湧いてきた水 (上)
翌朝、のそのそと起きて時計を見ると、すでに約束の十時を三十分も過ぎているではないか。スマホには繭子からの、
『どこ?』
『起きてるか?』
『あんた、寝てるやろ!』
という怒涛のメッセージと怒りと呆れのスタンプがこれでもかと届いている。
『ごめん。今起きた。今から行くわ』
短いメッセージを送り、家を出た紫だったが結局現地に着いたのは昼過ぎだった。駅に自転車を置いて、そこからはバスで朝岡寺まで行くはずだったが、肝心のバスが運転手不足のため減便されていたのだ。
仕方なく駅ビルの中の安くはない喫茶店で時間を潰すはめになった。
遅れて現地に到着した紫に、繭子は呆れた口調で、
「起きられへんのやったら先に言いや。心配するやん」
と言い、ペットボトルの水を渡してくれた。
ここは山の中腹にあるので、日陰も多く街中にいるよりも涼しく感じられる。紫が到着するころには蛇口設置の工事は既に終わっており、業者の人たちは帰った後だった。
空き地のほぼ真ん中に一本の蛇口が頼りなく立っているのを見ながら、二人は土地の入り口にある大きなクスノキの下にしゃがみこむ。
「ごめん。寝坊したし、乗りたかったバスも減便で走ってなかったから」
差し出された水を一口飲むと、何やら甘さが感じられ、すっきりとする。
「スマホ持ってるねんから、ちょっと連絡すればええだけやん」
「それはそうやねんけど」
続けて二口三口と水を飲む。
「この水、美味しいなあ……」
「せやろ。それ、湧いてきた水や」
紫は得意げな顔をしている。
「ほんまはな、この水を売ったらどうかっておばあちゃんに言ってん」
「は?」
紫は、思わず繭子に聞き返してしまった。だが、繭子は気にすることなく話している。
「タダはもったいないと思うねんな」
「アサさんはなんて?」
「お寺さんの裏の土地から出た水やから、そういう水を商売に使うのはいかがなものかって言われたわ」
「たしかに」
「たしかに、ちゃうわ。この湧水やって突然湧いてきたってことは、また突然止まってしまうことも考えられるねんで。ここにあるうちに有効活用せえへんのは損やで」
「でも、アサさんは損とか得とかの話をしてるわけではないよな」
「そうやねん。だから、水を入れるためのポリタンクだけ販売したらどうかなって思って」
やれやれ、と紫は頭を振った。
「あほらし」
紫がそう言うと、繭子はニヤリと笑った。
「まあ、せっかくこんなところまで来たんやから、水は持って帰り。ポリタンク貸したるから。これでお米炊いたら、美味しいで」
「湧水でお米とか炊いて大丈夫なんかな。煮沸したほうがええの?」
「水質調査してくれた会社の人からは、問題ないって言われたから。また飲みたくなったらいつでも言いや」
こんなところまで、夏休みでもなかったらわざわざ来ない。紫は曖昧に笑った。
外出から帰ると、いつもなら疲れ果てて何もする気が起きないのだが、今日はそうでもない。自宅のキッチンで米びつを開け、片手に持ったスマホで『米の炊き方 湧水』と検索して、紫は黙々と米を炊き始めた。
湧水は煮沸して冷ました方がいい。
米を手早く研ぐ。時間がない時は米を水に浸からせなくてもいいらしい。
炊飯器の釜に米を入れて、水をやや多めにセットして氷を適当に投入してから炊飯器の蓋を閉めた。
「これで、よし」
時計を確認するとちょうど夕方の六時。お腹も減っているので、紫はガサガサと冷蔵庫の中を探ってみる。料理は得意ではないので、卵かけご飯くらいしか作れない。
たまご一個と小分けの鰹節パックと醤油を取り出し、ダイニングテーブルに並べたところで、母の道子が帰宅してきた。
「あんた、何してんの」
「何って。ご飯食べようと思ってるだけやけど」
そう言って、ふと気づく。
(お母さんの顔見たの久しぶりかもしれへん)
同じことを道子も思ったのか、こちらの顔をじっと見つめている。
「お米の炊き方わかったん?」
「スマホで検索したよ」
「そうかぁ。私が食べる分もあるかな。もしかして、あんた自分の分だけ炊いたん?」
「一合やから、お母さんの分もあるよ」
こんな風に話すのも随分久しぶりの気がした。ここ最近は、母が在宅している時間に紫は自室に閉じこもり、直接相対することもなく避けていた。
「学校には今日も行かへんの? このままどうするつもりなん?」
そんな風に詰問されるのが嫌だった。
夏休みの間、母は何も言わなくなった。
新学期から学校に登校するのかどうか、この先娘が何をしたいと思っているのかを本当は問いただしたい気持ちがあるのかもしれないが、それもない。
炊飯器がピピピと電子音を立てて、米の炊きあがりを知らせてくれる。紫は母の空の茶碗に米をよそいテーブルに置いた。母がスーパーで買ってきた2割引きの総菜を、小皿に移して並べている。
「ごはん、美味しそうやね」
そう言って、道子はあっという間に炊きあがったごはんを完食してしまった。
そして、
「ちょっとお代わりしたいんやけど」
とまで言うではないか。
紫は思わず自分が食べるはずだったごはんまでも、道子の飯茶碗によそってしまった。
「あんたが炊いてくれたからかな。ほんまに美味しいわ。いつもの米じゃないみたい」
「大げさやわ、そんなん」
「ううん、ほんまに。これ、うちにあったお米やんな?」
おかずに手を付けることなく、あっという間に一合の米を食べきってしまった道子の目が涙で潤んでいる。
「ごめんね。紫の顔をじかに見たら、学校にとにかく行ってほしいってそれだけしか言えへんくて」
ぽつりと呟いた母の顔を、思わずまじまじと見てしまう。
学校に行けなくなった紫に対して、この人は、
「お父さんに、なんて説明したらええの」
と言って、ひたすらうろたえるばかりだった。
神奈川に単身赴任中の父は、娘の本当の状態を未だに知らない。
涙目の道子は続けて言う。
「紫、今からお米二合くらい追加で炊いてくれへん?」
ん?米?
何かがおかしかった。




