蟻の苦悩
女王はいつも広いお部屋でお食事をなされる。食糧庫から運ばれた食料を働き蟻に運ばせて、それらをバクバクと召し上がるのだ。今日の当番が私ともう一匹の蟻なのだが、食糧庫の中身を見たときから、とても気が滅入っていた。
「味気ない」
そう言って、セミの脚を食べ残したのは、我らが蟻の女王。周囲の働き蟻よりも一回り大きく、その風貌は我らを統治するに相応しい。
そんな女王はとてもグルメで、何でも食べるというお方ではない。より栄養価の高い、より旨い食料を常に欲している。今回運んできたこの食料は、そんな女王のお眼鏡にかなわなかったらしい。運んでいる段階でもそれは予想ができていた。だが無い袖振れない、もとい無い食料は振舞えない。
「しかし女王、今残っている食料の中で一番栄養価が高い代物でございます故、来年までご容赦いただけないでしょうか?」
「いやじゃ、美味しくないわセミの脚なんて。余は肉が食べたい。セミの殻の中にある瑞々しい肉じゃ。なんならイモムシのモチモチ食感でも構わん」
強情になった女王は、こうなったらなかなか食料を口にしようとしない。先輩働き蟻に聞いた話によると、先代の女王蟻からとても寵愛を受けて育ったとか。次期女王なのだからそれは当たり前だと思うのだが、こんな我儘に育てられたのは失敗としか言いようがない。
「ございません、こんな冬場ではセミはおろか、他の虫さえも今は冬眠に入っているでしょう」
「まずいもんはまずいんじゃ!」
女王の御前には、我らが春夏秋に溜めた食料の一部である、セミの脚が置かれているが、女王はぷいっとそっぽ向いて食べようとしない。どうしたものか、このままでは女王に栄養が行きわたらず、働き蟻が増やせない。そうなればもっと食料が集めにくくなる。
それに、こうして矢面に立たされて女王のお小言を食らうのは正直本当に、本当に気が滅入っていた。貴女がいっぱい召し上がるから食料が全然残らないんじゃないか! と文句の1つや2つ言ってみたい。だがそんなことをすれば女王は乱心されて私の身が危うくなる。ここは我慢して、女王の怒りの炎が収まるのを待つほかない。こんなこといつまで続くんだよ。
と、心の中のため息が累計1万は越えようという時である。
「女王、肉よりも、もっと美味なるモノがほしいとは思いませんか?」
そう提案したのは、私と同期の蟻だった。同期と言っても、女王にとって我ら働き蟻は区別されない下っ端だ。だから女王には蟻の群れというか、不特定多数の働き蟻という流動体の一部が言っているように見えていることだろう。
つまり、私がそんな世迷言を言っていると思われている可能性がある。マジでこいつは突然何を提案してくれているんだ? もっとうまいものだなんて。
「何? 肉よりもか?」
「左様でございます。私が先日独自に入手した情報によりますと、『飴』と呼ばれる代物でございます。まるで黒雲母の如く光り輝き、そしてとても甘いと言われております」
得意げに話す同期は、私に目配せをした。ここは俺に任せてくれ。と言っているようだ。頼もしいと思えなくもないが、『飴』なんて食料は食糧庫には存在しない。まさか女王に虚言を吐いてこの場を乗り切ろうというのか?
「よかろう、今すぐ持って参れ」
ほら言わんこっちゃない。私を助けたいという気持ちはありがたいが、気持ちだけでは女王の腹と欲は満たされないんだ。
「申し訳ありません、今すぐこの場にご用意することはできないのです。ですので、今から遠征にてその『飴』を調達いたします故、しばし我慢いただけないでしょうか?」
今すぐ、だと?
「ほう、信じてよいのだな?」
女王の複眼はワクワクで満ち溢れていた。アゴもカツカツと鳴らし、とても上機嫌な調子である。だが、その動きが一瞬止まったと思ったら、全ての複眼が私たちを睨みつけた。
「じゃが、次に貴様を見たときに、その飴とやらが横になければ、その時腹に入るのが貴様等だと知れよ?」
え、嘘、今貴様「等」っておっしゃった? 私も!?
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
「なに、危険な任務じゃただとは言わぬ、もしその飴とやらを持ってこられたならば、褒美に冬のサボり蟻としておぬしらを任命してやっても良いのじゃぞ?」
「サボり蟻、ですか!?」
我々蟻は、全員がずっと働いているわけではない。万が一働き蟻の定員を下回った時のために、一部が働き蟻の控えとして休養を取っているのである。そのサイクルは他業種の女王によって違いがあるが、ここの巣のサボりサイクルは、四季サイクル。つまりこの冬はもう女王にお小言を言われずに、サボることができるということである。
「どうする? 無理にとは言わないが」
同期蟻が最後のチャンスと言わんばかりに、私に選択を迫った。これを逃せば冬はお小言祭り、でもこのミッションを成功させれば冬は休み放題、お小言なし、飯食って寝るだけの楽な日常。心でメリットデメリットを天秤にかけ、プルプルと震えながら、声を絞りだした。
「わ、分かった、喜んで参加するよ」
「ま、安心しろって、ある程度の算段は立ててある。巻き込んだ形になってすまないが、滞りなく進行すれば俺達は冬の間休み放題だ」
女王の部屋からの帰り。欲に負けて参加したものの、内なる不安からかカリカリと歯を鳴らしてしまっていた私を見かねて、同期蟻はそうたしなめた。
「しかし本当にその飴っていうの? 取れるんだろうな? 取れないと私達食われちまうんだぞ?」
そう詰め寄ると、同期蟻から僅かながら焦りの匂いが滲んでいた。その動揺を振り払うように、同期蟻は顎を荒げた。
「だ、大丈夫大丈夫! 場所は押さえてあるからさ! 遠征先は『ブランコ』だ! 今日もそこにかならず奴らは現れる!」
ブ、ブランコだって!? その言葉に、同期蟻への嫌疑は吹っ飛んだ。思わずアゴが外れそうになるがそれはなく、代わりにアゴの動きが止まった。
「まさか、お前が狙ってる飴っていうのは……」
「そう、飴ってのは、人間が落とすものなのさ」
まず、ブランコにまで辿り着く必要がある。今のこの巣は、公園に植えられている木の根っこ付近に作られている。そこからブランコにたどり着くためには、いくつかの中継地点を経由する必要がある。最初にシーソー、次は滑り台、そして最後にブランコだ。何故いくつものチェックポイントを挟む必要があるのかというと、俺達蟻は、そこまで遠くを見ることができないからだ。普段土の中で穴を掘ったりしているものだから、あんまり目が良い奴がいても、外界に出た時に光のストレスで死んでしまうのだ。そうして生き残ったのが、俺達目の悪い蟻と言うわけである。なのでそんな俺達がブランコにたどり着くためには、目のつくポイントを渡っていくしかないのである。その第一のチェックポイントがシーソーというわけだ。
だが問題は距離なんかじゃない。この寒さだ。私たち蟻は、食べ物を食べることで脂肪を蓄え冬を越すのだが、まさか飴を取に行くための防護服となるとは。だがそんな脂肪をものともしないくらい寒い。体を動かして温め続けなければ、すぐに凍死してしまうことだろう。それほどこの季節は俺達蟻にとってキツイ季節なのだ。
私たち遠征組は一歩一歩確かな足取りで進行していく。低い気温と北風によって、ドンドン体温が奪われていく。急がないと、飴を運ぶ前に全滅もあり得るぞ。
「おい、ほんとにこの方向で合っているのか?」
遠征組を率いている飴を見た同期蟻に尋ねると、風に抗いながらも答えてくれた。
「ああ、そのはずだ。この方角から帰ったんだからな。もうすぐ見えるはずだ」
その言葉を信じて歩みを進めていくと、見えた。赤い木材が右上がりに斜めになっている、シーソーだ。そして周囲には人間の気配も感じない。絶好の機会だ。
「おい! あれを見ろよ!」
遠征組の蟻がシーソーの真下を指した。何事かと思い見やると、私は目を見開いた。見開いたところで視力が上がるわけでもないのだが、これを見たら驚きを禁じ得ない。幸先がいいとはこのことだ。いつもは私達よりも大きいクロオオアリに取られていたが、この冬にはそいつらも寒くて出られない。だからこそありつくことができた。
「ラムネだ!」
ラムネ。それは恐ろしく甘い、白くてホロホロとしたとっても栄養ある食べ物である。その白さは空の光に反射し、光沢こそないものの、輝くような白さがある。それがいくつも転がっていたのだ。もうこれ持って帰ればいいんじゃないだろうか?
「これは、飴を持ち帰るための遠征用食料に使うんだ、いいな」
同期蟻が、私の妥協案を言い出す前に、というか私のような蟻が声を荒げないようにするために、わざわざ大きく皆に伝えた。意味が分からない。何で?
「この冬に外にいるだけでも危険なんだ、これを持ち帰って許してもらった方がいいよ」
「いやダメだ。俺達は女王に言ってしまったじゃないか。黒雲母の如く黒く輝く飴をお送りすると。だがこのラムネで妥協なんてしてみろ、確かに溜飲は多少下げられるかもしれないが、命令に違反したことには変わりないんだ。そうなれば、俺達は処分されてしまうかもしれない」
同期蟻の言葉ももっともだ。そんなの、アブラゼミの肉をオーダーされて、イモムシの肉を提供するようなものだ。確かに腹には収まって栄養を蓄えられるかもしれないが、それを許せば組織の秩序が乱れてしまう。妥協してもいい空気は、怠けの空気に変貌しかねない。それに命令違反の処分対象が私達二匹だけならまだいいが(できればこの同期蟻だけの処分が望ましいが)、この遠征に参加してくれた蟻達をも巻き添えにしてしまう。それはとても忍びなかったし、未来を考えても、働き蟻の数を必要以上に減らすのは避けたかった。
が、感心した私の抱く評価を、同期蟻はわざわざひっぺがした。
「遠征のためにこれを食べるんだ、女王にばれずに食っていいぞお前ら!!」
「「「おおおおおおおおおお!!!!」」」
お前が食いたかっただけじゃないのか? という疑問を抱いたのもつかの間。私はまだ、この同期蟻についてきて良かったと思っている自分に無自覚でいた。
さて、ラムネを皆でお腹いっぱい平らげて、次なる目的地に向かう。寒さになんとか耐えながら皆で歩みを進めていき、苦労の末、誰も欠けることなく滑り台に辿り着くことができた。それもラムネを食べたお陰で、エネルギーを充填できたからこそだろう。
目の前に見えるのは、斜めに歪曲した大きな銀色の坂と、いくつもの木材を組み合わせたものが合体している物体。人間の幼体は、その組み合わさった木材を器用によじ登ることで坂のてっぺんにまでたどり着き、坂を滑っているのをいつかの時に見たことがある。だからこそ、ここにもよく人間の幼体が落としていった、先ほどのラムネのような食料が転がっているものなのだ。
そして、その食料を狙っている蟻を狙っている者もいる。今回我々が一番警戒しなければならない敵。足下を崩し、ほぐし、蟻を自身のテリトリーの中へと引きずり込む、蟻の天敵。
蟻地獄が、地面にボコボコと、いくつもの穴を形成していたのである。
「つっても滑り台の下によく作るだけだけどな。間違ってもそこには行くなよ」
と、同期蟻は遠征組の蟻達に注意喚起する。そう、蟻地獄が穴を作るのは決まって日陰になっている場所なのである。なので日向となっているルートに迂回して、それからゴール地点のブランコを目指せばいいのだ。だが、そのルートを取ることはどうやらできそうになかった。
「んな、なんだと!?」
同期蟻が見た先。それは滑り台の右と左の迂回ルートなのだが、そこには大量のスズメが蔓延っていたのである。チュンチュンと、忌々しくも天より降りかかる恵を貪っていたのだ。人間の成体がパラパラと食料をまき散らしていたのだ。滑り台を迂回して進軍しようものなら、あのスズメの食料として食われるのが落ちである。くそう、どうする?
「このままじゃ先に行けないぞ、どうする?」
私は同期蟻に尋ねたが、決めあぐねていた。このまま二の足を踏むだけでも、寒い風にさらされて命を削られている。迅速な決断が求められた。同期蟻は寒空の下、じっと触覚をピクピクさせて考えていた。
そのまま凍死してしまったんじゃないかと思った時である。
その触覚が、ピンと、立った。
「前だ! 俺達は前に進む!」
「でも、それじゃ蟻地獄の餌食になってしまうじゃないか!」
「安心しな、策はある」と、同期蟻はカツンと歯を鳴らした。
地面に数多く作られた蟻地獄の穴をかいくぐるためにはどうすればいいのか。空を歩くことができれば回避することはできるのだけれど、しかし羽蟻ではない私達は飛ぶことができない。できたとしても、スズメも空を飛ぶことができる。故にそのあり得ない可能性も使えない。人間の成体によるスズメへの施しは、よく青い人間の成体に止められるのでそれを待っても良かったのだが、如何せん時間がかかりすぎて体力が尽きる可能性があるので、それもベターな選択とは言えなかった。では、そんな中で同期蟻が取った手段とは何か。
それは、天を歩くことだった。
否、天井を歩くことだった。
「まさかこんな方法で蟻地獄を脱することができるとはな」
「正直ヤバかったけどな、ラムネ食った頭じゃないと思いつかない発想だったぜ」
私達は、人間の幼体が滑り坂に行くまでの組み合わさった木材の柱を伝い、真下を歩いていた。ここならば蟻地獄に足を取られることもないし、スズメに目を付けられる心配もない。だが帰りにまだスズメが人間からの施しを受けていたらどうするのだろうか? と疑問を呈すると「俺達がブランコに辿り着いて、飴を見つける頃には流石に青い人間の成体が取り締まってるだろうぜ」と同期蟻は確信的に返事をした。そんな大雑把な作戦で大丈夫何だろうなと、滑り台を抜けてブランコまでの道を進むとき、ふとスズメの方を見やると、本当に青い人間の成体がスズメと、施しをしていた人間を追っ払っているのがうっすらと見えた。これならば飴を運ぶ際は、迂回ルートを使っても問題なさそうである。
そしてラストスパート。同期蟻の道案内の元で前進していくと、目の前に、大きなパイプが広がっていた。そこには鎖で繋がれた板が二組あり、風に揺れている。間違いない、ここがブランコだろう。
「よし、なんとかブランコに到着したぞ。人間はまだ来ていないらしい。過去にあいつらが落とした飴を探すんだ。最悪飴じゃなくてもいい。とにかく食料になる物を探すんだ。体力が落ちたと感じたら食って凌げ!」
「最悪飴じゃなくてもいい」という言葉で、やはりラムネを食べたかっただけだなと邪推する。だが食欲の赴くまま、私たちは各自ブランコ周辺を散らばって、飴やそれに準ずる食料を探す。数分して散らばった地点で集合すると、各自色んな食料を拾ってきていた。
「おいすげぇよ! この乾いた芋! じゃがじゃがするぜ! これは女王もお喜びになられる!」
「俺のこれも負けてないぜ! フニフニで甘い! もしかしてこれが例の『飴』ってやつなのかな?とにかくさっさと女王にお渡ししよう」
皆の釣果はとても目覚ましかった。今まで植物の種や小さな虫を食べていた女王の我慢も満たすことができるだろう。ちなみに私が拾ってきたのは小麦の香りがする欠片だった。
「おーーーーい! 誰か来てくれーーーーー!」
仲間からのSOS!? まさか蟻地獄にはまったんじゃないだろうな!? 食料を一時その場において、SOSのする場所に皆で駆け付ける。
そこには同期蟻と、もう一つ。
目の前に見えるのは、巨大な球体。ダンゴムシの何倍大きいんだろうか。そしてこの甘い香り。黒雲母の如き輝き。間違いない。これが、これこそが――――。
「これが『飴』だ! 皆運ぶぞ!」
仲間たちから歓声が上がる。そして巨大な飴に群がり、それを一斉に持ち上げて進行方向へと運ぶ。それに余った要員で、副産物の菓子類をもえっさほいさと運んでいく。皆が皆、大収穫に心を躍らせていた。
同期蟻がテンションを上げて歌い出す。それに続いて遠征組も歌い出す。もちろん私も歌わずにいられなかった。
「大量食料いっぱい栄養! 急いで運ぶぞ女王のために!」
「大量食料いっぱい栄養! 急いで運ぶぞ女王のために!」
「大量食料いっぱい栄養! 急いで運ぶぞ女王のために!」
冬の寒さなんて、もうどこかに吹っ飛んだ。
それにこれで私の命も助かる。それだけじゃない。こんな栄養の固まりなら、しばらくは遊んで暮らせるかもしれない。
そういう期待を胸に、巨大な飴をえっさほいさと――――。
ドシンドシン!
ドシンドシン!
ドシンドシン!
ドシンドシン!
一斉に足が止まる。急いで獲物をおろし、その振動の方へと振り向くと――――。
「あああ!! あったあああああ!! おいらのあめええええええ」
複眼に映ったのは、この飴を落とした人間の幼体が、巨大な指で飴を摘まもうとする姿だった。
「っに――――」
逃げろ。背後から仲間がそう言ったように聞こえたが、振り向いてももう居なかった。すでにはるか上空。飴と共に摘ままれてしまったのだ。
「ううええええええ!! 蟻だあああ!! きもちわりいいいいい!!」
仲間が払いのけられる。蟻はその体の軽さから、高いところから落下しても命に別状はない。
だが、恐怖は、刻まれた。
「逃げろーーーーー!!」
蜘蛛の子が散るように、皆が皆逃げていく。ちゃんともとの巣に帰れるのか。そんな心配なんてしていられなかった。
「ぼおおおおおおおくのあめをとるなんてえええええ!! このおおおおお!!」
そう叫び、人間の幼体は、片手で持っていた何かをひっくり返す。そこからは、まるで水飲み場の穴から水が出るがごとく、大量の緑色の水が流れ出していた!
「ぎゃあああああ!」
「おぼぼぼぼぼぼぼおぼぼぼぼぼぼっぼろろろろろろろろろろろろろ!」
流れる緑色の水に流される。しかもこの水、甘い。栄養価はさっきまで運んでいた飴にも匹敵するほど。それほどの物をいともたやすく地面に流していた。流され溺れる私や仲間たちは、その液体がかかり光沢を放っていたものの、その体を動かすことができないでいた。
このまま流されては、女王に食料を送ることができない。そうなれば私たちに未来はない。なんとかして、少しでも食料を運ばなくては……。私は急いで流れから脱出し、辺りを見渡す。
そういえば、同期蟻はどうした? あいつの道案内がなければ帰ることも難しいというのに。まさかあの人間に踏まれて死んでしまったとか!?
「んぎゃあああああああああああああああ!!」
私の心配を他所に、さらに叫び出す人間。今度は何をしようとしているのか。と身構えていると、人間は大きな体を地面に倒していた。でもなんで?
「いででででででででででででで!!」
もがき苦しむ人間。そんな巨体を背に、テケテケと急ぎ足でこちらに向かう蟻の姿があった。そう、あの同期蟻だ。飴を拾われた時人間の幼体の手に乗って、その手に嚙みついていたのである。
「すまない遅れた! 飴はもう諦める! しかし副産物の食料は手に入った! 撤退!撤退いーーーー!!」
* * *
その叫びを聞いて食料を運ぶことができた蟻は、最初の数の10分の1程度だった。あとはあの人間が流した謎の液体に流され、呼吸ができずに死んでしまった。それにあの人間に踏みつぶされたのもいた。人間という生き物は、ここまで強大な存在なのか。
流石にあの同期蟻も意気消沈しているようで、死んでいった仲間たちのことを考えているのか、巣の中に入ってもなお足取りはノロノロとしていた。かくいう私も全身あの液体でべたべたしており、私達の歩調は丁度同じくらいだった。同期蟻を見やると、私をチラリと見て語り掛けようとするが、体を震わせて、そのまま何も言わなかった。
「仕方がないだろう、犠牲を承知で我々は遠征に行ったんだ」
同期蟻は顔を下げ、アゴを噛みしめている。危険だとは分かっていた。しかし、ここまでの力を持っているとは思ってもいなかったのだろう。ましてや幼体だ。これが成体になった時、人間という生き物は一体どんな真価を発揮するのだろう。想像しただけで身の毛がよだつ。
「それに、足りない食料はこうして増やすことはできた。飴は持ち帰ることはできなかったが、これで女王も満足なさるはずだ」
正直それを祈るしかない。これほど頑張ったんだから、それ相応の報いがあってもいいじゃないか。そう励まし、私は同期蟻と共に女王の元へ食料を持っていった。
「よくぞ帰ってきた!」
出ていったときのワクワクを保ったまま、女王は笑顔で私たちを出迎えてくれた。ありがたきお言葉だが、しかし、多大なる犠牲、すなわち女王の子供を死なせてしまったことが申し訳なかった。そして目的の物を持ってきていないのだから。
「して、その隣のはなんじゃ? 別の食料か?」
飴はなく、代わりに干したじゃがじゃがした芋、ぐにぐにした甘いものなどがあることに疑問を呈してきた。当然だろう。飴を持ってくると言っておきながら、違う物を持ってのこのこ帰ってきているのだから。
「さ、左様でございます。この食料は飴を探す際に見つけた副産物でございます」
「くくく、まさかここまでの釣果を成すとはな。期待以上の成果じゃ! 余は満足じゃ! さっそく食わせよ!」
と意気揚々とご命令なさる。しかし、言わねばならない。今回は任務失敗なのだということを。
「しかし、先に謝罪しなければならないことがございます。我々は女王に『飴』を謙譲すると宣言いたしました。しかしこのような結果になってしまい、誠に申し訳ございません」
と頭を下げる。叱責は承知の上だ。死んでいった仲間たちの事を考えれば当然の報いである。
だが叱責の声は聞こえなかった。そして代わりに聞こえてきたのは、賛美の声だった。
「何を戯言を口にするか、そこにあるではないか。黒雲母の如く輝き、甘い香りをしたものが」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。黒雲母の如く輝き、甘い香りをした物なんて、この場に存在するわけがない。そんなものあるわけが――――。
体が、浮いた?
「女王、一体何を……!?」
女王は私を持ち上げると、そのまま私の体にその強靭なアゴを突き立てる。
我ら働き蟻には名前がなく、女王にはそれぞれの個体を区別することはできない。
取るに足らない存在。緑色の甘い液体がかかった蟻が、蟻なのか飴なのかさえ、区別ができない。
「よく飴を持ち帰ってくれた、我が子よ。では、頂くとするぞ」
そう呟いたのは、私に対してではなかった。
食料の横で跪く、同期蟻だった。
「ふざけんな! 私が何で食われなきゃいけないんだ! 全部お前についていったせいだ! 嫌だ食べられたくない! 食べられたくない!」
「おうおう、生きのいい『飴』じゃ、これは新鮮で期待が高まるわい」
女王のその反応に、だらんと、全足の力が抜ける。軽々しく他人に、他蟻に流されるものではないと、つくづく痛感しながら、次はもっとホワイトな女王の元に生まれることを祈りながら、私は女王に食べられたのだった。