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約束の日時、真白は校舎の3階にある美術室を訪れていた。
少し緊張しながらノックすると、おそるおそる扉を滑らせて中を覗き込む。
その音と気配がしてからワンテンポ置いて、こちらに背を向けていた彼女が振り返る。
「真白さん、どうぞ入ってください。
美術室へようこそ― と思いましたけど授業でも使ってますよね」
「お、お邪魔します……?」
普段授業で使う時は生徒で一杯になっている美術室に、今日は彼女と二人だけ。
他の部員もいるのでは?とさっき気付いて緊張していた真白は肩透かしを食らった気分だった。
「美術部の活動は水曜と金曜だけで、他の曜日は部員が自由に使えるんです。
まあ大概は私が一人で占拠してますけどね」
彼女がそう言う通り、広い教室の真ん中に一つだけキャンバスが置かれ、その周りに作業道具が所狭しと並んでいた。肝心のキャンバスには背景色が付けられ、黒い線で下書きのようなものがなされている。確か素描といったような。
静かにキャンバスと向き合った彼女の近くに腰掛ける。邪魔にならないように斜め後ろくらいで。
自分から何か話しかけようかと思ったけど、無理に会話をしなくてもいいかな、と思った。
鉛筆とはだいぶ違う筆のようなものを手に取ったかと思えば、線画に陰影を付け足していく。
(ちなみに後から聞いたところ画用の木炭だった。全然知らなかった。)
しばらくその作業を見ているにつれて、美術館の時と同じような感覚が蘇ってきた。
互いの感じているものを大切にし合える心地良さ。
彼女は今何を考えて筆を走らせているのだろう。どんな完成形が浮かんでいるのだろう。
どうしてこの絵を描こうと思ったのか、水彩画ではなく油彩画を選んだ理由もあったりするのか。
淡々と筆の動きを目で追って、そうすぐには変化しないキャンバスを見つめているだけなのに、それが穏やかで贅沢な時間に感じる。
言葉数が少なくともこの世界を作り出せるくらい彼女とは気が合うみたいだと思った。
「真白さん、ちょっと休憩しますか?」
おもむろに立ち上がった彼女が指差すままに時計を見ると、この教室に来てから既に50分が経っていた。そんなに長い時間集中していた(物思いに耽っていたとも言う)のかと思うと自分でも驚きだ。
小さく手招く彼女に連れられて、この教室に隣接する美術準備室へ踏み入れる。
多くの道具や資材が積まれている部屋の奥の方に木製の棚があった。
彼女はそこにしまわれていたキャンバスの一つを取り出すと、珍しく自慢げな表情でこちらに向けた。
「これは……千雪さんの描いた作品ですか?」
「そうです。ちょうど先月完成させて、市の美術展に出そうかと思っていまして」
それは今描いているのと同じ油彩画で、野山の小径を題材に描いた作品だった。
「真白さんはこういう雰囲気も好きかなと思ったんですが、どうでしょう」
「す……好きです、すごく好きです。その、上手く言い表せないんですけど……」
上手く言い表せないけど、なんだかノスタルジーを感じる絵だった。
澄み渡っていながらもほんのり重みを感じる空の青と雲の白、幼い頃に触れ合った自然を思い出させるような草花と野道の素朴さ。ノスタルジーという言葉にまとめてしまったけど、その言葉以上にたくさん感じるものがあって胸が一杯になるような感覚。
「いいですよ、無理に言葉にしなくても。
ところで真白さんは絵をかなり近くで見る癖があるようですけど、試しに少し離れたところから見てみてください」
「少し離れて……? えっと、はい」
そう言われて大きめに二、三歩下がってみる。
それからもう一度絵に視線を向けると、さっきまでとの違いに気付かされる。
「あっ……すごい。離れて見ると、なんかこう……ぼんやりして綺麗で」
「ふふふ。お気に召したようで何よりです」
彼女のその台詞が少し遠く聞こえてしまうくらい、私は絵の世界に引き込まれていた。
「絵画には作品によって適切な鑑賞距離があります。近くで見ると内容を計りかねるけど、遠くから見るとモチーフやひとつひとつの色が浮かび上がって見える― というものもあったり」
その通りだった。
さっき間近で見ていた時には感じなかったもの― 草木を揺らすそよ風とか、足元の土の少し粗い感じが見える気がした。想像の世界に新しいイメージが書き足されていく、不思議な感覚。
「油彩画なんかは近くで見るとベッタリとした絵の具の質感が目立ちますけど、少し距離を取るだけで全体が淡く綺麗に見えます。もしよければ今後の参考にしてください」
「千雪さんはすごいです……。ちゃんとお話しするのは今日が2日目なのに、今まで出来なかった体験がたくさん出来てます」
「そんなことはありませんよ。それは真白さんが豊かな心を持っているからです」
そう言って、少し視線を外す。
「真白さんはきっと感受性が強くて、想像力が豊かなんだと思います。だけどその分人間関係に疲労を感じてしまったり、人生を送る上でデメリットになる点が色々あるかもしれません」
私もそっち寄りなんですけどね、と付け足す。
手に持っていたキャンバスを反転させ、自分自身の描いた世界を慈しむように見つめている。
「でも、こうして芸術を― いえ、芸術を初めとする創作物を豊かに楽しめるのは私たちのような人間の特権です」
人にはとても言えそうにないと思っていた自分の心を肯定してくれて、それに寄り添ってくれた。
高揚感に似た胸の高鳴りが― あの日にも感じたものが今この場所の心地よさと混ざり合って、真白の心中を飾らないままで次の台詞に仕立て上げる。
「私、千雪さんとは気が合うみたいです」
「私もですよ。同い年で、しかも同級生でこういう人には中々出会えませんから。中学校の頃とか全然いなくて」
「わっ、私もそうです。友達は少しだけいます……けど、こんな話はできなくて、自分からも話せなくて」
彼女と目が合う。
なんだか可笑しくて二人で笑ってしまう。
「私たちこんなに気が合うのに、どうして今まで全然関係がなかったんでしょうね」
「それは私たちが人付き合いが苦手だから、です」
「ふふふ。その通りですね……ああ、こんなに気が合うなら早く勇気を出して話しかけてればよかったな……」
ひとしきり笑い終えてから、キャンバスを片付けた彼女の後について美術室に戻る。
描きかけの油彩画の前に座って、どちらからともなく目が合ってまた笑う。
明後日の木曜日もまた来てくださいね、と言った彼女に首肯を返して、作業の続きを見守る。
一緒に過ごした二日間で、彼女との間には言葉を交わす必要もないほどの満ち足りた関係が生まれていたことを、真白は改めて実感した。