20、相互不理解
霧雨で湿った頬を、溢れた涙の筋が通る。
「みどり」
これまで一度だってそんなふうに呼ぶことがなかった名前を、今ここで、何度も口にする兄が、許せない。
どうしようもなく弱り切って途方に暮れている私は、甘えたくてしかたがなくなるから。
「兄さん……私、わかってるよ。ちゃんとわかってる。兄さんが私を妹だって思っていないこと。…だって、私だって同じだから。いまさら兄さんを、兄だなんて思えない」
「…………」
狭い空間で、肌が触れそうなほど身を寄せ合っている私たちを、他人が見ればなんと思うのだろう。
少なくとも、兄妹とは思えないのではないか。
「でも、私はほんとは、少しでもいいから、兄さんに…」
「みどり」
「認めてもらいたかった」
「おいっ」
「家族ごっこでいいから、きょうだいになってほしかった…」
薄暗くて判然としない視界の中、兄が困っていることだけは唯一確認できる。
それだけ分かれば充分だ。
こうなったらとことんまで困らせてやればいい。
どうせ嫌われている、いや、関心がないのなら、何を言ったところで気にする必要もない。
「そんなの無理だってわかってる、ちゃんと分かってるよ。でも…」
言い募ろうと身を乗り出した時、兄が急に、私の腰に腕を回してきた。
私は驚きのあまり、一度大きく震えて、そしてそれっきり固まってしまった。
「なんも…なんも分かっとらんわ、お前」
耳元に口を寄せて、兄は低く、そう言った。
「わ、か……分かってる、ちゃんと分かってるよ!」
腰を抱く兄の腕と強張る体を意識しないように、震え出しそうなのがバレないように、ことさらに大きい声で言った。
けど、兄はそれへ間髪入れずに言い返してきた。
「それが分かってへんて言うとんじゃボケ!!…お前っ、…俺が憎たらしいんやろ?気持ち悪うてあかんのやろうが?お前を妹と思うてへん兄貴が、毎晩毎晩何しとるんか知っとるんやろうが!?ママゴトしとるんとちゃうて分かってんのやろうが…!!そういう野郎がっ、……」
「兄、さん」
「そういう野郎が、カスみたいな人間が、実の妹相手にナニしようと気にせんて、知っとるか?」
「何…」
兄は何を言っているのだろう。
そして私に、何を言わせたいのだろう。
「賢いみどりちゃんは知っとるやろ」
「やめて…」
「知っとるよなぁ?知っとるはずや。お前は見てたんや、あのとき」
「兄さんやめてよ!!」
記憶の底で、何かの蓋が開けられようとしている。
その中に、私が忘れようとして、けれど本当には忘れられなかった、欠けた記憶のピースが押し込められている…。