紅葉さん、桜花へ
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彼は、経済学者程知識はないが、乏しい知識と偏見をもって経済学にかぶれた一般男子生徒、すなわち経済学徒であった。
彼は二人称を「あなた」で統一していた。彼曰く、人間が会話の相手を「くんさん呼び」などの固有名詞付きで呼ぶ場合、非効率性の問題が生じるという。固有名詞付き呼びの場合、会話の相手の名前を覚えておいて、そして記憶のタンスのどこかしらからそれを引っ張り出す作業が必要となる。そのため、固有名詞呼びでは、記憶容量と時間の消費の死荷重が生じているのだ。(死荷重というのは、資源の使い方などが非効率的であることである。)つまり、「あなた」で統一した場合、節約できたはずの記憶容量と時間という資源を固有名詞呼びで無駄に消費することは非効率的であるのだ。そのため、彼は全同年齢同立場、もしくはそれ以下の人間を「あなた」と呼んでいるのだ。ただし、彼も超えてはならない一線は弁えているようで、目上の人間にはきちんと敬称を使っていた。孔子は「七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず」ということを言っていたようだが、彼は齢二十程度にしてその域に達していたということなのだろうか。実は全くもってそうではなく、単に効率性の達成を目標としていただけである。目上の人間を「あなた」と呼ぶことで反感を食らって摩耗し、消費される精神力は死荷重であるといえ、非効率的だと考えたのだ。ちなみに、同じような理由で、彼は朝晩関係なく挨拶は「おはよう」であった。脳が「今は朝?昼?晩?」という愚問に答えた後に「では、その時間帯に適切な挨拶はなんでしょう?」という三歳児向け問題に解答をする過程が非効率的なのだとか。
経済学では一般的に、「人々は合理的である」ことが仮定される。彼もまた、最大限の効率化を求める合理的な人間であり、仮定に当てはまっているのだ。
彼は、かわいい服を着る。黒とピンクの組み合わせがお気に入りだ。そしてかわいいキャラクターのキーホルダーが吊るされたリュックを背負って大学に行っていた。客観的に見たら、彼の服装は一般男子生徒というマニッシュな肩書きに似合わず、フェミニンガーリーファンタジーで悪目立ちしていた。しかし彼は、そのようなことは気にも留めない。なぜなら、彼が疑似的に設定した服装の選択による効用関数の説明変数には、「他人からの評価」という項目がないからである。(効用というのは、湯葉ほどに平たくいうと幸せ度のことであり、効用関数というのは効用がどのように決定されるか表したものである。)つまり、彼が選択した服を着ることで得られる幸せ度は、服の色、その組み合わせ、もしくは柄とか生地の心地よさとか、彼の主観で判断できるもののみに依存しているのであり、他人が彼のきゃわい服を一瞥したときの、軽蔑と軽い嫌悪感を構成要素に含む嘲笑などは一切関係ないのである。
経済学では、「個人は利己的である」ことが、基本的な仮定として設定される。服装の前例からお察しの通り、彼は自分を主体として考える利己的な人間であり、その例に漏れない。
このように、彼は経済学が想定する個人の条件に忠実に二つも当てはまる、合理的利己的模範的経済学徒なのである。
だから、彼はお菓子作りをしない。彼は、お菓子が大好きなのだけれど。それは、経済学で言う特化の観点から見て非効率的だからである。彼は不器用な人間だ。だから、彼がお菓子を作るとき、多くの時間と気力を浪費したのちに、コンビニスイーツの足元の元、すなわちかかとかつま先の影にも満たないほどの出来栄えのお菓子?が誕生するだろう。その生産性たるや、粉砂糖の一粒にも満たないかもしれない。ならば、お菓子作りはノウハウ勝手知ったる大手メーカーに任せ、彼は彼でより生産性の高い行動をしたのちに、大手メーカーの素晴らしい産物を手にする方が効率的なのだ。だから、彼は特化の観点からお菓子を作らない。
しかし、彼はタバコを吸っていた。寿命を縮める可能性のあるタバコは客観的に見れば非合理的な行動かもしれないが、彼はそれが合理的で効率的な行動だと信じていた。彼は将来が怖かった。彼は、自身の人生の効用関数を設定していた。だから、彼は自分のどの行動が、より自分の効用を上げることができるのかを疑似的に知っていた。彼の効用関数は、一人安寧のリラックスタイムに大きく依存していた。つまり、彼はみんなでウェイウェイキャイキャイやるよりも、一人でユラユラスヤスヤする方が幸せな、非青春インドア野郎なのだった。だから、彼はこのまま大人になっても独身貴族すこやかライフを満喫するつもりだった。しかし、彼は知っていた。限界効用は逓減することを。(やさしい日本語で言うと、限界効用の逓減とは、あるものを消費し続けると、その分だけだんだんと効用の上昇値が少なくなっていくことである。一口目のケーキよりも二十口目のケーキのほうがおいしさを感じられなくなっているよね。)とにかく、彼は一人でくつろぐ時間に感じる効用はだんだんと小さくなることを知っていた。だから彼は怖かった。独身貴族も没落するのだ。年をとって、好きだった本や漫画から輝きが消えて、一人でリラックスすることの安寧よりも、孤独感が上回る日が来ることが怖かったのだ。だから彼はタバコを吸っていた。彼は長く生きなくてよいと思っていたから。むしろ、彼は、彼の大切な時間が孤独で黒く染まる前に、光に満ちている間に終えることで、人生の総効用を最大化できるのだと信じていた。だから、彼にとっては、一本二十円程度、十分程度で簡単に快楽を得られるタバコというツールに欠点はなかったのだ。そう思っていた。
だけれど、彼は見落としていた。彼は、経済学者程の知識はない、知識の乏しい偏見に満ちた、経済学徒なのだから。経済学モデルで立てられる仮定である予測性は、現実では成り立たないことを見落としていたのだ。現実は予測が外れることも多いのだ。彼は生涯独身人間だと予測していたが、それは外れた。
すなわち、彼の人生の効用関数の説明変数には、新たに「妻、紅葉さんの効用」と「娘、桜花の効用」が付け加えられることになったのである。つまり、彼の幸せ度の上昇は、彼の妻と娘の幸せに影響されるようになった。だから、彼はタバコをやめた。タバコの煙には、負の外部性がある。(簡単に言えば、負の外部性とは意識せず周囲の人に与える悪影響のことである。)それによって彼の妻子に悪影響を与えることは望まれないのだ。客観的には、彼が利他的な行動をとっているように見えるかもしれないが、結局、新たに妻と娘の効用が追加された彼の効用関数を最大化するために動いてるのであり、やはりその点では彼は合理的利己的模範的経済学徒なのだ。
けれど、彼は二人称を「あなた」で統一しなくなった。彼の二人称リストには、新たに「紅葉さん」と「桜花」が追加された。ちなみに、桜花は彼がつけた名前である。人生を謳歌「おうか」できますように、そして、長年人々に愛されてきた「桜の花」のように、人々からいっぱい愛情を受けて育っくれますようにと願いを込めて。二人称をすべて「あなた」で統一していた、名前に無頓着な人間が、掛詞まがいのことまでして考えていたのだ。この文章をあなたたちが見ると思うと、私はわき腹を小突かれたようにこそばゆく恥ずかしくなってしまうのだ。彼だったらなおさらだろう。
また、彼は、お菓子作りを拒む原因となっていた、特化の考えを捨てることもあった。彼と紅葉さんは、それぞれの仕事をしつつ、桜花の子育てと家事も分担して協力し合った。今は時代が時代なので、こんなことを言うと(書くと?)怒られてしまうかもしれないが、彼曰く、特化の観点からいえば、片方は外での仕事に専念、片方は家庭の仕事に専念したほうが効率が良いのだ。特化の観点でいえば、それぞれが、より生産性の高い活動に専念し、それに時間をかけるほうが効率的なのだから。しかし、彼はその方法をとらなかった。彼は彼のやりたい仕事があって、紅葉さんも紅葉さんでやりたい仕事があった。紅葉さんがやりたい仕事をしている姿が、彼は好きだった。彼は紅葉さんと一緒に皿洗いをしたり、洗濯物を畳む時間が好きだった。桜花に読み聞かせをしたり、桜花の宿題をみたりするのが好きだった。つまり、彼は全部叶えたかった。非効率的だとしても。
だから、二人称呼びの統一の廃止をし、特化の考えをおろそかにしたことを考えれば、彼はもう効率的な行動をする、合理的な人間とは言えない。合理的利己的模範的経済学徒ではなく、利己的部分的経済学徒になったのだ。けれど彼は、そのことについては後悔していなかった。
しかし、彼にも後悔していることがある。紅葉さんと出会う前までは、タバコを吸っていたことだ。もし吸っていなかったら、彼は五十代後半にして肺癌になっていなかったかもしれない。経済学のデータ分析では、相関関係と因果関係を混同してはいけないが、それでもやはり、あの時期タバコを吸っていなかったら、紅葉さんと桜花と過ごせる日々がもっと長くなった可能性が何パーセントかはあったかもしれない、と考えてしまうのだ。もっと二人と生きていきたかったと、望んでしまうのだ。
しかし、彼には、もっと強い望みがある。彼はまだ五十九歳。生きられてあと一年ほどだとお医者さんは言っていた。現在の人間の平均寿命を考えれば、私の人生の幕開けは、朝が苦手な桜花から見た、にわとりの早起きくらいには早いものだろうか。そんな早くに、紅葉さんにとっての夫、桜花にとっての父を失ってほしくないと、そのことを本当に強く望んでしまうのだ。こんな、人生の終わり際、映画でいうとクライマックス、曲でいうとラスサビで、彼主体でなく妻子が主体の望みを抱いてしまう彼は、利己的でないかもしれない。もはや利己的部分的経済学徒でもないのだ。だからもう、経済学徒でもないのだ。そうなるともう、経済学徒の彼は消えてしまったのだと感じる。残ったのは、紅葉の夫、桜花の父である私だけ。
大学に入って経済学に触れてから約四十年間一緒だったのに、土壇場で私だけにバトンを押し付けて走らせる彼のことを若干恨めしく思いますが、彼のおかげで紅葉さんと桜花との人生があるので、文句は言いません。
紅葉さんと、桜花のおかげで、彼と私の人生の効用はいつでも最大でしたよ。
ありがとう。
二〇二三年 三月二十七日
追伸
当たり前ですが、初めて遺書というものを書いてみました。こうして遺書として形式ばって書くと、なんだか緊張しちゃいますね。一応私のパソコン内に遺書があることを、私の机に遺した手紙(それを遺書というのでは?これもうわかんねえな。)に記しておいたのですが、遺品整理の時などに気づいてもらえたでしょうか。探すのが難しかったらごめんなさい。
私がこのように遺書を書いたのは、単純に、この私の、愚かしくも幸せだった人生を見てもらって、紅葉さんと桜花に笑ってほしいからです。私の死に関して、涙を流してほしくはないのです。ですから、どうかこの遺書を読んで笑ってやってください。彼はいなくなったけど、やはり私の人生の効用関数も紅葉さんと桜花の効用に大きく影響を受けるのですから。笑ってもらうために、遺書もところどころコミカルな感じにしようと頑張ったのですよ。
私はこれを書いてるうちに色々思い出してしまって、泣いてしまいましたけれど。
二〇二四年 五月八日、この日、どこかで、二人の女性の悲しくて温かい泣き笑いが響いたのである。
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