夏のはじまり
蝉も死に絶えるかのような、夏。
紫は、クーラーの効いた涼しい部屋で何をするでもなくただ寝転んでいる。何をしようとしてもやる気というものが湧いてこない。
階下から、母親である道子の、
「仕事行くからね」
という声が聞こえてきたが返事もしなかった。すると、いつもならこのまま出勤してしまう母が珍しく部屋のドアをノックする。
「紫、起きてるんやろ? 今ね、お母さんたち役所の人間はみんな『ジュンちゃん騒動』でごっつい忙しいんよ。帰りも残業で遅くなると思うから、晩御飯は適当に済ませてな」
「うん」
「お小遣いはテレビの前のテーブルに置いとくで」
ありがとうと言いたかったが、申し訳ない気持ちが強く何も言えない。やがて、母が家を出ていく音が聞こえたので、部屋からのっそりとリビングへと出てきてソファに腰掛ける。目の前のガラステーブルに千円札が置かれていた。
特に、これといった観光資源のない我が筒井市に、この夏一大旋風が巻き起こった。
筒井市には大きな河川が二つある。一つは筒井川で、もう一つは神祭川。二つの河川の合流地点に、ある日その生き物・ジュンちゃんは現れた。
ジュンちゃんの正体は北極圏に生息するアゴヒゲアザラシで間違いない、と専門家やマスコミが断言。なぜ筒井市に姿を現したのかはさっぱりわからなかったが、愛らしいジュンちゃんを一目見ようと野次馬が押し寄せ、筒井市はちょっとしたお祭り騒ぎだった。(ちなみに、ジュンちゃんの名前はネット公募で決まったものだ。筒井市にかつて住んでいた戦国武将の名前が由来である)
母は市役所の土木課に勤めているのだが、押し寄せる人々が川に侵入しないように見張り、連日マスコミとの対応もこなしている。
そんな中、十七歳の私、山下紫は暇を持て余していた。地元の進学校に通ってはいるが、高校一年の冬から『五月雨登校』を続けており、定期テストなどもまともに受けていない。夏休み直前に、宿題を受け取るために職員室に出向いたものの、何一つ手を付けていなかった。
宿題を提出するのが億劫で、休み明けに登校できる気もしない。こんなことなら宿題を受け取らなければよかったと後悔している。
テーブルの上の千円を眺めながら、ぐるぐると自らの落ち込みを感じているとスウェットの尻ポケットに入れていたスマホが震えた。
「ひま?」
SNSのメッセージで連絡してきたのは、幼馴染の田中繭子だった。
彼女は紫と同じ高校に通っており、筒井市中心部のスーパー『はなまる屋』の社長・田中洋子の一人娘だった。小さい身体の中に、抑えきれないほどの商魂と優しさが宿っていると、日ごろから繭子は豪語している。自分で自分のことを優しいなんて言うやつはロクなもんじゃないと思うが、私は彼女の言葉の八割ほどを聞き流して付き合っている。
「ひまではない」
と返事したが、続けて返って来たのは
「筒井川土手集合! 目印は『はなまる商店』のテントな! 早く来いや。待ってんで」
という一方的なものだった。
いつもは犬の散歩やキャッチボールをする小学生たちしか集まらない筒井川の土手。そこには今や数台の大型のバンが停車しており、人だかりができている。中心の大型テントには『はなまる商店』のロゴが踊り、そこでは繭子が一つ下の従弟である響を従えて、忙しく走り回っていた。連絡をもらってからゆっくり一時間半後に駆けつけた紫を見て一言
「遅いな、牛歩で来たんか?」
と繭子が言う。目が据わっている。
「まあ、ええわ。紫にはこれ頼むから」
返事もしないうちから、繭子がクーラーボックスを紫に押し付けた。
「水は一本二百円。釣銭はこっちのポーチに入ってるから。響は紫と一緒に回ってカチ割り氷を百円で販売すること。暑いから熱中症に気をつけてな!」
早口でベラベラと捲し立てながら、繭子はウエストポーチと、売り上げを入れるための斜め掛けポシェットを紫の首に強引にかける。
「今が稼ぎ時やで、沢山売ってきてや」
そう言うと、彼女はバンバンと紫の背中を強く叩いた。まるでアスリートに活を入れる名コーチのように。
「紫さん、すんません。急に呼び出して、こんなことさせて」
テントを出てすぐに、響が申し訳なさそうにぼそっと呟いた。彼は昔から繭子の子分のような存在である。
繭子の母である洋子は、筒井市内でコンビニとスーパーを数店舗経営しているやり手の経営者だ。隣県に住んでいる響の母が、姉である洋子と今年の夏はクルーズ船で旅に出ているため、響は繭子の家に泊まりに来ている。
繭子の家には祖母のアサや通いのお手伝いさんがおり、美容家として活躍する響の母は頻繁に子どもを実家に預けていた。長期休みには当たり前のように響が繭子にくっついているので、二人は姉弟だと思っている人間もいるようだ。
響は高校入学時に身長が百八十センチを超えており、鬼瓦のような厳めしい顔をしているが、性格は繊細で優しい。今もテントから出たばかりの紫に「失礼します」と声をかけてから、冷たいタオルを首にかけてくれた。
「ミネラルウォーター完売! カチ割り氷も完売!」
ジュンちゃんを一目見るために集まった人たちの中に飛び込み、紫と響は無事にクーラーボックス内の商品を売り切った。
テントに戻った二人を待っていたのは、鬼のような形相でノートパソコンの画面を睨みつけている繭子だった。
「あかん、転売されてる!」
「転売?」
怒り心頭の様子の繭子を見ながら、付き合いの長い紫と響は特に遠慮もなくパイプ椅子に身を投げ出すように座る。
「このジュンちゃんフィーバーも、もって三週間くらいやと思う。その間に稼げるだけ稼ぐつもりやねんけど、『ジュンちゃんアクリルスタンド』がフリマサイトで転売されてるって連絡がさっきあって……」
「アクリルスタンド?あんた、そんなん作ったん?」
「商店街の大木印刷所さんに頼んで、三百だけ作ってもらったの。これや」
よく見ると、テーブルの上にアザラシのアクスタが並んでいた。三種はジュンちゃんの写真を印刷したもので、もう一種は可愛いらしいアニメ調アザラシのイラストだった。イラストが得意な響が所要十分で描いたと知り、
「器用やねぇ」
と紫は感嘆の声を上げる。
駅前のコンビニの特設コーナーと、はなまる屋のサイトから通販で販売し、昨日完売したようだ。だが繭子の計画はこれだけではないらしい。
「商工会議所青年部のランチ会で知り合った椿メリヤスの陽菜さんが、在庫になった五本指シルクソックスを融通してくれたから、ここにアザラシの刺繍ワッペンをつけて販売することになった。一足千二百円や」
かなり強気の価格設定だ。
「そんなに稼いでどうするん」
「このジュンちゃんグッズで稼いだ資金を、高校の体育館へのエアコン設置資金の一部として寄付しようと思ってる」
驚いた。
繭子は昔から金にがめつく、何でも自分中心に考え行動し、そのせいで小学校から中学時代にはクラスでのいざこざを生んでいた。高校に進学してから繭子と紫はクラスが離れたので良くはわからないが、中学までのようなトラブルは一向に聞こえてこない。
「繭子、あんたすごいな。見直したわ」「湧水? 井戸水みたいな?」
朝岡寺は、筒井市のほぼ真ん中に建つ筒井山の中腹にある江戸時代に建立された寺だ。昔から筒井市に住んでいる人たちは、ほぼ朝岡寺の檀家で、ここの裏の土地は繭子の祖母・アサの土地でもあった。寺で特別な行事がある時だけ、アサは無償で土地を寺側に貸している。
「水は一か月前から湧き出してたらしいねんけど、おばあちゃんが三週間ほど前に水質調査を依頼してたらしい。さっき、その会社から連絡があって、驚くほど純度の高い、美味しい水が湧いてることがわかったらしい」
「水って、そんなに突然湧いてくるもんなん?」
「知らん。なんもわからん。でも、湧いてきた水は折角やからお寺さんとか檀家さんとかに使ってもらったらええんちゃう?っておばあちゃんは言ってんねん。簡単に工事して誰でも水が汲めるようにするねんてさ」
「それやったら、私も少しだけ汲みに行こうかな。美味しいんやろ?」
そう言うと、待ってましたとばかりに、
「そう思うんやったら、他の作業も手伝ってや。バイト代出すし」
どうせやることもないので、紫は夏の間は繭子の手伝いをすることになった。
その日の夜、慌てた様子の繭子が紫に電話を掛けて来た。
「えらいことになった。朝岡寺の裏地から湧水が出た」
「湧水? 井戸水みたいな?」
朝岡寺は、筒井市のほぼ真ん中に建つ筒井山の中腹にある江戸時代に建立された寺だ。昔から筒井市に住んでいる人たちは、ほぼ朝岡寺の檀家で、ここの裏の土地は繭子の祖母・アサの土地でもあった。寺で特別な行事がある時だけ、アサは無償で土地を寺側に貸している。
「水は一か月前から湧き出してたらしいねんけど、おばあちゃんが三週間ほど前に水質調査を依頼してたらしい。さっき、その会社から連絡があって、驚くほど純度の高い、美味しい水が湧いてることがわかったらしい」
「水って、そんなに突然湧いてくるもんなん?」
「知らん。なんもわからん。でも、湧いてきた水は折角やからお寺さんとか檀家さんとかに使ってもらったらええんちゃう?っておばあちゃんは言ってんねん。簡単に工事して誰でも水が汲めるようにするねんてさ」
「それやったら、私も少しだけ汲みに行こうかな。美味しいんやろ?」
そう言うと、待ってましたとばかりに、
「明日の朝十時、現地集合な!」
と紫は一方的に告げて電話を切ってしまった。
久しぶりの投稿となります。よろしくお願いします。




