10.
レア先生の皇妃教育が始まって5日、ここへ来て10日が経とうとしていた。
先生のお陰で勉強することが楽しいと思えるようになり、今では夜も自主的に勉強をするようになっていた。
「今日は何を勉強しようかな……」
「リリィ様、お勉強をなさることは良いことだと思いますが、夜更かしをなさるのおやめ下さいね?」
最近私の扱いを分かってきた侍女のアンナが、そうしらっとした表情を浮かべて言うものだから、私は小さく肩を竦めた。
(やっぱりバレていたのね……)
アンナはいつも、私が寝るときに灯りを消して部屋を出て行くのだが、私は枕元に置いてある燭台に火を灯し、その小さな灯りをたよりに勉強していたのだけど……、普通に気付かれていたらしい。
あはは、と苦笑いする私にアンナは腰に手を当て言った。
「まぁ、注意したところで止まらないのがリリィ様なのですが。
良いですか、もし体調を悪くされるようなことがあったら即刻皇妃教育をお休みして頂きますからね」
「えぇ、それはもちろん分かっているわ。 調子が悪くなって皆に迷惑がかかってはいけないもの、気を付けるわね」
「! ……その心配ではなく、私共はリリィ様の心配をしているのですが……、まぁ良いです。 そういうことにしておきましょう」
アンナはぶつぶつと呟いていたかと思うと、気を取り直すように顔を上げて言った。
「とりあえずリリィ様、お休みくださいませ。 あまり夜更かしはされませんよう」
「えぇ、気を付けるわ。 おやすみなさい、アンナ」
アンナにそう告げると、彼女は礼をして灯りを消さずに出て行ってくれた。
「さてと」
今日は何を勉強しようかしら、とサイドテーブルに山積みになっている本の題名を眺めていると、ふとある本に目が止まり、それを手に取った。
「そうだわ、今日はこれを読もう」
手にしたのは、城の図書室にあった一冊の本だった。 それには、クラヴェル王国の血筋……家系図が描かれている。
「まだ歴史を勉強してから日が浅いから、歴代の国王の名前は覚えられていないのよね」
クラヴェルは、帝国としてその名を轟かせたのはここ十数年の間だけど、元は王国としてフランセルに負けず長い歴史を持っている元王国。
そのため、授業では建国当時からの出来事や国王の功績などを紐付けて覚えている段階の今、歴代の国王の名前はまだ把握しきれていない状況なのだ。
「歴代の国王の名前を知っていた方が、順序立てて覚えることが出来るものね」
そう思い、膨大な家系図を一人一人追って見ていく。
そして、何気なく当代であり現皇帝陛下の名前を見つけたところで、ふと違和感を覚えた。
「皇帝陛下とシャルル殿下のお名前は書かれているのに、どうして妃の欄は空白なんだろう……?」
その欄は、皇帝の名前の隣、つまり本来妃の欄にあるべき名前が書かれておらず、不自然なほどにそこだけ空白となっていた。
「皇帝陛下の妻であり、シャルル殿下のお母様であるはずの皇妃殿下のお名前がない」
それはつまり、何を意味しているのだろうか。
(だって、仮にもし皇妃がご不幸で亡くなってしまっていたとしても、お名前は残るはず。 ましてや次期皇帝陛下に即位されるシャルル殿下をお産みになっているんだもの、本来は皇妃として崇められ、皇族の一員として名前が載っているはず)
奇妙だわ、とその不自然に空いた空白を見て考え込んでしまうのだった。
「……結局、何も分からなかった」
あの後、現皇帝に関する記述のある本に手当たり次第目を通して見たが、シャルル殿下のお名前はあっても、皇妃殿下のお名前を含め、妃に関する記述はどこにも見受けられなかった。
(……そして、今日も夜更かししてしまったわ)
はぁ、と息を吐き空を見上げれば、この前は満月だった月が、今日は欠けており雲間から顔を覗かせていた。
それにしても、とふと遠くの方を見やりながら思う。
(この見渡す限りの土地が全てこの国……クラヴェル帝国の領土だなんて。 桁違いだわ)
いや、元はクラヴェル“王国”時代はここまで広くはなかったはず。
それでも小国といわれるフランセル王国よりはずっと大きかったけれど、本当に帝国と化し、周辺国……それこそフランセル王国の隣国にまで支配の手が及んだのは、ほんのここ十数年の話らしい。
(まさに脅威、としか言いようがないわ)
それも、当代の国王……、今は皇帝でありシャルル殿下のお父様にあたるセザール皇帝陛下の一存によるものらしく、彼は史実上では“クラヴェルの英雄”とも称されていた。
(何が“英雄”よ。 人々の命を犠牲にして戦争をすること自体が許されざることなのに)
前世で攻め入られ、そのせいで亡くなった記憶を持つ私としては、尚更許せるはずがない。
(フランセルだけではない、これ以上他国を戦火に巻き込み、犠牲者を出して欲しくない)
そんなことを考えていると、不意にガチャッと隣の部屋の扉が開く。
そして、現れた人物……、シャルル殿下と私は、顔を見合わせ一瞬の沈黙が訪れたが、先に口を開いたのはシャルル殿下だった。
「まだ起きていたのか?」
そんな彼の言葉に、私は慌てて答える。
「あ、いえ、その……、目が冴えてしまって」
「……そういうことにしておこう」
納得していないようだったけれど、それ以上の追及はなかったことに内心ホッとしていると、シャルル殿下は言葉を続けた。
「君はどうしてそんなに頑張れるんだ」
「え?」
突然彼にそう尋ねられ、私が首を傾げると彼は言った。
「レア夫人から聞いている。 君が妃教育……、特にこの国の歴史についての関心が非常に高いと。
それはどうしてなんだ」
「それは……」
私は少し考えてから口を開いた。
「私は、レア先生のお話を聞いて、今の自分では駄目だと思いました」
その言葉に、シャルル殿下は少し目を見開く。
そんな彼から視線を移し、遠くの方を見て言った。
「私は、一番歴史の勉強をするのが苦手でした。 ただ必死に覚えることしか頭になくて。 先人達がどうしてその決断をしたのか、どうしてその考えに至ったのかなんて、一度も考えたことはありませんでした」
でも、と言葉を続ける。
「レア先生に出会って、お話を伺って思いました。 勉強をすることで見えてくる何かがあるのだと……、紙面で勉強した上で、それを通して見えたり気付いたりすることがあるのだと。 そうレア先生に教えて頂いたのです」
話を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、“前世の自分”だった。
国の中から一歩も出ることなく、姫として短い生涯を終えた私。
そんな私はただ、与えられたものをそのまま受け入れて、何の疑いもなく、何の不自由もなく生活していた。
それが幸せなんだと、そう思っていた。
けれどあの日……、魔法という力もない私には、為す術もなくその生涯を終えた。
(そして、何の因果かまたこうして第二の人生……、今度は自分の意思で前世とは全く違う、期間限定の皇太子妃という道を歩き始めた。 だから)
「私は、今自分に出来ることをして生きたいと、そう思うのです」
皇太子妃は期限付きだけれど、それでも今得ている知識は絶対に、今後何かしらの役に立つ強みになると思うから。
私はシャルル殿下に再度向き直ると、闇夜で煌めく碧の瞳を見つめて言った。
「貴方のこともレア先生からお聞きしました。 ……勉学を貴族・平民、男女問わず等しく受けるべきだと唱えていらっしゃる貴方なら。 私の考えも分かって頂けると思います」
「……」
シャルル殿下は少しの沈黙の後、呟くように言った。
「そうだな」
彼はそう言うと、心なしか柔らかな表情を浮かべて言った。
「私も、君と夫人の言葉に賛同する。 ……皆が平等に勉学を学んで欲しいと願うのには、その考えがあってこそのものなのだから」
「!」
彼はそう言ってから「だが」と付け加えた。
「こんなに夜遅くまで勉学に没頭するのは感心しないな。 あくまで無理のない範囲で行うように」
やはり、彼にはバレていたらしい。
私は思わず肩を竦め、「はい」と頷いた。
彼は「それと」と私を真っ直ぐと見て言った。
「何か分からないことがあれば、悩む前に私に聞くと良い。 良いな」
その言葉に、少しだけ心が温かくなるように感じた。
そして、自然と笑みを浮かべ、私は「はい」と頷く。 彼はそれを見て頷きを返し、部屋に戻ろうとしたが、不意に立ち止まり呟くように言った。
「おやすみ」
「!」
照れているのだろうか。
ほんの小さく呟かれた言葉に私が驚いていれば、彼は逃げるように扉を開けて行ってしまう。
「お、おやすみなさいませ!」
パタンと閉じられた扉と私の声が重なってしまったため、私の言葉が彼に届いたかは分からない、けれど。
(今日は、よく眠れそう)
そう思うほど、不思議と心は温かく満たされた気持ちでいっぱいになるのだった。




