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王子の夢と滅びの運命(短編)

作者: 小鳥遊ゆう



ある大陸の片隅に存在する、豊かで緑美しい王国。


そこにはそびえ立つ壮大な山々と、風に揺れる広大な草原が広がり、その景色は見る者の心を奪うほどの輝きを放ってた。


夜ごと王城では華やかな舞踏会が繰り広げられ、王族と貴族たちは贅を尽くして暮らしていた。


しかし、その華やかさの裏には、届かぬ幸福に喘ぐ民衆の姿がった。


王国の民は、厳しい生活に追い詰められていた。


重い税に加え、厳しい兵役、そして反抗する者に対する容赦のない罰。裕福な暮らしが出来るのは王と貴族ばかりで、その陰で平民たちは飢えと疲労に押し潰されながら生きているのだった。





※※※





王子アレクシスの朝は、いつも変わらない。


朝露に濡れる城の庭園、遠くの鐘の音、厩舎で馬が蹄を鳴らす音が重なり、穏やかな一日の始まりを侍女が告げるのだ。


十五歳を迎えた王子にとって、外の世界はまだ未知の領域でしかなかった。父王の指示で受ける訓練や教育、そして宮廷のしきたりに縛られ、城外で何が起きているのかを知る機会は少なかったからだ。


しかし、ここ数年、王都周辺で広がる不穏な噂が王子の耳にも届くようになっていた。


「子どもに満足な食事を与えられない」


「病になっても、医者にかかることも薬を買うことも出来ない」


城の中ではいつも豊かな収穫や祝宴の話ばかりが語られるが、気を付けてみれば、その裏で苦しむ民の声がかすかに漏れ聞こえるのだ。


それを確かめるべく、王子は一人、簡素な衣装に身を包み、城を抜け出すことにした。




アレクシスが最初に訪れたのは、城から半日ほど馬を走らせた場所にある小さな村だった。


田畑が広がり、所々に古びた茅葺き屋根の家々が並ぶ。


馬を降り、村人たちの営みを眺めていた彼の前に、一人の幼い少年が駆け寄ってきた。


「お兄さん、どこから来たの?」


アレクシスはその言葉に苦笑した。城の中では「王子」と呼ばれる自分が、こうして遠慮なく声をかけられるのが妙に心地よい。


「旅の者だ。君の名前は?」


少年は「マルク」と名乗った。彼の案内で村の中を歩くうち、一軒の粗末な家に着いた。戸口に立つのは、痩せた女性だった。マルクの母だという。


「お恥ずかしい話ですが、何のおもてなしも出来ません。昨年、夫を病で亡くしました。残ったのはこの子と荒れた畑だけです。」


その家には家具らしいものはほとんどなく、母子の生活が苦しいことが一目でわかった。王子は彼女の話を聞きながら、自分が城で何不自由なく過ごしている間、ここで生きる人々がいかに困難な日々を送っているのかを実感した。


帰り際、マルクが手を振る姿が目に焼き付く。その笑顔は眩しかったが、心に重くのしかかるものがあった。




次に、アレクシスは町を訪れた。王都から比較的近い場所にあるその町は活気がある一方、薄暗い路地に目を向けると、そこにはスラム街があった。


市場を歩いていると、突然の騒ぎが起きた。振り向くと、少年が何かを抱えたまま逃げ出そうとしている。その後を、怒声を上げる商人と衛兵が追いかけていた。


アレクシスは思わず足を止め、事の成り行きを見守った。結局、少年は路地の隅で衛兵に捕まり、手をねじ上げられる。盗まれたものを奪い返した商人は容赦なく罵声を浴びせた。


「盗みなんてしやがって! お前みたいなガキがいるから町の治安が悪くなるんだ!」


少年は何も言わなかった。ただ、固く目を閉じて震えている。その手には、少し汚れたパンの欠片が握られていた。


アレクシスは近くの衛兵に声をかけた。「その子を放してやってくれないか。代金は私が払おう。」


「しかし、これは罪ですぞ、若旦那様。」


「分かっている。しかし罰するだけが解決ではないはずだ。」


その言葉に衛兵は渋々うなずき、少年は解放された。王子は代金を支払いながら、少年に小さな声で言った。「次は正直に買うんだぞ。」


少年は何か言おうとしたが、結局言葉にならず、その場から駆け出した。




町を離れた後、王子は訓練場にも足を運んだ。兵士たちが日々訓練をしている場所だ。しかし、その現実は想像以上に悲惨なものだった。


剣や盾は錆びついており、防具もぼろぼろだ。一人の若い兵士が苦笑しながら言った。「これで敵と戦えと言われてもね……だけど飯が食えて、飢えないだけでもありがたいのです。」


彼らの食事は、わずかなパンと水だけだった。その一方で、貴族出身の上官たちは豪華なテントで贅沢な食事をとっていた。


「私たちは駒に過ぎません。命令に従うだけです。」

そう言った兵士の目には、諦めの色が浮かんでいた。


アレクシスは強い憤りを感じた。城で聞かされる「王国の強さ」とは、この現実を無視したものだったのだろうか。





城に戻ったアレクシスは、心に刻まれた村の貧困、町の孤児、そして兵士たちの現状を思い返した。


「これが王国の現実だとしたら、何のための政だろうか。」


彼は初めて、王族としての役割に疑問を持ち始める。それが、彼の運命を大きく変え得る一歩となった。






※※※






アレクシスは、何度かそっと城を抜け出すうち、町の噂話の中で「未来を夢で見せてくれる」という占い師の名前を耳にした。


セリーヌというその占い師は、過去に()()()()()()()()に未来を見せたこともあると噂されていた。


何でも、彼女が作る香を焚くことで、人々は眠りの中で未来の兆しを見、悩みや不安に対する答えを得られるというのだ。その話を聞いたアレクシスは、静かな決意を胸に、セリーヌを訪れてみることにした。


城を抜け出し、夜の町へと足を運んだ。彼が訪れたのは、貴族の住む地区ではなく、ひっそりとした裏通りにひっそりと佇む小屋であった。古びた扉を押し開け、彼は中に足を踏み入れる。


「王子アレクシス様、ようこそ。」


セリーヌはその姿を見て、驚くことなく、冷静に迎え入れた。その顔立ちは年齢を感じさせないほど若々しく、美しいが、その瞳には深い知恵と経験を感じさせるものがあった。


「あなたがセリーヌ?」


アレクシスは声をかけながら、緊張の面持ちを隠すことなく、彼女の目を見つめた。


「はい、その通りです。私はセリーヌ、この香を使って未来を見せる者です。王子様が何を求めているのか、すでにわかっています。」


セリーヌの声は、穏やかでありながらも、どこか深い洞察力を持っているように響いた。アレクシスはその言葉に驚き、自然と胸の内を話し始めた。


「僕は王国の未来に不安を感じている。」


彼は言葉を慎重に選びながら続けた。


「国を治める責任は重く、民の不満が日に日に増していく中で、どのような王になるべきか分からなくなってしまった。」


彼の声には、葛藤と苦悩が滲み出ていた。王位を継ぐことに対する自信を持っていたはずの彼も、次第にその重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。


セリーヌは王子の話をじっと聞いていたが、その後に静かに頷いた。


「ならば、私の香を使いなさい。あなたが未来の道筋を見出すための手助けをするでしょう。」


彼女は棚から小さな瓶を取り出し、アレクシスに手渡した。その瓶には、淡い光を放つ不思議な香りが漂っていた。


「これを寝室で焚き、眠りにつくとよいでしょう。だが、その香りが見せるものは、必ずしもあなたの望む未来ではないことを覚悟しておきなさい。」


セリーヌは静かに警告をした。


彼女の言葉には、ただの予言者としてではなく、王子に対して試練を与える者としての責任感が滲み出ていた。


アレクシスはその言葉に頷き、香を手に取り、セリーヌの小屋を後にした。夜の冷たい風が彼の顔に当たる中、王子は王宮へと戻った。






王宮の寝室に戻ったアレクシスは、セリーヌから受け取った瓶を手にし、静かにその中身を焚く準備を始めた。


香りが部屋中に広がると、不思議なほどに心が落ち着いていくのを感じた。外の世界が静まり返り、まるで時が止まったかのような感覚に包まれていく。


アレクシスはゆっくりと布団に横たわり、目を閉じた。暗闇の中で静寂が支配する。香の香りは、心の中に深く染み込み、彼を無理なく夢へと導いていく。最初は何の変化も感じられなかったが、次第に彼の意識は遠のき、身体が重くなっていくのを感じた。


眠りが深くなるにつれて、目の前にぼんやりとした光景が現れるのだった。






※※※





月明かりが王城の窓から差し込み、静寂が辺りを包む中、彼の心は現実を離れ、夢の世界へと誘われた。


深く、深く、眠りに落ちて行くー。


そうしてアレクシスは不吉な夢を見た。それはとても奇妙で、そして現実感のある夢だった。





目の前には城を抜け出したときに訪れた町の広場があった。だが、以前の人々が賑わっていた光景とは違い、誰もいなかった。それどころか人の声や気配すら全く感じることができなかった。


「ここは……どこだ?」とアレクシスは自らに問いかけた。


その時、彼の横に一人の青年が突然現れた。その顔は不思議と親しみを感じさせたが、どこか彼自身に似ているようでもあった。


「ようこそ、未来の王国へ」と青年は微笑んだ。「君はこの場所を見たいと願ったのだろう?」


アレクシスは困惑した。「未来? これは夢なのか?」


青年は首を傾げながら答える。「夢かもしれないし、そうでないかもしれない。だが、この光景は君が作り出す可能性の一つだ。」


青年は一つの方向を指さした。

アレクシスの目は、吸い寄せられたように指さされた方を向く。


遠くの丘の上、かつて彼が知る王城が見え、そして王城は燃え上がっていた。漆黒の煙が空を覆い、その中から一群の兵士たちが馬を駆け、王旗を切り裂いている光景が見えた。その後ろで群衆が叫び声を上げている。


アレクシスは息を呑んだ。「なぜ……王城が……?」






突然、アレクシスの視点が変わった。


いつの間にか、アレクシスは青年と共に、王城のバルコニーから群衆を見下ろしていた。


無数の民衆が、怒りに満ちた目で武器を持ち、王城を包囲している。彼らの目は、王族に対する憎しみで燃え上がっていた。


「王を倒せ!」


「王を殺せ!」


青年が静かに答えた。「君が選んだ一つの未来だ。この未来では、君の国は憎しみによって分裂し、かつての栄光は崩れ去る。君の民が反乱を起こし、王族は追放されるだろう。」


アレクシスは青年を見つめる。「では、どうすればよい? 何をすれば、この国を正しい未来へと導けるのか?」


青年の目は深い憂いをたたえていた。「まず、耳を澄ませ。君の民の声に。彼らの悲鳴や嘆き、そして希望に。次に、行動するのだ。王族としての威厳を捨て、彼らと同じ高さに立て。」


その言葉を聞いた瞬間、夢の光景が急速に崩れ始めた。集まった群衆は霧に溶け、王城もまた闇に飲み込まれた。


アレクシスの意識は現実へと引き戻される。


目を覚ますと、彼は額に冷や汗を浮かべ、ぐっしょりと寝汗をかいていた。窓の外には夜明け前の星々が瞬いている。胸の高鳴りが収まらない中、彼は決意を新たにした。


「この夢が示したことを無駄にはしない。私は、この国を救うために全力を尽くす。」


夜が明ける頃、アレクシスの心には新たな覚悟が宿っていた。それは、民と共に歩む未来を選び取るための旅路の始まりだった。






※※※






数日後、アレクシスは再びセリーヌのもとを訪れる決心をした。見た未来が、ただの夢で終わることを望んでいたが、無視できるほど軽いものではないと感じていたからだ。


夢で見た王国の荒れ果てた光景、民の顔に浮かんだ憎しみ、そして自分が王となる未来における不安。すべてが、彼の心の中で渦巻いていた。


再び町を歩き、裏通りに向かうアレクシスは、心の中で一つの決意をした。自分が本当に王として国を治めるにふさわしいか、あるいは何かしらの道を見つける必要があるのか。セリーヌの助言を仰ぐことで、少しでも答えを見つけられるのではないかと。


セリーヌの小屋に到着すると、扉が静かに開かれ、彼女が迎え入れた。


「王子様、再びお会いできて光栄です。」


「セリーヌ、再度お願いしたいことがある。」


アレクシスは決意を込めて言った。


「夢の中で見たことが、ただの幻に過ぎなければいいと思っていた。しかし、心の中ではそれが現実の一部であるように感じている。僕の王国は、もし今のままで進めば、壊れてしまうのではないかという不安が消えない。」


セリーヌは静かにアレクシスを見つめ、ゆっくりと答えた。


「セリーヌ、私の未来に何が待っているのか。未来が見えるなら、教えてほしい。」アレクシスは深刻な面持ちで問いかけた。


セリーヌはしばらく沈黙し、その後ゆっくりと口を開く。


「王子よ、あなたの未来には絶望が待っています。この国は滅びに向かうでしょう。」


アレクシスはその言葉を聞き、セリーヌに尋ねた。


「どうすれば、この国を救えるのだろうか?」


セリーヌは静かに答えた。


「あなたの選択が、この国の未来を変えるでしょう。私が言えるのはここまでです。あとは、あなたの決断にかかっています。まさに今が分水嶺なのです。」


アレクシスはその言葉を胸に刻み、何としてでも父王の支配から民を解放することを決意した。彼は勇気を出し、父に讒言することにしたのである。





数日後、アレクシスは国王アルトゥールに直接、民を救いたいという意志を告げた。


「父上、民が苦しんでいます。税を下げ、貧困に苦しむ者たちに支援を行いたいと思います。」


国王アルトゥールは冷ややかな表情で息子を見つめた。


「お前が何を言っているのか分かるか? その税金は、王国を支えるために必要なものだ。もしそれを減らせば、国の経済は崩壊する。」


重臣たちも声を揃えて言った。


「その通りです、殿下。民を甘やかせは、すぐに増長し、国が乱れるだけです。」


アレクシスは心の中で怒りを覚えながらも、冷静に言い返した。


「私は、民がこれ以上苦しむことを許せないのです。父上、私は王国が滅ぶ夢を見ました。そして見たことが現実になるのを恐れています。もしこのまま民を苦しめ続ければ、反乱が起こるでしょう。」


国王は不思議そうな顔で言う。


「そなたの食べる食事も、着ている服も、仕えてる侍女や護衛の給与も、その民から徴収した税がなければ賄えないのだぞ? 」


重臣たちも、アレクシスの言葉を一笑に付した。


「お若い王子にはまだ分からないだろうが、この国を支えるのは、王と貴族、強さと力なのです。」


アレクシスは返す言葉もなく、悔しさを押し殺しながら父と重臣たちに背を向けた。彼は、この国をどうにかして救うために何をすべきか、学ぶ必要があると考えた。


アレクシスは再びセリーヌの元へ足を運ぶと、彼女に助言を求めた。「私はどうすれば、この国を変えられるだろうか?」


セリーヌは少し考え、答えた。「王子には経験が必要です。今はまだ、王子は力不足です。しかし、民を助け、国を変えるために戦うことで、王子は支持を集め、国を変えることができるでしょう。」


その言葉を受けて、アレクシスは行動を起こす決意を新たにする。


まずは、アレクシスは学びに没頭し、統治に必要な知識や技術を吸収することに努めた。

王国の歴史、財政、軍事戦略、そして民衆との向き合い方——彼の教師たちは全力を尽くして教え込み、アレクシスもまたその期待に応えようと努力した。だが、内心にはまだ確信を持てない不安が渦巻いていた。


その一方で、アレクシスは隣国との貿易を活性化させ、余剰の物資を民に届けるために市井の有力な商人と交渉を始めた。その結果、いくつかの商人たちが彼に協力し、民に食料や生活必需品を安価で提供することができた。


また、アレクシスは馴染みの貴族たちに対しても積極的に働きかけた。貴族たちは最初、彼の提案を聞こうとはしなかったが、彼の誠意と努力を見て、少しずつ協力するようになった。そして、ついには民衆に食料を分配し、税を軽減する貴族も現れた。


だが、国王アルトゥールはアレクシスの行動を受け入れず、激怒した。彼は息子に対し、「自分の王国を乱すことは許さない」と告げ、アレクシスを厳しく叱責した。


それでもアレクシスは動じることなく、民のために動き続けた。彼の努力が実を結び、民の支持を集めるにつれて、アレクシスは父に対して直接立ち向かう力を着実に得ていくのだった。






※※※






時は静かに流れ、占い師セリーヌの元に訪れた日から一年が経過した。


ある晩、城の中庭で星を見上げていたアレクシスのもとに、セリーヌがふいに現れた。長いローブをまとい、目には知恵の深い光を宿した彼女は、静かに告げた。



「今年の夏は、太陽が隠れます。農作物は育たず、飢饉が訪れるでしょう。多くの人が命を落とすことになります。それでも、あなたの行動次第で救われる命もあるのです。」


アレクシスは黙って聞いていたが、その言葉に宿る重みを感じていた。


「協力してくれる者を増やしなさい。」


最後にセリーヌはそう告げると、月光の中に溶け込むように去っていった。






セリーヌの言葉を信じたアレクシスは、夏の到来までの数カ月を全力で準備に費やした。まず彼は重臣たちを招集し、飢饉の危険性を説いた。


「今年の夏は、例年とは異なる異常気象が予想されています。食料が不足する可能性が高い。早急に備蓄を進めねばなりません。」


一部の重臣たちは真剣に耳を傾け、彼の提案に賛同した。だが、ほとんどの者は信じなかった。


「王子、何を根拠にそんなことを言うのですか? 占いの言葉に踊らされているのでは?」


アレクシスは歯噛みする思いでそれらの声を受け止めながらも、諦めなかった。彼は協力を得られた数名の重臣と共に、他国から食料を購入し、穀倉を満たしていった。また、農村を回って農民たちにも自衛のための備蓄を呼びかけ、時には自ら手伝うこともあった。


「この努力が無駄に終わるなら、それに越したことはない。だが、無駄ではない可能性を考えるべきだ。」


そう語る彼の言葉は、慎重さと誠実さを持ち合わせていたため、一部の民衆の心に響いた。村人たちは次第に彼を「希望の王子」と呼び、敬意を抱き始めた。



夏が訪れた。



だが、セリーヌの予言は不吉な正しさをもって現実となった。太陽は薄暗い雲の彼方に隠れ続け、大地は冷たい風にさらされるばかりで、農作物はほとんど成長しなかった。市場には食料が激減し、民衆の顔には不安が浮かび始めた。やがて恐れていた飢饉が王国全土を覆った。


それでも王国は例年通りの税を徴収しようとし、役人たちは容赦なく民衆から物資を取り立てた。飢えた子供が泣き叫ぶ村でさえ、彼らは収穫物を運び去る。その惨状を目の当たりにしたアレクシスは、心を強く動かされた。


彼は自らの考えに賛同してくれた重臣たちと共に、王の命令に背きながらも、村々を回り始めた。隠し備蓄を開放し、少しずつではあるが民に食料を分配した。村人たちは驚き、そして涙を浮かべて感謝した。


「王子様、これで命をつなぐことができます。どうかこの恩は忘れません。」


彼らの言葉に、アレクシスの胸は熱くなった。だが、同時にその行為が王の逆鱗に触れることも理解していた。



王の耳に、この「勝手な行動」が届くまでに時間はかからなかった。宮廷に呼び戻されたアレクシスは、玉座の前に立つと同時に父の怒声を浴びせられた。


「アレクシス! 何故私の命令に逆らうのだ! 勝手なことをして、王の威信を失わせるつもりか!」


アレクシスは一歩も引かなかった。


「父上、あなたのやり方では、国は滅びます。民を守らずして王国が成り立つはずがありません。」


その言葉に、王はますます激怒した。


「愚か者め! お前はまだ王子に過ぎぬ。私の決定に口を挟むな!」


アレクシスは父の姿を見据えた。その目には、かつての尊敬の念ではなく、今や冷徹な覚悟が宿っていた。彼は心の中で決意を固めた。


この国を救うためには、父王を排除しなければならない。





アレクシスは秘密裏に協力者を募り、兵の一部を味方につけた。彼に信頼を寄せる村人たちも支援を約束し、兵のための食料や隠れ家を提供した。だが、彼の計画が露見すれば、命の危険は避けられない。それでも彼は、民を守るためにこの行動が必要だと信じていた。


そして、ついに決戦の日が訪れた。王城に乗り込んだアレクシスは、玉座の前に立ち、静かに言い放った。


「父上、これ以上、民を虐げることは許しません。私たちは立ち上がります。」


王は激怒し、手勢を呼んでアレクシスを捕らえようとした。だが、すでに王城内部にはアレクシスに忠誠を誓った兵たちが潜んでおり、王の命令はことごとく阻止された。


「必ず後悔することになるぞ!」


最後の叫びを残し、ついに王は玉座を降りた。玉座の間に訪れた静寂の中、アレクシスはその場に立ち尽くし、胸の内に湧き上がる複雑な感情を噛み締めた。それは勝利であり、同時に失ったものへの悲しみでもあった。





※※※





父王を退位させたその日、アレクシスは玉座の間から広がる王国の未来を静かに見つめていた。


激しい戦いが終わり、玉座を手にした今、彼の心には喜びだけでなく、新たな重責の重みがのしかかっていた。


「王子様、これからどうされますか?」


忠実な側近である重臣イーゴリが静かに尋ねた。彼はアレクシスの改革の志に共感し、最後までともに戦った人物である。


アレクシスは玉座を見つめたまま答えた。


「まず、民の信頼を得るために、真に彼らの声に耳を傾ける。税制を改め、飢えた者がいなくなるよう、食料の流通を見直す。そして、兵士たちには適切な報酬を与える。この国を新しく築き直すんだ。」


イーゴリは静かにうなずきつつも、険しい道のりを予感していた。



アレクシスは即位後、まず城門を開き、民衆と直接対話する日を設けた。この行動は前代未聞だった。多くの民が王城に押し寄せ、飢えや税の重さへの不満を口々に訴えた。


「王子様、いや、王よ! 私たちはもう限界です。家畜も作物も全て税に取られ、子供たちが飢えています!」


「一部の貴族たちは豊かな暮らしをしているというのに、なぜ私たちはこんなに苦しまなければならないのですか?」


アレクシスは彼らの言葉を黙って聞いた。言葉のひとつひとつが、胸に鋭く突き刺さるようだった。


「皆の声は確かに聞き届けた。私が新しい法律を作る。その法律のもとで、税の負担を軽くし、食料が公平に行き渡る仕組みを作る。だが、それには時間が必要だ。どうか、共に協力してほしい。」


アレクシスの目は真剣だった。民衆の中から、ぽつりぽつりと感謝の声が漏れ始めた。


「王様がここまで話を聞いてくださるなんて、初めてのことだ。」


「この方なら、もしかすると本当に変わるかもしれない。」


一方で、まだ疑念を抱く者も少なくなかった。


「本当に王様を信じて良いのだろうか?」


その言葉を聞いたアレクシスは一瞬戸惑ったが、すぐに深くうなずいた。


「その通りだ。私は行動で示そう。」





アレクシスはすぐに新たな政策を打ち出した。


まず、税率を見直し、小作人や農民への負担を減らした。これにより、民の生活は徐々に安定し始めた。さらに、城の穀倉に貯蔵していた食料を分配し、飢えた者たちの救済を始めた。


これに反発したのは、旧来の貴族たちだった。彼らは自分たちの特権が侵されることを恐れ、密かにアレクシスを非難する動きを見せた。


「王子、いや、王はあまりにも民寄りすぎる。このままでは我々の立場が危うい。」


「いずれ我々を排除するつもりではないか?」


こうした声を耳にしたアレクシスは、改めて重臣たちを招集し、自身の考えを伝えた。


「私が行おうとしているのは、特権を奪うことではない。だが、民が飢えれば、国そのものが崩壊する。共にこの国を支え、立て直す努力をしてほしい。」


その言葉に、全ての貴族が納得したわけではなかった。しかし、彼の誠実な態度と熱意に、次第に賛同する者が増えていった。


改革は順調に進むかに見えたが、アレクシスには新たな課題が待ち受けていた。それは、国の外からの脅威だった。隣国が、王国内の混乱を見て侵攻を企てているという報告が入ったのである。


アレクシスはすぐに軍を招集し、防衛策を練り始めた。しかし、その過程でも彼は兵士たちの待遇を改善することを忘れなかった。長い間冷遇されていた兵士たちは、次第に彼を「真の王」として信頼するようになっていった。


「民を守るために戦う王に仕えることができるのは、誇りだ。」

そう言って士気を高める兵士たちの姿を見たアレクシスは、改めて自分の進むべき道を確信した。






アレクシスの治世は、決して容易なものではなかった。だが、彼は決して諦めることなく、民衆と共に新しい王国の礎を築き上げていった。彼の名はやがて、「希望の王」として王国中に広まり、人々の信頼を得ていった。


しかし、彼の前にはまだ多くの試練が待ち受けている。アレクシスはその都度、民衆や仲間たちと共に、光を掴むために歩み続ける覚悟を胸に秘めていた。


その目に宿る光は、決して揺らぐことはなかった。






※※






父王を退位させたアレクシスは、自らの理想を掲げ、新たな王として歩み始めた。


だが、民の心は一朝一夕で掴めるものではなかった。玉座に就いたその日から、彼は朝から晩まで民や重臣との対話に明け暮れた。王宮の一室で膨大な資料を読み込み、王国全体の問題を把握しようと努めた。その姿を見た側近のイーゴリは、静かに言った。


「陛下、民の支持を得るには時間が必要です。焦らず、一つずつ結果を見せていきましょう。」


アレクシスはその言葉に深くうなずいた。


「そうだな、すぐには信じてもらえないだろう。しかし、一歩一歩進むしかない。私が民を見捨てないことを、行動で示していこう。」


即位後、最初に取り組んだのは、飢饉によって困窮した村々への支援だった。父王の治世では、民衆の生活に関心が向けられることはほとんどなく、貴族たちも私腹を肥やすことに夢中だった。その結果、多くの農村が疲弊し、飢えに苦しんでいた。


アレクシスはすぐに城の穀倉を開放し、余剰の穀物を分配する命令を出した。また、各地を直接視察し、現地の村人たちと対話を重ねた。


「どうか、お助けください!」

「もう作物がないんです。これから冬が来たら、私たちは皆、凍え死ぬしかありません。」


アレクシスは彼らの声を受け止め、自ら馬車に積み込んだ食料を配る姿を見せた。その際、現地の農民からも直接意見を聞いた。


「王よ、ただ食料を配るだけでは解決しません。この村には耕すための牛も、種も足りないのです。」


アレクシスはうなずき、すぐに農具や家畜を供給する政策を打ち出した。これが民衆の間で大きな話題となり、次第に彼に対する信頼が芽生え始めた。



民衆の不満の大半は、過酷な税負担に向けられていた。アレクシスは税率を見直し、特に収穫量の少ない農村には減税を適用した。また、貴族たちが免除されていた税を見直し、一定の負担を求める法律を制定した。


当然、貴族たちからの反発は強かった。


「陛下、貴族たちは国の支えです。このような扱いをすれば、不満が噴出するでしょう。」

「王国の財政が破綻します!」


それでもアレクシスは毅然とした態度を崩さなかった。


「民が飢え苦しむ国に未来はない。貴族としての特権を享受したいなら、民を守る責任を果たすべきだ。それができない者は、王国に必要ない。」


彼の強い意志に、一部の貴族たちは渋々ながらも従い始めた。



さらに、アレクシスは治安の改善にも着手した。隣国との戦争で荒れ果てた地方では盗賊が跋扈しており、農村部の安全が脅かされていた。


彼は各地に民兵を組織し、村人自身が地域を守る仕組みを整えた。初めは、民衆の間にも不安が広がった。


「我々が武器を持つなんて、そんなことが許されるのか?」

「兵士が来て取り締まるべきだ。」


しかし、アレクシスは現地の村長たちと話し合い、徐々に民兵制度を根付かせた。これにより治安が回復し、安心して暮らせる地域が増えた。




ある日、アレクシスが視察に訪れた村で、一人の老女が彼に歩み寄り、膝をついてこう言った。


「陛下、ありがとうございます。あなたのおかげで、この村は命を繋ぐことができました。」


その言葉に、周囲の村人たちも次々と声を上げた。


「希望をくれたのは陛下だ!」

「これからもこの村を見守ってください!」


アレクシスは膝をつき、老女の手を取りながら言った。


「私を信じてくれてありがとう。これからも皆と共に歩んでいく。」


その日を境に、彼は「民とともにある王」として、支持を広げていった。






※※※






アレクシス王が即位してから五年が経った。


まだ若い彼が王権を取った時、王国内の評判は決して良くはなかった。「経験が浅い若者が国を導けるのか」という声が貴族の間でささやかれる一方、民衆は「また新たな支配者が自分たちを搾取するだけだ」と冷ややかだった。


しかし、アレクシスはその評判を覆すべく、即位してすぐに動き出した。宮廷内の無駄を削減し、貴族たちに重税を課す一方、民衆に対しては税負担を軽減。特に農村やスラムの人々に対する支援に力を注いだ。彼が若き日に目にした苦しむ人々の姿が、彼の改革の原動力となっていた。


即位して間もなく、アレクシスはスラム街の改革を進めた。衛生環境を整備し、住民が学び働ける環境を整えるため、学校を設立した。資金不足の中、彼は自ら金庫を開け、私財を投じて教育事業を支えた。


その学校の一人の生徒として通っていたのが、かつて町の市場で果物を盗んだ少年だった。彼の名前はミハイル。少年は学校で文字を学び、計算を学び、次第に成績優秀な生徒として教師たちの注目を集めるようになった。


「お前があのミハイルか。随分と変わったな。」

アレクシスは学校を視察した際にミハイルと再会した。かつてのやせ細った姿は消え去り、真剣な目つきで本を抱える少年に成長していた。


「王様、あの時、私を助けてくださったこと、ずっと忘れません。」


ミハイルはその後、商いの道を志し、小さな商店を開業。その才覚を発揮して次第に事業を拡大し、王都でも評判の若き商人となった。彼は「貧しい者にもチャンスを」と、地元の若者たちを雇い、共に成長していく道を選んだ。



アレクシスが特に心を砕いたのは、王国の防衛を担う兵士たちの待遇改善だった。かつて訓練場で見たぼろぼろの装備や飢えた顔が忘れられなかったからだ。彼は新しい政策として、兵士たちへの給与を増額し、質の高い防具や武器を調達した。また、訓練内容も改革し、指導者には実力のある者を選ぶよう徹底した。


その結果、かつて粗末な装備で嘆いていた兵士の一人、イリヤが新しい兵隊長に昇進した。イリヤは努力を怠らず、新たな訓練方針にいち早く適応した人物だった。


「王様のご指導のおかげで、私たちは誇りを持って戦えるようになりました。」


イリヤは兵士たちの士気を高めるために尽力し、国境付近の小競り合いでも大きな成果を挙げた。王国の防衛体制は強化され、隣国からも「アレクシスの軍は強い」と恐れられる存在となった。



一方で、アレクシスが農村にもたらした変化は劇的だった。土地を持たない農民たちに安価で土地を貸し与え、収穫物の一部を税として納める制度を導入した。この政策は多くの農民にとって希望の光となった。


かつてアレクシスが訪れた村の少年、マルクもその恩恵を受けた一人だった。幼い頃に父を亡くし、母と共に苦しい生活をしていた彼だが、与えられた土地で働き、次第に豊かな農地を築き上げていった。


やがて、彼は裕福な農家となり、近隣の村から嫁を迎えた。結婚式の日、アレクシス王は彼に特別な祝辞を送った。


「お前が幸せな家庭を築いたと聞いて、私も嬉しい。この土地はお前のものだ。大切に守り続けてくれ。」


マルクは感激のあまり、涙を流して礼を述べた。彼の家族は次第に村の中心的な存在となり、多くの人々を助ける存在となっていった。




ある日のこと。王宮の庭で、アレクシス王は特別な晩餐会を開いた。その場に招かれたのは、ミハイル、イリヤ、そしてマルクだった。かつての少年や兵士たちが、それぞれの道で成功を収めた姿を見たアレクシスは、感慨深いものを感じた。


「お前たちのような存在が、この国の未来を支えている。私がしたことは微々たるものだが、こうして成果を見られるのは何よりも嬉しい。」


ミハイルが言った。「いいえ、王様。あなたが私たちに機会を与えてくださったからこそ、今があります。」


イリヤもそれに続いた。「私たちは、王様の信念に触れ、変わることができました。これからも、命を懸けてこの国を守るつもりです。」


マルクもまた、「あなたが土地を与えてくださらなければ、私の家族は今日の幸せを得られなかったでしょう」と語った。


その晩、アレクシスは星空を見上げながら、一人静かに考えた。


「一人一人の人生を変えることができたのなら、それが私の王としての務めだったのだろう。」


彼の心には確かな満足感があった。そして、これからも王国をより良い場所にしていくため、さらに努力を続けることを誓った。




こうした努力の積み重ねにより、民衆の間ではアレクシスへの信頼が着実に高まっていった。同時に、彼を支える重臣や地方役人たちの間にも、共通の目標が生まれていた。


イーゴリはある晩、王宮の灯りの中で静かに呟いた。


「陛下、あなたのような王は、私が仕えてきたどの人物とも違う。民が信じるのも当然です。」


アレクシスはその言葉に微笑みながら答えた。


「私だけでここまで来られたわけではない。共に歩んでくれる人々がいてこそだ。」



アレクシスはその後も改革を続けた。教育機会の拡大や、交易を活発にするためのインフラ整備など、多岐にわたる政策を推進した。これらの成果により、民衆の生活は次第に豊かさを取り戻していった。


だが、彼はまだ理想の国を実現する道の途中に立っていた。彼の背負う責任は重く、試練は続くことを知りながらも、アレクシスの目には確かな光が宿っていた。


「この国は変わる。そのために私は全力を尽くす。」


その言葉は、彼の周囲の全ての者に希望を与え、彼を中心に新たな未来が描かれていった。






※※※






アレクシスが即位してから十年。


王国はかつての荒廃を脱し、目覚ましい発展を遂げていた。街道は整備され、農村には新たな灌漑設備が導入され、市場には活気が戻ってきた。飢えに苦しむ者はほとんどいなくなり、子どもたちは教育を受けられるようになった。


この十年間、アレクシスは休む間もなく民と向き合い、民のために政治を行ってきた。その努力は確実に実を結び、民はかつての苛政や苦難を忘れるほどの豊かさを享受していた。


だが、その豊かさが民の心に生み出したのは、感謝ではなく、欲望だった。





玉座に座るアレクシスの目の前には、国全体の状況を示す地図と報告書が積まれていた。その日も、宰相や役人たちから多くの進言が寄せられていた。


「王様、市場の規制をさらに緩和することで商業が活性化するとの意見が出ています。」

「農村では、都市への物資供給に関する不満が高まっています。」

「兵士たちからの待遇改善要求が続いておりますが、財源の確保が課題です。」


次々と寄せられる意見に耳を傾けながら、アレクシスは深くため息をついた。心の奥には、幼い頃から抱いていた王としての理想があった。すべての人々が平等に豊かで幸せな生活を送れる国を築く。それが彼の夢であり、目指してきたものだった。


王位を継いだ当初、彼はその理想を実現するためにさまざまな政策を推し進めた。税を軽減し、農民たちに土地を与え、商人たちに取引の自由を保証し、兵士たちには新たな装備を与えた。その結果、国全体の生活水準は確実に向上し、人々の笑顔も増えた。


だが、いつしかその笑顔の裏に、別の感情が見え隠れするようになっていた。それは、民への苛立ちと失望――もっと豊かに、もっと自由に、もっと多くを手にしたいという、終わりのない要求だった。





ある日のことだった。


アレクシスは視察のため、都市の市場を訪れていた。かつての活気に満ちた賑やかな光景が広がっていたが、そこには異変があった。


「こんな値段じゃ買えないわ!」

一人の貴族の夫人が、高価な絹織物を手に取りながら店主に文句を言っている。


「貴族様、私どもの商品は最高の品質を、最高の職人が作り上げた、それだけの価値があるものなのです。今回は別の商店で商品をお選びいただいてみては?」

店主の声には侮りが滲んでいた。


そのやり取りを目にしたアレクシスの胸に、複雑な感情が渦巻いた。店主の顔は彼が見知った―、ミハイルだったからだ。ミハイルは今や、王都で幅広く商品を扱う大商人だ。ミハイルが商人として成功したことは喜ばしいはずなのに、なぜか寂しさが胸を締め付けた。


「陛下、ここにいらっしゃいましたか。」

背後から宰相の声が聞こえた。「市場の状況を視察されているのですね。」


「そうだ。この市場がここまで発展したことは喜ばしいが……なぜだろう。かつて目指した市場になりつつあるというのに、市場での活発な取引こそが、国の繁栄の象徴だと信じていたのに。素直に喜べないのだ。」


宰相は少し言葉を選びながら答えた。「陛下、これは豊かさがもたらす自然な変化です。人々は一度手にした豊かさを当たり前と感じ、さらに多くを求めるようになるのです。市場では、より欲が強いもの、より狡猾なものが勝ち残っていくのです。」


その言葉にアレクシスは沈黙した。



次にアレクシスは農村を訪れた。そこでは、かつて彼が土地を与えたマルクが繁栄した農家の主となっていた。


「マルク、お前の家はずいぶん立派になったな。」

「はい、陛下のおかげです。」


そう答えるマルクだったが、その表情にはどこか不満が見えた。アレクシスがその理由を尋ねると、彼はしばらく沈黙した後、こう言った。


「正直に申し上げます、陛下。我々農民がどれほど努力しても、都市の連中には追いつけません。彼らの贅沢のために、私たちの収穫が使われるのだと思うと……。」


「だが、それはこの国全体の繁栄に繋がっているはずだ。」


「繁栄ですか?それがどれほどのものなのか、私たちには分かりません。ただ、もっと公平な取り決めがあってもいいのではないかと思うのです。」


アレクシスは何も言えなかった。マルクの言葉が正しいかどうかを判断するのが、今の彼には難しかった。




最後にアレクシスは軍営を訪れた。そこでは、かつての忠実な兵士であり、現在は将軍となったイリヤが待っていた。


「将軍イリヤ、兵士たちの訓練状況はどうだ?」

「問題ありません、陛下。」


その答えは素っ気なく、どこか距離を感じさせるものだった。アレクシスが理由を問うと、イリヤは厳しい表情で答えた。


「陛下、私はあなたの政策を尊敬しています。しかし、兵士たちの間では不満が募っています。命を懸けて戦う彼らにとって、王都の贅沢は遠い世界の話です。彼らは、自分たちが本当に国に必要とされているのか疑問を抱き始めています。」


「彼らのために装備を整え、給与を増やしてきたつもりだ。」


「そんなことは、当たり前のことに過ぎません。我々は国のために命を投げ出しているのです。陛下、我々の命の対価が安過ぎるのです。」


その言葉に、アレクシスは深く考え込んだ。





夜、王宮の書斎で一人座るアレクシスは、ふと幼い頃のことを思い出していた。困窮する民を見て、彼らのために何かしたいと思った純粋な気持ち。その気持ちは、いまも変わらず胸の中にあるはずだった。


だが、彼が政策を進めるたびに、人々の期待は膨らみ、要求は増え、感謝の声は薄れていった。


「私は間違えているの:だろうか。」


窓の外には、繁栄を遂げた王都の明かりが輝いていた。しかし、その輝きの裏にある影が、彼の胸を締めつけた。


宰相がそっと書斎に入ってきた。「陛下、夜も遅いのでお休みください。」


「宰相よ、私は間違っているのだろうか。民のために尽くしてきたはずが、今では責められるばかりだ。」


宰相はしばらく考え込んでから、静かに答えた。「陛下、あなたが間違っているのではありません。ただ、人々の心は変わり続けるものなのです。あなたの政策が民の暮らしを向上させたことは確かです。しかし、それは同時に、人々の期待をさらに高めてしまったのです。」


その言葉に、アレクシスは深く頷いた。そして、改めて自分が歩むべき道を模索し始めた。


「私は王であり続ける限り、民の声に耳を傾けなければならない。しかし、時には彼らの欲望に立ち向かうことも必要なのかもしれない。」


その夜、アレクシスは新たな決意を胸に、未来への歩みを続けることを誓った。


アレクシスはけして民の声を無視しなかった。


しかし、アレクシスの思いと裏腹に、彼の政治は徐々に行き詰まっていった。


大規模な災害が王国を襲い、豊かな収穫を支えていた肥沃な土地が荒廃した。また、隣国が王国の繁栄を妬み、国境付近で挑発的な動きを見せるようになった。これにより、防衛費がかさみ、国家の財政は危機的状況に陥った。


「税を増やさなければ、この国を守れない。だが、民はそれを受け入れるだろうか?」


アレクシスは幾度となく側近たちと議論を重ねたが、最終的に税率の引き上げと一部の徴兵を決断せざるを得なかった。



王宮の広場。多くの民が集まり、アレクシスの言葉を待っていた。彼は壇上に立ち、静かに深呼吸をした。その表情には、重い責任を抱えた者だけが持つ深い苦悩が浮かんでいた。


「我が民たちよ、私は今日、皆の理解を求めるためにここに立っている。」


彼の声は広場に響き渡った。


「この十年、私たちは共に困難を乗り越え、繁栄を築いてきた。しかし、今、国が再び試練の時を迎えている。自然の災害が国の収穫を奪い、隣国の脅威が私たちの安全を脅かしている。」


彼は一瞬、民の顔を見渡した。だが、その多くは不満げな表情を浮かべていた。


「この危機を乗り越えるため、皆の協力が必要なのだ。税を一時的に増やし、国の防衛力を強化しなければなりらない。そして、国を守るために、一部の若者には兵役に就いてもらう必要がある。」


彼の声は震えなかったが、その胸の内では不安が渦巻いていた。


「私はこの決断が皆にとって苦しいものであることを理解している。それでも、私たちが団結し、この試練を乗り越えれば、再び平和と繁栄が訪れることを信じている。」


だが、民の反応は冷たかった。


「また税を増やすのか?もう十分苦しいんだぞ!」


「兵役なんて冗談じゃない!そんなのは貴族たちが行けばいい!」


「王様が贅沢を減らして節約すればいいだろ!」


民衆の不満の声は次第に大きくなり、やがて怒号に変わった。アレクシスの演説は最後まで聞かれることなく、多くの民が広場から去っていった。






アレクシスの演説が不発に終わり、王と民との溝は次第に深まっていった。


王国が発展し、教育を受けた民が増えたことで、彼らはかつてのように王の言葉に従順でいることをやめ、己の意見を持つようになっていたのだ。それ自体はアレクシスが望んだ未来だった。民に知識と力を与えることで、自立した国民として国家を支える存在になってほしいと願っていたのだ。


しかし、その願いは皮肉な形で実を結ぶこととなった。


「我々も政治に参加させろ!」


「税率を決めるのは王ではなく、民であるべきだ!」


そうした声が次第に広がり、王宮への請願が相次いだ。やがて一部の民衆が集会を開き、彼らの要求をまとめた「民衆代表議会」を設立するよう訴え始めた。


アレクシスはこの要求を受け入れた。兵を使って民を鎮圧したくなかったし、民も政治に参加するようになれば、大局から物事を判断するようになるだろうと考えたのだ。


だが、議会設立後の数年で、事態はアレクシスの予想を超える速さで変化していった。


議会の代表たちは次々と新たな要求を掲げる。


「王の専制を抑えるため、予算の管理権を議会に委ねるべきだ。」


「税金をもっと減らし、民が自由に使える金を増やせ。」


「軍の指揮権も議会と共有するべきだ。」


アレクシスは何度も議会との交渉に臨んだ。彼の理想とする政治は、王と民が協力して国を治めることだった。しかし、議会の要求は次第に彼の権力を削ぎ落とし、王政そのものを否定するような内容へと変わっていった。



さらに議会と民衆の声は、さらにエスカレートしていった。



「議会だけでは不十分だ!すべての民に投票権を与えよ!」


「王がいる限り、民の自由は奪われ続ける!」


民衆の不満の矛先は、次第にアレクシス個人へと向かい始めた。


彼が隣国の侵略を退けるために増税を求めても、民は反発するばかりだった。議会は次々と増税案を否決し、王国の財政はさらに悪化していく。税が上げられなければ、兵たちの武器や防具を購入することも難しくなるのだ。


「王は無能だ!」


「この国を滅ぼす前に、アレクシスを退位させろ!」


そうした声が広場に響くようになり、やがて蜂起の気配が見え始めた。


王都の広場に集まった民衆は、かつてない熱気に包まれていた。声を張り上げる群衆の中心に立つのは、かつてスラムで盗みを働いていたミハイルだった。いまや商人として成功し、広範な人脈と影響力を持つ彼は、民衆の怒りを一つにまとめ上げる先導者となっていた。


「皆さん、聞いてください!」


ミハイルの声は広場中に響いた。「この国の現状を見てください。農民は飢え、商人は締めつけられ、兵士たちは報酬もなく命を投げ出しています。それでも王は変わろうとしない!」


民衆から怒りの声が上がる。ミハイルの言葉は、彼自身が感じてきた失望をそのまま映し出していた。


「かつて私は、アレクシス王に救われたことがあります。彼は私に希望を与え、道を示してくれました。しかし、今の彼は私たちの声を聞こうとしません。これ以上、沈黙してはいけません!」


広場の隅で耳を傾けていた一人の若者が叫んだ。「じゃあ、どうするんだ?このまま怒鳴っていても、何も変わらない!」


ミハイルは鋭い目つきで答えた。「行動を起こします。この国を変えるために、私たちが立ち上がるのです。市場の商人たちは物資を提供します。農民たちは農具を武器に変え、兵士たちにも声を届けましょう。」


「でも、それは反乱だ!」若者の声は震えていた。


「そうです、反乱です。」ミハイルは断言した。「しかし、それは正義の反乱です。王に耳を貸させるための最後の手段なのです。」


その言葉に、民衆は次第に大きな声で同意を示し始めた。ミハイルは人々の不満を力に変える先導者としての役割を全うしつつあった。



一方、農村に暮らすマルクは、自分の農場で収穫した作物を荷車に積み込んでいた。その荷車は反乱軍に物資を供給するために使われる予定だった。


「父さん、本当にこんなことをしていいの?」息子の声に、マルクは一瞬手を止めた。


「お前にはまだ分からないだろうが、これが正しいことなんだ。」


息子は困惑した表情を浮かべた。「でも、王様は私たちを助けてくれたじゃないか。それなのに、僕たちは反逆するの?」


マルクは深く息をつき、息子の肩に手を置いた。「確かに、王様には感謝している。でも、それは昔の話だ。今は私たちを見捨てている。税に苦しみ、飢えで死ぬ者が出るこの状況を、誰が放っておける?」


「でも……反乱なんて危険すぎるよ!」


「分かっている。だが、何もしなければ状況はもっと悪くなる。」マルクの言葉には決意が込められていた。「これは私たちの未来のためだ。お前たちの未来のためでもある。」


その後、マルクの農場は反乱軍の拠点の一つとなり、彼が提供する作物や物資は兵士たちの命を繋ぐ重要な資源となった。マルクはかつての恩人に背を向ける苦しみを抱えながらも、自分の信じる正義のために動いていた。




反乱軍を指揮するのは、かつての忠実な兵士イリヤだった。


「イリヤ、本当に攻め込むのか?」副官が尋ねた。


「そうだ。」イリヤの声は冷たく、感情を抑えていた。「私はかつてアレクシス王に忠誠を誓った。だが、その王が我々を見捨てたのなら、その誓いも無意味だ。」


「それでも、王城を攻めるなんて……。」


「この戦いは正義のための戦いだ。」イリヤは断言した。「私たち兵士が苦しみ、民が飢え死にしているのを見て、王は何もしなかった。この状況を変えるためには、王自らが変わらなければならない。そのためには、私たちが行動を起こすしかないのだ。」





※※※





ある夜、アレクシスは悪夢にうなされた。




炎に包まれる王城、怒りに燃える民衆、そして叫び声の中で自分に迫る刃――それは十数年前に見た、あの未来の夢だった。


汗にまみれて目を覚ましたアレクシスは、夜明けを待たずして執務室に向かった。机の上には王国の地図と財務報告書が広げられていた。


「私はここまで何をしてきた……?」


彼は自問する。十年前に父を廃し、民のために尽くしてきたはずだった。それなのに、民は感謝どころか彼を憎むようになっていた。


すると、不意にあの日のセリーヌの言葉が耳に蘇る。


「民を導くということは、決して感謝される道ではありません。」


「それでも、あなたはその道を選ぶのですか?」


アレクシスは無言で机を叩いた。


(あの日、私はこの道を選んだ。そして今も変わらない。だが、それでも……。)


そのとき、王宮の外がざわめき始めた。扉を叩く音、怒号、そして兵士たちの足音。


侍従が慌てて駆け込んできた。


「陛下、民衆が王城を包囲しました!彼らは『王の首をよこせ』と叫んでいます!」





アレクシスはゆっくりと立ち上がり、窓から外を見下ろした。王城の周囲には松明を掲げた群衆が溢れていた。その光景は、あの夢で見たものと寸分違わなかった。


その光景を見下ろしたアレクシスの脳裏に浮かんだのは、十数年前に見た夢だった。怒りに満ちた民衆が王城を包囲し、自らに刃を向けるあの悪夢。それが現実となった瞬間だった。


アレクシスは静かに王座を降り、抗うことなく民衆の前に姿を現した。


「私はこの国のために尽くしてきたつもりだ。しかし、それがあなたたちの望むものではなかったのなら、私が去ることで解決するのならば、私はそれを受け入れる。」


彼の言葉に民衆は一瞬の静寂を見せたが、すぐに怒号が再び湧き上がった。


「言い訳は聞きたくない!王を捕らえろ!」


アレクシスは捕らえられ、王宮の地下牢に幽閉された。王国は混乱の中にありながらも、新たな体制に向けて動き出していた。



薄暗い牢の中で、アレクシスは静かに目を閉じていた。自らの選択を振り返り、その重みを噛み締めていると、かすかな足音が響き、牢の中に一人の女性が現れた。



「……セリーヌ?」



アレクシスは目を見開いた。その姿は十数年前と全く変わらない。まるで時間の流れを拒むかのような神秘的な存在感があった。


「久しぶりですね、アレクシス。」


セリーヌは静かに微笑みながら言った。その声は冷たくも温かくもなく、ただ運命を告げる者のようだった。


「私は、これがあなたの運命だと告げたはずです。」


アレクシスは頭を垂れた。


「私の選択が、この結果を招いたのだな。」


セリーヌは無言で頷いた。


「あなたは民を信じ、民のために尽くしました。しかし、民の欲望は尽きることがありません。それを制御する術を持たなければ、結末は変わらないのです。」


「わたしは……間違えていたのだな。」


アレクシスは顔を上げ、彼女を見つめた。その瞳には、敗北を受け入れた者の悲しみと、信念に敗れ、疲れ果てた心の闇が宿っていた。


「私は、この国の未来を信じたかった。そして、それが間違いだったとしても、信念だけは変えたくなかった。」


セリーヌはしばらく彼を見つめ、最後にこう告げた。


「あなたの決断が、信念が、この結果を招いたのです。」


そう言い残し、セリーヌは闇の中に消えていった。





それから牢の中で一人静かに時を過ごすアレクシスのもとに、外からの光が差し込むことはなかった。彼の手元には、セリーヌが置いていった自死のための薬が握られていた。


(私はもう、この国の行く末を見ることは叶わない。国の混乱を、隣国は見逃さないだろう。民がどうか、国を守り通せるよう、私は望もう。)


静寂の中、アレクシスは微笑み、ゆっくりと目を閉じた。






※※※





占い師セリーヌは王宮の書斎に静かに立ち、ゆったりとした時間の流れの中で、()()の到着を待っていた。



薄暗い室内にただ一人、彼女の背筋はまるで鋼のように真っ直ぐに伸び、暗がりの中に淡い光を放つように立っている。その表情には微かな満足の微笑が浮かんでおり、まるで何かを成し遂げたかのような安堵が感じられた。長年の経験が養ったこの微笑は、数々の運命を見てきた者だけが持つことのできる、落ち着きと深い知恵を象徴していた。


やがて、重厚な木の扉が音を立てて開き、ゆっくりとその向こう側からアレクシスの父、国王アルトゥールが現れた。


彼の歩みは静かでありながらも、その足音はどこか重々しく、まるで王国全体の命運を背負っているかのように響いていた。


彼が一歩一歩近づくにつれて、セリーヌは微動だにせず、しっかりとその姿勢を保ち続けた。




「戻ったか、セリーヌ。」


国王の低く深い声が室内に響き渡る。その声音は決して高くはないが、威厳を持った響きが自然と周囲を圧倒していた。王としての貫禄、そして父としての強さがその言葉に込められている。


セリーヌは軽く頷き、王の座る椅子を迎えるように視線を向けた。国王はそのまま無言で椅子に腰を下ろし、まるで何も変わらないように、そして何も気に留めることなく、セリーヌの存在を見据えた。


「ええ、任務を終えて帰還しました。先ほど、王子様は無事、()()()()()()()()。王子様は自分の考えの未熟さを理解されたのではないでしょうか。」


セリーヌの言葉は穏やかだったが、その中には確かな自信が感じられる。


しかし、国王はその言葉に対して特に表情を変えず、むしろ少しばかりの冷徹さを感じさせる目でセリーヌを見つめ続けた。そして、ゆっくりとその唇を動かし、沈黙を破った。


「そうか。だが、どうだセリーヌ。彼は本当に変わると思うか?」


国王の問いには、深い意味が込められているようだった。セリーヌは一瞬その言葉に考え込み、視線を床に落としてから答えた。


「それは、彼自身の心次第です。ですが、少なくとも彼は現実と向き合う術を学びました。占いの力を借りるまでもなく、陛下が直接教える方法もあったのでは?」


セリーヌはその言葉を投げかけながらも、自分の考えに確信を持っていた。しかし、その視線の奥には、国王が過去にどれほどの苦労をしてきたのかを理解しつつも、少しばかりの疑念も宿っていた。


国王は少しの間、沈黙した後、小さく笑った。その笑みの裏には、ほんのわずかな苦悩が見え隠れしていた。


「父として教えることには限界があるのだ。私の言葉は、彼にはただの古い意見にしか聞こえない。だからこそ、君の力を借りたのだよ。」


その言葉には、父親としての痛みと、王としての責任感が重なっているように感じられた。


セリーヌはその言葉に静かに頷いたが、内心では少し不満を抱えながら、再び言葉を発した。


「それでも、王子様の理想は決して悪いものではありません。むしろ、純粋で高潔です。それを潰すのは、陛下の望みではないでしょう?」


セリーヌの言葉には、王子アレクシスへの理解と愛情が感じられた。しかし、国王はその言葉に対して何の答えも返さなかった。彼の目は暗く沈み、深い思索にふけっているように見える。


「もちろんだ。」国王の声は静かでありながらも、重みを持っていた。「だが、理想だけでは国を治めることはできない。王たる者、民の欲望と不満を受け止め、それを抑えながら導く役目がある。」


国王の言葉には厳しさが感じられ、セリーヌはその真実を理解しているつもりだった。しかし、それでも王子の理想を完全に否定したくはなかった。


セリーヌはしばらく沈黙し、その言葉の意味を噛みしめた。そして、ゆっくりと問いを返した。


「では、陛下。これから王子様をどのように導くおつもりですか?」


その問いは、セリーヌの心に浮かんだ疑問をそのまま口にしたものだった。国王は静かに息を吐き、深い思慮の後、答えた。


「私はもう、あまり長くはないだろう。アレクシスには、これから彼自身の道を見つけてもらうしかない。しかし、その道が間違っていたとしても、それを正すのは彼自身の責務だ。私はその土台を築いてやるだけだ。」


国王の言葉には覚悟と諦めが混ざり、セリーヌはその言葉の重みを静かに受け止めた。


国王はふと、昔のことを思い出すように、遠くを見つめる目を向けた。


「セリーヌ、君がまだ私に仕える前のことを覚えているか?」


その質問は、セリーヌの心の中に過去の記憶を呼び起こした。まだ若き日の国王が、勇敢で力強い青年であった頃、そして占術を信じることに必死だった自分自身の姿が。


「もちろんです。」セリーヌはその時のことを鮮明に覚えていた。王宮で占術を学び、最初に出会った国王の姿も、今の彼とはまた違ったものだった。


「君が占術師として宮廷に招かれたとき、私は君にこう言ったな。『真実を示すのは占いではなく、人の経験だ』と。」


国王の声には、若干の感慨が込められていた。セリーヌはその言葉を覚えていた。自分が最も信じていた占術に対して、国王が示した冷徹な態度を。


「そうでしたね。その時の私は、ただ占術の力を信じていました。それが真実を照らす唯一の方法だと。」


セリーヌは微笑みながら、その時の自分を振り返った。


「それでも、君はその力で私に多くを教えてくれた。だが、教えるだけでは不十分だ。人は自ら経験しなければ本当の意味で学べない。」


国王は言葉を重ねた。その言葉には深い真実が込められている。


セリーヌはその言葉に深く頷き、続けた。


「だからこそ、私は王子様に夢を通して経験を与えました。けれど、私の占いだけで全てを変えられるわけではありません。彼自身が、その経験をどう解釈し、行動に移すかが重要です。」


その言葉には、彼女自身の深い理解が込められていた。


「そうだ。その点で、君の役割は見事だった。」


国王はセリーヌを讃え、その冷徹な眼差しの中に一瞬の誇りを見せた。


セリーヌは微笑み、少し皮肉を込めて言った。


「けれど、陛下。占術を嫌っていたあなたが、私の力を頼るとは皮肉なものですね。」


その言葉に、国王は苦笑を浮かべた。


「皮肉だが、必要だった。()()()()()()()()()()()()()。アレクシスには君の力が必要だったのだよ。」


その言葉には、少しだけの感謝の気持ちが込められていた。


セリーヌは軽く頭を下げて、その言葉を受け入れた。そして、最後にこう付け加えた。


「アレクシス様の道は、まだ始まったばかりです。彼が理想と現実の間で苦しむ時、陛下の教えがどれだけ支えになるか……それもまた、未知数です。」


その言葉に、国王は黙って頷いた。彼もまた、自分の後を継ぐ息子の未来に不安を抱えているのだろう。


その夜、セリーヌは旅路に出た。王宮の外れで、見上げた夜空には無数の星々が瞬いていた。


「さて、アレクシス様はどのような王になるのでしょうね。」


彼女は静かに呟き、その声は風に乗って、誰にも届かない場所へと消えていった。









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