湧いてきた水 (下)
おかしなことというのは、立て続けに起こる。
翌朝、『ジュンちゃん騒動』に新たな展開があった。なんと、もう一頭のアゴヒゲアザラシが筒井市に現れたのだ。ジュンちゃんにそっと寄り添うようにして川の中から顔を出す姿がマスコミによって撮影され、筒井川にはこれまで以上の野次馬が押しかけた。繭子はこれを機と見て、はなまる商店のテントを増設。響と紫もテントに合流して、繭子の企画したグッズや飲料水を販売することになった。
しかし、あまりの暑さに正午には集まった野次馬もマスコミもほぼ撤収してしまった。紫たちは手持ち無沙汰になり、テントの中で弁当をつつきながら休んでいる。
「アザラシって海におるんやろ。一頭ならともかく、二頭もこんなところまで泳いでくるかな」
そう言ったのは響だった。
「こんな暑いところに、いつまでいるつもりなんや」
響の疑問に、興味なさげに繭子が
「知らん。そんなん、私らが考えてもわからんやろ。そんなことより、あのもう一匹のアザラシの名前を早く決めてもらわんと新しいグッズが作られへんわ」
と答える。
相変わらず、彼女は頭の中の算盤をはじくのに必死だ。
すると、冷えたサイダーを飲む紫に響が、
「紫さん、あの湧水飲みましたか?」
と探るような顔つきで話しかけて来た。
「飲んだというか、一応使わせてもらったけど」
そうして、昨晩の経緯を掻い摘んで響に説明する。
「あの水で米を炊いたら、おばさんが一人で米三合も食べたんですか? 実は、うちもちょっとおかしいことがあったんですよ」
その『おかしいこと』というのはこうだ。
湧水を使って繭子がコーヒーを淹れて、アサさんに振舞ったところ、夏バテ気味だったアサさんがいたくコーヒーを気に入り、一人でカップ五杯以上飲んでしまったらしい。その後、就寝前にも関わらずアサさんはいきなりジャージに着替えて、室内のランニングマシーンで走り出した。一時間も。
「おかしいですよね?繭子は『カフェインのせいちゃうか』とか言って、全然気にしてないみたいで」
「二人は、そのコーヒーは飲んでないの?」
「僕も繭子もコーヒー苦手やから飲まんかったんです。で、今日の朝からおばあちゃんは俳句会の友達とか、近所の人たちを集めて一緒に湧水を汲みに行くって出ていきましたよ」
不安げな様子の響と違い、繭子はまるで意に介していないような顔をしている。
「うちはな、代々女が元気やねん。夜中にいきなり走り出そうが別におかしいことちゃうわ」
「そうかなあ、おかしくないことはないと思うねんけど。あの水、やっぱり怪しいんちゃうかな」
その後、夏バテでへばっていたお年寄りたちは湧水を飲んだ結果、矍鑠と歩き出し街にあふれ始めた。駅前の室内スポーツセンターや、夕方の公園で動き回る彼らの姿を見て、少なくはない人々が半信半疑で朝岡寺の裏の空地へと列を作るようになった。
そのうちに、『湧水には不思議な効能があり、人々の病が治る』と囁かれたことから、人気絶頂の二頭のアザラシとの相乗効果で筒井市には近隣から人が押し寄せるようになった。
繭子がフル回転で動き始めた。
はなまる屋の社用車を使用することをアサさんから許されたので、パートさんたちを動員して弁当や飲み物を駅前と筒井川土手に設置した大型テントで販売することにしたのだ。そこでは、当然のように繭子が企画したジュンちゃんグッズも置かれていて、いつのまにかアザラシの焼き印が二つ押された『アザラシまんじゅう』も期間限定で売り出されていた。
そして、そのアザラシ饅頭(六個入り七百円)を手土産に、紫と繭子は一泊分の荷物を持って、朝岡寺の住職の妻である清子の元を訪れている。すでに夏休みも中盤に差し掛かっていた。
「ごめんね、急に呼び出して」
申し訳なさそうに清子は頭を下げて、寺の住居スペースへと二人を招き入れる。彼女はわざわざ二人のために、デパートで買った有名洋菓子店の焼き菓子と英国有名メーカーのアイスティーを出してくれた。住職は昨日から四国へ出かけていて不在である。
「警察にはすでに説明したんやけど、裏の土地に侵入して水を大量に汲み出してる人たちがいてたんよ。深夜の二時頃に。そんな時間に汲みに来るのも非常識やし、小型トラックにポリタンクを大量に積んでたんよ。おかしいやろ?」
寺と空き地には、最近になって常夜灯が増設された。清子は最近配信のタイドラマを熱心に視聴しており、この日も遅くまで起きていたらしい。エンジン音と複数の男たちの話し声が聞こえて来たので、二階のベランダから観劇用のオペラグラスで外を見てみると、水を汲んで運び出す男たちが常夜灯に照らし出されていた。
「びっくりして、すぐにスマホで動画を撮影したんよ! でも夜だったから不鮮明で」
そう言って、清子は撮影した動画を二人に見せてくれた。
水の入ったポリタンクを黒のライトバンと白の軽トラに積み込む四人の男たちが、動画に映り込んでいる。
「これ、車のナンバープレートばっちり映ってますね」
紫がそう言うと、清子は大きく頷く。
「それね、警察の人にも見せたのよ。そしたら、盗難届の出てる車だったらしくて。怖いわよねえ。ほどほどの田舎でのんびりしてるのが筒井市のいいところなのに、最近は知らん人らが大挙して押し寄せるようになってきてるし」
「すいません。静かなお寺さんに、うちの土地から出た湧水のせいで怖い思いさせてしまって」
繭子が頭を下げると、清子は慌てて手を振る。
「はなまる屋さんにはいつもお世話になってるし、湧水が出てからここにも参拝者の方やお墓参りに来てくれる檀家さんが以前より増えたから、それはほんまに助かってるの! 電話でも伝えたけど、住職が明日帰ってくるから、それまで二人が一緒にいてくれたら助かるわ」
寺として警備保障会社とも契約しており、警察も巡回を約束してくれたものの、住職が不在の夜が心細くて夜も心配で眠れないらしい。
「まあ、夜眠れへんのはタイドラマのせいなんやけどな~」
と、清子は大きく口を開けてケラケラ笑った。
夕方になり、三人がデリバリーのピザを食べている時に、その電話は寺に掛かって来た。
「もしもし? はいはい、そうです。え、捕まった? 自首したんですか」
廊下の電話で話している清子の声が、ダイニングにいる二人にも聞こえてくる。汚れた指先をウェットティッシュで拭った繭子が、
「捕まったんなら良かった。これで、ひとまず安心やわ」
と言う。
電話はすぐには終わらず、
「そんなことありますのん?」
とか、
「へえ、あの水が? ほんまかいな、信じられへんな」
という清子の声が響いてくる。
「捕まったんや。良かった」
まだピザを咀嚼している紫も、うんうんと首を縦に振る。
しかし、廊下から戻って来た清子は釈然としない顔をしていた。
担当の警察官が言うには、犯人は二十代の男性五人。昨晩は市内の工事現場から資材を盗み、ついでに今話題の筒井市の湧水を汲んでネットサイトで転売しようとしていたらしい。
「なんかねえ、ほんまかわからへんけど『あの水を飲んだら、罪を告白したくなった』って犯人は言ってるらしいの。余罪もいくつかあったらしいんやけど、全部警察で白状したんやって。取り調べにもスムーズに応じていて、反省も深いみたい」
「水飲んで自首? そんなアホなことあります? その水に、何か変なもん入れて飲んだんとちゃいますか」
「ほんまにねえ。警察も、そんな話を真に受けてる暇ないはずやけど。だいたい、私も飲ましてもらってるけど体調には特に変化ないわよ」
警察官の話を懐疑的に受け止めている二人に、それまでおとなしく話を聞いていた紫が、
「でも、アサさんとかアサさんのお友達で湧水を飲んでから急激に元気になった人もいてるじゃないですか」
と口を挟むと、
「それはな、あれや。『プラセボ効果』や」
と答えたのは繭子だ。
プラセボ効果というのは、全く薬の効果を持たない偽薬を飲んでも効果が出てしまうことをいう。この効果は、痛みや不眠、下痢に影響を及ぼすことが多く、ある実験では偽薬を飲んだ人の三十%に鎮痛効果があったとも報告されているらしい。
「健康になる水、美容に良い水って言われたら、毒にはならんそうやし、ちょっと飲んでみようって思うしなあ。その、プラセボ? それで体調が良くなったと思えるのなら幸せなことちゃうの」
清子はワインの栓を開けると、
「でも、私は断然コレやね」と言ってグラスに勢いよくワインを注いだ。




