9、シエナの選択。そして、菌の痕跡
「……あれ、夢の中で……誰かが話しかけてくれた気がしたんだよ」
患者の男が、まだぼんやりとした表情で呟く。
「苦しくて、でもあったかくて……なんか、土みたいな匂いがしてさ……」
医師はぽかんとしていた。
それもそのはずだ。この治療に魔法は使っていない。薬もない。ただ──
「菌、ですか?」
俺は頷いた。
「菌は、人の内側にあるから。だから話せるんです」
誰も言葉を返さなかった。
代わりに、部屋の空気がふわっと緩んだ。
“信じていいかもしれない”──そんな空気。
町の封鎖は、午後には解除が始まった。
ギルド支部が正式に報告書を提出し、回復した患者の証言が信ぴょう性を裏付けた。
町の子どもたちが、門の近くでこちらに向かって手を振っている。
「せんせー!ありがとー!」
……まあ、先生ではないけど、否定する理由もなかった。
「……英雄扱いされる菌使いなんて、見たことないんだけど」
シエナが隣でぼそっと漏らす。
「俺も初めてだよ」
「……ふーん」
それだけ言って、シエナは背を向けた。
しばらく無言の時間が続いたあと、小さな声が聞こえた。
「……ありがと」
俺が反応する前に、ドン子が肩の上で爆発した。
『聞いたか!?ついに礼を言ったぞこのツンツンが!!』
「やめてドン子、逃げるって!」
『やめぬ!これは祝いじゃ!宴を開こうぞぉぉ!!』
「やかましい!静菌にしてやる!」
シエナが手を振り下ろし、ドン子が物理的に叩き落とされた。
だが──笑っていた。ほんの少しだけ。
俺はその様子を見ながら、町の外れへと足を向けた。
*
おかしい菌がいたのは、封鎖された納屋だった。
半壊しかけた木の扉を開けた瞬間、
鼻の奥に、ざらりとした刺激が走る。
「ここだ。……暴れてる」
【菌鑑定士】を発動し、菌の流れを視る。
床下に、強い“記憶痕”が残っている。
視線を追うと、棚の裏側に隠された小さな金属箱があった。
開けると、数本の試験管と、乾燥された胞子が丁寧に保管されていた。
「……人工培養?」
この世界では、菌の培養技術はほぼ存在しない。
自然由来の収集が基本だ。なのに──これは、明らかに“選別されてる”。
「菌の構造が……現代の分類法に近い」
その中の一本を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「……これは……まさか」
ドン子がのぞき込む。
『なんじゃ?知っておるのか?』
「知ってる。“黒霧”系統の胞子。俺が……前世で、最後に失敗した品種だ」
それは、菌床からわずか数日で全ロットが腐敗して全滅した“幻の椎茸”系。
幻覚作用を持ち、再培養ができず、データも破棄したはずだった。
なのに、ここにある。
「おかしい……この菌、俺と──あの研究所しか知らないはずなのに」
手が震えた。
誰かが、自分の過去に触れている。
「前世の記憶を……共有してるやつが、いる……?」
*
ギルド支部に戻ると、報酬とともに新たな通達があった。
「あなたには今後、“菌関連調査専門調査員”としての継続任務をお願いしたい、と本部が──」
「いいよ。菌が困ってるなら、助けにいく」
ドン子がふふんと浮かびながら、ルンルンで回転している。
「ほれみろ!菌の時代じゃ!わらわの時代じゃー!」
「調子に乗るなって」
シエナが横からつぶやく。
「……次の任務、私も同行する。理由は聞かないで」
「期待してないけど、歓迎するよ」
「くっ……まさかの正妻枠争い……!」
「違うわ!」
三人の声が重なる中、俺はふと、小瓶に目を落とした。
あの“黒霧の影”は、もう俺だけの記憶じゃない。
どこかに──同じ知識を持ち、菌を操る“誰か”がいる。
「次は……そっちと向き合うことになりそうだな」
風が吹く。
胞子が舞う。
そして、物語は次の菌を目指す。