露 -sweetness- 【国枝浩隆生誕祭2021】
「今日はここまでにしよう」
長机について座ったまま、壁に掛けた時計を見やって宣言すると、向かいに座っていた彼女が筆記用具をしまい、かしこまって頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」
にこりと笑いかけると、それを受けた目線がぎこちなくさまよった。
ここは旧学部棟の一室、自分――国枝浩隆に与えられた研究用の部屋だ。そこに居合わせた彼女、親友の妹たる高遠香奈と再会してより、既に数週間が経過していた。それというのも、以前自分が書いたレポートを、師事する教授が面白がって講義に使ったことが直接のきっかけだったのだが、その時にはまさか彼女が自分を訪ねて来ようなどとは、そして自身も自らその解説と後に続く講義のフォローを買って出ることになろうとは、かけらも思ってはいなかった。今思い返してみても、あの再会の日の積極性がどのようにして発揮されたのか本当に不思議でならない。
『先輩のお話、とてもわかりやすいです』
けれどいざ応対してみれば、知識欲からだろう、目をきらきら輝かせながらそう言われるものだから、つい得意になって色々話し込んでしまう。そうして我に返っては、今のように毎度自省に駆られるのだ。
またやってしまったな。
長時間引き止めての教授は、きっと本意ではなかろう。申し訳なさに小さくため息をついて口にする。
「すまなかったね、こんな時間まで付き合わせて」
すると、心なしかのんびり帰り支度をしていた彼女が頭を振った。
「いえ! 押しかけて解説をお願いしてるのはこっちですし、今日はバイトも休みなので、その……」
もじもじと他に何か言いたげな恐縮した様子。なおさら申し訳なくなって、昂じる話を遮ってくれても、なんならいっそ断ってくれても構わないよと告ごうとしたその時、ふと彼女の背の方向、研究室の扉のそばに置いた傘立てが目に入った。傘袋に入れられたそれが二本、まるで寄り添うようにして収まっているのを見て思い出す。
「雨脚、少しはおさまったかな」
振り返った窓の外は薄暗く、中庭の植木は重く濡れて。建物の中に漂う独特の湿った空気に、帰りの足元が少し心配になった。
「ああ。結局朝からずっと降りっぱなしでしたね」
「そういえば、もう梅雨入りしたんだったかな?」
何気ない疑問を発すると、彼女がすばやく携帯を繰った。
「今日発表されたみたいですよ」
「そうか。やっぱりね」
苦笑とともに漏らすと、首をかしげられた。
「先週はよく晴れて暑いくらいだったのに、ここ数日で思い出したように天気が崩れてきたから、きっと僕のせいなんだろうなと思って」
「それってどういう」
「いや、単なる確率論に過ぎないんだけど、僕はどうやら雨を呼ぶ人種らしくて」
「『雨男』ってことですか」
「うん。何かある日には必ずと言っていいほど、その不可思議な能力が発揮されるみたいなんだ。今日みたいにね」
「今日って……何かあるんですか?」
「誕生日なんだよ」
「誕生日?」
それを聞いた彼女の表情が、どこか複雑な色を映す。
「あの、それは誰の」
声にまでも現れたかすかな不穏さに、どうしたんだろうと思いながらも続けた。
「僕だよ」
「え……えぇっ?!」
思いのほか盛大な、そして予想だにしない反応に、こちらもすっかり度肝を抜かれる。
「すみません、突然大声出して。それよりあの、今日が先輩のお誕生日って本当なんですか」
「うん。まぁ、ね」
曖昧な言葉を返してつぐむ。本来ならきっと喜ばしい日なのだろうけれど、自分にとっては決して晴れない心情を思い起こさせる日であった。水気をたっぷり含んだ空気と同じ、陰鬱と重みを増した口元にそれを滲ませて黙っていると、彼女が突然弾かれたようにカバンをゴソゴソと探り出した。
「カナちゃん?」
声をかけても至極真剣な面持ちで探し続け、やがて目当てのものを見つけたのか、その顔が一瞬華やぎ、直後何かを手に握って顔を上げた。
「先輩」
「ん?」
「これ、どうぞ」
促されおもむろに差し出した手のひらの上に、ころりと何かが転がり出てくる。
「せっかくのお誕生日なのに、今はこれが精一杯で。いつも親切に、丁寧に教えてくださるお礼と、あたしからのお誕生日のお祝いです」
渡されたのは、可愛らしい小分けの袋に入った三つの飴玉。予想外のそれに、ただただ驚いて言葉を失った。
「本当にすみません。たいしたものじゃなくて」
呆けた様子を誤解したのだろうか、心底悔やまれる言がかぶせられ、はっと我に返って勢い込む。
「そんなことはないよ!」
「え」
「まさか君から誕生日に贈り物を貰えるなんて、夢にも思わなくて」
口にすると、これまで感じたことのない何かがせり上がってきて胸を満たした。
「ありがとうカナちゃん。本当に嬉しいよ」
じんとした震えを心からの笑みに乗せて伝える。すると今度は彼女の動きがピタリと止まり、表情が固まってしまった。
「どうかしたの? 顔が真っ赤だけど」
顔どころか、襟際に見える首元も、七歩袖の下の腕も指先までもが染まり上がっていて、一目に尋常ではないとわかる。
「いえ、あの、これは」
「もしかして、熱でも出たんじゃ……旧学部棟は陽があまり当たらなくて肌寒いから、風邪を引かせたのかもしれない」
ごめんねと言いながら、飴を握ったそれとは反対の手を延べ、額に触れようとしたその時。
「あっ、あのっ!」
「うん?」
「あたしそろそろ帰りますね!」
「え。ああ、じゃあ気をつけて」
「はい! 失礼します!」
ぴしゃりと言い置くなり頭を下げ、大慌てで荷物を手に取るや、傘を引き抜き全速力で外へと飛び出していった。勢いよく閉められた扉と、慌ただしさから一気に静まった空気。人気のなくなった部屋の空虚さにひとつ息をついてから、手のひらの中を改めて見つめる。
いちごみるくにソーダ味、そして鼈甲か。口寂しい時に学友とシェアするのだろう、貰ったり配ったり、そういうやり取りを楽しんでいる姿が容易に想像できて微笑ましかった。
それから先程まで二人でかけていた机に向き直ると、天板に置かれた空のティーカップが目に入った。教授と共にあるせめてものおもてなし。自分とっては唯一の趣味と言っても過言ではない、独学で身につけた紅茶道だったが、どうやら彼女のお気に召したらしく、いつも残さず飲んでくれるので淹れ甲斐があるというものだ。
「そもそも、君がきっかけだったよね」
一人つぶやき、自分のカップを手にとって飲み残しに口をつけると、次いで黄金色の飴玉を含んだ。
「ん、あまい」
得も言われぬ芳しさ。
口の中に残った茶葉の香りに甘露が混じり合い、それは舌の先からじんわりと、身体の隅々までをも潤してゆく。
そして同時に。
なぜだろう、不思議だけれど。
今夜はすべての憂いを払って眠れそうな。
そんな確信と幸福感すら覚えたんだ。
「嗚呼、甘露、甘露」