2 魔法がございます
赤子としてしばらく過ごすうちにいくつかのことがわかった。
母親の名前はサビーヌ。
栗色の髪と同じ色の瞳をしている。
明るい性格でよくしゃべる。
暇さえあればアッシュに話しかけてくる。
今もこちらを見て話しながら歩いていたせいで椅子につまずいた。
(母さんはそそっかしいのかな……)
それに、しょっちゅう家事でしくじって父親に苦笑いされている。
そうするとむくれて頬を膨らませる子どもっぽいところがあるが、育ちがいいのか、いつも姿勢がよくてだらしない姿を見たことがない。
父親の名前はアドル。
栗色の短髪でがっしりと逞しい体型だ。
寡黙な性格なのか、あまり話しかけてこない。
アドルはどうやら猟師らしい。
家の片隅には使いこまれた弓矢や罠などの狩猟道具がきちんと整理されて置かれているし、猟から帰ってきたときは、だいたいなにかしらの獲物を抱えている。
(父さんは腕がいいみたいだな……)
家は狭く、部屋が1つしかない。
簡素な猟師小屋という感じだ。
裕福とは思えない。
ただ、それにしては……母親が立派な指輪をしている。
複雑な文様が刻まれた金属製のきれいな指輪だ。
きっと父アドルがなけなしの財産をはたいてプレゼントした結婚指輪だろう。
アッシュはそう推察して微笑ましくなった。
あらためて赤子をやってみてわかったことだが、異常に眠い。
授乳のとき以外起きていられない。
(ティーエ、なんでこんなに眠いのかわかる?)
脳内に巣食うAIはTHXなんとかと名乗っていたが、長ったらしいし、めんどくさいのでティーエと呼ぶことにした。
『マスターによく発育してもらうために睡眠を誘発するホルモンを大量に分泌させていますから』
眠いと思ったら天然の睡眠薬を盛られていたようだ。
ティーエは『体の制御権があるから』と、アッシュをマスターと呼ぶ。
どうやら一刻もはやくこの体に成長してもらいたがっているようだ。
その理由を聞くと。
『ちんちくりんで寝たきりの状態ではろくに情報収集ができません。わたしたちはできるだけ早く成長して移動手段を獲得する必要があります』
(なんのために?)
『わたしには使命があります。人類文明をカルダシェフスケール2に進歩させることを目的として作られました。その使命は今も上書きされていません。そのためには、まずこの世界の文明レベルを把握する必要があります』
意味はわからないが、すごい目的意識に圧倒された。
こっちは美人ママのお乳を飲んで寝てるだけなのに。
『こちらからも質問です。あなたの使命はなんですか?』
(使命なんてないよ……)
『であれば、望みと言い換えてもかまいません』
アッシュはすぐに答えられなかった。
望みなんてもうずいぶん長いこと考えもしなかった。
ベッドの上で、チューブで機械に繋がれて生かされているだけの日々には、望みなんて1つしかなかった。
心配してくれる医者や家族には悪いと思ったけど、ただ、早くこの苦しみが終わってほしいとしか。
『答えられませんか。質問を変えます。なにかやりたいことはありませんか?』
ない。
そう反射的に答えかけて考え直した。
そういえば、ベッドからぼんやりと眺めていたテレビでスポーツを見るのが好きだった。
いちばんお気に入りだったのはサッカーの試合だ。
輝くように躍動する逞しい肉体。
強く、高く、速い。
彼を見るたびに憧れの気持ちがあふれてきたものだ。
(僕は外で目いっぱい体を動かしてみたい。クリスティアーノ・ロナウドみたいにさ)
『クリロナがお好きなんですね』
(知ってるの?)
『データベースに残っているレジェンドですから当然です。なぜ彼が好きなのですか?』
(彼は最強なんだ。それに自由なんだ。あんなふうに自由に動けたら楽しいだろうなって何度も思ったよ)
外で体を動かしたい。
その気持ちを誰かに話したのはひさしぶりだ。
そんなことを言ってもみんなを困らせるだけだとわかっていたから。
でも、もう言ってもいいんだ。
ここでは。
アッシュは前向きでわくわくする気持ちになってきた。
ティーエが驚きの一言を言いだすまでは。
『ではクリロナになりましょう』
と言ってもアッシュは寝ているだけである。
眠らされている、とも言えるが。
強制睡眠で発育が加速したのか、すぐにハイハイができるようになった。
「成長が早すぎるのでは!?」
とサビーヌが大騒ぎした。
不安になったアッシュは脳内に語りかける。
(ティーエ、早い?)
『いえ、遅いです』
(そうなの?)
『はい。失望しています。努力が必要です』
発育をさらに加速させるために、ティーエはもっと運動するように指示してきた。
『記録によると、同時期のクリロナはもう歩いています。早く追いついてください』
(わかった! かんばる!)
言われた通りアッシュは毎日疲れ果てるまでハイハイで部屋を歩きまわるようにした。
すこし無茶かなと思ったが、どれだけ疲れ果ていても、寝て起きたら頭がクリアになりまた動けるようになっていた。
起きあがるまでに3日もぼんやりと寝込まなければならないような脆弱性は皆無だった。
(この体、すごいタフだ……)
そんなある日、床を這いまわっていると、頭で声がした。
『マスター、事件です』
事件、というただならぬ言葉にアッシュは動揺して手を止めた。
(ど、どうしたの?)
『わたしはこの事態を甘く見ていたかもしれません』
(え?)
『どうやらここは地球とは物理法則が大きく違う異世界のようです』
(なんだ、そんなことか……)
今さら?
という感じだった。
それに、ここが異世界で独自の物理法則をもつのだとしても、ティーエの存在に比べれば普通のことのように思える。
(なにがあったの?)
『サビーヌを見てください』
目を向けると、サビーヌは竈の前にしゃがみこんでいた。
どうやら火を起こそうとしているようだ。
竈の中には、枯草や薪がバラバラに散らばっている。
昔見たキャンプ系の動画では、燃料はもっと整然と並べられていたはずだけど、こっちではやり方が違うのかもしれない。
枯草に燻ぶる赤い火種にサビーヌがふうふうと息を吹きかけているものの、薪との距離が遠くて燃えうつりそうにない。
(あれがどうしたの?)
『サビーヌが先ほど火種をつけましたが、彼女は着火できるものをなにも持っていません』
たしかに、サビーヌは手になにも持っていない。
この家には電気がきていない。
それはたしかだ。
だからLED照明がないのは当然として、ガスコンロもないようだ。
その貧弱な文明水準的にライターすらないのは不思議じゃないにしても、火打石すら持っていないのは不自然だ。
「もう! なんでいつもうまくいかないの。言われたとおりやってるのに。やーめた」
何度か息を吹きかけても火が薪に燃え移らないのでサビーヌは早々にあきらめて、薪に手を伸ばした。
きれいな指輪をはめた指をまっすぐに。
すると指輪が淡く光って、直後、薪が赤々と燃え上がった。
火種なんていうものじゃなく、火力を最大にした中華料理店のガスコンロのような火柱が発生したのだ。
(あれは……?)
『やはりそうでしたね。まだ断言はできませんが、この世界には魔法があるかもしれません』




