第一章 Ⅴ
西に大きく傾いた日の赤光は、街道を行く隊商の馬車列の影を、長く東へと伸ばしていた。その先には壁のごとく聳え立つアルムス山脈の稜線が、今や闇に溶け込み始めている。六両の荷馬車と一両の箱馬車から構成される馬車列は、つい二時間ほど前イスタリコ王国北方に位置するノイエ湖(南北に細長く伸びる瓢箪形の湖だった)の港町、ヴェリニスを発ったのだった。目的地はナーダという城塞都市。彼らメティス商会の本店が所在している地方都市だった。本来ならば、もっと早く帰途に着く筈だったのだが。
「全く、北部の連中が無駄に粘るから!新商品の仕入れ値はいつも通りと言っているのに!」
箱馬車の窓一杯に占める山脈を不機嫌そうに見遣りながら、二十代前半らしい女性は唸る様に言った。男性の乗馬服姿(乗馬の時など女性でも男装は認められている)でショートボブの女性は名をエリーナ・メティスといい、メティス商会の会頭、代表取締役社長に相当する立場にある。その斜向かいに着席した、少し年嵩の男性が苦笑する。
「北部諸国連合も、ガリル帝国との最近の関係や、『魔獣の地』対策で何かと入用なのですよ。五年前の大侵攻以来、帝国には足元を見られていますからね」
そこまで言って、ふと、それまで微笑していた男性が、急に真顔になり上体を乗り出す。
「それに、あの謎の荷物を会頭自ら運んで頂きたかったのでしょう。宛先の魔術研究所には、結構な投資をしているとか」
「魔獣対策の一環らしいわね。私を使い走り扱い、という訳よね?」
憤然と足を組み替える。
「あちらからすれば、重要な物だからこそ会頭自らに託す、という事なのでしょう。魔獣研究に関しては、余り進展が見られない様ですし」
「まさかこの近辺に魔獣が?『裂け目』が偶然出来るとでも?」
「ベゥ=ラス=ナーダの例もありますが……それより北部諸国連合領域を追われた盗賊達の方が。会頭のお耳にも入っておりますよね?」
山脈に潜伏し通行人から物品を巻き上げる山賊の類は昔から存在する。それらはたいてい狩猟や採集により糧を得る傍らそれを行い、よほど拗れでもしない限り滅多に流血沙汰とはならない。やりすぎれば討伐部隊が派遣される事を重々承知しているからだ。しかし、派手に暴れまわるなどで取り締まりが厳しくなった国から逃避した様な盗賊達が、山に逃げ込み拠点を設け、街道まで足を運ぶ様な事もあった。その背景のため、そういった類の連中は残虐性が強い傾向にあり、襲撃された者達は皆殺しや嬲り者の憂き目に遭う事もしばしばだった。だからこそ、エリーナが身を震わせたのも当然だった。女の身でそういった男達の手に落ちればどういう目に遭うか、想像するだに悍ましい。
「先週の黄の日、だったかしら、目撃情報は?掃討されたという話は聞かないわね」
「案外、会頭につく護衛が返り討ちにしてくれたら、などと淡い期待を抱いているかもしれませんね」
男性は冗談半分のつもりだったが。
「はっ!そこまでこちらに面倒を見させるつもり!?こんな時間になるまで粘ったのも、その為だとでも?冗談じゃないわ、こちらの仕事じゃないでしょう!?」
「すいません、ほんの軽い冗談ですから。そこまで誰も期待してはいないでしょう」
彼女の勢いに男性は焦った。本当に怒らせたかと思ったが。途端、エリーナは表情を豹変させた。何か企む様な微笑を浮かべたのだ。
「もちろん判ってるわよ。北部の連中がこちらの事にそこまで関心を払っている訳ないわ。せいぜいが厄介払い出来たとほくそ笑んでるぐらいじゃないの?」
「会頭…」
男性は苦笑を浮かべた。内心、胸を撫で下ろす。と、ここで遅まきながら北部諸国連合について説明しよう。それはノイエ湖を挟んで王国に隣接している。外交や軍事、交易等の為に複数の小国が百年以上も前に創設した国際組織だった。
「とにかく。このガイアス・ハベルの地にどの様な悪徳が蔓延ろうと、私達は今まで通り生きてゆくしかないわ」
諦観めいた言葉をエリーナは口にし、黙り込んだのだった。