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「それじゃあせっかくなので……乾杯」
「か、乾杯っ」
窓辺のテーブル席に座った二人は、オレンジジュースのグラスをコツンと触れ合わせた。
ここはルミエール美術館の地下にあるレストランで、特別展を見終わったところで遅めの昼食を摂っている。昼前に着いてからたっぷり2時間掛けて展示を見て回ったので、お昼時も過ぎたせいか運よく待ち時間なしで入ることができた。
このレストランは芸術施設の併設ということもあって、店内にも絵画が飾られていたり、ヨーロッパの礼拝堂のように天井絵が施されていたりと視覚でも楽しめるようになっている。
窓辺からは地上まで吹き抜けになった中庭を一望できて、こんな素敵な場所でランチなんてしていいのかな、私は場違いじゃないかな……と真白は思っていた。
「上栗さん、今日の特別展はどうでしたか」
「すごく……すごく素敵でした。2時間も経ってたとは思えないくらい濃密で、こう、上手く言葉にはできないんですけど」
「それで、いいと思います。私も今感じたこの気持ちは自分の中で大切にしておきたいですから」
そう言って、今日出会った作品を思い返すように目を瞑った彼女が美しかった。
「ひとつだけ確かなのは、今日ここに来れて良かったということです」
「わ、私もですっ……こうやって小旅行をしてでも来てよかったなって。あと、千雪さんも一緒で……あっ」
その言葉を口に出してからワンテンポ置いて、真白がハッと口元を覆う。
「あっ! ごめんなさい、勝手に名前で呼んでしまって……!」
「いえいえ、名前で呼んでもらって大丈夫ですよ。じゃあせっかくなので私も名前呼びさせてもらいます、真白さん」
彼女のフランクさに助けられた真白は、珍しく名前呼びされることに多少のむずがゆさを感じたりもした。
「なんでだろう……私、人を名前呼びってあんまりしないんですけど……」
「確かに真白さんは奥ゆかしい感じがします。あまり人と距離を詰め過ぎないといいますか」
自分でも自分の言動を計りかねている真白がうんうんと頭を悩ませている間、彼女はゆっくりとその様子を見守っていた。
やがて悩むことすら諦めたのか、ふと顔を上げた頃、自然と浮かんだ疑問が口をついて出てきた。
「あの……千雪さんって、私のこと結構知ってるんですか? 奥ゆかしいとか、距離を詰め過ぎないとか……」
「……そういえば、そうですね。あまり関わったこともないんですが」
彼女が少し逡巡するような素振りを見せて、少し間を置いて口を開く。
「朝少しだけお伝えしましたよね。真白さんと話をしてみたかったって」
「そ、そうでした……でも、どうして私と……?」
「初めてお会いした美術の授業の時のことです。あの時―」
そう前置きして、彼女は真白との出会いをゆっくりと語り始めた。
最初は隣の人の筆が止まってて、ただの親切心でお手伝いしようと思っただけでした。
きっと絵を描くのがあまり得意な人ではないのだろうと。
一応美術部員の端くれですし、水彩画も多少は描いてきて最低限の技術はあると思っています。
そう思ってそちらのキャンバスをこっそり覗き込んでみました。
でも、私の予想とは違いました。
綺麗な線画だったんです。描きかけでしたけど、私はそう思いました。
ただ何かの理由で筆が止まってしまっている。技術ではない何か別の面で。
気になってしまってしょうがなくて、横目でチラチラと観察を続けました。
それで思ったんです。
きっとこの人の頭の中には理想の世界があって、それを具現化するのに悩んでいるのだと。
自分の思い描いた想像の世界が、絵画という枠に落とし込めないくらい繊細なのだろうと。
それで思ったんです。
この人は自分と似ているんじゃないかって。感受性が豊かで、言語化できないものを心の内に抱えている。それを大切にしているからこそ、そう易々とは表現に落とし込めない。
だから、この人と話してみたいと思いました。
結局授業では時間が足りなくてアドバイスだけで終わっちゃいましたけど、と付け加えたところで、注文していた料理が届いたので話は打ち止めになる。
食事をしている間、二人の間に会話の続きが生まれることはなかった。
それでも真白は不思議なくらいに胸の高鳴りを覚えていた。高揚感と言ってもいいのか。
自分の内側― 自分ですら気付けなかった内面を彼女は的確に捉えてくれた。
嬉しかったのか、恥ずかしかったのか、安心したのか、今までにないくらい色々な感情がごちゃ混ぜになっている気がする。
注文した料理の味もどこかに飛んで行ってしまいそうなくらい、初めての感覚を― そうだ、展示を見ていた時と同じあの心地よさを感じている。
やがて気付かぬうちに目の前の皿が空になっていた頃、ほぼ同時に完食した彼女が口を開く。
「それで、真白さんとずっと話してみたくて……でもクラスが違うし、美術の授業は毎回席がバラバラなので隣になれなくて」
それなら何かの機会に話しかけてくれても良かったのに― と言おうとしたところで、自分はそんなことが出来るほどの度胸がないことに気付いて口を閉じる。
もしかしたら彼女もあまり人付き合いが上手いタイプではないのかもしれない、と直感的に思った。
「なのでこっそりと真白さんの様子を見たりしてて……あれ、これじゃ私ストーカーみたいですよね。ごめんなさい」
「いえ、そんなことないです。むしろ千雪さんが私にそこまで関心を持ってくれて、嬉しいです」
ウェイトレスが食器を下げていって、水のグラスだけが残ったテーブルに会話が続く。
「だから、一昨日廊下で偶然会った時、今しかないと思ったんです。……他に人がいなくて喋りやすそうだった、というのもありますけど」
吹き抜けの中庭からわずかに差し込んでくる日差しがグラスの水を照らして、光がゆらゆらと揺れている。その揺らぎが心地よく跳ねる心臓のリズムに呼応しているみたいで。
「今こうやって真白さんと一緒にいられて、すごく嬉しいんです」
それからまだ見ていなかった常設展を回って、ゆっくりと作品に向き合って、退館する頃にはもう夕方だった。
帰りは一緒に新幹線の切符を取って、他愛もない話を続けた。
行きの車窓から見たガラス越しの街の景色の話も、一人暮らしをしていて近所の美術館によく足を運んでいることも喋った。彼女も絵を描き始めた小さい頃の話や、今美術部の活動で描いている油彩画のことも喋ってくれて、それにじっと耳を傾けた。
そして、新幹線が駅に着く前に次の約束もした。
明後日火曜日の放課後、美術室で会う約束を。
その約束を心の内で何度も思い返しては、胸が高鳴るのを抑え切れない。
最寄り駅までのローカル線に揺られながら、真白はこの人生で初めて、誰かと会うことが待ちきれなくてたまらない気持ちを味わっていた。