15、昔の話
『お前は覚えてへんかもしれんがな…』
一体この人は何してるんだろう、と怯えきっているところに、兄がふいに穏やかな声で切り出してきた。
私は心底驚いてしまった。
今日は一体なんという日だろう。
明日は槍でも降ってくるんだろうか。
兄が、あの兄が私にこんなに話しかけてくるなんて。
『小っさい頃は、よう野球観に連れてってくれたんや…。俺は野球やのうてサッカーの方が好きやて言うとるのに、絶対に聞いてくれへんかった。ダメな親父やったかもしれんけど、なんでか憎めんところでな…』
それを聞くのは不思議な心地がした。
兄が家族のこと、まして実父のことを話すなんて、まるで天変地異の前触れだ。
そして、兄の顔はいつになく誠実だ。
そうだ。
誠実なのだ、あの不誠実でふしだらな兄が。
『お前は娘やからっちゅうことで、よう可愛がられとったわ。俺はなんや、両親をいっぺんに取られたような気ぃになって、気ぃ悪くてあかんかった。せやけど、俺も…』
『…何?』
『…いや、昔の話や』
その昔の話が聞きたい。
少なくとも今の、無表情で、けれどどこか懐かしそうに目を細めて写真から上がる炎に見入っている兄は、私にとって、その昔とても切望していた「あの」兄なのだ。
たまらずにもっと話を聞き出そうとしたとき、兄は、とうとう最後の一枚を手にしたところだった。
『あっ』
私は発作的に兄の手を握っていた。
ほとんど無心でそうしていた。
その写真を守るのは、なんだか今の誠実に映る兄を守ることになるような、そんな気がうっすらとしたのかもしれない。
『大人しゅうしとれ、言うたやろ』
兄が低く吠えたが、私はかぶりを振ってただただ両手に力を込め、兄の手を握っていた。
すると、真上から呆れたような声がため息交じりに降ってきた。
『……お前には、もう関係あらへんやろ。お前には親父がおる。それは、こいつやない』
兄の言葉は至極当然であって、私の方でも、反論する言葉など持ち合わせていなかった。
けれど、どうしても、手を離すことが出来ないのだ。
『はよう、手ぇ』
『でも』
『でも、なんや?』
『…でも』