第一章 Ⅲ
さて、ここで説明を加えよう。そもそも甲家無心流とは何か?それは四百年以上も昔、とある富農の庶子によって編み出された、とされている。というのも書物など史料が少なく、創始者と見なされる者の日記の一部や、弟子達が書き記したと言われる型に関する記述などが、僅かに残されているにすぎない.それらを読み解く限り、次の様な事情が見えてくるのだ。
時はまさに戦国時代の只中。室町幕府体制は形骸化し、いつ、誰が日本を平定し、安定をもたらすか未だ不明の時代だった。件の庶子は本来ならば物静かで文学者肌だったと伝わっているが、戦いが日常の時勢に生き延びる方法を模索したらしい。次男坊なれば出兵しなければならない可能性は高く、切実な必要性から、彼は本来不向きな作業に邁進した事だったろう。逃走という、元の生活を確実に失う選択肢は論外だったろうから。なればと、この時代を生き抜く方法として彼が選択したのが、あらゆる状況下で敵に対し有効な(とはいえ鉄砲、弓等の遠距離武器はさすがに対処しきれないが)戦闘術の構築だったのだ。幸い、経済的に余裕のあった彼は当主の理解も得て剣術や格闘術関連の書物を渉猟し、また可能な限り武術家への接触も試み、指南も受ける事が出来た。そうして体得した様々な戦闘知識、技術、体術等を独自に再構築し一応の完成を見たのが甲家無心流の原型だった。一応の、という事は未だ様々な要素を受容し、変化してゆく余地を残しているからなのだ。実際のところ、この武術は生死を分かつ幾多の場面で彼を救い、故郷への道を二本の足で辿らせたのだ。その評判が彼への弟子入り希望者を生み、往時には二桁を数えたという。
この武術の本質は、いかにして眼前の敵を迅速かつ確実に絶命させうるか、を追求するところにある。もはや交渉による和解や妥協という平和的解決のステップを通過した時点で、一兵士に求められる役割を確実に果たし、かつ命永らえる為の技術。その様な性格ゆえ時が下ると共に、戦術の変化などとも相まって必要性は低下し、その本質ゆえ競技化の道も閉ざした甲家無心流は人々の記憶から消え去り、その直系の子孫が細々と継承するのみとなった。篤もまた父勝彦より四歳の頃から手ほどきを受け始めた。妹の清香も同じ年頃で、篤が六歳の頃から始める事になる。心身共に脆弱なところが見受けられたのを心配しての事だった。最初から積極的だった兄と違い、最初の頃は何かとぐずっていた彼女も、やがて鍛錬に身を入れてゆく事になる。その契機として、やはり母の病死は大きかっただろう。篤が十歳、清香が七歳の時の事だった。篤が八歳の頃から父の本業が多忙となり始め、稽古がつけられなくなってくると、彼は兄妹に数駅離れた町に住む祖父、一彦のところへ通わせる様になった。篤は生前、地図帳片手に日本各地を、趣味と実益を兼ねて歩き回ったが、それは思い返してみれば初めて二人だけで祖父の家を訪ねた時点に端を発しているのだろう。兄として、妹にみっともない所は見せられない、という責任感と見栄、その結果無事に妹を目的地までエスコート出来た、といった達成感が忘れられなかったのだ。それ以降、休日の大半を二人は祖父の家までの小旅行に費やしたが、母の死の時点から二人は一人になった。
大切な人の死が当然ながら彼女を打ちのめし、涙に暮れさせたが、それを後目に葬儀を終え間もなく鍛錬を再開した兄や、相も変わらず多忙でろくに構ってもくれない父を、当時の彼女は怪しみ、怒り、詰りもした。それが悲しみに呑まれない為の一方法だったのだ、と気付いたのは、数年後の事だった。父と兄、二人の変わらなさは、やがて知らぬ間に彼女の心の癒しとなってゆく。やがて自主的に鍛錬を再開し、これまでと変わらぬ汗を流す事で立ち直る事が出来たのだ。やがて高校入学と共に彼女は再び遠ざかってゆくが、誰も何も言わなかった。彼女の脆弱性はもはや払拭されているのは判っていたから。中学入学から篤が一人で行動する事が多くなり、清香一人で祖父に鍛えられたのもあるいは遠ざかる一因だったかも知れない。それはともかく。篤は大学入学後も学業の暇を見つけては武者修行を続け、実践勘を養い続けた。そして、彼が死亡する一年ほど前、父は不慮の事故でこの世を去った。この事態が、彼の心に少なからぬ変化をもたらした、というよりは自分でも気づかないほど微かだった欲求の枷を外した、というべきか。己の力を試してみたい、という。