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上栗真白は美術館が好きだった。
静かな空間で芸術と一人向き合う。
絵画、写真、彫刻、陶磁器、ガラス工芸、その他エトセトラ―
言葉を持たず、その存在自体に価値を宿す芸術品を眺めるのが彼女にとっての楽しみ。
言葉がないからこそ、そこに想像の余白が生まれる。
例えば青空を飛ぶ鳥が描かれた1枚の絵画を眺めるとする。
この鳥は何を想って飛んでいるのだろう、どんなスピードで飛んでいるのだろう。
どうして青空はこの青色をしているのだろう、そこに浮かぶ白い雲はどうして存在しているのだろう。
作者は何を表現したくてこの絵を描いたのだろう、これを観た人に何を感じ取ってほしいのだろう。
そんな想像が頭の中をグルグルと巡って、結局のところ答えは出ない。
だけれどそれが心地良い。言葉にできないものを、明確な答えにならないものを心で感じ取る。そういう時に胸がギュッと締め付けられるような気持ちになって、少し大げさな表現ではあるけど、生きている実感を得ていた。
訂正しよう。
上栗真白は想像の世界に浸るのが好きだった。
彼女が愛するのは美術品だけではない。
例えば自然も好きだ。
虫とかは苦手だけど、植物にあふれた空間で静かに過ごすのは心地良い。
傍らに咲く花を見つめる。その色や形、風に揺れる様、そこに何か心が動く感覚を覚える。それらが人工的に整備されたものか、それとも人間の手に介入されずに自生しているものかは関係ない。
どちらであったとしても、彼女にとっては想像の世界の入口に他ならない。
高校入学を機に一人暮らしを始め、家族から十分な仕送りを受け取ることのできた彼女が、毎週末のように想像の世界に浸れる場所へ出掛けるようになったのは自然なことだった。
6限目の授業が終わり、終業を知らせるチャイムが鳴る。
部活動には特に所属していないから、後は終礼を済ませて帰るだけだ。
金曜日の放課後に浮足立っている周りの生徒達を横目に、真白はスマートフォンを静かに見つめていた。
今週末はちょっとした冒険になる予定で、その手順などを確認していたわけだが。
その一瞬、ふと近付いてきた人影に声を掛けられる。
「上栗さん、ちょっといいかな」
「えっと、はい……なんでしょうか?」
その声の主は一つ後ろの席に座っていた生徒で、垢抜けた容姿の明るい子だった。
ポニーテールで活発そうな雰囲気を出している彼女は確かバスケットボール部だったはず。
「あのね、今日クラスの子たちで集まってご飯行くんだけど、上栗さんもどうかな?」
「あっ、えーと……すいません、私は遠慮しておきます……」
申し訳なさそうにそう答えると、気にしないでと言いたげな表情を返してくる。
「いいよいいよ気にしないで! 変に誘っちゃってごめんね。またいつか興味が出たら声掛けて」
彼女はそう言って柔和そうな笑みを浮かべたまま、他の友達の所へ急いでいった。
その後ろ姿をひとしきり追い掛け、彼女の姿が視界から外れたところで目線を手元に戻す。
人と上手く関われない自分にもどかしさを感じることは多々ある。
だけど、どうしても真白には彼女たちと同じ位相では過ごせないきらいがあった。
彼女たちは答えを求めてしまう。それも、分かりやすい答えを。
それが真白には窮屈で、息苦しいことだった。
その息苦しいと感じる気持ちを簡単には言語化できない。(こういう部分にも自分の癖が出ているのかな、と思ったりする。)
自分を人と比べて高尚だと思っているわけではないが、彼女たちの世界は短絡的で、安直なものに見えてしまう。
例えば会話。今付き合っている人が誰だとか、動画サイトで人気の配信者がどうだとか。
例えば音楽。メッセージソングに元気付けられただとか、今流行りのラブソングにドキドキして共感しただとか。
簡単に答えを欲しがる。
即物的な快楽― 楽しさや面白さみたいなものに容易く流されていく世界に、真白の求める想像の余白はなかった。
空白の世界で想像力の翼を羽ばたかせ、自分の心にある感受性を解放してやる。
そんな自らの喜びと相反する人たちと同じ場所にいるのは、とても息苦しいのだ。
もしかしたらこんな自分が少数派で、世間一般の謳う「普通」ではないのかもしれない。
それでもこれが今まで15年間生きてきた自分であるという事実は変えられない。
心の中のわだかまりから目を背けるように、真白は鞄を持って教室から出ていく。
「失礼しました」
ガラガラと職員室の戸を閉めると、廊下の窓越しに歓声が聞こえてくる。
グラウンドで部活をしているどこかの部が大きな声を上げたのだろう。
ガラスを一枚隔てたその賑やかさとは対照的に、職員室前の廊下はガランとして人の姿はなかった。運動部も文化部も各々の拠点で活動しているだろうし、帰宅部の生徒はわざわざここには寄らない。
そんな一人の空間に寂しさのようなものを感じながら、昇降口へ向かおうと一歩踏み出したその時。
ふと目の前に人影が現れた。
それはあまりにも静かな邂逅で、物思いに耽っていた真白は驚きから足を止める。
「2組の上栗さん、ですよね」
「えっ……あっ、はい。そうです、けど、えっと……」
前にどこかで見たことのある顔だったが、名前が思い出せない。
あたふたと慌てて頭を回転させている間に、相手は自ら名前を名乗り出した。
「私は1組の山吹です。山吹千雪」
「あっ……あの時の、山吹さん」
そこまで聞いて思い出す。
先月の美術の授業で一緒になった人だった。
その時は水彩画の制作があって、うまく描けない自分をたまたま隣にいた彼女が助けてくれたのだ。描きたいものを上手く言語化できないのに、何とか喋ろうとして余計こんがらがったような気もする。
美術は選択制の授業で他のクラスと合同だったので、こうして隣の組の彼女と出会っていたのも納得である。
「授業の時はありがとうございました。おかげさまでちゃんと提出できて」
「いえ、私が勝手にお手伝いしただけなので気にしないでください」
確か彼女は美術部に所属しているはずだったが、どうしてここにいるのだろう。
そんなことを考えているのに気付いたのか、向こうから喋り掛けてくれた。
「部活で使う道具の購入申請があって、今から顧問の先生に頼みに行くところです」
そう語った彼女は、同性の真白が見惚れてしまうくらいには美人だった。
肩まで伸びた綺麗な黒髪、クールな顔立ちと佇まいは校内にファンができても不思議ではない。
そんな彼女が、大して接点のない自分にどうしてわざわざ声を掛けてきたのだろう。それを口に出そうとして、それが声になるよりも先に彼女の声が響いた。
「上栗さんもご用事ですか?」
「えっと、はい。電車を使うので学割証をもらってきたところです」
今週末のちょっとした冒険に使うためのものだった。
実は手続きをするのが初めてで、受取までに長く時間が掛かってしまったのは内緒だ。
「そうなんですね。ちなみに電車でどこかにお出かけですか?」
その答えに一瞬詰まる。
真白にとって自分のプライベートの話はあまり人にしたくなかった。
多分、学校という狭い世界の中では珍しい趣味だと思われるから。
それを揶揄われたり物珍しげに扱われるのが嫌だった。
だけど、どうしてか彼女を相手に自然と答えてしまう自分がいて、それを口に出した後で驚く。
「今週末にルミエール美術館に行くんです。それで、新幹線を使うので学割を」
真白の住んでいるこの街から新幹線で1時間半、そんな場所にあるのが今回の目的地だった。
ルミエール美術館― 国内国外の様々な絵画が所蔵されている絵画専門の大きな美術館だ。そのコレクションと美しい建築に魅了された人は多く、テレビなんかでも時々取り上げられている。
その返答を放った直後、彼女の表情が一瞬大きく動いたのは見間違いだろうかと思ったが、数秒と経たずにこちらへ向かってずいと一歩踏み出してきた彼女の動作から、それは間違いでないとわかった。
「……あの! もしよければなんですが、私もご一緒していいですか」
「ふぇっ!? えっ、あっ、ええと……」
「ご迷惑にはなりません。旅費や入館料その他諸々は当然自費です。むしろ昼食でもご馳走しますので」
「ふぁいっ!?そんな、えああ……ま、待ってくださいいきなりで心の準備が」
「あ…………すいません、いきなり畳みかけてしまって」
突然の提案でわけがわからない。
顔を合わせるのが2回目の知り合いから、突然旅行への随伴を頼まれるだなんて。
「でも……山吹さんなら、いいかも……しれません」
彼女の提案にすんなり乗ってしまう自分がいた。
断れなかったとか、不承不承というわけではなく、ただ自然に受け入れていた。
ほんの1回授業で手伝ってくれただけの相手に、なぜこんな感情を抱くのか自分でもわからなくて困惑する。
そもそも趣味の話を自分から切り出した理由もわからない。家族で旅行に行くのだとでも言って誤魔化せばそれで済んだはずなのに。
「本当ですか! それなら、ぜひご一緒させてください」
美しい顔立ちをそのままに、彼女はその表情を綻ばせて嬉しそうに笑ってみせた。
その笑顔にドキッとして胸の辺りが切なくなる。
自分の思考が自分にもわからず空回りしているうちに、メッセージアプリの友達登録まで済ませてしまい、いよいよ真白は後に引けなくなった。
確かに彼女は美術部だというから、自分の趣味をある程度理解してくれるとは思うのだが。
部活が終わったらまた連絡しますと残して去っていった彼女を見送る。
今この時、美術品よりも植物よりも、何よりも言葉にできないのは真白自身の心だった。