすごくモテるのに、特定の人と付き合わない理由。
それは、吉岡の好きな人が副担任の妙子先生だから。
わたしがそれに気づいたのは新しいクラスも慣れてきた5月のこと。いつも誰にだって優しく接していながら焦点が合わないように見える吉岡の目の焦点が唯一合うように見えたのは、妙子先生を見てる時だった。
きっとそのことを知ってるのはわたしだけ。吉岡の本命の妙子先生も、吉岡の親友の川原くんも、吉岡の彼女とか噂される学年一の美人こと敷島さんもきっと知らない。
わたしだけ。
「先に色々言ってきたのは吉岡の方じゃんよ。妙子先生からお届け物です」
わたしは吉岡に問題の物を差し出した。吉岡がテストに目を通す。心なしか嬉しそうである。
「このテストで満点とか、あんたどういう頭してんの。ほんとありえない」
「んなの、教科書読んで類題解いてりゃできんだろ?」
吉岡の中での類題のレベルはきっと難関国立大学入試レベルだ。やり込み度はわたし以上で違いない。この顔でこのモテ具合でこの頭脳って腹が立つ。
「まぁ、確かにそうだけどさ。妙子先生が喜ぶからでしょ。ほんと愛だね愛」
確かに妙子先生は若くて可愛いし気さくで授業もわかりやすいけど、テストは割と厳しい。
わたしが冷めたように言うと、吉岡の口角が上がった。
「何?妬いてんの?」
「誰が妬くか!というか、良い加減わたしじゃなくて、学年一の美人さんこと敷島さんとか、隣のクラスの中川さんとかに頼みなよ。わたしじゃ彼女役として説得力ないでしょ」
わたしときたら、よく見りゃ可愛いかも程度のルックスで、ランクで言えばC+程度の普通女子だ。取り柄と言えば、少し勉強ができる程度で外見の取り柄は探すのが難しいレベルだ。そんなわたしをよく吉岡は彼女役に採用して、よく告白する女子たちは信じてるもんだ。わたしだったら、わたしレベルの女子なら勝てるかもとか思うだろうに。
その点、敷島さんは吉岡と仲が良いし、強烈とも言える美人オーラを持つ自他ともに認める美人で、モテ女の代名詞的存在だし、隣のクラスの中川さんは敷島さんほど美人じゃないけど「うちの学年で一番可愛い子は?」と聞かれたらすぐに名前が上がるモテ女子だから、そんな2人だったら告白してくる女子たちも諦めるんじゃないかなって思う。
「敷島は気取りすぎだし見かけによらず頭も悪けりゃ口も軽いし面倒だろ。中川は中川で計算高すぎで男を小馬鹿にした態度が気に食わねぇ」
うちの学年が誇る二大モテ女をこうもバッサリ切るのは学校広しと言えど吉岡くらいなもんだ。ていうか、男子からでも結構バレてるもんなんだ。勉強になります。
「それに比べりゃお前の方がマシってことだよ。良かったな、へっぽこ女優」
「全然褒められた気がしないんだけど」
お前の方がマシ、へっぽこ女優。
これのどこが賞賛コメントなんだろう。貶されてる気しかしない。というか、吉岡ギャップ激しすぎる。これ、クラスだったらもうちょっと優しいよ。「お前」とかいう二人称じゃなくて、「牧野さん」って呼ぶし。
「褒めてんだろうが。何ならご褒美のキスでもしてやろうか?」
一瞬で吉岡がわたしの腰を抱き寄せる。勉強できて顔も良くてモテる癖にモテテクもあるとか神様は不平等すぎる。
「いーらーなーいー!わたしまだ日直の仕事残ってるから教室戻るから」
そう言うと、吉岡が舌打ちした。何でここで舌打ち。むしろ、舌打ちしたいのはわたしの方だ。
わたしは吉岡から離れて、踵を返した。早く教室戻って戸締りしないと見回りの先生に怒られる。しかも今日に限って学年主任の野田さんとかついてなさすぎる。
「牧野!」
吉岡がわたしの名前を呼ぶ。わたしはそれに振り返る。
「何?」
ぽん、と何か投げられる。わたしはそれをキャッチする。反射神経は良い方じゃないのに一発でキャッチできたことにちょっと感動する。キャッチしたものは缶コーヒー。
「やる」
「……はぁ、そりゃどうも」
彼女役のお礼が缶コーヒー(130円)とは。随分安い気がするけれど、嫌いじゃないのでわたしは礼を言って、その場から去った。
今日はどうやら野田さんが来る前だったらしくて、ちょっとついてるとか思いながらわたしはカーテンを開けて戸締りをして、下校した。下校途中にさっきもらった缶コーヒーを飲もうとすると、底に四つ折りにした紙がテープで貼ってあった。
「何これ」
まさか恐怖の手紙とか?それとも次の彼女役のスケジュール表とか?そんなんだったら嫌すぎる。
剥がして見てみると、クーポン券。何でクーポン券。缶コーヒーのおまけってわけか。そのクーポン券をよく見ると、フェリシアのケーキセットのクーポン券だった。通常1000円のところを何と600円でご提供します。
「……あいつ、知ってたんだ」
わたしがフェリシアのケーキのファンってこと。わたしがテスト明けにしたいことを麻里奈と話してた時フェリシアのケーキセットが食べたいって言ってたこと。
「ほんと、あいつがモテる理由がわかるわ」
吉岡は口も態度もわたしに優しくないし、わたしを利用してるけど、こういうとこ優しい。
優しくて、優しくて、ひどい。
ねぇ、吉岡。
わたしが嫌だとか何とか言ってもあんたの彼女役なんかやってる理由をあんたは知らないでしょう。
わたしも、吉岡のことが好きなんだよ。
振られてるってわかってわたしは彼女役なんかやってるんだ。あんたの優しさと酷さを利用してるのは、妙子先生でも吉岡に惚れる女子たちでも誰でもない。わたしだ。
日が暮れて暗くなりはじめた空を見ながら飲んだ缶コーヒーは、いつもより苦くて、ほんの少ししょっぱい味がした。