④告白
#14
《ピ、ピピ、ピピピ、ピピピピ、ピピピピピピピピピピ》
窓に降り注ぐ朝日がカーテン越しに俺の体を包み、小うるさい目覚ましの音と共に、決して爽やかでない目覚めをした。
______静寂。
悪夢からの目覚めにしてはヤケに落ち着いている。そのせいで周りの音が良く聞こえるのだが、それでも無音の状態が延々と続いていた。
______この異様な静けさはなんだ。
隣に有る美琴の家で毎朝の様に起こる喧騒も、姉貴のクソうるさい鼾すら聞こえて来ない。車の音も、小鳥の囀りも。風が吹き過ぎる音も、全てが全て、"無"と化していた。
今はもう六時半を過ぎ、時針と分針が丁度重なっている。そろそろ面接の準備をしなければいけない。
起き上がろうとしても、何故か頭が重く、なかなか腰を曲げることが出来ない。せめて布団を退けようと寝返りを打ったが、何時のまにかベッドの隅に移動していたらしく、床に落ちてしまった。
「痛ぁ………」
その衝撃が引き金となったのか、今となっては分からない。頭の中に、起きた途端に忘れてしまった悪夢が駆け巡った。
そうだ。少し考えれば分かる筈なんだ。いや、その時の俺は、分かっていながらも心の何処かで知らないフリをしていたんだろう。
美琴の、決死の告白。また明日に、と逃げてしまった俺。その後、逃げる様に走り帰った美琴。
常識で考えて、男が男に告白をして、はいよろしく、となる筈がないことは美琴も重々承知の上だった筈。それを考えた上で、友達の関係を投げ打ってまで勇気を出して告白してくれたんだ。それを、また明日に、と返してしまった俺は、俺は………。
そして、良い答えを貰えないと確信した美琴は絶望し………。元々自虐心が強い奴だ、次に何をしでかすか、少し考えれば分かる。
______美琴!
その瞬間、部屋のドアを蹴り飛ばしていた。
「な、何っ、どうしたの!」
ドアがぶっ壊れた音で飛び起きた姉貴がひょうきんな声を上げたが、今は無視だ。
当然鍵が開いていない玄関のドアも、有無も言わさず突き破り、隣の美琴家へ向かった。
我が家同様、鍵が掛かっているかと思われた美琴の家のドアは、予想に反してドアノブがスッと回り、挨拶もせずに駆け込んだ。
「あれ、悠ちゃん。突然どうしたの?」
「すいません」
美琴の部屋は二階にある。
五段飛ばしで駆け上がり、遂に部屋の目の前に来た。そして鍵が開いていることを確認し、勢い良く開け放った。
「美琴!」
俺の叫びは虚空に消えた。
天井から吊らさせていた細めの縄はそれの首を無残に締め付け、か細い首を轆轤首の様に伸ばしており、常に真っ白な体が更に白白と染まり、脱力した様にぶら下げられていた。
その浮遊している足元には、そいつが気に入っていたファッション雑誌の束が崩れていて、限りなく無に近い空間に、ただ一つの異物を与えている様に感じた。
肩まで掛かった胡桃色の髪は、縄の所で左右に分かれ、いつもと違ったその姿に、感覚が狂わされた。
そいつは、一糸纏わぬ姿で死んでいた。
「あ、ああ………あああああああ!!」
それが分かった途端、視界が海に溺れた。目からどうしようもなく涙が溢れ、目の前が何も見えなくなった。僅かに見えるのは、血が固まって真っ白に染まった、人の体だけ。
「悠ちゃん、どうした………の______」
後から追いかけて来た美琴の母親もその姿を確認し、膝から崩れ落ちた。
気を失った美琴の母親を除けば、此処にいるのは俺だけ。それが分かって羞恥心が消えたのか、俺はわけも分からず闇雲に叫んでいた。
「俺は、美琴のことが好きだ!大好きだ!何者にも代え難い、大切な、大切な人だ!なんで答えも聞かずに勝手に死ぬんだよ!確かに俺は、お前に答えを言うつもりは無かったのかもしれない。男が男を好きなんて、絶対に許されることじゃあない。でもな美琴、例え言葉に表せなくても、心の奥底じゃ、ずっとお前のことを思っていることだけは、知って欲しかった!本当に、なんで、勝手に、いなくなるんだよーーーーーっ!______」
______警察を呼んだのは、それから一時間後。俺が突き破った玄関のドアの穴に、仮止めとしてテープが幾重にも重ねられた。
当然、今更面接に間に合う筈もなく、何も考えられない俺は、ただボーッと、ベッドの隅で布団を被りながら縮こまっていた。
#15
パトカーのエンジン音が遠ざかり、俺の心にも余裕が出て来た頃。姉貴が、俺が蹴り飛ばしたドアを踏みながら俺の部屋に入って来て、話し掛けて来た。
「な、なあ。元気出せって。ずっとちっさい頃から一緒にいた親友だってのは、私も知っている。でもな、過去を悔やんで、美琴ちゃんが喜んでくれると思うか?それに、元気の無いお前は、お前であってもお前じゃない。ほら、立て。朝食。まだ食べてないだろ」
「………んなこと、言われなくても分かってる」
「ふぅ〜、何時になっても素直になれないな、悠は。じゃあ、リビングで待ってるぞ」
壊れて横倒れになったドアを無理やり取り付けながら、俺の部屋から出て行った。
妙に優しい姉貴がいなくなると、この部屋も、今日の美琴の部屋と同じ様に、静寂に包まれた。
「______そんなこと、言われなくても、分かってるっての………っ」
自分のバカさ加減が悔しくて、憎らしくて、俺は人知れず、膝小僧に瞼を押し当てた。
______数十分後、体内の水分が尽きたのか、漸く涙が止まった。両目が真っ赤に腫れているのを自覚し、自虐心も治まって来たため、俺は姉貴の待つリビングへと向かった。
ドアノブを回してドアを開けたら金具が壊れ、ドアごと前に押し出してしまった。クスリと独り笑いをしてしまったが、ある程度余裕が出て来たと分かり、少しばかり安心した。
「ごめん姉貴、心配かけて______」
姉貴に謝りながらリビングのドアを開けて、最初に飛び込んで来たものは、下半身丸出しでビショビショに濡れたアレと、その下に有るガラスコップだった。ガラスコップにはアレからの汁が注がれていて、半分くらい溜まっている。そしてその周りには、トロトロした液体の水たまりが出来ていた。
「今から市役所行って来る」
「ああああああああ、待ってくれ!愛しの我がオトウトよ!違うんだ、決して悠が思っている様な如何わしいことをしていたわけじゃないんだ!私の元気を体液に変えて、それを悠に飲ませようと______」
下半身丸出しで頬を真っ赤に染めて興奮している姉貴に、全力で止められた。
「すいません。貴方みたいな人間と血が繋がっているなんて思いたくありません。あれ?と言うか貴方、誰ですか?人の家に勝手に上がり込んで。警察を呼びますよ」
「どちらかと言うと、お前の方が上がり込んでる立場だと思うんだけど!………ま、なんにしても。いつも通りに戻ったね、良かった良かった」
「まさか、それを確かめるためにこんなことを………?」
「フッ、当然さ______」
「嘘をつくな」
「自分で聞いたことを即座に否定するとか、流石私の弟だわ」
「いやだから、貴方誰ですか?」
「あ、その設定まだ続いてたんだ」
「設定?なんの事やら」
いつも通りの姉弟の会話。順調順調。もう過去になんて囚われない。美琴が死んだのだって、もう、過去の………。
「………くっ」
また、涙が溢れて来た。割り切った筈なのに、いつも通りに戻った筈なのに。
やっぱり、美琴は、俺の大部分を占めていたんだな。そんな巨大な空白を、誰かが埋めてくれるのか。いや、埋められるのか。
今更、美琴の代わりになれる奴なんて、この世界にはたった一人として居ない。
「大丈夫だ」
いつもうざったいと思っていた姉貴の抱擁は、温もりに満ち溢れている。しかし、出来るならばずっと抱き締めてもらいたい、と微かにも思ってしまい、妙な恥ずかしさが俺を襲った。
姉貴は言葉を続ける。
「美琴ちゃんは、悠にとって家族同然の関係だったんだ。いきなりそれが消えちゃって、数時間で立ち直れるなんて、最初っから思っちゃいなかったさ。でもね、少しずつ、少しずつでもいい。その空白を、私や輪廻君、大勢の友達の温もりに触れて、埋めていってほしい。すぐに、とは絶対に言わない。何年、何十年と架けて頑張れ。それが、姉貴としての私からの言葉だ」
なんて臭い台詞なんだ。聞いているこっちの方が恥ずかしい。
でも、何故だろう。胸の奥深くがじんわりと温まる感覚がある。決して感動したのではない。なんか、少しだけ『空白』が小さくなった気がする。
「ありがとう………誰かさん」
鼻がツンとし、何かが出そうになった。
「まだなんだ。そろそろ止めにしない?」
「よっしゃ、俺、ふっかあああつ!!」
「うおぉ、いきなりどうした!?」
突然元気になった俺に驚いた姉貴は、俺を抱いていた腕を離し、後ろへ倒れ込んだ。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「ん、はーいっ」
姉貴が玄関へ向かう間、チャイムが連続で鳴り続けた。誰だろう。
「あれ、そういや………」
今の姉貴の服装って______
「キャャャャャャア!」
玄関の方から、この世のものとは思えない程の黄色い悲鳴が聞こえた。その悲鳴は耳の中で反響を続け、一瞬、周りの音が全く聞こえなくなった。
その悲鳴の原因を知るために、俺も急いで玄関へと向かった。
完全にアレだろうけど。
「どうし、た………?」
玄関には、客人の指がアレの中に入っており、後ろ姿の姉貴が下半身丸出しで内股になって、アレから透明な液体が噴き出している光景が広がっていた。
「あ、美咲さん。どうしたんですか」
どうやら客人は、美琴の母親だったようだ。
「ああうん、悠ちゃんの面接のことなんだけどね。私、あそこの理事長と面識が有るんだけど、脅し______お仕置きしたら、今日、もう一回、悠ちゃんのために特別に面接をしてくれるって」
「ほ、本当ですか!」
言い直してるのに言い直せてないのは無視して、単純に嬉しかった。リンや他の奴らと違う高校に入っても特に問題は無いけど、やっぱり同じ処に入りたい。それに、姉貴の言葉の事も有るしな。
「今から一時間後、十一時から始めるらしいから、それまでに高校に来いですって」
「分かりました、今すぐ準備します!」
あれ、今、少し違和感が。そうである筈なのにそうでない感覚。普通なのにありえない、そんな違和感が。
………あっ。
「美咲さん」
「ん?どうした、少年」
「なんで、自分の子供が死んだのにそんなのうのうとしてるんですか?」
「______っ」
一瞬、図星を突かれた様に苦虫を噛んだ表情をしたのを、俺は見逃さなかった。
「おい」
「あ、あはは、はは。じゃ、じゃあ、遅刻しないでね。ま、また今度!」
美咲さんは、明らかに不審な行動をとりながら去って行った。
まあ、責め立てるのも良くない。今後じっくりと聞き出していこう。じっくりと、な。
「で、あんたは何やってんだ」
俺の横には、快楽に溺れ、頬に朱が走り目が虚ろな美人が倒れ込んでいた。下半身丸出しで。さらに俺の足元には、リビングにもあった水たまりがまた出来ていた。
「は、はあぁん。美琴ちゃんの、お母様、以外と、テクニシャ、あぁん………♡」
「あんな短時間で何されたんだか。あっ、そろそろ準備しねえと」
#16
美咲さんが不審な態度で去ってから準備をし、すぐに高校へと向かった。少し早く来過ぎた感があったのだが、面接の先生らしき人も既に校門で待っていたため、早くも面接に取り掛かることが出来た。
この高校は新入生候補の量が他を逸しているため、当然、面接の順番が回って来るのが遅くなる筈なのだが、現在十時半において、既に全新入生候補の面接が完了している。開始が早いのもそうだが、面接室へ向かう途中に聞いてみると、全ての先生が駆り出され、一部屋に最高二人が就いているらしい。それだと逆に速過ぎるので、一部屋の生徒数も最高二人なのだそうだ。
因みに俺は理事長オンリー。
他にもこの高校の事を聞いていると、知らぬ間に面接室に到着していた。
俺はラストなので、特別に理事長直々に面接を行ってくれるらしい。それを聞いた途端、冷汗がドッと噴き出して来た。
「すぅ、はあ、すぅ、はあ」
深呼吸深呼吸。大丈夫、心配無い。脅されたとは言え、俺のために特別に面接してくれる人だ。粗相が無ければ問題無い、筈。
いやまてよ、脅されて渋々面接することになって機嫌が悪くなっていると言う可能性も有る。と言うか、そっちの方が明らかに高い。もしそうならば、練習通りやっても、何かにつけてイチャモンを付けて来たり、取り敢えず評価を低くされたりするかも知れない。
ヤバイ、余計に緊張して来た。
「それでは、中で理事長がお待ちです。健闘を祈ります」
そう言って、先生は俺を置いて何処かに行ってしまった。
………理事長がどんな人であろうと、関係無い。今は顧みず、前へ進むのみ。
リンではないが______
「最終決戦だ………!」
俺は強く拳を握り締め、ドアを二度叩いた。
「どうぞ」
中から、全身を均等に押し潰す様な重みの有り、威厳を振動に変えた様な声が返って来た。これだけで、ドアノブに掛けた手を離したくなる。しかし、
『少しずつでもいい。その空白を、私や輪廻君、大勢の友達の温もりに触れて、埋めていってほしい』
姉貴の言葉が頭の中にコダマした。
左胸から、言いようもない力が溢れ出して来る。それは、勇気。確信するまでに時間はかからなかった。
………行こう!
「失礼します」
厳かな態度で入室し、後ろ手でドアを閉めない。胸を張って堂々と、理事長らしき人の前まで歩き、指先をピンと立てて気を付けをする。勿論、踵をくっ付けて。
「受験番号0562、神連悠です。宜しくお願い致します」
理事長に向けて深々と礼をする。45°、完璧だ。
「では、其処に有るイスに座って下さい」
「はい、ありがとうございま______あっ」
顔を上げた瞬間、何かが弾けた気がした。こう、喉の先端から耳の付け根に架けて有る、薄い霧の様なモヤモヤが晴れた様に。
その人に見覚えが有った。
顔は良く覚えてはいないが、その白くて長い髭。まるで、亀仙人の様な………ん?亀仙人?
「えっ?」
その人は驚いた様に目を一瞬見開いた。そしてすぐに元に戻ったが、その代わりに非常に焦っている様な表情が伺えた。
亀仙人………仙人………、エロ仙人?______雑誌?………どんな雑誌?………ピンク?
亀仙人と言う単語から芋づる式に、様々な情報が繋がって出て来た。あと少し、あと少し………しょう………小学生?
______あ。
「あんた、先月会ったロリコンジジイ!」
今が面接だということを忘れて、理事長に向けて指を差してロリコンジジイと叫んでしまった。
「な、な、なんで覚えて______。い、いや、誰のことだ?しかも、わ、わざわざ君のために出向いた儂に向けて指を差すとは。そ、それに、ロリコンジジイとは。こ、これは明らかに我が校に居ては悪影響も齎しかねない存在じゃ。さ、さあ帰った帰った。貴様の評価は最低にしておいてやる______」
______ロ、リ、コ、ン、ジ、ジ、イ。
面接の結果がヤバくなりそうな空気が漂って来たから、理事長の言葉を止めるために耳元で、それも究極に小声で罵倒してやった。
「き、貴様あ………!」
理事長ことジジイは体をプルプルと震わせて、憤りの前兆を示した。しかし不思議と口角が上がってしまう。
何時の間にか、ジジイが落ち着きを取り戻していた。だが、怒りが鎮まったわけではない。心の奥底に存在する憤怒は無くなってはいない気がするのだ。
「もういい。前のは失敗したということと割り切ろう。もう一度、先月の分も含めて記憶を消してやる」
とジジイが言い、俺の額に手を翳した。そして前と同様に、何かを小声で呟く。
「おぉっと、また厨二乙な必殺技の炸裂ですか」
「もう何も言わん______」
______頭が、重い。
決して眠いわけではない。重しを乗せられたわけでもない。ジジイが俺の頭をつかんでいるわけでも、当然ない。
愚鈍な闇が中枢に渦巻き、耳を覆い、肩を覆い、腕を覆い、脚を覆い、______意識を覆う。一度無心になってしまえば、確実に意識が落ちてしまうだろう。
痛みは無い、病気でもない。自意的な何かが、それを起こしていると言う確証。根拠は何も無い。だが、確信は出来る。この闇は______ジジイが創ったものだ。
そう思った瞬間、ほんの一瞬、視界がクリアになった。
______チャンス。
その隙を一矢で確実に突く。
「うおぉぉぉぉぉお!!!」
ひたすら叫び、反抗する。意識を落とそうと企むこの黒き霧を、振り払わんがために。………なんか厨二っ気が混じってるな。
あと少し、あと少しだ。もう少しで、闇が消える………。消えろ…消えろ…消えろ!
「消えろぉぉぉぉぉお!」
頭上に有った不快な闇が、一瞬にして消え去った。
「はあ、はあ、はあ………」
視界が完全にクリアになり、思考を妨げるものは無い。意識もはっきりし、俺の目の前で呆然と立ち尽くすジジイの姿がしっかりと見て取れた。
「そんな、バカな………!」
おぼつかない脚で後ずさる。
「おい、ジジイ」
何回か深呼吸を繰り返し、息を整える。
この数分の間で聞きたいことが山程できた。このジジイが逃げる前に、早急に問い詰めなければ。
「まずだな、………今のはなんだ」
「い、今のとは、な、なんのことじゃ?」
あくまでシラを切り通すつもりか、このジジイは。それにしても、隠すのが天才的に下手だな。初めから完璧に無視を通せば良かったものの。なんでわざわざそこまで吃る必要が有る。
こういう奴相手ならば、語性を強くして脅すよりは、冷静な態度で淡々と逃げ道を囲んだ方が効果的だ。
もう一度深く呼吸をして、話し始めた。
「『今の』とは、俺の意識が急激に消えそうになったことだ。頭が重く、正気を保つのも限界に近くなった。貴方は、このことについて何か知っているのではないですか」
「さ、さあ………?し、知らぬぞ、そんなこと。儂は。大方、貧血になったのではないのか?」
「いや、断じて貧血ではない」
「じ、じゃあ病気じゃ。もしくは、脳が異常をきたしたのかも知れぬ」
「貧血にしても病気にしても違う。貧血や病気で意識が朦朧とすることは、可能性として充分に有り得る。だが、今のは明らかにそれとは異なる状態だった。足下がふらつくのはまだしも、あの頭の重さは異常だ。全身全霊の力で反抗して、やっと意識が保てたんだ。そんなヤワな理由じゃない」
「じゃあ、脳が………」
「脳が異常をきたす、例えば脳卒中や脳梗塞などだ。それなら、急激に苦しくなったことの理由にはなるが、そもそもそれ等だったなら、叫んだらすぐに治ったのはおかしい」
目の前のジジイは、瞳を上下左右に忙しなく動かしている。まるで、逃げ道を作るために必死で理由をこじつけようとしている様だ。哀れかな………。
だが、遠慮無く潰す。それが悠クオリティ!
「これは体調でも脳のことでもない。『自意的』なものだ。いや、『強制的』の方が正確かな。何をしたかは知らないし、理解も出来ないが、お前がやったということだけは分かる。そういや、この前も同じ様な動きをしていた気がするな」
「くっ………」
ジジイは顔を俯かせ、もう反論をしなくなった。
最後だ。一気に畳み掛ける!
「良いから吐いちまえ。吐いて楽になれ。まだ世界に明らかにされていない人体の神秘か、はたまた人外の能力か。どちらにしても興味深い______」
その瞬間、目の前に居た筈のジジイの姿が消えた。微かにモノが擦れる音がした方へ振り向くと、脱兎の如く駆け出すジジイが見えた。既にドアノブに手を掛けている。
______速い!
確かに普通の人間にしてはおかしい程の素早さだ。だが、俺にとっては______
「遅いっ!」
一歩でジジイの懐に入り込み、ドアノブに掛けた手を手刀で叩き落とす。
痛みで怯んだ隙に、深くしゃがみ込んでジジイの股へ頭を突っ込み、太腿の袴を掴んで翻した。
「肩車ぁ!」
肩車______柔道の技の一つだ。
世界中で柔道が行われる様になり、数多くの外国人選手が脚を掴む技を繰り出す事となった。脚を掴むことで比較的楽に一本取れることから人気を博したのだが、新ルールの追加により、それがダメになったのだ。そのせいで肩車を使う選手は殆ど居なってしまった。それを覆し、独自の肩車で世界チャンプに輝いた日本人選手が居るのだが、今は関係無い。
そもそもこれは柔道の試合のみで適応されるルール。それ以外で身を護るために使っていけないわけがない。
結果、ジジイが仰向けで天井を見つめ、俺がその上を両手両足で抑え込む形になった。
ジジイは放心した様に天井を見上げている。
「………バカな」
掠れた声でそう呟き、諦めた様に瞼を閉じた。