20.
建国祭が終わり、次の日から皇妃教育は再開された。
実際に街を歩いたり、シャルルからこの国にまつわるお話を聞けたりしたお陰もあって、勉強がますます捗った。
それと、もう一つあの日から変わったことがある。
それは……。
「アルノー地方の地理を学ぶならこの本がおすすめだよ」
「ありがとう」
礼を述べると、彼は「他に学びたいことは?」と尋ねてくれる。
それに対し答えると、彼は「それなら……」と慣れた足取りで私の前を歩く。
ここは城内の図書室。 あの日以来、朝食だけでなく、彼が空いた時間に私の勉強を手伝ってくれるようになった。
(それに)
「はい、これがフロベール地方の地形の本だよ。
……って、それ以上持てないね。 重いから僕が持つよ」
「あ、ありがとう」
私が持っていた本を、彼はヒョイッと抱え机に運んでくれる。
(あの日から彼が、優しくなった)
建国祭のあの日、シャルルの本当の姿……優しさや心の温かさを知ってから、彼はその姿を見せてくれるようになった。
ただし、今のように二人きりの時だけ。
(侍従達の前では、彼は彼の言う“理想の皇太子”を演じているけれど……、それはそれで、何か)
……まるで、私だけが“特別”だと言われているような気がして。
(って何を考えているの、私!)
「リリィ? 顔が赤いけど大丈夫?」
机に本を置いた彼はそう言って首を傾げる。
その表情も、人前で見せる無表情とは違って、心から心配してくれているのが分かり、キュンと心臓が高鳴る。
(っ、か、可愛い……って違ーう!)
何を考えているの私!と自分を叱咤して「何でもないわ」と淑女の仮面を被りそう返すと、彼は「無理しないでね」と柔らかな笑みを浮かべてくれた。
(ちょっと待って、本当に振り幅が大きすぎて心臓に悪い……!)
そんな私の気など露知らず、彼は私の隣の席に座り本を読み始める。
それにしても、と本を読む彼の横顔を盗み見ながら思う。
(シャルルの素の表情は、まるで子犬みたい。 本を読んでいる姿も何となくあどけなく見えるというか……)
そんなことを考えていると、ふと彼が顔を上げた。
そして、少し顔を赤らめ困ったように言う。
「リリィ? 恥ずかしいからそんなに僕の顔を凝視しないで」
「ご、ごめんなさい、その、何を読んでいるのかなって」
「あぁ、この本のこと?」
内心全く本のことなんて考えていなかったものの、口から出任せで尋ねると、彼は本を閉じた。
その本の題名を見て、私はあ、と声を上げる。
「それ、ロミオとジュリエットよね? この国でも流行っているの?」
「うん、まあ」
「そうなのね! 私、その本好きよ。 昔よく読んでいたから懐かしい」
私の言葉に、彼は本に視線を落として言った。
「……君はこの本が好きなんだね」
「えぇ。 だって素敵ではない? お互い敵同士だと分かっていても、それでも恋をしてしまうのよ。 それほど好きな人に……、何もかも投げ出してしまいたいほど好きな人に出会うことが出来るんだもの。 憧れるわよね」
「でも、最期は結ばれないんだよ? リリィは、それでも良いの?」
(……シャルル?)
彼がいつになく真剣な表情をしていてドキッとしてしまう。
私はそんな彼の様子に戸惑いながらも口にした。
「確かに、結ばれなくて悲しい気持ちにはなったけれど、でもロミオとジュリエットは一生を共にしたいという強い想いがあったからこそ、二人で死を分かち合うことを選んだ。
それだけ愛し合っていたということだもの、そういう方と巡り会えたことが二人の幸せだったんだと思うわ」
(私も、出来ればその続きがあって、実は生きていて結ばれました〜とかの方が好きだけれど……)
と考える私に、彼は「僕は」と口を開いた。
「僕がもしロミオなら、そんな終わり方は望まない。
二人で生きられる道を探し出すか、それがダメならリ……、いや、ジュリエットだけでも幸せになれるよう、僕が出来ることなら何でもする。
……愛する人が寿命ではなく目の前で死んでしまう、ましてや、自分を追って死んでしまうなんて、そんなのは絶対嫌だ」
「シャルル?」
どうして物語の世界なのにそんなにも嫌うのだろうか。
それに……。
(どうして、そんなに傷ついた顔をしているの?)
様子のおかしい彼に言葉が見つからずにいたその時、コンコンと部屋をノックする音が聞こえた。
シャルルは一瞬で表情を硬くすると、扉を開いた。
そこにいたのは彼の従者であるバジルさんで、何やら話し込んでいると思ったら、一度話を切ると私に向かってシャルルは言った。
「すまない、急用が出来たから私はこれで失礼する」
「は、はい、分かりました」
彼は頷くと、部屋を後にした。
一人取り残された私は、机の上に置かれたままの『ロミオとジュリエット』の本を見て先ほどの彼を思い出す。
(一体どうしたんだろう)
そんなにもこの本を嫌う……というよりは苦手になった“何か”があるのだろうか。
(……そういえば、この前言っていたっけ)
それは、建国祭の日。 彼は言っていた。
『とても大切な人を、僕は遠い昔に失くしたんだ。 僕はその人を愛していた。
その人が幸せで生きていてくれさえすれば、たとえ自分が犠牲になっても良いと思うほどに』
(それから、その人を目の前で失くしたんだとも……)
ズキッと、まるで心を針で刺されたかのような痛みに襲われる。
(どうして?)
胸が苦しくなる。 瞳が涙でぼやける。
そこで初めて……、いや、もうとっくに心の奥で芽生えていた気持ちの正体に気付いてしまった。
(私、彼のことを)
その時、再びノックする音が聞こえた。
(あれ、シャルルは今出て行ったばかりなのにもう戻ってきたのかしら?)
と不思議に思いつつ、扉を開けるため移動しようと立ち上がったと同時に、ガチャッと扉が開く。
「……!」
扉の向こうから現れた人物に息を呑み、血の気が引く。
(皇帝陛下……!)
私は慌てて頭を下げる。
陛下は扉を閉じると、私に向かって言った。
「私の命令に反き、まだのうのうとこの城にいるとは」
陛下の静かな怒りに、私は息を吸うとはっきりと口を開いた。
「お言葉ですが、皇帝陛下。 私はシャルル・クラヴェル皇太子殿下の妃として、その殿下の命でこの城に滞在しております。
あの方が私を必要としている限り、私は彼のお側にいる所存です」
そう冷静さをつとめて口にすると、陛下は鼻で笑った。
「ほう、言うようになったな。 私に対するその度胸は認めよう。
……だが、私は以前言ったようにお前を妃とは認めていない。
故に、正式な婚姻状を交わしていないお前は、妃ですらないただの居候だ」
「……!?」
(どういうこと……?)
たとえ期間限定だったとしても、正式に婚姻を結んでいるはずでは……。
私が混乱していることに気付いた陛下は、意地の悪い笑みを浮かべて言葉を続ける。
「やはりな。 シャルルは大事なことを言っていなかったようだ。
お前との結婚はあいつが勝手に言い出し、独断でお前をここに連れて来て滞在させているだけであって、お前は完全に妃でも何だもない、ただの“赤の他人”だ」
「……っ」
陛下の口から放たれたその言葉は、自分の気持ちに気付いてしまった私を傷つけるには十分だった。
(私は、シャルルの妃なんかではない、ただの赤の他人……)
「要するに、大事なことを何も知らされていないお前は、シャルルに大事にされているわけではないということだ。 残念だったな」
「……!」
胸が苦しい。 辛い。 でも。
(……いいえ、まだ分からないわ。
シャルルの口から、直接聞いたわけではないもの)
私は震える手を抑え込むように握ると、笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます、陛下。
後はシャルル殿下から直接お伺いしたいと思います」
「あぁ、それが良い。
……そして現実を見ろ、妃気取りのリリィ・フランセル」
「……失礼致します」
そう口にし、淑女の礼を取ると、部屋を後にしたのだった。
自室へと戻り、ベッドに力なく横たわる。
『現実を見ろ、妃気取りのリリィ・フランセル』
「……っ」
(私は、彼を信じてる)
そう自分に言い聞かせ、涙でぼやけた目元を乱暴に拭ったのだった。
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