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竜の加護を受けし者

作者: 池歌

 “ラファトゥネル”

 古き言葉は告げる その神々しき意を

 海を統べし淡き者

 世界の終わりに棲まう 海の王

  公暦1265年 フロド・エヴァンズ


 序章



 荒くごわついたハンモックの布の手触りは最悪で、縫い合わせるために取り上げようとしても、つるつる滑って掻き合わせることも出来なかった。その上に濃霧のせいで手元すらよく見えない。

「くそ、どうして……っ」

 苛ついて毒づいた時、大きな影が横にしゃがみ込んだ。

「ユーファイ士官候補生、……俺が」

「必要ない!」

 伸びてきた水兵の手を振り払い、ヴァイス・ユーファイは霧ならぬ涙を拭った。

 落ち着くために大きく深呼吸をすれば、戦闘の名残、ざらついた火薬の匂いがつんと鼻の奥を刺す。

 さらに零れそうな涙を堪えて仰向くと、破れた帆と砲弾に引きちぎられた数十本の索具――綱が目に入った。

 三十六門搭載のフリゲート艦。

 カシュー公国海軍の地中海艦隊に所属し、つい先ほど戦闘を終えたばかりの幸運、すなわち“シルフェ”号はその名とはほど遠い状況にあった。

 未だに戦闘の余波が残る軍艦は騒がしく、彼の背後では「死者の名前を明確にしろー! 船匠(だいく)のミルはどこだ!」と短躯の副長が怒鳴り散らし、艦長は彼の聖域である艦尾甲板で主計長と積荷の相談をしている。そして時折、締め付けるような大声を張り上げるのだ。「サーロイス副長、まだ新しい乗員名簿は出来んのかぁ!」

 ヴァイスの周囲では水兵たちが死んだ仲間の葬儀支度を終わり、哀悼を捧げて立ち去っていった。ひとり、またひとり、と。そして与えられた順列に戻って忙しなく働く。冗談を言い合って笑い合いながら。

 ヴァイスは手を止めると、艦内の普段と変わらないやり取りや様子が悲しみを駆逐するのを、親友の死に顔と見比べながらじっくりと味わった。やがて気分が落ち着き、太い針が扱えるようになってから作業を開始する。

 親友――エドル・ヴァ・オーレル。

 一歳年上の十三歳ながら背が小さくて、いつまで経っても小さくならない軍服を嘆き、憧れの提督の真似をして三角帽を縦に被って、艦長の夕食に招かれた席では、冗談に大笑いして椅子から転げ落ちた……。

 だが今、彼は血を一滴も流さぬまま冷たくなり、目の前に横たわって薄い布に閉じこめられるのを待っている。

 海の上で死んだ者は海に還す――。

 それは海に生きる者たちの必然だった。当人が寝ていたハンモックを縫い合わせて棺のかわりとし、カシュー公国の国教であるカセルラ教の司祭が葬儀を執り行う中で、海へと送り出すのだ。

 ハンモックに映り込んだ赤色が徐々に濃くなり始めていた。遠く、水平線に二つの太陽が沈みつつある。そこに船匠が振るう金槌の音が響くのを聞き取って、ヴァイスはとうとう感傷に浸る時すらないことに気付いた。

 急ぎ投げ出されたエドルの手を掴み、ハンモックの中に滑り込ませようとしたところで突如、フォアマストの上で水兵が馬鹿騒ぎのような驚嘆の声を上げた。続いて湧き起こった歓声が艦を揺るがせる。

 全員の目が夕陽の方角へ注がれていた。息を呑んで顔を上げたヴァイスも濃紺の目を輝かせ、興奮のあまり叫び声を上げる。

「ラファトゥネルっ! ラファトゥネル!」

 口々に水兵と士官が叫び静かな海上にざわめきの波を作った。その多くは竜種――その中でも唯一、神竜と崇められる水叡竜(すいえいりゅう)の名を譫言のように囁いている。

 ラファトゥネル(水叡竜)――海を統べし淡き者。

 水のように透き通り、海に潜れば影すら見せない竜は優美な身を夕陽に曝していた。夕陽の斜光が身を橙色に染め、ほんのわずかな風が眩しいほどの煌めきを呼び起こす。

 海の神。

 叡智を与える神。

 そして、水叡竜の祝福を受けた者は、海では決して死なないという……。

 死者の手を握り締め、滅多に見られぬ竜の美麗な姿に胸をどきどきさせていた少年士官候補生は、手の平を掠めた違和感にはっと我に返った。そこには死したエドルが横たわっている。硝子のように青い目が薄ぼんやりとヴァイスの姿を映している――。

「……え?」

 青? 彼の目は、薄緑の筈なのに……。

 唖然として思考回路が追いつかない中、握り締めていた手がゆっくりと動き、死に青ざめていた唇に血の通った赤みがふわっと宿った。驚きに希望が混じる。彼の頭は信じ難い結論を出していたが心はすっかり混乱して、唇を薄く開いたまま凍り付いていた。

「か、かかかかか艦長!」

 傍らにいた水兵が動転しきった声を上げて、未だに歓声を上げる男たちを突き飛ばし走り出した。フリゲート艦としては小さい部類に入るシルフェ号だが、茶色い髪の水兵はたっぷりと一分以上も掛かって、艦の最高責任者にそれを告げる。

 その時、ヴァイスは息を吹き返したエドルの手をきつく握り締め、感極まって流れる涙を風に攫わせていた。

 エドルが生き返った。

 水叡竜の祝福を受けて。

 瞬く間にその知らせが船内を満たし、歓喜に身を震わせる水兵がわけもわからぬまま叫び声を上げるのを、士官たちが顔を真っ赤にして蘇生した少年に駆け寄るのを、軍医が新たな患者に平静にするよう声を嗄らして叫んでいるのを、海上から、水叡竜の水晶のように曇りない青の瞳がひたっと見つめていた。

 涼しげな眼差しは凪いだ海のように、静かで穏やかさに満ちていた。


 一


 ヴァイス・ユーファイは長い弁髪を揺らして軋む階段を一気に駆け上がり、息を切らして優美な扉を蹴破るように開いた。もっとも上等な軍服が細い身体にまとわりつき、顎から汗が滴り落ちる。暑い日だ。こんな日に艦上で風に当たることが出来たら、どれだけ幸せだろう……。

 だが、どう足掻いても現実にならない想像をかなぐり捨て、彼は荒い息を呑み込んで顔を上げた。

 途端、襲いかかってきた不安に心がふあふあして落ち着かなくなった。

 室内には男がひとり――。

 十二歳で士官候補生になってから十年間、ヴァイスは海の男のたくましさを得たつもりだが、もとから華奢な体は今もどこか頼りない。

 しかしそれでも彼の階級は同期でもずば抜けた副長にまで至っており、肩にはそれを示す青い肩章がしっかりとつけられていた。

 一方、目前の男は軍内で絶対の権威を示す襟章すらつけていない。だがその体は長身で均整が取れ、しなやかな筋肉が粗末な服の上からでもわかるほどだった。

 その男はカシュー公国では珍しい日族(ひぞく)――生命力が強く、《黒の戦士》とも呼ばれる珍しい黒髪の人種だった。彼はヴァイスが副長として乗り込む軍艦の艇長(コクスン)であり、陸にあっては何かと騒ぎを起こす艦長の護衛役を引き受けている。

 その部下にヴァイスはしかめっ面を向け、さり気なく顎の汗を拭って不安を押し隠した。予感的中だ。ここにも目指す姿がない!

「隼人、艦長はどこにいるんだ?」

「……ここには居ません、サー。この『ラウスン亭』にはお戻りではないです」

「馬鹿な! 今日の午後には出航するんだぞ!? まさか、また鍛冶屋に行った――」

「ユーファイ副長」

 呼ばれたこととは無関係に唇を噛み、二十二歳の若すぎる副長は軍服の胸を叩いて顔色を変えた。

「しまった、命令書を海軍本部に忘れてきたっ! いいか隼人、今すぐ艦長を連れて艦に来るんだ! ほんのわずかでも時鐘に送れたら縛り首だぞッ!」

「……アイアイ、サー」

 背に陰気な声がかかるのを待たず、ヴァイスは身を翻して扉に取り付き、そこで濃紺の瞳を大きく見開いた。青二才、軍の広告塔、決闘狂いと様々な名で呼ばれる青年が階段の下に立ち、右肩につけた肩章――小型艦の指揮を執る、海尉艦長(コマンダー)の証――を直していた。

「何やってるんだエドル!」

 それまで我慢してきたが、いきなり怒りが弾けて頭にかっと血が上り、ヴァイスは恥も外聞も忘れて大声で叫んだ。

「お前は俺を不安でのして病院に送り込むつもりか! 出航の日に何やってるんだこの馬鹿野郎!」

「ユーファイ副長!」

 それに慌てたのは、叫んだヴァイスでもどやされたエドルでもなく、エドルの後ろにいた航海長のパトイールだった。彼は階級を完全に無視した怒声に顔を青ざめさせると、艦長を押しのけて素早く階段を駆け上がる。穏やかなこと凪ぎ風の如し、と言われる二十八歳の青年は真っ青な顔でヴァイスをひっつかんで背後の部屋に入り、ばたんっと音高く扉を閉めた。

「副長、いくら親友であろうとも他者がいる場であの言葉遣いはいけませんよ!」

「だが我慢できる許容範囲を超えているんだよ! あいつ、あいつ――流す噂と言えば決闘と鍛冶屋との諍いばかり! いくら敵国船を拿捕しようが海賊船を破壊しようが、やつがあの馬鹿なことをやり続ける限りオレイスル号の名声は上がらないんだっ!」

 突如戻ってきたヴァイスに、室内にいた隼人が訝しげに眉を上げたが、ふたりの勢いに押されてそっと部屋を出て行った。

 扉が閉まる音を背に、パトイールは同情するよう上を向いた。

 なごやかな緑の目で年若い副長を見る。

「気持ちはわかります、わかります、が……副長、艦長の操船の腕を一番認めていらっしゃるのはあなたでしょう。まず、落ち着きなさい。それからでも遅くはありません」

「……わかった、落ち着こう」

 ヴァイスは興奮のあまり浮かんだ涙をぬぐい取った。赤くなっていた肌に白さが戻る。彼が平常心を取り戻したことを確かめ、パトイールは穏やかな微笑みを浮かべた。

「副長、艦長は鍛冶屋へ行っていたわけではありませんよ。私と一緒に、オレイスル号の修理に尽力を尽くしてくれた、ウィルトン卿のところへ挨拶に行っていたのです。連絡が遅れたことはお詫びします――私たちにも副長の行方がつかめなかったので。けれど、朗報があるのです」

「……朗報?」

「はい。任務地が変更になりました。ウィルトン卿の好意で、アドリアス海へ変更になったのです」

「アドリアス海!」歌うように囁き、ヴァイスの顔が怒りとは別の意味で赤く染まった。「美しき四色の海! 未知の島々、雄々しき嵐が迎える海! この国を支える捕鯨船の聖地――いや、海だが。すごいな、あそこへ行くのか!」

「はい。それに多くの海賊船が出没する海でもありますよ」

 若者らしいはしゃぎ振りに航海長が笑んだ。

 海のならず者――海賊の多くは鯨油を狙い、大した武器を積まない捕鯨船の拿捕を得意とする。そのため、アドリアス海への配置命令は捕鯨船を守り、海賊船の拿捕をせよとの意が含まれていた。

 とんとん、と扉が叩かれる。

 いきなり何の気負いもないエドルが入ってきた。

「副長、これが新しい命令書だ。俺が乗艦してからみなの前で読み上げてくれ」

 ヴァイスの目線までしか身長のない、小さな青年――エドル・ヴァ・オーレル。

 弱冠二十三歳で、戦時ではない国では異例の扱いを受けて海尉艦長を拝命した青年は、飄々とした顔で親友であり副長のヴァイスを真っ直ぐに見た。悪戯な光を宿した青い目が笑っている。

「頼んだぞ。単なる命令書でも、最初の第一印象でかなり変わるからな」

「……アイアイ、艦長」

「そう焦るな、ヴァイス。今からここを出ても十分に間に合うんだ。隼人、いるか?」

「はい、艦長」

 のっそりと現れた黒髪の男に「今すぐ馬車を手配してくれ。なるべく早く」と命じ、彼は踊るような足取りで踵を返した。

「さぁ行くぞ。出航だ!」

 怒鳴ったことを咎められもせず、さりとて気に留めた様子もない親友にさすがのヴァイスも拍子抜けし、すぐには足を動かせなかった。それを見たパトイールがそっと袖を引いて歩き出す。

 そうして騒がしい一団は陸から離れ、出航した。

 世界の終わりが近いというアドリアス海へ。



 エドルは眼前に広がる大海原を抱き込むように両腕を広げ、受け止められる限りの潮風に全身を染めた。うなりを上げて耳元を吹き抜ける潮風が心地よい。マストの先端部分に寄りかかり、磨き上げた靴先の遥か下方、水兵や士官候補生が動き回る様子を満足げに眺め、海尉艦長はうっとりと目を細めた。

 雄々しい、すなわちオレイスル号は快速帆船の名に恥じぬよう、十三ノットに近い速度で青々とした海上をひた走っていた。

 ほどよい風が後方から吹き付ける中、破けんばかりに張った白帆に突き動かされた艦首が激しく大海原を引き裂いていた。砕け散った海水が薄い陽に照らされ虹色に煌めき、瞬く間に後方へと過ぎ去っていく。

 素晴らしくいい船になった……。

 童顔とも言われる顔に微笑みを浮かべ、船の速度を全身で感じ取っていたエドルは、海上を走り抜けた水兵の声にぱっと目を開けた。

「帆影が見えるぞー!」

 彼は素早く傍らの望遠鏡を取り上げた。

 南方。

 輝く水平線の上で白い帆がきらきらと光り、朝の陽光に映える。刹那ざわめいた水兵だったが、熟練兵は何をすべきかを十分に心得ており、どたどたと靴音を鳴らして上層甲板上を走り回り始めた。

「艦長ー! 艦長ー!」

 ヴァイスの声が早く降りてこいと呼び、エドルはにやっと笑ってしまった。彼はこちらを呼ぶ一方で戦闘配置の小太鼓を鳴らせている。どろどろと鳴り響く小太鼓の音に重なって、藁帽子の水兵と朱色の上着を着た海兵隊員がリズミカルに動き回り、狭い甲板に秩序のある人波が生まれた。

 その美しい動きに賞賛の笑みを向け、彼は身を躍らせて索具を掴み、するすると下って磨き立てられた甲板にとんっと降り立った。

 戦闘配置にはハンモックの移動、舷側砲の準備と砲に使う火薬の準備、さらには艦載艇を降ろすなど様々な準備が行われる。そのために艦首から艦尾まで騒がしさで満ちあふれ、あふれ落ちて海の上でぱちっと弾けていた。

 エドルは自分の定位置――艦尾甲板まで悠然と進み、小さな身に合わない大声を張り上げた。

「総員、上手回しの準備ー!」

 掛け声にいっそう、人々のざわめきが大きくなって海に張り付き、ヴァイスの姿が人影に隠れたり現れたりしつつ、春の穏やかな陽に照らされた。慌てて着込んだ制服の上着、その前釦が彼の思わぬ面を覗かせて哀れにも段違いになっている。

 にこっと白い歯を見せ、エドルは闊達な足取りで左舷に佇むヴァイスの傍らに立った。ふたりは望遠鏡を覗き込んで水平線の帆影を探る。

「どう思う? ユーファイ副長」

「小さい、ですね。カッターでしょうか?」

「うん、どうやら……そのようだな。マストは一本、旗を一つも出してない」

 ふたりは騒音に負けじと大声を張り上げ合う。

「カッターなら二十八門のこちらとは火力の面で勝負にならないだろう。今は近くを航行する船の情報が欲しい。この風向きなら捕まえられそうだな」

「それは不可能ではないでしょう……、艦長」

「どうした?」

 すでに望遠鏡を降ろしていたエドルは、不安が混じった副長の声に気付き、伝令役の士官候補生から目を逸らした。

「何かあるのか」

帆桁(ヤード)が落ちています。あぁ、酷いな」

「なに?」

「難破船かも知れません。手酷く痛めつけられています」

 よく見えるヴァイスの望遠鏡を借り受け、それを自分の目でも確かめたエドルはきゅっと唇を噛んで手厳しい表情を作った。素早く望遠鏡を折り畳んで脇に抱え、人でごった返す上層甲板に怒声を放り投げる。

「隼人、隼人はいるか!」

 命令が瞬く間に口伝いで船内に広がり、呼ばれた男がのっそりと出てきた。下にズボンを一枚着ただけで、たくましい上体に玉のような汗を浮かべている。

「はい、艦長」

「艦載艇を出す。腕の立つものを連れて行け」

「アイアイ、艦長」

「あぁ、それと隼人。殺すのは相手を見てからにしろよ。お前が腕を振るうのは海賊相手なんだからな」

 日族の男はにやっと笑みを作り、慇懃に額へと拳を当てて敬礼した。

 エドルは船内を見回し、上手回し――風上回りのスピンターンで回転範囲が小さくスピードも速いが難易――の準備が整っていることを素早く確認する。ヴァイスも同様のことに気を配っているようだった。

 その副長に釦の掛け違いを教えて指揮を委ね、エドルは踊るような足付きで艦長室へ滑り込んだ。

 艦長室の右舷、小窓にはステンド硝子がはめ込まれており、彼は中へ入る度に紺と紅が作り出す美しさに目を奪われる。だが今は一瞥をくれるだけにして、給仕の少年が用意していた一張羅の上着を素早く羽織り、手伝わせて襟飾りをきちんと整えた。よかった、今日は不精をせずにブリーチ(半ズボン)を着ておいて。

 渡された三角帽を被り、正装した青年は長剣を佩いて颯爽と甲板に上がった。

 ヴァイスが意味ありげな目配せをしてきた。

 大きくうなずいたエドルは再び艦尾甲板に上り、そこの迫撃砲が発砲準備を終えていることを見て取った。すでに上層甲板の舷側砲は準備を終えている。

 操舵手として舵に取り付いている航海長のパトイールにうなずき、海尉艦長は船から飛び出すような大声で叫んだ。

「上手回しー! ヤード(帆桁)を回せ!!」

 艦が軋む。艦首が左にぶれる。命令の復唱が飛び交い、さらにあちこちで命令が発せられる中、風の勢いを突き飛ばすようにオレイスル号はぐっと船体を傾けた。

 目一杯膨れていた帆が風を零し、ばたばたと音を立てる。

 二本のマスト、そこへ垂直にあてがわれた帆桁を水兵が力の限り引き、またはゆるめて吹き付ける風と決闘する。

「もっと力を入れんかぁ、マーラガズ! 貴様の鈍さは豚より酷いぞ!」

 怒鳴るワーズワース士官候補生の声が耳にうるさく、海上に薄汚く響いた。

 エドルは肩をそびやかして風の向きが変わるのを前髪の流れる行方で感じる。行き脚――速度を保ったまま、どうにか満足できる形で上手回しが終わった。望遠鏡を覗く。これならば後三十分もしないうちに軌跡が交叉するだろう。

 これまで海尉艦長としてオレイスル号の指揮を執り、様々な任務の狭間に重ねてきた訓練は決して無駄になっていない。そんな安堵感があたたかく胸を満たし、だが近づいてくる船に不安が掻き立てられ、なんだか居たたまれない気分になった。

 素晴らしい船を操船しているという誇り。

 死をもたらす戦闘を避けられない、軍人としての性。

「艦長、しっかりと目を見開いてみて下さい」

 その時、上層甲板から駆け上がってきたヴァイスが興奮気味に囁き、思わぬ力で望遠鏡を押し付けてきた。

「……どうやらまだ、俺の運は尽きていないらしいな」

 望遠鏡をかまえ、エドルは満面に笑みを浮かべた。刹那空を見上げ、檣楼に上がった海兵隊員を横目にしながら右腕を振り上げる。

「白旗だ!」

 喜び掲げた拳に副長がにこやかに笑って拳を合わせ、素早く身を翻した。あまりにも身のこなしが早かったので弁髪が頬を掠める。なんだかそれすら笑え、しかしエドルはあえて厳しい顔を作って望遠鏡を降ろした。

「隼人に伝えてくれ。決して注意は怠るな、と」

 伝令の士官候補生が走っていくのを眺めやり、海尉艦長は三角帽を被り直す。

 出航、八日目のことだった。



 ひとりは少年、ひとりは青年――。

 拿捕した船から降ろされた薄汚い身なりのふたりに、エドルは検閲の時に使う厳しい目を向けた。

 どの様な生活をしていたのか不明だが、頬がすっかり痩せこけ、飢えたもの独特のぎらぎらした目をしていた。話によると嵐にあって致命的な影響を受け、あとは漂うばかりだったという。二週間も漂流すれば、このように痩せるものなのか……。

「艦長」

「彼らに水と食料をやってくれ」

 エドルは呼ばれてやってきた自分の給仕、ホールにそう命じ、傍らのヴァイスに目をやった。

「では、名簿に名を加えるかどうか検討することにしよう。お前は――」

 青年の方が進み出、顎をぐっと引く独特の仕草をした。

「マルス、二十五歳。こっちの小さいのはリーエア、十四歳です。おれの弟です」

「艦長と付け加えるんだ、マルス」

「……おれの弟です、艦長」

 絶妙のタイミング口を挟んだヴァイスに軽くうなずいて見せ、エドルは身を縮めているリーエアを見やった。

「では、話を簡単にまとめよう。お前たちは服飾職人だったが、血も涙もない雇い主から船を持って首尾良く逃げ出したものの、嵐にやられて二進も三進もいかなくなってしまった、ということか? そして、逃げ出した仲間の多くは壊血病で死に、または嵐の時に海へと流され……残ったのはふたり、と」

 はい、艦長とマルスが吼えるようにして肯定した。

「さらに付け加えるなら、おれたちはシャーイク国の人間で、カシュー公国に敵対する意志はまったくありません。中立国ですから」

「国籍はこの際、どうでもいい。シャーイク国には興味はあるが、要はお前たちにこの船で働く気があるかどうかだ。ここには余分な人間を養ってやれるような空間も食料もない。……船についてはまるっきり素人らしいな」

 エドルは嵐に思うがまま翻弄されたと思しき船に目をやった。それを屈辱ととったか、マルスが厳つい顔を赤く染めたが、口に出しては「そうです」の一言。

 エドルは決めた。

「強制徴兵でパン屋も水兵になるくらいだ、服飾職人でもやって出来ないことはないだろう。どう思う、ユーファイ副長」

「異存ありません」

「よし、では名簿に名を加えてくれ。ホール! ホールはまだか!? ……おいホール、どうしてそんなに時間が掛かるんだ? なんだ、そんなものに水を入れたのか?」

 途端、少年が泣きそうな顔になったので、エドルは呆れ顔でかぶりを振った。

「いいから早く渡してやれ」

 ふたりは差し出された薄い肉のサンドイッチと水筒を眺め、始めは遠慮していたらしいが、マルスが恐る恐る手にとって食い付くなり、リーエアという少年も勢いよく食べ始めた。狂ったように水を飲んで空腹を満たす。だがあまり食べ過ぎはよくないと、軍医の命令が発せられ、それでもふたりは満足そうに食べ終えた。

 エドルはその様子に笑みを浮かべ、一声を掛けて踵を返した。

「服飾職人としての腕も振るってもらうことがあるだろう」

 ヴァイスは少し不安があって側に立っていたが、さりとて言うべき言葉も浮かばず、航海長のパトイールにうなずいて歩き出した。パトイールは水兵にハンモックを吊す場所を作るように命じる。

 そうして日常がまた繰り返され始めた船上で、ふたりの服飾職人はちらっと視線を絡め合わせた。

 何かを言い掛けたリーエアを、マルスが厳しく目で止める。

 ふたりはただ黙っていた。



 三



 ヴァイスは時々、自分が恐ろしくなる。

 普段は何を買うにも即払いで値切ることなどしないのだが、こと懐が寂しい中で心の琴線に触れる絵画を見た時、それまでの理性が一瞬にして吹っ飛び、気が付いた時には口角から泡を飛ばして画商と値段交渉をしてしまうのだから……。

「だが、そんな俺に感謝しなければ」

 胸にぎゅっとフロドの絵を抱き、ヴァイスはつかの間の幸せに浸った。まさかフロドの初期の絵が手に入るとは! しかもこんな地の果てで!

 二十二歳の海軍士官が嬉しさのあまり身悶え、吊り寝台の上でじたばたしているところへ、扉を開いて砂時計を手にしたエドルが入ってきた。ヴァイスは凍り付く。弾かれたように立ち上がった。

「ご帰艦ですか! 艦長!」

「いいから座っていろ。停泊中だしな」

 怒りでも嬉しさでもなく、羞恥に顔を真っ赤にしている親友に苦笑を投げかけ、エドルは砂時計をテーブルの上に置いた。

 ――ふたりの間には掟破りの掟が幾つかある。

 一つは、艦の停泊中、艦長室の前に砂時計が置かれている時は、ヴァイスも艦長室を好きに使ってもよいというものだ。普通ならば作るべきではない掟だったが、十年来の親友であるふたりはひそひそと約束を履行し続けてきた。

 エドルは近くの椅子に腰を下ろす。

「その様子だと、停泊の七日間を有意義に過ごしてきたみたいだな」

「最高だったとも! 見てくれ、フロド・エヴァンズの絵だ! この風を描いたかのような青、神々を描いた精緻な筆致、極めつけはこの赤と青を使ったこの花だ……。美しい。これこそ美の極致だ」

「……絵はよく知らないが、確かに綺麗だな」

「そうだろう!? 俺はこのためにこの航海の給料をすべてつぎ込んだんだ!」

「――――」

 ヴァイス・ユーフェイはカシュー公国を代表する貴族の子息。これは彼の給料がどの様に使われるのかを如実に示す一言だった。エドルはかりかりと複雑な顔で頭を掻く。一方、エドルの父は鍛冶職人で、彼の長剣も父が作ったものだった。

 意図して、エドルは大きな咳払いを零した。

「早いものだな。明日の早朝に出航して、約二週間後には――順調にいけばだけど――アドリアス海に到着する 感想はどうだ? ヴァイス。憧れていた海なんだろう?」

「楽しみに決まっている」

 ヴァイスがうっとりとつぶやいた。

「……アドリアス海。この響きだけで、俺は嬉しくなってしまう」

 夢見る瞳のヴァイスは壁に貼られた大きな海図に顔を向け、右端に書かれたアドリアスの文字を見つめた。エドルも釣られて地図上の終わりを眺めやる。少年だった頃、胸に疼いていた冒険心が蘇ってきた。

「こうやって見ると、地図は世界のすべてが見えるような気がするが、やっぱりどこかが足りない気がする。なぁヴァイス。地図の外に何があるのか、確かめてみたいと思ったことがあったか?」

「夢の中では何度も飛んでいったさ。人が足を踏み入れることも許されぬ、神々の大地まで」

 ヴァイスは優秀だが口うるさく、頭でっかちの士官と水兵には思われがちだが、本当の彼は年相応に茶目っ気を見せることもあれば、夢を見ていた子供時代もそう遠いことではないらしい――いや、今もか?

 エドルが意味ありげに眉を上げたことに気付かず、副長は絵を抱いた手にぎゅっと力を込めた。

「神々はかつて、口にするのも恐ろしい黒の軍隊と戦い、辛うじて勝利を手にしながらも傷深く、創造神が作りし大地に去っていった。太陽と月と海の彼方にその大地はあるとカセルラ教の聖典は書いているが、俺は海の彼方にあるんじゃないかと思ってる。……この海、アドリアス海の彼方にあるのかも知れないな」

「だったら俺たちは今から神々に近づくわけか。畏れ多いな」

「お前に畏れ多いなんて言葉は似合わないぞ、エドル。あぁそうだ、それに冒険家の手記をたくさん読み漁ったんだ。ほら、お前にも見せただろう? ヴァグルが書いた『知られざる世界』に載っている世界地図を! あれは最高傑作だっ!」

「あぁ……、確か、あれは」と、うなずいたエドルは唐突に笑い出し、苦しげに身を捩った。「お前があまりにも騒ぐものだから、うるさいと海に放り込んだら、鮫がいるにもかかわらずお前は海に飛び込んだっけ!」

「……結局、お前が投げたのは何かの冊子だったな」

「当たり前だろう! いくら俺でもそんな酷いことはしないさ。ほら、そう渋い顔をするな、ヴァイス。もう過ぎ去ったことだ。今は絶対にそんなことはしないと約束する」

「……それはいいんだが」

 といいながらも、ヴァイスはいそいそと大切な絵を油紙で包み、保護包装をしっかりと施し始める。エドルはわざとらしくしかめっ面を作り、艦尾の硝子窓からミールクの港を眺めやった。

 なぜだろう?

 明日には出航だと言うのに、ちっとも心が躍らない……。

 青年艦長は素早く立ち上がった。

「少し出てくる。好きにくつろいでいてくれ」

「ワインを飲んでもいいか?」

「それは、駄目だ」

 にこりと微笑みを残して艦長室を出、エドルはタラップを昇って上層甲板に上がった。途端、吹き付けてきた潮風に心がふわっと和んでいく。

 しかし甲板に出ていた水兵たちはいきなり現れた艦長に大慌て、賭博用のダイスを隠し、何気ない素振りを装ったりと怪しいことこの上なかった。だがエドルはそれらを無視して艦尾甲板に足を運ぶ。

 このオレイスル号はエドルが指揮した初めての船だった。八ヶ月前、艦長となってこの艦に乗り込んだ時、水兵たちは不満の固まりで艦内は不信感に満ち満ちていた。前の艦長が気まぐれに罰を与える最悪な男で、副長もそれを是として水兵や士官をきつく締め付けていたのだ。

 エドルは反乱を起こす寸前だった彼らの間に割って入り、憧れのリウム提督の如く、誰にでも公平な態度を貫いて艦内の雰囲気を変えた。その上、密かに――密かに、だ――頼りとするヴァイスを副長に招くことが出来たおかげで艦内の規律は厳密に保たれ、小さないざこざを除けば問題はない。

 ――カイン、俺はあなたが理想とした艦長になっているだろうか?

 心中で穏やかに微笑む兄に語りかけ、エドルは手すりに頬杖をついてミールクの街並みを眺めやった。

 この後オレイスル号は真っ直ぐ東に向かい、アドリアス海で待つ僚艦と合流したのち、約六週間の長期任務に就く。

 二ヶ月間はどこにも寄港する予定がないため、この七日間で船に積み込んだ貯蔵品は膨大な量になった。




「なんだ……?」

 海に心を放っていたエドルは、風に乗って流れてきた奇妙な鳴き声に目を上げた。航海長、パトイールのペット――甲板の上をペンギンがのたのたと歩いている。少年水兵が「クール、クール」と呼びながら小魚を投げていた。

 ペンギンと戯れる少年。

 なんとも微笑ましい光景に自然と弛む頬を手の平で隠し、エドルは空を仰いだ。

 心地よい日だ。

 水の積み込みさえ間に合ったら、今すぐにでも出航するのに……。

 ゆるゆると落ちた視線が甲板で跳ね上がって止まり、エドルは目を瞬いた。

 すぐ側――フォアマストの傍らに座る影。

 四週間前、幽霊船のような船から拾い上げた少年だった。疲れているのかぐったりと首をうなだれ、その手足は前に比べやせ細っているように見える。水兵の仕事は過酷だ。特に若いリーエアは使いっ走りとして使われ、寝る時間さえ削られているのだろう。

 艦尾甲板から降りたエドルはきょろきょろと不審者のように周囲を見回した。近くに人影はない。しかしそれでも油断は出来ず、青年艦長は用心の足取りで右舷に歩き寄り、手すりに両の手を乗せた。その気配にリーエアがぱっと顔を上げる。

 囁きを風に流した。

「リーエア、そのまま休んでいろ。ここに俺がいる限り誰も来ない」

「……艦長」

「どうだ? 船には慣れたか?」

 少年は少し怯えたように身を縮める。エドルはあくまでも独りでそこに立つかのよう、これからアドリアス海に出航する捕鯨船や、補給に立ち寄った数多の船を眺めた。

 ここミールクはカシュー公国、最東端の港だった。

「……ようやく、慣れました。みなさん、優しいですから。あの、艦長……」

 ちらっと向けた視線で答えを促すと、リーエアが優しげな顔を伏せた。

「この船は戦うことはあるんですか?」

「軍艦だからな、敵がいれば戦うさ」

 真っ直ぐ向けられた素朴な質問がおかしくて、エドルは笑顔を刹那だけ零した――同時に疑問にも思う。

 この少年は毎日定時に行われている戦闘準備をどう思っているのだろう? それと、時間のある限り右舷側と左舷側にタイムを競わせている大砲訓練。あれらはすべていつ出会うとも知れない海賊や私掠船に備えたものなのに!

 不思議そうに目をぱっちりと見開いている少年へ、艦長は戯けたように肩を竦めてみせた。

「とはいっても、今や平時だからフリゲート艦や戦列艦のぶつかり合いはほとんどない。だが南に下ればサーザキ大陸から来る私掠船とやりあったり、これから行くアドリアス海なら海賊と戦うこともある――海賊たちは文字通り死にもの狂いさ、なにしろ捕まったら最後、縛り首だからな」

「縛り……、首。すぐに処刑なんですか?」

「それが掟だ。なにしろ彼らは残忍で容赦ない。彼らだっておれたちをヤードに吊すだろうし、鮫がいれば海に突き落とすだろう。中には仲間にならないかと誘ってくる豪胆な奴もいるが、少なくともカシュー公国海軍士官は……特にユーファイ副長のような貴族は従わないだろうな。おれも考える」

 尾の赤いカモメが水兵と艦長の間を走り抜け、飛び去った。

 リーエアは何かを考えている。

 海を遠く見据えたまま、エドルはゆったりと腕を組んだ。

「……この前の戦闘は少し前のことだ」

 と、少し時間をおいて、エドルは平板な声で続けた。

「先の航海任務の最中、オレイスル号はもっと西のシグ海で商戦を護衛する任務に就いていたんだが、補給の帰路で、僚艦のヒカルーク号に出会って……」

 オレイスル号はヒカルーク号に通常通りの旗信号を送り、帰ってきた信号も厳重に秘されている機密暗号に間違いなかったため、お互いの安全を祈るという旗信号を送り合いすれ違った。

 悪夢が始まったのは、その、直後――。突如としてヒカルーク号が転舵、背後から優位な位置を占め、禿鷹のごとく襲いかかってきたのだ。

 のちに判明するが、ヒカルーク号はこの二日前に海賊船ガリグ号に拿捕されていたのだった。ほとんどの水兵が別の船に移され、士官たちは鮫のいる海域に叩き落とされていたという。

 エドルは驚きを一瞬で振り払い、すぐさま転舵を命じて帆を張ったものの、短時間で行き脚(速度)がつくはずもなく、二度の一斉射撃が間近で何十本もの水柱を吹き上げた。さらに飛んできたぶどう弾が命中し索具が切られ帆に穴が開いた。

 このままでは拿捕されると悟ったエドルは、練ってはいたが出来れば絶対に使いたくなかった戦術――たぶん副長や航海長の反応からすると全財産を賭けた奇策――を打った。

 四度目の一斉射撃が終わった直後、三本のマストすべてを展帆しながら、急激に転舵。ヒカルーク号へと真っ直ぐに舳先を向けて衝突覚悟の姿勢を見せながら船を突っ込ませた。

 一瞬、たじろいだヒカルーク号が反対方向へ舵を切ったことを確認し、エドルは厳しい調子で「絶対に失敗は許されない」と付け加えた上で、「今までで最高の上手回しを見せてみろ!」と声を限りに命じた。

 風向きも船の速度も、海面の状態もまるで誂えたかのようにエドルを支援した。ヒカルーク号はその時、切った舵をすぐに戻せるはずもなく下手回し――風下回りの旋回に入っており、オレイスル号とは正反対へ走り始めていた。

 上手回しは初動が遅い――まず、風へ真っ正面から切り込むからだ。

 表面上、エドルは威風堂々という態度を崩さなかったが、実は密かに腹の底を冷やしつつ互いの状況を見守っていると、オレイスル号の上手回しはまさに「これ以上はない」という完璧さで終了した。ヒカルーク号の下手回しも程々の状態で終わっていたものの、回転範囲があまりにも違い――結局、オレイスル号はその快速を生かし、逃げ切ることに成功した。

 とはいえ、ヒカルーク号もまだ戦闘の形跡を修理し終わっていなかったのだろう。帆を張り足すこともせず、追跡の素振りさえ見せなかった。拿捕され、海賊に奪取された僚艦の帆影がゆるゆると遠ざかっていくのを、エドルは悔しさのあまり歯ぎしりさえしながら見送った――。

「嫌な一戦だった。自国の船に追い掛けられるなんて」

 敵から逃げ出さなければならなかった屈辱、その上に僚艦の敵をとれなかった悔しさが声に滲み、声が低くなる。エドルは無理に身体から力を抜いた。

「未だに誰がヒカルーク号の指揮を執っていたのかわからない。誰だか知らないが、冷静な状況判断を下しているところを見ると、相当に腕の立つ海賊だったんだろう。……見事な腕前だった」

 敵から逃げ出さなければならなかった屈辱、その上に僚艦の敵をとれなかった悔しさが声に滲み、声が低くなった。エドルは無理に身体から力を抜く。

「それだけじゃない。オレイスル号の傷も深く、結局は出航できるまで一ヶ月もかかってしまった。ようやく出航したのが六週間ほど前になる」

「……艦長」

 たっぷりと沈黙が積み重ねられた後、再びリーエアが呼んだ。

「なんだ?」

「水兵の独りが、あなたのことをラファトゥネルの子と……、呼んでいたのですが」

「あぁ……、そうか」

 彼の顔に深く刻まれた疑惑の根に思い至り、エドルは思わずリーエアを見てしまった。

「君は元はシャーイク国の人間か。シャーイク国と言えばドラゴンが唯一、卵を孵すことが出来る《竜の巣》のもっとも近くにある国だな。二つ名は『竜の守護を受けし国』……だったか。では竜について詳しいんだろうな」

 曖昧にうなずくリーエアの顔に表情はなかった。だがそのことに気付かず、エドルは口端を歪め、海にその白い顔を向ける。弁髪に編み込めなかった後れ毛が風に遊ばれて流れた。

「簡単な話さ。俺は十三歳の時に一度、死んだ。それを水叡竜、ラファトゥネルの祝福を受けて生き返ったんだ。もっとも――」

 驚きに目を瞠るリーエアに、艦長は悪戯っぽく笑いかけた。

「あの時は頭にヤードが落ちてきて、当たり所が悪くて死んだんだ。だから別に生き返ったのではなくて、脳の血管に詰まっていた血栓が何かの拍子に流れただけだと言い張る軍医も居た。俺にも真相はわからないが……」

 兄が助けてくれたのかもしれない。

 その考えがまた脳裏によぎって、エドルは口を噤んだ。

 青々とした海を眺めやる。

 ――カイン、一体どこにいるんだ……。

 この海のどこかに、エドルの兄、カインが眠っているかも知れなかった。

 十一年前、カシュー公国最高学府の学生であったカイン・ヴァ・オーレルは十七歳にしてその才覚を認められ、アドリアス海への調査研究航海に参加し、帰らぬ人となっていた。

 エドルは港まで兄を見送りに出た日のことをよく憶えている。

 誇らしげに海軍の制服を身にまとったカインは、まだ十二歳のエドルを抱き締め、こう小声で囁いたのだ。

 次に会うのは十年以上先になる。お前はきっと、この海を心から愛す、誰からも愛される海軍士官になっているだろう。お前の制服姿を見るのが今から楽しみだよ。……誰よりもお前を愛している、エドル。

 鍛冶に打ち込んで家庭を顧みぬ父親の代わりに、カインはエドルに惜しみない愛を注いでくれた。少し迷惑な面もあったが、エドルを艦長の地位まで押し上げたのは水叡竜が与えてくれた名誉と、兄が徹底的に叩き込んだ理論に裏打ちされた操船術だった。

 だが、一年ほど前――つまり、調査研究航海船が行方不明となって十年目、エドルが密かに恐れていたことが現実となった。カインの名が海軍殉職者名簿に記載されたのだ。今では海がよく見える丘の上に墓石も立てられている。だがエドルは、今も兄が死んだとは思えず、目を上げれば海がすぐ傍らにあるよう、笑顔を絶やさなかった兄がすぐ側にいるような気がしていた。

 エドルにとって海と言えば兄であり、兄こそが海だった。

 それは切り離せない。

 青い肩章をつけて艦長として己の船に乗り、凪いだ海を遠く眺めやる時、エドルの心を満たすのは穏やかで欠落のない幸せだった――。

「艦長」

 いきなり名を呼ばれ、エドルは驚きのあまり息を止め、振り返った。

 青い上着のパトイールが立っている。

「少し、お話しがあるのですが……」

「あ、あぁ……。わかった」

 ちらりと少年に目を向け、合図しながら艦尾甲板に上がった。

「話と言うのはなんだ? 食料品についてなら、主計長と――」

「いえ、違います」

 きっぱりと否定した航海長のパトイールは、意見を求めるエドルに答える時の控えめな顔を作った。誰にも聞こえないようぐっと声をひそめる。

「水兵と仲良くなるな、とは言いません。けれど、彼らには彼らの掟があり、彼らのやり方があるのです。それを踏み越えることは双方にとってもよいことではありません。……差し出がましい意見ですが」

「あぁ……、リーエアか。うん、わかってはいるんだけどな、少しくらい……話を聞いてもいいんじゃないかと、思ったんだ」

 エドルは苦笑しながら肩を竦めた。

「わかった。それは言われても仕方がないことだ。意見してくれてありがとう」

「……オーレル艦長がそのように意見を素直に受け止めてくれるから、言えることです。失礼しました」

 きっちり敬礼し、パトイールが艦首の方に顔を向けた。

 話を続けられない空気の中、エドルも釣られて顔を巡らせば、右舷の手すり近くで海を眺める隼人の姿が目に入る。彼は大きな手に包んでいたものをそっと、口に当てた。

 刹那の間を開け、耳に突き刺さるような鋭い笛の音が漂い始めた。船にいた誰もが思わず耳を澄ませる。

 日族である隼人が唯一、祖国を偲んで持つ笛――篠笛だ。

 なめらかな旋律はどこかもの悲しい。

 パトイールが辛そうに目を伏せた。

「ここよりもっと南東の果ての果て、そこに……彼の祖国が、あるのですね」

「もう、戻れない祖国だ。彼自身もそれを知っている。――彼の言葉によると、日族は国から出た人間を二度と受け入れないそうだ。そうしなければ彼らは疾うの昔に滅びていてもおかしくない種族だという」

「……少数種族として迫害されない唯一の方法が、水兵になることだとは」

「確かにそうだが、天職だとも思うぞ。彼が居なかったら俺は、三回は死んでいるからな」

 篠笛の音が遠い日族の国まで海上を渡っていく。

 その時、水兵たちがにわかに動き始めた。

 それまで上層甲板に散っていた彼らが、声を掛け合って隼人の回りに集まり出し、やがて各々好きな楽器を持って少数種族の紡ぐ音に飛び込んでいった。まず軽快なバイオリンが笛の音と戯れ、継いでやわらかな音色のハープがすべてを包み込む。

「やれ、即興の音楽会だな」

 エドルのつぶやきに、パトイールが笑いながらうなずいた。

 どうやら左端に座るハープの青年はきちんとした音楽を知っているようだった。彼の主導でゆるやかに、不揃いな楽器で紡がれる曲が、停泊中の船に相応しい陽気なものに変わっていく――。

 曲がようやくまとまりを見せ始めた頃、いつの間にか水兵の領域に戻っていたリーエアがつつかれて前に出、気後れしながら美しい声で歌い始めた。細く、鼓膜をくすぐってひらりと去る歌声はそれでも楽器の音に負けることなく、聞き入るエドルの元にも届いてくる。

 とたん、きらきらと青い目を輝かせたエドルに、パトイールは少し困惑気味の視線を向けたが、何も言わずに苦笑だけを置いて後じさった。


 白い帆はらむ 竜巻の如き青い風

 時行け この海の彼方 東の果てへ


 リーエアは馴染みの水兵に頼み込まれ、ようやく憶えたばかりの歌を必死になって歌っていたが、不意に横から殴り込んできた歌声に口を噤んだ。振り返れば、エドルが目を輝かせ唱している。

 新入りの水兵は驚きに手を止めたものの、古参は艦長の歌好きを知っているのでにやっと笑っただけで、いっそう楽器を操る手に力を込めた。

 そこへ、楽器を持たない水兵や士官候補生、準士官たちがおずおずと、エドルの歌声に隠れるようにして有名な『アドリアス海の青』を歌い始める。

 ただ独り、音痴を自覚するパトイールだけが手拍子で参加していた。

 そんな上層甲板の下、艦長室に流れ込む楽しげな音楽にヴァイスも頬をゆるめていものの、彼は甲板に上がる素振りも見せなかった。鬼副長として畏れられている自分が行けば間違いなく水兵たちが恐縮する。艦長と水兵たちの危うい調和、それにこの開放的な雰囲気をぶち壊したくなかった。

 小声で唱和し、親友と少年水兵のきれいな歌声に目を細める。


 うるわしき四色に輝く海 雄々しき嵐が迎える海

 船に乗りし者よ 知らずに海を語るなかれ


 濃紺の瞳を閉じて、ヴァイスは心地よい眠りに身を委ねた。



 四




 兄上、お元気でしょうか。兄上の想いが無事ソアラさまに通じ、婚約したとのこと、私ならずとも誰もが感謝の祈りを神々に捧げたくなること間違いないと思っております。私は元気に公務に励んでおります。

 実を言うと、先にオレイスル号に痛打を与えた敵の名が判明したので、この度、お知らせしようと筆を取った次第です。

 どうぞ驚かないで下さい、我が親友を叩きのめしたのは、海賊として名高い、あのオーグ・ダウラー・スヴァイールだったというのです!

 海賊の中の海賊、オーグ・ダウラー・スヴァイールの名は兄上もご存じであるかと思います。

 二年前、シグルーク海にて旅客船を襲撃、翠玉の首飾りを渡さぬ婦人の首を切り飛ばしたというあの海賊です。彼は海賊船すらも襲うとして九つの海で恐れられています。

 オーグ・ダウラー・スヴァイールも、あの時に逃した船がオレイスル号と知り、悔しさに怒りの声を上げたと聞き及びました。

 真偽のほどは不明ですが、エドルの名は海賊たちの間で死に神の如く囁かれていると聞きます。エドルはさらなる名誉を勝ち取ったこととなり、彼らは覇を競い名誉を競い、先を争ってオレイスル号を沈めにかかることでしょう。

 けれど兄上、私のことなど心配なさらないで下さい。我がカシュー公国の海軍は最強であり、海賊船に拿捕されることも沈没させられることもないと断言しておきます。

 航海は極めて順調です。風も順調に吹き付けており、このままならば私の憧れるアドリアス海まで二日ほどで到着することでしょう。今は船の速度を落とし、泳げない者のために帆布を海の中に広げているところです。驚くべきことに、航海長であるパトイールも泳げな



「ヴァイス」

 なめらかに進んでいた筆を止めて、オレイスル号の副長は目を上げた。

 狭い士官次室の出入り口にいつもの青い古着を羽織ったエドルが立っている。陽光の遮られた下層甲板、暗がりではっきりと顔は見えなかったが、体格と声、それに(本来ならば使うべきではない)呼び名で察しをつけ、ヴァイスは素早く立ち上がった。

「どうかしましたか? オーレル艦長」

「あ、あぁ……すまない、ユーファイ副長。手紙を書いていたのか」

「兄に手紙をしたためていただけです」

「こちらに来てくれないか」

「はい、艦長」

 上層甲板に上がり、あまりの眩しさに目を細めたヴァイスは、先ほどまで水浴びにはしゃぎ回っていた水兵が奇妙に静まり返っていることに気付いた。そしてみな、一様に固唾を呑んで青天の空を仰いでいる。

 エドルも困惑顔でちょいちょいと、トップマストの上部を示した。

 ――おかしなものが、引っかかっている。

 始め、それは何かのゴミが絡まっているようにしか見えなかった。だが船乗りの目を凝らし、青黒いそれを凝視することしばし、ヴァイスは驚きのあまりひっくり返りそうになった。

「ド、ドラゴン!?」

 素っ頓狂な副長の声が海に呑み込まれた途端、水兵たちが恐怖の声を上げて一斉に安全な場――下層甲板に向けて走り出した。エドルが「総員、その場に留まれ!」と苛立ちに満ちた怒声を張り上げ、その場はどうにか収まったものの、水兵は怯えきって声もないようだった。

 ヴァイスはどきどきする心臓を手で押さえた。

「お、どろきました……。間違いなく竜種、それも色が黒いところを見ると、……地竜のようですね」

「やはりお前にもそう見えるか。つい先ほど監視の水兵が見つけたんだ。始めは死骸かと思ったんだが、どうやら生きているみたいで、風が吹くとマストに抱きつくんだ」

「い、生きて……?」

「困ったな。このままじゃ、水兵たちがまともに動かない」

 そう小声でぼやき、エドルは苦り切った顔で船を見回した。その横に立ってパトイールも優しげな顔を当惑に染めている。

 竜種には足長竜、首長竜、腕長竜などの様々な種類があり、その上で長く空を飛ぶ空竜、海に住まう海竜、そして大地に住む地竜という区別がつけられていた。

 水兵は海に住む海竜を幸運の証としてこよなく愛するが、地竜には人を喰らうという程度の認識しかなく、大地の保護色である黒っぽい竜を見ると、海賊船へ意気揚々と切り込むような威勢はすっかり失せ、まるで借りてきた猫のように大人しくなってしまうのだ。

 よし、といきなりエドルが言った。

「ここは俺が行って――」

「駄目です。あなたを危険な目に遭わせるわけにはいきません。ここは水兵に行かせるべきです」

 ヴァイスの言葉に当然だ、とパトイールがうなずいている。こいつらめ、始めから俺を止める気だったな、とふたりを睨みつけたエドルだが、何も言えずに黙り込んだ。

 その時、艦首方向の上層甲板で白黒の何かがちらっと動いた。

「ク、クール!」

 何かが軋むような叫び声を上げ、パトイールが飛ぶように駆け出した。

 どうやら散歩の時間になったらしく、彼の愛するペット、ペンギンのクールがよたよたと甲板上を歩き出したのだ。そのペンギンを、人攫いがかっさらうようにして小脇に抱え、ぎゅっと抱き締めてしゃがみ込んだ航海長の前に、小さな影が現れた。

 下層甲板から上がってきたリーエア。

 少年は騒ぎを何も知らないらしく、目前に座り込む士官にきょとと目を瞬いた。

「どうしたのですか……?」

「いいところに来た、リーエア、こちらに来てくれないか!」

「――アイアイ、艦長」

「ミスタ・パトイール、クールを安全なところに避難させてから戻って来い」

「ありがとうございます、艦長。本当にありがとうございます」

 笑顔で呼ばれた理由もわからぬまま、リーエアはおどおどとエドルの傍らに近づいた。海尉艦長は少しおどけるような顔で少年水兵を見つめる。

「君はシャーイク国の人間だったな。では、ドラゴンのことに詳しいのだろう?」

「はい、少しは」

「ではあのドラゴンと話して欲しい。いや、とにかくあそこから降ろして欲しいんだ」

「――――」

 上を見上げ、驚きに大きな瞳を見開いたリーエアは、しばし観察の視線でドラゴンを見上げていた。だがすぐに心が決まったらしく、はい、と心地よい返事を残して索具に手を伸ばす。

「恐らく首長竜の一種だと……、思います。言葉は話せないと思いますが、降ろしてあげます」

「頼んだ」

「アイアイ・サー」

 やっと馴染んだ返事をして、リーエアは索具を見よう見まねで昇り始めた。

 実を言うと、身の軽さでは熟練水兵をもしのぐリーエアだったが、持ち場が下層甲板であるため、こうやって索具に取り付くのは――あまりにも不運なことに――初めてだった。

 始めはびっくりするほど順調だったが、甲板が遠ざかって空に近づき、頼りなく揺れる索具に全体重を預けるほど高みに達した時、あまりの高さに全身を震えが貫いて動きが止まった。

 ちょっとした揺れにも身が振られ、普段は心地よい風が兇悪な獣のように怖くなる。目前の索が命綱。しかし命綱はあまりにも心許なく、細く、手が固まり索具から離れない。

「あ……」

 恐怖に吐息を呑んだ。

 思わず身を竦め、ぎゅっと索を握り締めると、その手を包むようにあたたかい何かが触れた。やわらかな気配に背後から優しく支えられる。

「そう怖がらなくてもいい。大丈夫だ、ほら、力を抜いて」

「艦長……?」

「やっぱり自分で行かないと気がすまなくて」

 悪戯顔で笑うエドルの遥か下方、ヴァイスとパトイールが「艦長!」とこれ以上ないほどに目くじらを立てて怒っている。三人の士官候補生に至ってははらはらして気を揉み、まるで猫のように甲板上を歩き回っていた。

 けれど頓着せず、エドルはリーエアの細い手首を掴んだ。

「この手を……こちらに、そう。な、意外と簡単だろう?」

「……はい」

「支えてあげるからゆっくり上ろう。悪かった。お前は新兵訓練艦にも乗ったこともなかったんだな。すっかり馴染んでいたから忘れていたよ」

「いえ、そんなことは……」

「俺の間違いだと言うことにしてくれ。でないと、下に降りた途端、あいつらに何をされるかわかったものじゃない」

 間近で爽やかに笑われて、リーエアはなぜか頬を赤らめた。エドルが握り締めた手を恥じらいの籠もった目で見つめる。

「あ、はい、では、その……」

「慌てなくていい。ゆっくり昇っていこう。急いては事をし損じるからな」

 そうして、ようやく辿りついた檣楼――物見の場から見た竜はまだ幼かった。よくよく見れば、エドルの胴体ほどの大きさしかない。それでも爪は陽光に輝き、背中では折り畳みの翼がうなだれて垂れ、竜種の特徴は目に見えて明らかだった。

「種類はわかるか?」

「恐らく、カゴタビ竜の一種かと」

「カゴタビ竜?」

「はい、子供を草で編んだ籠に入れて運ぶことからこの名前が付けられました。運搬途中にカゴから落ちてしまったのでしょうか……。可愛そうに」

「親とはぐれてしまったわけか。……しっかりとマストにしがみついているな。どうやったら降ろせるだろう?」

「もう飛べるでしょうけど、たぶん無理だと思います。ここは抱いて降ろしてやるしか……」

「ふむ、それじゃ仕方がない」

 艦長としての癖か、彼の決断は何時だって他人を凌駕する早さだ。リーエアが唖然とする前で、エドルは身軽にマストへと捕まり、士官候補生の時分から養ってきたであろう素早さで飄々と上っていく。

 あっという間に竜の側、すなわちマストのトップに辿りついた。しっかと固定された帆桁の上に立って身を逸らす。

「いきなり触っても大丈夫か?」

「声を掛けながら、そっと触れて下さい。いきなり抱くと驚きますので」

 そのころ、遥か下の甲板では、たかがペットにかまけ、艦長を止めることのできなかったパトイールが後悔に顔を暗く染め、ヴァイスが顔を真っ赤にするほど緊張していた。万が一に備え、士官候補生と五人の水兵が真下で帆を広げている。

「さて、どうするか……」

 エドルは思案顔で目と鼻先の竜を見つめた。

 胸にすっぽりと抱き込めるほどに小さい。小振りな頭の付いた首はすらりと長く、その肌は深みのある青黒さで、鱗がなく若年であることが見て取れた。

 ふと、首が揺れてマストに隠れていた頭が持ち上がった。エドルが目を輝かせて見つめている前で、竜はふるふると水気を切るようにかぶりを振り、と、覗き込む人間に気付いた。

「ッ!」

 声なき悲鳴を上げ、竜が逃げるように首を仰け反らせた。その爪がマストから外れる。エドルが慌てて腕を伸ばして抱き込むと、子供竜はそのことにすら仰天し、じたばたと足掻きながら滅茶苦茶にエドルの胸を蹴飛ばした。

 小さいとはいえ竜種。

 エドルはあまりの痛みに顔をしかめ、気が付いた時には――手が――離れて。

「あ、」

「艦長ッ!」

 落ちるな、と呑気な単語がエドルの胸中ではつぶやかれていた。世界が急速に回転する。晴れ上がっていた青空が足元に、輝きにあふれていた大海原が頭上に放りあげられ、混ざり合った美しい青に満たされた。

 あぁ、と神々しい紺碧に目を細めたエドルは、あらぬ方向からぐぅと肺を圧迫されて小さく喘いだ。

「……っ」

 彼は逆さ吊りになって腕に竜を抱いていた。子供の竜はか細い悲鳴を上げ、きゅっと丸まり、青年艦長の胸にしがみつく。エドルの足首には二重三重に索具が絡みつき、綱に締め付けられた足首が砕けそうだ。

「あぁ……、畜生。足が折れる」

 エドルは懸垂の要領で身を折り曲げ、どうにかして足に絡んだ索を掴もうと足掻いた。けれど胸に抱いた竜が邪魔でうまくいかない。五回も失敗すると、疲れが押し寄せて身体が汗ばみ、頭に血が上って思考すら妨げられた。

 苦しい。

 うめき声が唇から漏れた。

 腕に抱いた命が、恐怖に震えている。

 小さな小さな命――。

「……動かないで下さい」

 不意に陰気な声が耳元で囁き、びっくりして目を開けると、黒髪がすぐ側で揺れていた。力強い腕が幾本も伸びてきてしっかと身体を支える。隼人を始め、オレイスル号の熟練水兵たちがそこに居た。

「お前たち……」

「艦長、無理はいけねぇですよ」

「そうでさぁ」

「ここに艦長の乾いた死体をぶら下げたって、海賊避けにもなりませんぜ」

「そりゃそうだ、海軍の制服を着てんだからよ」

 同意する苦笑混じりの声があちらこちらで漏らされる。それでも竜が怖いのか、水兵は敬愛する艦長が胸に抱いた生き物を見ないようしつつ、手早く絡まり合った索具を解いていく。

 竜はエドルの胸にしっかとしがみついていた。

 それしか頼るものがないという風に。

 そんな小さな竜種を青年艦長は愛おしげに見つめ、なめらかな首筋にちゅっと口づけた。




 夕陽の切れっ端が海の彼方に消えてから数時間が経っていた。

 リーエアは甲板の手すりに寄りかかり、エドルから借り受けた上着を羽織って、濃紺に染め上げられた海を見つめていた。闇から吹き付けてくる風が心地よい。

 つんつん、と髪を引っ張られた。

「ライ……」

 少年水兵は驚いて顔を上げた。黒曜石のように輝く竜の目が覗き込んでいる。右脚だけ肩に乗せ、もう片方の脚は手すりに寄りかかった状態で、カゴタビ竜の子供は鼻先でこめかみをつついた。

 リーエアは微笑みながら竜の頭を撫でた。

「大丈夫だよ、オーレル艦長はすぐに戻ってくるから……」

 話しかけてもわからないらしく、エドルにライと名付けられた竜は青い上着を口でくわえ、引っ張る。匂いの主が居ないので寂しいのだろう。

 三日前、エドルが滞りもなく逆さ吊りから助け出されて甲板まで降りたあと――「艦長は軽いから助かります」と独りの水兵が不用意に漏らし、身長のことを気に掛けるエドルが「それは一体どういう意味だ!」と怒りを爆発させたことを除けばだが――話し合いの焦点は竜をどうするか、という点に移った。

 まだ子供と言うこともあり、殺すのは忍びないという声が多く、結局はエドルの「俺が預かる」という鶴の一声で決定し、哀れなタビカゴ竜は艦長寝室の片隅に寝場所を与えられることになった。

 だがまだ赤ん坊。

 エドルが居なければ湿っぽい鳴き声を上げ、大砲の訓練が始まれば音に仰天して大騒ぎし、夜中に三度はおねしょをするという具合で、「まるで人間の子供と一緒じゃないか」とぶつくさ文句を漏らす艦長の姿があちらこちらで見受けられた。

 そして今、そのエドルはアドリアス海で無事に合流した僚艦のアトール号の夕食に招かれ、船を留守にしている。

 彼が居ないと、ライは鼻をすんすん鳴らしながら必ずリーエアを探し出した。

 リーエアは竜の頭を撫でる。

「ライはわたしに染みついた東の大地の匂いがわかるの?」

 竜の背でぱたりと畳まれた翼が動いた。

「そう、……大丈夫。もっと東に行けば、仲間のいる島が見つかるから」

「リーエア」

 耳に馴染んだ声が呼び、少年は首を巡らせてその影を認めた。巨体の類に入るマルスが隣に立つ。胡乱そうに竜を眺めやった。

「結局、その竜を押し付けられたのか?」

「押し付けられたんじゃないよ。預かってるだけだから」

「……俺はライの一件を聞いて心臓が止まるかと思ったんだ。まさか、バレたのか、と。何事もなくて本当によかった」

「同感だけど、マルス、別に安心してもいいと思う。誰もわたしたちの正体になど気付かないよ。……確かに近づいていた場所が遠ざかるのは辛いけど、こんなもの、……国にいた時のことを考えたら」

 大丈夫。

 小さな声で告げて、リーエアはマルスを見上げた。

 にこっと微笑む。

「わたしは大丈夫」

 眦に秘やかな焦燥を浮かべて、マルスは静かにリーエアの笑顔を見つめた。

 確かに、いっそ乱雑とも言える水兵生活の中で、リーエアは以前ならば作ることのなかった笑顔を頻繁に見せるようになった。細く、不健全に痩せていた身体はしなやかさをまとい、うつむいていた目は昂然と前を見つめるようになった。

 肉体的には決して楽ではないだろう。

 けれど、その瞳はきらきらとした輝きを持ち始めていた。

 無駄ではなかったとマルスは思う。

 六名の仲間を失ってまでも、リーエアを逃がすことが正しかったのか、マルスはずっと考え続けてきた。だが以前は持てなかった確信がついに生まれて、彼はちょっとした感動に捕らわれ、指先にまであふれた想いを留めるように硬い拳を作った。

 リーエアは穏やかな顔でドラゴンの頭を撫でる。

「……たとえ故郷に戻れなくても、君を愛してくれる人はいるよ。艦長のあのどたばた振り。あれはぜんぶ、君のためなんだからね」

 滋味に満ちた語尾を絡め取ったのは豊かな歌声だった。

 ふたりが驚きに目を向けると、薄暗がり、幾つかの影がのろのろと左舷をよじ登ってくる。士官の帰艦だ。その中でひときわ小さな影、艦長は陽気な歌声をそこら中にばらまいていた――完全なる酔っぱらい。

 水兵がちらちらと目を向ける中で、ヴァイスがいつもの厳しい声で命じた。

「おいそこのふたり、そう……マルス、リーエア、艦長を寝室まで運んでくれ。そっと、そっとだぞ」

「アイアイ・サー」

 リーエアが駆け寄ってエドルの下に潜り込み、肩を貸すと、青年艦長は早くも睡眠の欠片を見せ始めていた。マルスが仏頂面でリーエアを助け、ふたりは頭をぶつけながら上層甲板の下に入る。

 ライルが喜々とした声を上げてエドルの周囲を飛び回っていた。

 吊り寝台にエドルの身体を放り込んだところで、マルスが士官候補生の大声に呼ばれた。なんだ、と悪態を付きながら、それでも男は叩き込まれた習性で素早く身を翻す――騒ぎから察するに、鬼の副長、ヴァイス・ユーファイも飲み過ぎのようだ。

 独り残されたリーエアは、洋燈の明かり――使用されている油こそ鯨から取れる鯨油で、カシュー公国のみならずすべての国の必需品――をそっと弱めた。

 手を引いて、知る。

 固定された洋燈の下に数枚の便せんが挟まれていた。

 それはすべて戦死者の家族に宛てた手紙のようだ。

 いずれも返信と思しく挨拶で始まり、誰それの出産を喜び祝辞を述べ、こちらからもたわいもない話題を提示している。その中で戦死者の思い出を楽しげに語っていた――彼の悪ふざけに私はいつも笑わされ、時に怒ることもありましたけれど、私は今でも衣装箱を開ける時にはつい身がまえてしまうのです。

 気遣いのあふれた文面があまりにも意外で、リーエアは思わず後ろのエドルを振り返った。

 胸に竜の子を抱いた青年艦長は穏やかな夢の中にいる。

 誰も死なない、誰も殺すことのない、そんな世界にゆったりと漬かっている。

 彼の眠りを乱したくはなくて、リーエアは洋燈の明かりを消し、足音を忍ばせて艦長室をあとにした。


 五



 ライは歌を歌う。

 太陽が焼け落ちそうなほど橙に染め上がる夜明けに、そして、日の高まりが頂点に達する風の凪いだ日に。

 その声は細くなめらかで甲高く、まるで笛のようで、弾む旋律は人が作るどの歌よりも曲よりも生きる明るさに満ちて、無垢でまっさらなほどに純粋で、日々を生きることに満たされている。

 水兵には鬼門よりも恐ろしい地竜であったが、この歌声を聞くと誰もが心を綻ばせて笑顔を作った。

「オーレル艦長、今日の朝食は――」

「コーヒーを少し濃くしてくれないか。目蓋と目蓋がくっつきたがって大変だ」

「アイアイ・サー」

 給仕係のホールが頼りない足付きで去り、吊り寝台からぼんやりと天井を見上げ、エドルは欠伸をかみ殺しながら目を閉じる。

 夜明けにライが歌っていた。

 その心地よい響きが身体を満たし、手足が羽のように軽い。

 丸めた身体を預ける竜を胸に抱きながら、オレイスル号の艦長はあたたかな寝台からひょいっと起きあがった。

 新たな日が始まった。




 航海長のパトイールは不思議な癖の持ち主で、なぜか書類を読む時にだけ、胸のポケットから銀縁の眼鏡を取り出してかける。まだ若く目が悪いはずもないのに、律儀に繰り返されるその癖に、士官候補生のワーズワースはいつも目を瞬いた。

 士官候補生の書いた手紙に最初から最後まできっちり目を通し、パトイールは大きくうなずいた。

「よし、上出来だ。これはそのまま艦長に渡し……、どうした?」

「いつも思うのですが――、ぁ……、いえ」

 これは永遠の謎にしておこう。訊ねればすぐに理由がわかってしまう。どうせ刺激の少ない日々なのだ、ちょっとした謎に胸をときめかすことくらい許されるだろう……。

 十三歳のワーズワースはにこっと笑って、かぶりを振った。

「なんでもありません」

「そうか。助動詞や形容詞はきちんとしているし、スペルにも問題はないと思う。これなら艦長もいいと言うよ。まぁ、これからはサボらずにきちんと手紙を書くんだな。名誉ある職とはいえ、ご両親はいつだって心配しているのだから」

 ありがとうございます、と最敬礼を残し、ワーズワースは急いで上層甲板に出た。アドリアス海独特のねっとした濃霧が船を包み込んでいる。風が冷たく、これから嵐が訪れる予兆に船中が緊張していた。

 副長のヴァイスは帆の孕み具合が気になり、ちらちらと忙しなく、敬愛する艦長を窺っていた。帆桁(ヤード)やマストを守るためにも、風が強くなる予兆が現れたらすぐさま、縮帆しなければならない。

 朝のごたごた――甲板掃除、汚水溜(ビジル)の放出など――が一段落した昼前、いつも艦長は艦尾甲板で穏やかな一時を過ごしている。

 一寸先も見えない濃霧の中でもその習慣は変わらず、邪魔するのは気が引けたが、書き上がったらいつでも来いと言われているのだ。

「あの、艦長……」

「どうした、ワーズワース士官候補生」

「手紙が書き上がって……」

 ぴぃ、と、エドルの肩に停まっているライが唐突に鳴いた。ぐいと眉を吊り上げ、エドルはすっかり馴染んだ竜に怪訝な目を向ける。

「どうしたんだ、ライ。何か――」

 地を薙ぎ払う風のような声でライがさらに叫んだ。低く、警戒する声音は徐々に強まり、猛獣が威嚇するような唸り声に変じる。船中が静まりかえった瞬間、エドルに凛とした声が掛かった。

「艦長! 近くに船がいるのではありませんか!?」

「リーエア、か? どういうことだ?」

「カゴタビ竜はとても匂いに敏感なのですっ! 普段と違う何かが近くにいるに違いありません!」

 断言したリーエアの顔が緊張で真っ青になっている。平生、穏やかな少年の大声は船に不気味な静けさを呼び込んだ。青白い緊迫が走った船上で独り、冷静さを自らに課す青年はおもむろに周囲を見回し、一拍の間を置いて命令を下した。

「戦闘配置!」

 神の如き一言で、海上に形作られた小さな世界が混乱ではない混乱に導かれていく。エドルは見ることもなく見る。聞くこともなく聞く。この船の隅々まで彼の意識に組み込まれ、手を動かすように帆を操り、舵を動かし、戦いに備えていく。足元から這い上がってくる緊張に身体のすべてが目覚めていくようだ。

 海兵隊員がマスケット銃を抱えて動き回り、その間を鮮やかにすり抜ける水兵、その麦わら帽のリボンにオレイスル号の名がしっかと縫い込まれていた。彼らは誇りとした船名を縫い取る。俄に吹き付けてきた強風に、オレイスル号の名が数多はためくのを、エドルは忙しい中で不思議な幸福感として受け止めていた。

 水兵たちが囁き声で怒鳴り合っている。

「馬鹿野郎、誰が火薬をそこに置けといった! 甲板に穴を空けるつもりか!ッ」

「違うよ、つまずいただけだ! そんなに怒らないでよっ!」

「おい、ピーターはどこだ! やつは操舵手なんだぞ!?」

「警笛の緊急信号には誰も応じてきません。砲の準備はすべて整いました――」

 いつものよう、正装を整えて艦尾甲板へ上がったエドルへ、ヴァイスが報告の声をかけてきた。彼もいつの間にか一張羅に着替え、飾りは素っ気ないが美しい長剣を下げている。エドルは三角帽を深く被った。

「命令あるまで待機」

「アイアイ・サー」

 丁寧な敬礼の影だけを残し、彼は水兵の狭間に埋もれた。

 パトイールのきびきびした声。隼人の低い怒鳴り声。ヴァイスの厳しい声。そこに大砲をそっと動かす音が重なり、緊張した空気にライが唸り声を上げ、肩にふわっと爪を食い込ませてきた。

 濃霧の中で敵と出くわすほど恐ろしいことはない。唯一、敵を知る手段――耳を澄ませて、エドルは牛乳のように濃い霧中で海上を探る。索具のギシギシという音が降り注ぎ、耳にまとわりついて止まず、心が急ぐ。おかしい。同じ音がどこかで響いているはずなのだが――。

 それは、突然だった。

「おい見ろッ!」

 ぬらっと霧を突き破って現れた影に、オレイスル号の舳先が突っ込む――。

「伏せろーー!」

 エドルにはそう叫ぶが精一杯だった。手近にいた士官候補生をひっつかんで身を伏せる――その瞬間、船が軋んだ。すべてが軋んだ。正面に喰らった衝撃に船が激しくつんのめり、左舷の手すりが衝撃を受け止めきれず音を立ててはしけ飛ぶ。不運な水兵は破片が突き刺さり、激痛に悲鳴を上げてのたうち回った。近くにいた男が「医務室へ!」と叫ぶ。

 まだまだ衝突の余韻が残る中、ぎりぎりと索具が軋んだ悲鳴を上げきりぃという嫌な音ののち、弾け飛んだ。ひゅんっと空を切る音に水兵が一斉に身をかがめる。エドルも耳元を太い索が掠めて去っていき、ぞっと目を瞠った。

 深い霧が蠢く。

 何も見えない、恐怖。

 エドルはすらっと長剣を引き抜いた。

 同じ音がすぐ真横の船からも響いてくる。相手にとっても予想外の衝突だったに違いない。

 船の軋む音がゆっくりと引き、揺れが収まった。

 エドルは俊敏な動きで立ち上がる。

「総員突撃準備ー!!」

 混乱の最中でエドルの豊かな声が命じた途端、水兵の間から凄まじい鬨の声が上がった。恐怖が一転して血塗られた興奮に取って代わり、すでに配られていた剣やサーベル、短銃が一斉にがちっと音を鳴らす。

「綱を渡せーーっ!」

「船を手繰りよせるんだ!」

「板を持ってこい、早くしやがれっ」

 ワーズワースに船の指揮を執るよう命じ、エドルはひらっと艦尾甲板の手すりを乗り越え、混乱した上層甲板を駆け抜けて敵船と競り合う艦首に立った。興奮に躍り上がった心臓がばくばく音を上げる。それに合わせ、周囲の霧が迫ってくるように感じ、エドルは息を止め声を殺して一点を見つめた。

 すでに相手を手繰りよせる綱が幾つも張られ、板が何枚も渡っている。視界の片隅に短銃を手にしたヴァイス、剣を提げたパトイールの姿が入った。水兵もそれぞれの武器を手に身をかがめている――その姿はさながら、獲物に躍りかかる野獣だった。

 エドルは軽く息を吐き、吸った。

「総員突撃ーーー!!」

 燦めく剣先を振り下ろす。

 水兵がどっと押し寄せ、兇悪な波に変じた。エドルはその先頭に立って船に斬り込む。敵であること以外何もわからない。だが一人目をヴァイスの銃弾が仕留めた時、間違っていないという確信が喜びとなり全身を駆け巡る。海賊船、ブリッグ型の海賊船!ッ なんて立派な追撃砲を積んでいるんだ!

「艦長ーッ!」

 真横から飛び込んできた隼人の短刀が振りかぶられた剣を砕き、海賊を真っ二つに叩き割った。彼に背中を預け、エドルは剣を振るって瞬く間に三人の男を倒す。ヴァイスの銃声が途絶えた。弾切れになった銃を投げつけ、厳しい副長は腰に佩いた長剣を抜く。

「敵艦の艦長を捜せぇーー!」

 海軍の制服を身にまとうエドル、ヴァイス、パトイールと二名の士官候補生はあっという間に囲まれ、阿鼻叫喚の最中に立つことになった。絶対に死なせてはならないエドルを隼人とマルスが補佐し、ヴァイスは士官候補生を常に視界の片隅に置きつつ、パトイールとともに浮き足だった海賊たちの狭間へ切り込んでいく。

「エドル・ヴァ・オーレル艦長……っ」

 その囁きが耳に入ったのは、エドルが思わず振り返った時だった。左舷斉射の砲音がすべてを震わす。オレイスル号の撃った砲弾がエドルの足元を揺らがし、震わせ、不安にさせた。頼むから火薬庫だけは避けろよ、ワーズワース――。

「オーレル艦長!」

 確かに、呼ばれた。

 再び振り返ったエドルの鼻先に隼人が割り込む。赤く濡れた剣先を突き付けられ、真っ青になって樽の間から出てきたのは独りの青年。もつれる舌で叫んだ。

「俺たちはヒカルーク号の乗員です! あぁよかった! なんて幸運だ、神々は俺たちをお見捨てにならなかった!」

「なんだって!? 何人くらい――」

 銃声が会話を邪魔し、いち早く反応した隼人が下層甲板から出てきた男の首を切り飛ばす。エドルは水兵の腕を掴んで強引に引き寄せた。嵐の予兆である小雨が降り注ぎ、全身を濡らす。

「何人くらいがここに居るんだ! 彼らをすぐにまとめられるか!?」

「さ、三十人くらいです! で、でで出来ると思いますっ!」

「やれ! ここに集合させるんだ!ッ」

「アイアイ・サー!」

「おい、ちょっと待て! この船の名前はっ!」

「え! ガ、ガリグ号ですよ、オーグ・ダウラー・スヴァイールが艦長です!」

 水兵は叫びながら戦闘の最中に飛び込み、エドルは衝撃に息を呑んで取り残された。無意識のうちに向けられた剣をエドルは鮮やかに捌き、後始末をマルスに任せ、驚きの抜けきらない目で海賊船を見回す。

 これが……、ガリグ号?

 あのオーグ・ダウラー・スヴァイールが率いる船……。

 彼の名前は恐怖とともに囁かれ、明るさのない影と呼ばれ、先にシグルーク海で相見え、相手が誰とも知らぬままに称賛した海賊船の船長。海賊の中の海賊、一匹狼で同じ海賊船すらも襲う男――。

 雨に濡れた前髪を掻き上げたエドルは、艦尾甲板に立つ影に気付き、ぎょっと目を上げた。

 二十代半ばの精悍な男。

 西方部族の特徴である茶色い髪と薄い碧眼、身にまとった上等な上着が雨風に揺れられる――。

 直感が叫ばせた。

「オーグ・ダウラー・スヴァイール!」

「貴様がエドルかっ!」

 直後、凄まじい勢いで銀光が交わった。艦長、と叫ぶ隼人を声で遠ざけ、エドルはぐっと前に出て胆力でオーグの剣を弾き飛ばした。ざっと開いた間合いに水兵たちが雪崩を打って飛び込んで来、ふたりはきつく睨み合い、同時に目を背ける。気が付かない間に二の腕と脇腹が傷ついている、エドルはそれを押さえながら三人と切り合う副長の応援に飛び込んだ。

 鍔で競り合い、回し蹴りで長身の海賊を床板に這わす。

 頬を濡らす血を乱暴にぬぐい取った。

「ヴァイス、引くぞ! 嵐が近すぎるっ! あそこにいるのはヒカルーク号の乗員だ、彼らを先に船へと戻せ!」

「アイアイ・サー!」

 鋭利な呼子の音が水兵を血塗れの饗宴から現実へ呼び戻し、ヴァイスが血に濡れた顔を拭い、素早くオレイスル号へと戻っていった。雨足が強くなりつつある。海がうなり、風が強くなっていく。このままでは両方の船が横波を被って沈没する。

「ミスタ・パトイール! パトイール!?」

 答えがない。舌打ちし、手すりに飛び乗ろうとしたエドルはぎくりと身を凍らせた。床を蹴った彼の鼻先を銀光が掠め、オーグが突っ込んでくる。何かにつまずき、身体が倒れそうになった。その途端、オーグの目が見開かれ驚きの声が雨風に紛れる。エドルの背後から突っ込んできたライが男の腕に足爪で傷を残し、飛び去った。

「よくやった! ライ!」

 叫び、身を低くしたエドルはオーグの懐に押し込んだ。海賊船の艦長はひらりと身を躱し、手すりに飛び乗って一気に艦尾甲板まで駆けていく。エドルは追う。隼人が何事かを叫ぶ。風の音がすべてを奪い去る。聞こえない。いつの間にか三角帽が消えていた。

「っぁ!」

 艦尾甲板へ飛び込んだエドルへ待ちかまえていたオーグの剣が襲い来た。身をかがめ、一撃を避けて身体を回し、がら空きになった左肩に剣先を叩き込む、が一瞬遅れ、空を切った。勢いを殺しきれず左斜め前方に転がり、手をつき素早く振り返る。

 オーグの挑発的な目が間近。

 踏み込み、振りかぶってきた男の剣を真っ正面から受け止め、ぎりぎりと鍔迫り合い――。

「っ!」

 きぃンっと剣身が鳴った。

 一瞬にして弾かれ、体力差が露わとなって後じさったエドルは再び勢いよく踏み込み、真っ正面から刀身をかち合わせる。花火が散り腕が痺れ、手が震える。くそ、剣技でねじ伏せられる男ではない――っ

「な……!」

 それに気付いた瞬間、エドルの息は止まる。

 オーグの持つ剣に視線が吸い付いた。その鍔や剣身、研ぎ方の癖に胸が震えるような寒気が湧き起こる。脳裏に兄の笑顔が浮かんだ。

 驚きと絶望に動きが鈍った瞬間、好機を捉えたオーグの剣が一閃、手から勢いよく軍刀を弾き飛ばした。エドルは持ち前のしなやかさで後ろへ飛びし去っていたが、鮮やかな足捌きで間合いを詰められ、胸に鋭利な切っ先を突き付けられた。

 オーグは得た優位を確かめるように剣を握り直し、薄い唇を歪めた。

「さすがにラファトゥネルの加護を受けた男だな、エドル・ヴァ・オーレル。俺の船に斬り込んだのはお前がはじめてだ」

 ちらりと海賊の目が周囲を彷徨う。

「その上、竜まで連れているとは……」

「……貴様、その剣をどこで手に入れた」

「なに?」

「その剣をどこで手に入れたのかと聞いているっ!」

 張り上がった大声に、かすかな笑みを浮かべていたオーグはゆるゆると目を細め、降り注ぐ雨を挟んでエドルの顔を見つめた。焦燥が面に渦巻いている。先ほどまで戦意に満ちあふれていた若き青年艦長の顔ではない――。

 喘ぐ絶望と深い敵意。

「そうか、これは知り合いの剣なんだな」

 図星を指されたエドルの瞳に苛烈な光が宿る。

 オーグの顔に海賊の不貞不貞しさが表れた。

「何年前だったか、無人島に打ち上げられていたところを拾ったんだ。見事な剣だ。銃弾さえ切って捨てる――」

 淡々と語る語調に含まれた何かがエドルから急激に体温を奪っていく。オーグの目を真っ直ぐに見つめた途端、否応のない結論が胸中に転がり落ちた。息が止まる。絶望がゆるゆると胸を塞いでいく。

 オーグの持つ剣は間違いなく父が作ったものであり、十一年前のあの日、兄に持たせた一振りだった。鍔と剣身に彫り込まれた細工を見間違えるはずがない。カインが幾度も誇らしげに見せてくれた……。

「貴様がカインを殺したのか……っ!」

 一瞬で沸き上がった激情に大声が零れ出た。殺意を剥き出しにしたエドルにオーグの顔から余裕が失せる。我を忘れたエドルが肩を怒らせて身構えた瞬間、オーグの持つ剣がしなり、左腕に深々と傷を刻んだ。激痛を無視し、エドルは床板を蹴って自分の剣に飛びつく。柄を握って素早く体勢を整えた。オーグの左手が短銃を掴み出す。

「竜の加護もこれまでだ!」

「艦長ーッ!」

 突如、青年艦長の前に小柄な影が目前に飛び込んできた。雨音に飲み込まれた銃声に少年水兵――リーエアの身体が揺れ、がくりと膝をつく。予想外の展開に海賊と艦長は動きを止める。

「今です!」

 少年が傷ついた肩をきつく握り締め、声を限りに叫んだ。

「オーレル艦長!」

 雨の中に響いた己の名が活力を与える。エドルは我に返るなり素早く踏みだし、剣を一閃、オーグの手から短銃を弾き飛ばした。さらに押し込む。海賊も一瞬にして己を取り戻したが、間に合わない。エドルの剣が深々と胸部に突き刺さり、さらに力が込められ、背中へと切っ先が突き抜ける。

「――カイン」

 懐かしい兄の名が胸を締め付ける。手を伝う血の感触に目を閉じ、エドルはきつく奥歯を噛みしめた。

 オーグの手から剣が滑り落ちる――冷たい雨とあたたかい涙が頬を伝い落ち、エドルが剣の柄を闇雲にぎゅっと握り締めた途端、死にゆく海賊の腕が身体に回された。振り解く間もなく抱き締められる。

「艦長?!」

「!っ」

 エドルには逃れる術などなかった。足掻くこともできず引き摺られ、身体が手すりを乗り越える。逆巻く海面があぎとを開いた獣のように襲いかかり、船体にぶちあたって粉々に砕けた――エドルは咄嗟に右手首を翻す。

「ッ!」

 生を求めて足掻くエドルの手を、やわらかい何かが捕らえた。一瞬、怯んだそれがぎゅっと手首を握る。オーグの指が青年艦長の左腕を根性で掴み取り、大柄な男の体重を支えきれず、エドルの肩に激痛が襲いかかる。しかし船の揺れに煽られていきなり、その指が外れた。

 驚き、目を見開いた男の身体が海面に激しく叩き付けられ、あっという間に冷ややかな大波へ呑み込まれる。無念の水しぶきが吹き上がった。

 エドルは命綱と化した細い手を必死に握り締める。

 力を込めれば込めるほど、少年の顔が歪んでいった。

「も、駄目です……艦長ッ!」

「誰かを呼ぶんだ!」

「左腕をこちらに伸ばして、艦長」

 不意に現れた隼人が力強い指を鼻先に伸ばす。だが左腕は痛みの固まりと化し、わずかも動かない。青年艦長は濡れる船体を蹴り、しかし状況は変わらず苛立って怒鳴った。

「右手しか動かないんだッ!」

「あ、暴れないで!」

 顔を真っ赤にしたリーエアが悲鳴のような声を上げる。隼人の指が右手首に絡む。はっきり言えば右腕も限界だ、これ以上は堪えきれない。弾ける痛みにうめき声が漏れる。

「っぁ!」

 突然、腕に掛かっていた負荷が消えた。頭から海賊船に転げ込み、濡れた甲板に横たわる――遅れて全身で痛みが弾け、エドルは呻きながら身体を丸めた。左肩が激痛に絶叫する。思わず肩を握った手に触れたのは、濡れた感触だった。

「……ライ?」

 擦り寄り、くんくんと鳴く地竜。まだ赤ん坊。エドルは思わず小さなその身体を抱き寄せた。

 お前が助けてくれたのか?

 可哀想に、左の翼が傷ついてるじゃないか……。

「艦長、さぁ立って」

 優しさの欠片もない隼人の腕に抱え上げられ、エドルは喉の奥で悲鳴を上げながら立ち上がった。銃声が弾ける。隼人がうめき声を奥歯で噛み、いきなり駆け出して身軽に上層甲板に飛び降りた。支えを失って体勢を崩しかけたエドルを、リーエアが素早く補佐する。

「大丈夫ですか?」

「こんな怪我をしたのは初めてだ。左肩が抜けちまった」

 濃霧により偶発的に始まった戦闘は終結に近づいている。銃声も散発的になり、水兵の上げる野蛮な声も散り始めていた。

「オーレル艦長、早くしないと船が沈む――どうしたんだエドル、その怪我は!」

 艦尾甲板に駆け上がってきた影が驚きに叫んだ。ヴァイスは怪我らしい怪我もなく、だがずぶ濡れで右手に剣を提げている。

「気にするな、大した怪我じゃない」

「……わかった」

 咳払いし、副長は顔つきを改める。

「下層甲板の火薬庫を押さえました。急がないと嵐が来ます、両方の船が危険です」

「早くオレイスル号を引き離さなければならないな。ユーファイ副長、肩を貸せ。リーエア、お前はライを連れて早く船に戻れ」

「……オーレル艦長、これを」

 そう言ってリーエアが差し出してきたのはオーグの――兄の長剣だった。降参した船の艦長は剣を渡すことになっている。かすかに頬を赤らめたエドルは、あえて無造作に長剣を掴んで脇に抱え、ヴァイスに支えられながら叫んだ。

「オレイスル号ー、総員戻れぇ! オレイスル号に戻るんだ!」

 どれだけの乗員が残っているのか。一瞬、脳裏を掠めた不吉な言葉を振り払い、エドルは乗員を誘導しながら愛おしいオレイスル号の甲板を踏む。安堵感の上に湧き上がるかすかな罪悪感。全身が汗と血に濡れていた。

 嵐のうねりが船を呑み込む。

 船の上げる軋みに腹の底が冷えていく。

 死者と怪我人が次々とオレイスル号に運び込まれ、疲れ切った乗員がのろのろと動く最中へ、エドルは新たな命を注ぎ込んだ。

「縮帆の準備をしろ! 艦載艇に人をやって船体を引き離すぞっ!」

 艦尾甲板に艦長を置き、ヴァイスが命令を復唱しながら駆け出した。両船の間に渡っていた綱や板が切られ落とされ、ガリグ号から悲鳴のような声が上がる。生き残っていた海賊が必死になって手を振っていた。しかし誰も目を向けず、雨の彼方に遠ざかり、本格的になってきた嵐がすべてを呑み込む。

「ちきしょうめ! 来やがったぁ!」

 誰かが恐怖を込めて叫んだ。

 吹き付ける風に呼吸もし辛くなり、揺れが激しくなって足がよろめいた。エドルは必死になって手すりを握り水兵に命令を下す。横揺れに縦揺れ、操舵手がようやく自由になったオレイスル号を操り、風向きに適した方へ艦首を向けた。

 エドルは船が離されたことを確認し、近くの索を取り、右手だけでどうにか身体に巻き付けてマストに結びつけた。同じように水兵たちも身体を固定し始めている。アドリアス海の嵐は名の知れた兇悪な獣。誰もが戦闘の余韻すら残さず駆けずり回る。瞬く間に縮帆され、だが最小限の帆を残し、オレイスル号は嵐と対決する準備に入った。


 この戦闘――のちに濃霧の遭遇戦と呼ばれる一戦――でオレイスル号は十二名を失い、その十二名は三十五人の海賊を道連れにした。指揮官を失い、乗員の減ったガリグ号はその後に続いた三日間の嵐で沈没し、生き残っていた海賊もこの時点で命を落とした。



 終章


「エドル・ヴァ・オーレル……」

 蠱惑的な声が名を呼ぶ。

 海尉艦長は最高の正装に身を包み、厳かな表情でしずしずと頭を下げ、目前に佇むカシュー公国最高権威者――公王に向かって深く頭を垂れた。

 公王が神を意味する白い衣をまとっているのは、彼が神よりその権利を与えられたという証左だった。だから他の色は何も付けず、公王を示す飾りもさほどなく、されど穏やかな神々しさに満ちている。

 現公王は“静けさの王”と呼ばれ、静謐な笑みが美しい青年だった。

 公王は手にした長剣をわずかに傾ける。

 かちゃん。

 鞘鳴りの音が狭い公王の公務室に響き渡った。

「エドル、この度のあなたの戦いはとても見事であったと聞いています。あなたの功績を称えて長剣を一振り授けます。この長剣が、あなたに次の勝利をもたらさんことを……」

 差し上げた手で押し頂き、後じさって跪く。

 公王はエドルを見つめて微笑む。

「肩を負傷したと聞きましたが、怪我の具合はどうですか?」

「手荒く縫われた傷ももう抜糸が済みました。ご心配頂きありがとうございます」

「あまり無茶はせぬように。ラファトゥネルの祝福があるとはいえ、やはり怪我をすると痛いでしょう」

 エドルは思わず顔を赤らめた。脱臼を治すにあたり、エドルは腕を掴んでぐいぐい押し込む軍医を、一度だけとはいえ思わず頭を殴りつけてしまったのだ。もしかしてそれをお聞きになったのだろうか? 恐る恐る疑問を持って見上げるも、公王は微笑みを崩すことはなかった。

 不意に公王は腰を折ってするりと白い手を差し伸べた。壊れ物を受け取るかのよう、海尉艦長はそうっと形の美しい手を受け止める。

「……神々の御加護があなたにありますように」

 祈る声はなめらかで、すべての魂をなだめる穏やかさに満ちている。


 + + +


 約束していた場所に、ヴァイスはすでにやってきていた。

 エドルは正装の上に外套を羽織り、右手に頂いたばかりの軍刀を握り締め、その墓石の前に背筋を伸ばして立った。

 “良き息子にして良き兄、愛した大海原とここに眠る”――。

 カイン・ヴァ・オーレルの墓石に刻まれた文字が夕陽に浮かび上がり、エドルは様々な感情が綯い交ぜになった顔で白いそれを見つめた。なめらかな石の表面には海軍士官として殉職した証、青い海軍の紋章がくっきりと彫り込まれている。

「……先に失礼する」

 おもむろにヴァイスが腰をかがめ、墓石に触れて小さく口中でつぶやいた。彼の家に伝わる死者を慰める文言。

 エドルは目を閉じる。

 襲い来るかと思った悲しみは、しかしやってこなかった。エドルは自分でも驚くほど穏やかな心で青い海を眺望する。兄はこの海に眠っている。それが嬉しくもあり、悲しくもあり、だが胸に抱いている幸せに少しの曇りもなかった。

 兄が与えてくれたものはすべて、胸の中にある。

 それは薄れることも揺らぐこともない。

「……パトイールはどうだ」

 ヴァイスが敬礼で文言を締めくくったのち、エドルは間を持て余し、そう訊ねた。貴族の子息は静かに墓石を見つめていたが、吹き付けてきた春の風に目を上げ、肩に乗っていた弁髪を指先で弾いた。

「怪我はさほど深くないらしい。だがこじらせた風邪が肺炎になって、もうしばらく病院から出られないそうだ。……ライはどうしたんだ?」

「今は家で隼人が面倒見てるよ。地竜だからな、あまり連れ歩けないんだ」

 そうか、と短い返事を背に、エドルは伸ばした指先でそっと冷ややかな石に触れる。もう会うことの敵わぬ兄。あの穏やかな笑みがこの冷ややかさに飲まれていると思うと、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

「エドル……」

 穏やかな声で名を呼ばれた途端、不覚にも頬を涙が滑り落ちた。続いて込み上がった涙をどうにか目で堪え、エドルはほとんど意地になって振り返った。なぜ泣いてしまったかわからない。だが己の涙に驚いていた心は、振り返って目前の人物を見た途端、痺れて凍り付いた。

 ……華奢な身体と大きな瞳。

 こほん、と咳払いしたヴァイスが申し訳なさそうに言った。

「申し訳ありません、オーレル艦長。……今夜に正規な場でご紹介する予定だったのですが、あの……その、居場所を尋ねられて、教えてしまって――まず、こちらの方をご紹介します」

 と、横に立つ人物を手の平で示す。

「こちらの方は、わたしの遠縁――それはそれは遠い遠縁なのですが――で、シャーイク国国王ストラヴィアガル・マイトマイスさまの姪にあたるリーエアレル・マイトマイス姫君です。……わたしたちの知っていた過去の名は、リーエアとなりますが」

「――――」

 あまりのことに茫然として二の句を告げないエドルに、リーエア――リーエアレルが苦笑混じりに微笑んだ。オレイスル号の上で、少年水兵として切り詰めていた髪を薄い頭布で隠し、身にすらりとした青灰色のドレスをまとっている。背後には従者らしいマルスが控えていた。

 リーエアレルがゆるく頭を下げる。

「……リーエアレル・マイトマイスとしては初めまして、オーレル艦長。リーエアとしてはお久しぶりです、サー」

「お目にかかれて光栄です、姫君……いや、その、あー…――なんだって?」

「失礼します」

 呑み込みの悪い友人の腕を力の限り引っ張り、ヴァイスはにこっと姫君に笑いかけ、エドルの耳元でひそひそと囁いた。

「いきなりで驚いたとは思うけど、頼むからしっかりしてくれ。姫君が身分を隠していたのは、竜種との共存を望むシャーイク国の方針を良く思わないカシュー公国内の一派を知っていたからだ。この国に竜種の殲滅を唱える一派があることはお前も知っているだろう? 彼らがシャーイク国との貿易も阻んでいるんだから」

「……あ、あぁ。お前の遠縁だって?」

「家系図をひっくり返して調べて、昨日ようやくわかったんだ。シャーイク国内で政変があり、姫君は国に居られなくなり公王を頼って来られた、らしい。何しろ遠い国だからな、正確に状況がわからないんだ」

「えぇと、すまんが憶えてない。公王と血のつながりはないよな?」

「まったくない。だが公王は聡明なお人柄で知られている。公王ならばと頼って来られたんだ。……他に質問は?」

 なかった。エドルがリーエアレルを見ると、彼女は照れの混じった笑みをさらに深めてみせる。気恥ずかしいに違いない。エドルも一緒で、何を言えばよいかわからず、助けを求めるようにマルスにまで視線を向けてしまった。

 姫の従者は仏頂面にわずかな笑みを乗せ、目礼する。

 エドルはなぜか拍子抜けした。

「あ、の……リーエアレル姫。肩の傷は……、大丈夫ですか」

「はい。艦長が幾度も手紙をくれたおかげです」

 さらりと告げた姫君に返す言葉がなく、エドルは癖で眉を吊り上げる。リーエアレルは澄んだ水色の目でそんな青年艦長を見上げた。

 その真っ直ぐすぎる眼差しに、なぜか地竜を救うために昇ったマスト――そこで支えた彼女の体温や感触が思い出され、エドルは思わずたじろいだ。そして今が夕暮れであったことを感謝した。顔が赤くなっている。

「今後お見知りおきを、艦長」

「こちらこそ……よろしく、姫君」

 微笑む少女に気圧されたよう、エドルがゆるゆると顎を引いた。その瞳がふわっとやわらぐ。

 その時、ヴァイスが複雑な顔で遠くを見つめていたのは、エドルが大変に一目惚れしやすいことを知っており、この度の恋が平坦ならぬ道のりであることを悟ったからだ。

 少女を見つめるエドルの穏やかな眼差しは凪いだ海のように、静かで穏やかさに満ちていた。


  了  



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