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雪の下  作者: 海勢 真輝
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祭り

   祭り


 無人駅は凍えるほど寒かった。雪の東京を出て、雪深い山の中へ。

 幸い、雪降り続く東京と違い、この時季では珍しい、澄んだ冬晴れだった。正午近く、太陽があらん限りのパワーを尽くして地表を暖めている。

 そのパワーは、そう長くは続かない。

 今朝、駅のホームからマツケンに電話した。

「は? なに言ってんの? ていうか、今どこにいるの?」

「駅」

「ちょっと待ってよ、ハルちゃんまで」

 流石のマツケンが泣きそうな声だった。

「ごめん。必ず帰ってくるから」

 はっきりと断言する以外に、電話の声に応えることはできないけど。

「……。いいんだね。今日の仕事は他の若手に差し替えるけど」

「うん。頼む」

「もしかしたら、仕事なくなっちゃうかもしれないんだよ?」

「うん」

「……。本当にいくの?」

「うん。いく」

「……」

「ごめん、迷惑ばっかり……」

「ほんとだよ」

「じゃあ、もう電車くるから」

「うん。じゃあ……、ハルちゃん、ゼッタイ、帰ってきてよ」

「ゼッタイ帰ってくる」

 親指を立てて返事をした。マツケン、最後は落ち着いた声だった。電話の向こうでも、きっと親指を立てていたに違いない。

「帰ってくる」と言い切ったが、しかし、いつ帰るかは考えていなかった。

 一時しのぎで逃げてきたわけじゃない。つかむまでは、帰れない。

 いなくなって初めてわかった。

 コンビというのは〈1+1=2〉じゃない。〈1+1=1〉だ。片っぽが欠けるということは〈0.5〉になってしまうということだ。

 二分の一じゃ、とてもやっていけない。自分は弱い。強くならなくちゃ。

 夏の日のことをとても遠くに感じた。

 あのときは蝉が鳴いていた。今日は真っ白だ。太陽に輝き、まさしく銀世界。夏は緑が輝いていた。

 今は雪が輝いている。自分は、きっと運がいい。

 あの夏から半年近く。いろいろなことがあった。いろいろなことが、あっという間に過ぎていった。

 少しは成長しただろう。あのときは自分を大きく見せようとした、ミジンコのように小さい男だった。

 今は、等身大だ。小さい自分が、少しでも大きく、強くなるように。

 芸人「ハル」の原点がここにある。十八のときに、それまでを切り捨てて東京に逃げ出た(あるいは切り捨てられて)。過去に切り離した「自分」を取り戻しに。

 ――あの瞬間、俺はまさしく「神」と一体だった。

 切り離された「こっち」は、さながら悪の大魔王だった。今こそ一つに!

 スーパーハルになって帰ってやる。ドラゴンボールはないけど、自分の腕で、夢をつかむために!

「さてと」

 こないだのような迎えは期待できない。迎えを呼ぶつもりもない。

 バスがあればそれでも、とは思っていた。次のバスまで、約一時間。わかっていたことだ。

「さって、いくかな。やっぱりさびぃな。そのうち温かくなるんべ」

 道路脇の雪壁に沿って、歩き出した。


 背中にカバン一つ。中には電車の中で読む用に小説が二冊、駅で買った週刊誌が一冊。

 あとは筆記用具とメモ帳と、折り畳み傘。以上。

 そんなに重たくはない。ちゃんと長靴をはいてきた。その長靴に、カーゴパンツの裾をしっかりしまっている。

 先輩芸人にもらった革のスタジアムジャンパーは、先輩曰くなかなかいいもので、その通り、中は汗だくだった。たまらず脱いで手に持った。

 フリースの前を全開開いて調度いい体感。かっこいい決意も自然の前では無力に等しい。早漏の三こすり半、大して動いてないのに汁まみれ。

「こんなとこ、ゲコにでも見られたら」

「そんなカッコでほっつき歩いて、こっちの寒さもう忘れたか。おめぇもすっかり東京の人間だべ」

「なんてな。ん?」

 足を膝まで雪に埋めた状態で、ゆっくり顔だけ振り向いた。

「あ!」

「おめ、なにやってんだ、こんなとこで」

 そこには、茶色い頭にサングラス、長靴に分厚いコートを羽織った、どっか見たことのある人間が、人を珍しいものでも見るような目でじっと見ていた。

「ハルの幽霊じゃねぇべな。膝から下、雪に埋めたくれいにしてよ」

 このタイミングのよさが憎らしい。本当に幽霊でも見ているかのようなその顔。白々しい。

 許し難し!

 本来ここにいるべき存在ではないという意味では、幽霊のようなものかもしれんけど。

 どうでもいいが、ぼっけら見てねぇで、とっとと助けにきやがれ。


 祭りは自体はもう始まっていて、出店も並び始めている。

 メインイベントの「御雪舞」は夜七時過ぎから。今は公民館で最後の練習をしているところだという。

 音頭をとっているのはあっちゃんだ。当日の直前でも練習を重ねる。苦労のほどが知れた。

「実家じゃなくていいのか」

「ああ、直接公民館にいこう」

 実家にいくつもりだったが、もうどうでもいい。タイヤチェーンをシャリシャリいわせて、公民館へ同伴した。

 ゲコに案内されて公民館の中を会議室に向かう。懐かしいと言えば懐かしい。

 十八年前、あの夜おじさんに捕まったときはこの廊下を囚人のような気持ちで歩いた。

 徐々に大きくなるお囃子の音。会議室のドアの前に立ったとき、体がブルッと震えた。

 武者震いか。芸人として、これほど緊張したことはない。心臓が破裂しそう。

 口から胃が飛び出しそうだ。初めて相方と舞台に立つときだって、これほどではなかった。

 先をいくゲコが部屋の入り口をそっと開ける。薄暗い廊下から明るい室内へ。めいっぱいに光が溢れた。

「おーい。集中しよう、集中! みんな、あとちょっとで本番だから、もう一頑張り! よっしゃ、もう一回いこう!」

「だーれだ」

「おい、ゲコ、ふざけてる場合じゃね、グフッ!」

「俺はこっちだよん」

「バカッ! いってぇ! 放せ! いっ、マジ玉がつぶれる!」

 シーンと静まり返った中にあっちゃんの大きな声が響いた。

「いてぇ! いい加減にしろ! たま、たまが……」

立っていられなくなって、遂にはあっちゃんが床の上に転がってのた打ち回る。それでも二人とも手を放さず。

「いててて、ごめん、お願いです、許して、放してください……」

 そこで解放してやった。

 会議室の床に転がる、さっきまでの勢いのかけらもない、弱りに弱ったあっちゃんの泣き顔を見て、ゲコと二人で大笑い。

 釣られるように、そこにいる全員が手を叩いて笑い声を上げた。

「いってぇ……」

 力なく見上げたあっちゃんと目が合った。真っ赤な目に涙をいっぱいに溜めて。

「ただいま」

「おまぇ、この野郎ぅ」

 手を差し伸ばしてあっちゃんを引き起こした。

「バカ野郎! おせぇんだよ!」

 殴りかかるように、抱きついてきた。背中に手を回し、背中を叩き、力いっぱい抱きしめて……。

 密着したあっちゃんの体が小さく震えた。声を殺して、泣いている。

「大袈裟だな」

「うるせぇよ」

 よっぽど辛かったんだろう。なにもかも全部一人で背負い込んで。

「主役は遅れて現れる。大体、仲間が処刑される直前とかにさ」

「はん。おめぇに助けなんか、求めちゃいなかったぜ、クソ芸人」


 室内には二十人ほどの人間がいた。

 御雪舞の演者、奏者、他に獅子舞や三人舞を踊る人、それぞれ舞の指導者たち、運営スタッフがあっちゃんの他に三名ほど、それとゲコ。

 彼らは、自分の場所からほとんど動かずに、二人のやりとりをじっと注視している。

「ハル、おめぇ、なにしにきたんだ」

 あっちゃんは真剣な顔でじっと見つめる。睨みつけるといってもいいほどの表情だ。

 当然だ。本番の数時間前に突然出てきて、なにができるというのか。

 ――できるか? 本当に? やれるのか? 俺でいいのか?

 みんなの思いはどうだ?

 舞を踊るつもりでここまで必死で練習してきた彼は?

 この緊張感と一体感、いきなり飛び込む「この男」を、受け入れてくれるのか?

 あっちゃんの、その真剣な表情はあっちゃん自身にも向けられている。最後の一言を、堪えている。

 どんなにか言いたい、言いたかった一言を、敢えて自分の内に留めている、祭りの統括者としてのその責任感に、応える覚悟が、あるのか!

 ――わからん。でも、俺は、飛ぶ! 飛ばなきゃならん!

「俺に、俺にやらしてくれ、お願いします!」

どっと体が熱くなる。目が眩みそうだ。ヒントや啓示をもとに宝物を探しにきたんじゃない。奪いにきたんだろうが! 「そこ」にあるものを、奪い取れ!

 あっちゃんがぷいと横を向いて歩き出してしまった。釣られて動き出しそうになる。そこで気がついた。自分でも思っていたのに。こっちを注視しているみんなに向き直って。

「みんな、俺に、舞をやらせてください! お願いします!」

 誰もが動けずにいた。それは、はっきりした拒否ではないが、消極的な同意とも受け取れる。

「よし、みんな、一回やってみよう。ハル、いきなりでも踊れねぇようなら、おめぇの出番はねぇぜ」

 望むところだ。できるかできないかじゃない、やるかやらないか。

 本当に自分がここにいていいのか、いるべき人間かどうか、証明しなければならない。

 

 会議室の真ん中。ゆっくり大きく、深呼吸を繰り返す。

 右手に剣、左手に縄を握り、八人の奏者を従えて、さらに十人ほどのギャラリーの視線を集めて。

「よし、いこうか」

 あっちゃんの声で室内の空気が俄かに張り詰める。一番端の太鼓が「よっ」と小さく声を出す。それが合図。呼吸を合わせ、ふっと吸い込み息を止めた。

 神代の時間を刻み始めた太鼓と横笛、鉦の音が、すぐにばらばらと鳴り止んだ。沈黙と言うよりは混沌。中心から、「ふー」と大きく声が漏れた。

 指一本、動かなかった。息を吐くことができなかった。心臓が止まるかと思った。もう一度息を吐き出して、ぐるっと周りを見回した。

「ごめんなさい」

 中心から外れて、室の端にはける。と、服を脱ぎ始めた。

会議室がざわめく、構わずシャツもズボンも脱いで、紺色のボクサーパンツいっちょになった。

 あっちゃんは初めに声をかけただけで黙って見守っていた。寒かったが、一息吸い込むと背筋が伸びた。

 レプリカの面を被り直す。六つに割れた腹筋を見せびらかすように、再び部屋の中央に立った。

 服が邪魔だと思った。だから脱いだ。神の依代となるには、なるべく自然な生まれたままの姿に近いほうがいい。

「いいのか?」

 中央にスッと落ち着いたのを見て、あっちゃんが声をかけた。返事はない。

 中央の男に代わって、あっちゃんが引き締まった顔でぐるりと八人の奏者を見回す、大太鼓一人、締太鼓一人、横笛三人、鉦三人。彼らの表情を一人一人確認し、一番端の大太鼓に小さく頷いて見せた。 

 呼吸。呼吸だ。太鼓の「よっ」という声が、舞男の小さい一歩に合わせたかのようだった。

 呼吸が一つになった。呼吸が意識を支配する。この場にいる全員の呼吸が一つになり、意識が溶け合った。

 横笛が天空、太鼓が大地の息吹、鉦が生命の営み。室内に自然が現出する。閉ざされた空間に、神が降りた。抗えるものはいない。舞を舞う本人でさえも。

 彼を取り巻く人々の意識、欲望が「神」を呼び(作り)、一人の男を躍らせる。

 男は踊らされている。間違うことなど許されない。

 というより、間違いなどない。それがここにいる全員の意識を全く代表しているのだから。それは奏者も同様だ。「神」はこのとき、まさしく彼らの頭の上にいた。

 

 終わった瞬間、全員の口から溜息が漏れた。その直前に、終わりを意識したものはいなかったであろう。

 神が、その場を去るまでの沈黙。そして、解放された感情、意識が破裂する。拍手と歓声、歓喜が部屋の温度を高くした。

 止まった途端、全身から汗が噴出した。立ったまま、じっと足元を見つめている。そこはまさに「原点」だ。原点に、立ち尽くしていた。

 面を外す。天井を仰いで大きく深呼吸を二度三度繰り返した。

 なによりも強い力に引き寄せられて、顔を左に向けた。あっちゃんと、ゲコがそこにいた。

 ゲコ、白い歯を見せて、満面の笑みだ。あっちゃんは、また泣いているようだ。

 ――相変わらず、いつまで経っても、変わらねぇな。

 

 それは、奇跡であり、唯一無二であろう。

 この場にいた誰もがそう感じていたに違いない。再現などできないし、しようとしても無駄である。

 その「時間」を言葉にすることなど、どんな詩人にだってできはしない。


 その後、舞の形を改めて指導してもらい、二回ほど通した。そこで時間になった。

「よっし! みんな準備にいくべ! あとよ、ハルが帰ってきたってことは誰にも言っちゃダメだぞ!」

 そこでも十八年前を思い出して苦笑した。

 ――俺が舞をやるときは、なぜか内緒にされる。

 あの時は自分で内緒にしてくれと言ったのだが。

 みんなが荷物を持って会議室の出口に流れた。「ハル、がんばれよ」、「ハル、ありがとう」、ハル、ハルさん、ハル。誰もが名前を呼び、肩を叩き、ハイタッチを求めた。

 全てに笑顔で答えた。とても懐かしい感じがした。

 仲間の顔が「懐かしい」のではない。この雰囲気、一体感、高揚感。誰も彼も満足して帰っていく。

 勿論、自分も。

 そうか、これが芸人の「原点」だ。少し上気して火照った顔を、つつっと汗が流れた。

 

 静まりかえった会議室。三人が、久しぶりに膝をつき合せた。

「わりぃな、突然」

 あまりに突然過ぎる訪問を謝った。実際、「わりぃ」など微塵も心にない。

「おまえはいつもよ。前もって連絡くれりゃ迎えいくんに」

「手紙は出した」

「いつ?」

「今朝」

「おめぇ、バカじゃねんか」

「バカだべ、バカ」

 駅にくる途中、ローソンで出してきた。こんなやりとりを期待してもいた。

「よくここまでこれたな」

 朝何時の電車に乗って、何時にこっちの駅に着いた。バスも一時間なかったんで、歩いて実家に向かった。

「半分くらい歩いたときに、ゲコに見つかったんさ」

「おめぁ、バカだなやっぱり」

「バカです」

「バカだべ」

「バカ」

「バカ」

「バカ」

「バカ」

「バカ」

「バカ」

 ククっと笑い声が混じって。

「バーカ」「バーカ」「バーカ」

 三つの「バーカ」がガッツリ一つになった。

 気色わる!

 三人の笑い声が、会議室にこだました。


「よし、俺たちもそろそろいくか」

 気が付けば四時を回っていた。外は早くも夕暮れに染まりかけている。黄色い光を、じっと眺めた。光の中に、なぜかマツケンとあるさんがいた。

「ハル、憶えてるか? この後どうするか」

「いいや」

 舞はなんとか踊れたようだが、他のことはまるで記憶にない。

「じゃあ、ゲコと一緒に神社にきてくれよ。頼むぜ、ゲコ」

「ん」

「大事な主役なんだから、大事に頼むぜ」

「ん」

「じゃあ、向こうで」

「おう、あっちゃんも気つけてな」

 戸締りをあっちゃんに任せて、ゲコと公民館を後にした。

 舞以外のこと、段取りとか流れは一切合切思い出の渚に放り出してしまったようだ。小五のときの祭りの記憶は、舞台袖の緊張感と「闇」の記憶しかない。

 ゲコの車に乗って、一度実家へ戻る。

「ハル、忘れてねだんべな?」

「大丈夫、そのときになれば思い出すから」

「そうじゃねぇって。夏に約束したんべ。女優の連絡先さ。仕入れてきたんだべな?」

 憶えているはずがない。ていうか、今言うことか!

「おめぇ、それ」

「心配なんかしねぇぞ。大丈夫か、なんて聞かねぇし、頑張れなんて、言わねぇからな」

 ったく、素直じゃない。面倒くせぇやつだ。

「刮目しろ」

 気合が加速する。昂ぶる心を抑えて身体が今にも震えだす。

 二分の一の「ハル」はもういない。己の舞台に思いを馳せる、完全に一人前の男が、そこにいるだけだ。


 祭り自体は昼から始まっていた。

 舞台となる羽地田神社の近くにある観音堂では、お昼の開始からまず祭典が行われ、禰宜さんが大祓詞を奏してお神酒を献じ、そのあと稚児舞が舞われる。

 それが終わると本尊の観音様を神輿に移して、観音堂から神社までのお練り。

 そして神社の境内に神輿の列を迎え入れ、本殿に観音様を奉納する。ちなみに、この観音様は翌日、また神輿に乗って今度は神社から観音堂へ還幸される。

 観音様のお練が終わると、今度は子どもたちが子ども神輿を担いで町中を回る。

 町を回り終えた子どもたちの声で境内が騒がしくなると、あとはいよいよ夜の「舞」を待つだけとなる……。

「御雪舞を舞うものは、舞の前に裏の沢にいって水垢離をとる」

 舞を行うに当たっては神社の拝殿が楽屋兼控え室になる。

「え! そんなことすんのか!」

 そんなことしたっけ?

「水垢離って、なんだ?」

「裏の沢の水をかぶって穢れを落とすんだ」

「なんだ、ハルがよくやってることだべ」

「まぁ、似たようなもんだな」

 あっちゃんとゲコが笑い。いやいや!

「バカ、罰ゲームと水垢離を一緒にすんじゃねぇよ!」

「わかってんならいってこいよ」

「わかってるよ、もうちょっとしたらいくっつうの」

 というわけで、白衣一枚で降りてきた。

 確かに、その意味するところは裸で冷水をかぶる罰ゲームとはまるで違うが、冷たいものはやはり冷たい。

「オゥ! つめて!」

 奇声を発し、水をかぶるというよりは水滴を体にふりかけるといった感じで、恐る恐る水を浴びた。

「ふー、よしっ」

 意を決し、桶の水を頭から二度三度とかぶっていくうち、逆に体が暖かくなり、全身から湯気が立ち昇った。

 穢れを祓い、煩悩を祓う。祓ったあとから熱いものが湧きあがり、すぐに全身を覆い尽くした。

「ッシャア!」

 いくぞ!


 辺りがすっかり闇に包まれ、舞殿の前の大松明に火が灯る。出囃子が鳴り響き、いよいよ、夜の祭りが始まる。

「おう! おかえり!」

 全身から白い湯気を発散する姿に、みなの顔も充実する。みなの声、表情が力になる。力を蓄えろ。逃がすな。

「ハル、お疲れ。体を拭いて着替えるぜ」

 あっちゃんがタオルを手渡してくれた。それで体をきれいに拭き、千早緋袴に着替える。このごわごわ感が、「これまで」と「これから」を切り替える。

「準備はいいか」

「ああ」

「よし」

 拝殿を出て、両脇を幔幕で仕切られた通路を通って舞殿へと向かう。先導するあっちゃんの後に、黙ってついていく。

 囃子が鳴っている。今は三人舞の太平楽だ。囃子の音を聞き、雰囲気を感じながら、あっちゃんに続いて舞殿の控えの間に入った。

「出るときに俺が声をかける。それまではここで待っててくれ」

 言いながら、あっちゃんがお面を手渡した。

「寒くねぇか?」

「うん。あっちゃん」

「ん?」

「これって、あんときと同じもんか?」

「ああ。ほこりまみれだったぜ。一応洗ったけどな。小五の自分と間接キスだ」

 あのときの自分は、まさか十八年後の自分と間接キスするなんて、考えてもいなかっただろう。「奇跡」という言葉が浮かんだ。すぐに否定した。

 ――これは、あっちゃんを始めとするみんなの努力の結果だ。そして俺も……。

 人々の意志だ。みんなの意志が、すぐ先、その舞台の上で一点集中する、しようとしている。

「よし」

 ポンと腕を軽く叩いて、あっちゃんは控えの間を舞台の方に出ていった。

 お囃子が近い。甲高い横笛の音に、背筋が伸びた。目を閉じる。舞殿の前に焚かれた二本の大松明が、舞台を黒く照らす。

 ――あのときもここでこうやって待っていた。

 呼吸を整え、静かに腰を下して床に正座した。敷物は敷いてあるが、板の冷たさは脛に伝わってくる。まぶたの裏の闇に、やがて白く光が生また。

 ――雪、雪が降ってる……。

 かさかさ、かさかさ。

 耳元か、それとも足の下からか。聞こえる、伝わる。拝殿に、もう一人。

 十八年前は雪だった。今ここに、十八年前の雪が降る。小学校五年生の、祭り始まって以来の出来事、神童と言われた……。

 小学生の小さな体。今より二周り小さい体で、なんとも寂しげで。

 しかし、実際にそんなことはなかった。孤独や不安など全くなかった。

 お面を手に持っていたか、既につけていたか、定かではないが、あのときは「無心」だった。近くにいる「俺」を、感じる隙間はなかっただろう。

 ――歳をとったな。

 静かに目を開けた。お囃子が鳴り止んでいる。太平楽の三人が捌けてきた。

「いくぞ」

 あっちゃんが囁くように声をかけた。あのときは誰だった、左官のシンさんだっけか。脇に置いてあった利剣と縛り縄を手にして返事もせずに立ち上がった。

 足裏の冷たさ、心地よし。鼻から静かに吐き出し、全部出したところで面を被った。

 小さな穴からのぞく視界の狭さ。なるほど、ちょっとかび臭い。次は誰が被るのか、そんなことを考えた。

 雑念を、もう一度口から吐き出す。右手に剣、左手に縄。舞台袖、そこは闇の中。そう、この「闇」だ。

「さぁ、いこうか」

 はっきり呼びかけた。声にはなっていないだろう。なんせ口は開かないのだから。

 舞台の上手から、滑るように登場。中央に立つ。拍手も歓声もなく、静寂。微かなざわめきは、風の音、雪の音に似たり。間合いがつまった。

 時間いっぱい、待ったなし。

 出だしはすんなり入れた。昼間の神憑り感はなかったが、体は音に合わせてスムーズに流れた。

 気持ちはよかった。高まりすぎず、落ち着きすぎず。恐らく、面の下で笑っていただろう。

 狭い視界、流れる観客の中に何かを見つけた。光を放つモノ。あれは。

 ――観音様!

 どっと、脳裡に膨れ上がる記憶の束。音を外した。

 違和感。まずい!

 この場に「神」はいなくとも、奏者とはリンクしている。「まずい」という言葉が瞼の裏を流れた、瞬間。

 体が入れ替わった。そうとしか言い表せない。

 ――ハル。お前……。

 小学生のハルが、舞台の上で舞っていた。

 視界が流れる。同時に、その様を外から見ている。

 ハルが舞っている。体の小さな小五のハルが舞っている。

 間違いない! ならば!

 ――俺も、一緒に。


 泣いている――。

 あっちゃんは「ハル」が泣いていると思った。面の下で涙が流れていると。ともに舞台にいる奏者たちも感じていたかもしれない。


 控えめな拍手だった。観客の不満足をあらわす「控えめ」ではもちろんない。

 舞っているものが「神」であるなら、拍手を送ることは妥当ではない……。彼らの目にこそ、神が映っていたかもしれない。

 舞台の上、入ってきたときと全く同じリズムで「神」は捌けていった。舞台袖の闇を潜った瞬間、笑みを交わした。

 ――サンキュー、ハル。

 そこで別れるわけじゃない。普段は姿見せないけど、あいつはいつでも近くにいる。

 面を外すと、真っ先に見たのはあっちゃんだった。おいおい、また泣いてんのかい。目の前で、迎えてくれたなり抱きついてきた。

「おかえり」

「たでぇま」

 ぐっと体を絞られた。

「ありがとう、ほんとありがとう、ハル」

「おう」

 汗だくだったので、抱き返すことはしなかった。「俺じゃない」と、思わず言いそうになった。

 無事帰ってこれたのは、自分の力ではなかった。

 ――小五でも、ハルはハルか。

 こちらから礼は言わない。「神」は傲岸だ。面を差し出したのは自然だった。あっちゃんもそれを受け取った。

「八十点かな」

「次は百点目指せよ」

「芸に百点はねんだよ」

 最後に笑みを交わしてすれ違い、舞殿を出た。子供たちの歓声が背中を襲う。昼間、お練のときに子ども達が集めたお菓子を、舞台の上からまいているのだろう。

 少し休憩を挟んで、もうじき祭りは終わる。

 拝殿に戻って着替えると。

「ちょっと、休んでくる」

 と言って、また拝殿を出て、幕を潜って社務所に向かった。

 社務所は祭り関係者の詰め所になっている。今は誰もいない。畳の一室に入り、仰向けに横になった。

 部屋の隅でストーブががんがん灯油を燃やし、その上で薬缶が口から湯気を吐いていた。

 上手くいったろうか。

 あっちゃんやゲコ、みんな喜んでくれたかな。お客さんも、楽しんでくれただろうか。見にきてよかったと、思ってくれただろうか。

 自分の存在意義を、証明できたろうか……。

 ――さきんこも、喜んでくれたかな……。

 そうか、あの光は、観音様じゃなくてさきんこだったか……。

 十年以上会ってないさきんこの名前が突然出てきたことに、なぜか驚きはなく、それよりも嬉しかった。

 目に腕を当てて、仰向けに、閉じた両目から涙が流れた。

 今、この日この夜この瞬間、この場にいれたことに感謝。

「ここにいる」ことが目的だったわけではない。

 しかし、ここが「目的地」だった。なぜならここは「原点」だから。

 二人の親友の顔があった。忘れたもの、捨てたもの、己の利のために消したのに、みんな暖かく迎えてくれた。そんな故郷を持つ自分が幸せだった。

 先輩芸人の死、相方の失踪、将来がかかったオーディション……。諸々投げ出してここにきた。

 より強くなるための選択と、自分に言い聞かせてはいたが、東京にいたくなかったのは事実。未来を消して身を賭すことは、さして難しいとは思われない。

 そう、逃げてきた。

 ――帰らなきゃ!

「逃げてきた」ことを認めたことで、引きずり出された顔がある。

 横顔があり、あるいは背中があった。帰らなければ。

 人々の歓声が上がっている。祭りの最後を飾るのは獅子舞だ。

 獅子舞は舞台の上ではなく、舞台の下で、観客の輪の中で踊る。舞台の上に意識を集めていた観客の間に、割り込むように入ってくる。

 集まった人たちの真ん中に動けるスペースを作ることは、なかなかの技術だ。人々の中に入ってこそ、獅子の口は災厄を払える。

 突然身近に現れた獅子に驚き逃げる叫びが上がり、笑い声が上がり、オーと低く歓声が上がり、拍手が沸いた。

 そして、外が静かになる。再び沸き起こる拍手。禰宜さんが祭りの終わりを宣言したのだろう。喧騒が移動を始める。見物の人たちが三々五々神社を後にした。


 見物人がいなくなったその神社の庭で、祭りの運営に携わった青年団を中心とする男たちが、祭りの片付けを始めていた。

 大きな笑い声、話し声が聞こえてくる。どの声にも、喜びと充実感、達成感が溢れていた。

 ――終わったか……。

 煤けた天井がやけに黒い。今になって胸がドキドキしてきた。よくやったと、自分で自分を褒めてもいいんじゃないか、なあ、ハル。

「お疲れさん!」

「お疲れちゃん!」

 あっちゃんとゲコがきてくれた。弾けるような声だ。

「大丈夫か」

「ああ」

 慌てて目をこすって上半身を起こし座り直した。二人の顔を交互に見て。

 ありがとう。

 音にはできなかった。

「ふー」とか言いながら背中を曲げて頭を下げ、すぐに上体を起こして、「あぁー」と両手を頭の上に伸ばして背伸びをした。再び向かい合うのを待って。

「ありがとう、ハル」

「ありがと、ハルオ」

 ゲコ、おまえずりぃぞ。お礼を言いたいのはこっちだっつうのに。素直に言えないのは、なぜだろう。

 立ち上がり、もう一度腰を伸ばす。目をこすって、向かい合った。

「いくか」

 社務所から寒い寒い外に出て、賑やかな声のするほうに、三人で歩いていった。


 時刻は九時に近い。祭りは成功に終わったと言っていいだろう。打ち上げ会場である町の居酒屋までの道程を、三人、とぼとぼと歩いていた。

 満天の星空には天の川が見える。数日前の東京の夜空を思い出した。

 この星空の素晴らしさは、東京と比べて際立っている。

 そういうことがわかるという点で、一度は東京に出てみることも大事な経験であるかもしれない。

 寒さも疲れも気にならなかった。

 こうして三人でいること、昔のように三人で一緒に肩を並べて、昔のように話をするということが、ただ純粋に楽しかった。

 三人の笑い声が降り積もる雪の間に響きあった。いつ以来だろう。

「あ、そうだ、これ」

 あっちゃんが差し出したものを掌で受け取った。小さなぬいぐるみのキーホルダー。

 握ると、柔らかくて弾力があって、気持ちいい。

「さきんこが、お前に渡してくれって。なんとかグマとか言ってたかな」

「へぇ、そうなんだ。気持ちいいなこれ」

「知ってたのか、きてたこと」

 誤魔化すとこだったことに、そこで気が付いた。

「実は、ちらっと見たんだ。目立ってかわいい子がいたからさ」

 正直に話す。

「さすが変態だべ。舞いながらそんなこと考えてたとは。せっかくちょっとだけ感動したんにな」

 これだ。「光っていた」なんて言ったら、何言われていたか。

「さきんこ、帰省してんのか。確か大阪だろ」

「帰省っつうかな。なんか、あの子もいろいろ大変みたいだぜ」

 大変の意味はわからなかったが、それ以上深く聞ける雰囲気ではないようだ。

 ゲコもだんまり。こいつは、空気を読むのが抜群にうまい。

「ところでさ、いつ帰るんだ」

「ん?」

 すぐに言葉が出てこなかった。

「今日は冴えてる。やっぱり、なんかあったんだな。いっくらなんだって急すぎだ」

 いつ帰るか、その質問には直接答えず。

「実は、逃げてきたんさ。正月っからよ、先輩芸人が自殺しちまうし、チョー大事なオーティション前に相方はいなくなっちまうし。もうどうしたらいいかわからなくて、逃げてきたんだ」

 ザクザクと足元が鳴る。でこぼこの氷道、さっきから何度こけそうになったかわからない。

 帰るつもりはある。いや、必ず帰る。

 だが、いつ帰るか、はっきり決めてはこなかった。まだ決めかねている。そこまでは口にできない。

「オーディションてのは、いつなんだ?」

「え?」

「その大事なオーディションてのは、いつなんだ?」

「オーディションは」

 明日だとは、言えない。

「正直、今日のことは感謝してる。感謝してもしきれねぇ。お前がいなかったら、すんなり打ち上げなんてやれなかったかもしれん。実際、お前の顔を見た瞬間、助かった、と思っちまった、不覚にも。ほんとに神様みたいに見えた」

「俺は、そんなんじゃ」

「ハル」

「ん?」

「なめてなめてんじゃねぇぞ。てめぇの仕事投げ出しといて地元で神様面か、冗談じゃねぇ」

「いや……」

 別になめてるわけじゃない。そんなつもりはさらさらない、ただ……。

「俺だっていっぱいいっぱいなんだよ。どうしていいかわからねんだって。そういうときはさ」

「うるっせぇよ! まず俺の質問にちゃんと答えろ。いつだ?」

 言ったからどうなる?

 今さらなにができるってんだ。言わないほうがいい、みんなのために、いや、自分のために……。

「明日、明日だよ」

「みろ、やっぱり今日の俺は冴えてるぜ。明日の午後か、午前か」

「午前。だからってよ、もう」

「どうすんだ?」

「え?」

「どうすんだよ、そのオーディション。このまま逃げんのか、ここに隠れたまま、やり過ごすんか」

「いつまでもここにいるつもりなんざねぇよ。だけど、まだわかんねんだって」

 わからない。いつ帰るのか。なんでここまで、親友に責められなきゃならないのか。

「おめぇさ、そっから逃げて、またそこまで戻れると思ってんのか? 辛くなったらこっち帰ってきて、神様面でちやほやされて、そんなんでまた東京で頑張れんのかよ」

 あっちゃんの言ってることはわかる、だけど、受け入れて欲しい、そういうときだって、あるだろう。

「まだ答えられんてか。このふにゃちん野郎が」

 足元を激しく鳴らして、あっちゃんがこっちに向き直り、胸倉をつかんだ。

「歯を食いしばれ。そんな大人、修正してやる!」

 あっちゃんの握り拳、目を、つむるな!

「ぐっ!」

 鈍い音とともに、振り上げられた拳は、力の限りボディにめり込んでいた。

「てめぇ、腹かよ……」

「芸能人だからな、顔はやめてやったぜ。あー、すっきりした」

 本気で苦しかった。崩れ落ちそうになったのをさり気なく支えてくれた。ゲコ、うめぇやつだ。

「すっきりした」と言ったが、あっちゃんが実際どれほどすっきりしているかくらいは、わかるつもりだ。静かなトーンで話し始めた。

「お前がくるまで、もともと面を被る予定だったジュン、憶えてっか? 二つ下の野球部だ。祭りを復活させるってなったとき、御雪舞に真っ先に手上げたのがあいつだった。こっちが聞きもしねぇのに、嬉しそうに言いやがったぜ、十八年前、お前の舞を見てめちゃめちゃ感動したって。俺もあんな風に舞ってみたいって」

 ……。

「嫌な言い方をすれば、お前はジュンの夢を一つ奪ったんだ」

 まだ腹に力が入らない。こいつ、マジで本気だったな。

 わかってるさ、俺は、奪い取りにきたんだ。恨まれんのは、はなから覚悟の上よ。

「筋は悪くなかった。あいつがやってても無難にこなしてただろ。でも、お前はあっさり超えちまった。お前が十八年前、ガンダムの面被って、そりゃ身沁みてやってたのを俺は知ってる。だから、俺は別に驚きゃしねぇ。だけどよ、ジュンはショックだったろうぜ。一ヶ月前から稽古してきて、周りにもやっと認められて、自信だってあったろう。それを、十八年間なにもしてなかったやつに、いきなり、あっさり超えられちまったんだからな」

 漸く痛みが引いてきた。やっとこ背中を伸ばすことができる。前屈みというのは、話を聞きづらい。しかし……。

「時間が経てば経つほど、これでよかったのか、て思ってくる。成功だったと言えるのかって。いや、こっちの自己満足なんか、きてくれた人には関係ねぇさ、盛り上がり方見りゃ、間違いなく成功だった。だけど、なんか、すっきりしねんだよな」

 一人で立てるまでに回復した。しかし、ゲコの肩を外そうとはしない。苦しそうに顔を歪める。見えるかどうか、どんなアピールになるかはわからないけど。

「誰もお前の悪口言うやつなんかいねぇだろう。お前がこのままいなくなって、お前の陰口たたくやつなんか、たぶんここには、少なくとも祭りにかかわった人間には、いない。うん、なにが言いてぇのか、自分でもわかんなくなってきちまったけどよ、なんだ」

 いや、わかってる、あっちゃんが言わんとしていること、伝わっている。

 要するに、中途半端じゃ困るってことだろう、仕事の片手間で、気分転換でやられたんじゃ、ジュンだって立つ瀬がねぇよ。

 結局やらなきゃいけねぇってことさ。そう、それだけだ。

 こっちでやったからには、東京でできないなんて、許されない。

 確かになめていた。それは「祭り」ではなく、「芸人」のほうを、なめていた。

 芸人として強くなるための「力」なんか、こっちにだって落ちちゃいない。

 じゃなくて、人間として、ほんのちょっとでも強くなった。練習と本番と、奇跡のような舞を二度、踊った。

 自信にもなったし、懐が大きくなったような気がする。芸人として、ちょこっとだけど階段を上った。それを、向こうで証明してみせる!

「そう、お前ならわかんじゃねぇか、ジュンの気持ち、一番わかるの、ハル、お前なんじゃねぇのか」

 ――!

 衝撃だった。先のボディブローより何倍も大きな衝撃。

 そうだ、その通りだ。だからジュン本人から目を逸らしていた。ジュンの存在を、ずっと考えないようにしていた。

 かわいそうだからじゃない、哀れんだからでもない。

 恐かったから。それまで積み上げたものをあっさり否定される。笑顔で場所を譲ってしまう。惨めな自分を笑ってごまかす。

 自分で自分を笑いものにすることによって、それ以上低く見られないように。

 いつだ? それはいつの自分だ?

 いつの「ハル」だ?

 ジュンは、そんなにひねくれた人間じゃないだろう。恨んだりすることはないんじゃないか。今回のことにめげることなく、むしろより強いチャレンジ精神が芽生えるかもしれない。

 もしトラウマになってしまったなら、手を上げなければいい。避けて通ったって、なんの問題もない。舞なんか踊らなくたっていい。胸張って仕事を続ければ。

 ――俺はそうじゃない。

 漸くここまできた。十年以上かかって、やっと「舞台」の中心で踊るチャンスを手にしかけている。

 棚から落ちてきたわけじゃない。必至に頑張って、自分の腕でつかみかけてるんだ。

 なにを考えてたんだ。絶対にひけない!

 当たり前じゃないか!

 奇しくもあっちゃんが言った通りだ、ここで引いたら、二度と戻ってはこれないんだ! 

 また腹が痛くなった。膝の力が抜ける。

 持ちこたえたが、ゲコはちょっと大変になっただろう。

 答えは決まった。その「言葉」を言うより、自分の生きる道はなし。

「帰らなきゃ」

「んん?」

「帰る。帰る! 戻らなきゃ」

 見つけた。自分に必要だったのは、自分を支える「二分の一」でも、自分を大きくする「力」でもなかった。

 自分が手にしなきゃならなかったのは「自分」だったんだ。

「聞こえんなぁ。なんだって!」

「帰る! 帰るって!」

 歯痒い、あっちゃんの言葉遣い。その新しいキャラ、うざってぇぜ。あっちゃんが透かすように腕時計を見た。

「ゲコ、どうだろう」

「微妙だべな。あとは」

 なにを言っている。時間? 微妙だって?

「今からじゃ在来線は無理だろう。東京まではいけねぇと思うぞ」

「在来線じゃ無理だ。ここの駅からじゃあ」

 意味がわからない。在来線じゃ無理って? 当たり前だ、ここの駅には在来線しか通ってない。じゃあ無理だ。

「どうする? あとはハル、おめ次第だべ」

「すぐに帰るか帰らねぇか、決めろ、ハル。自分で決めろ」

「いや、すぐに帰りたい、けど」

 早く帰りたい。帰れるものなら。

 しかし、だから、お前らも言ってるけど、無理だって。

「よし、決まりだ。ゲコ、大丈夫か」

「任せろわ」

 いかにも邪魔くさそうに、肩から重荷を外した。そして氷の上を走り出した。

 いったい、どんなワンシーンだ? ゲコの背中が頼もしくみえるのはなぜだ?

「なんだ? どういうことだ?」

 走りながら話すと、あっちゃんに引っ張られるように走り出した。

「馬越駅っていう、新幹線専用の駅があるの知ってんだろ。そこから新幹線に乗れば今日中に東京にいける」

「うん、ん?」

 馬越駅は知ってる。その通り、新幹線専用の駅だ、知ってる。知ってるけど……。

 なんだかよくわからないうちに、サイが振られたようだ。しかも振ったのも自分のようじゃないか。

 正直、間に合うとは思われない。ここから馬越の駅まで、雪がない時季なら三十分から四十分。この時季だったら何分でいくのか……。というか、いけるのか?

 今現在、雪は降ってないとはいえ、ここからその駅まで最短でいくには峠を越えていかなければならない。国道を回れば、さらに時間がかかるだろう。

「このままバス通りまでいって、そこでゲコに拾ってもらう。それまでに、死ぬなよ」


 走り始めてわかった。どうやら、かなり疲れている。すぐに自分の呼吸しか聞こえなくなった。足元もかなり滑りやすい。

 しかし、どんなことがあっても転ばないような気がした。

 あっちゃんの背中、力強さ、何よりも「気持ち」が、前からグイグイ引っ張るのだ。

 間に合わなくてもいいと思った。二人とも全力でやってくれている、このことが嬉しい、大きな力になる。

 もう逃げたりしない。目の前の背中とどっかにある背中に誓った。

 だけじゃいけんだろう。

「あ、あっちゃん、ちょ、ちょっと待ってくれ」

「なんだ、よほどの用がない限り止まれんぞ」

 な、な、なんとしても、やっておきたいことなんだけど。

「ジュ、ジュンに、祭りのみ、みんなに、一言、言いたいことが、あ、あるんだけど」

 自分の呼吸だけじゃなく、あっちゃんの息遣いもかなり激しい。ちょっと考えて。

「のんびりやってる暇はねんだぞ」

「た、頼む、ひ、ひとこ、一言だけ、言わせて、くれ」

 あっちゃんがスマホを手にして。

「ゲコ、そうか、もうすぐか、ちょっと予定変更だ、打ち上げ会場、『あうど村』に寄って、そっからバス通り向かうから、うん、わがままな神さんがよ、おう、頼むぜ」

 ただ走るだけなら、あっちゃんにだってゲコにだって負けない、自信はある。

 これほど疲れ方が違うのは、この足元のせいだ。雪さえなけりゃ、あっちゃんの背中がこんなに憎らしくみえることだって、なかっただろうに。

「ついたぞ、一言だかんな。ビシッと決めろ」

 あっちゃんと店内に入ると、わっと拍手と歓声。

「みんなお疲れさん! 今日はほんとお疲れさん! 理由は後で話すけどよ、俺はこれからハルを送ってかなきゃならん、でよ、時間がねんでアレだけど、ハルが一言、言いたいことがあるってよ。ハル!」

 あっちゃんにかわって一歩前に出る。一際大きな歓声。涙が出でそうだ。ありがとう。静まるのを待つなどせん。

 負けるかよ! 大きく息を吸い込んだ。

「俺は! 芸人の頂点に立つおとこだぁぁぁぁ!」

 うおぉぉぉ! さいこうだぁぁ! 渦巻く熱気、絶叫。ハール! ハール! ハール! ハール!

 上がったハルコールに両手を挙げて答えた。確かに、目頭は熱くなっていた。

「いくべ、あっちゃん。またな! みんな、ありがとー!」

 大きな拍手に押されるように店から出た。

「また走るぞ。たぶんもうその辺まできてるだろ」

 再び走り出した。またまた漫画をぱくってしまったが、主人公と同じように叫べるときがくるなんて、なんとも気持ちよかった。

 あのセリフでもよかったかな、あっちのセリフもいつか言ってみたいな。

 喉がくっついた。自分の音しか聞こえない。

 苦しい体で、空を見上げた。まるであっちゃんの背中に星が映るようだ。

 こんなに必死に走っても、天空の星はまるで動かない。全く近づくことはない。

 当たり前のことだ。星空を切り取る黒い陰、町を包囲する壁のような山並み。どこにいっても、空は切り取られてしまう。

 道路と同じように切り取ってくれたほうがわかりやすい、進みやすいだろう、というのは、勘違いだ。それは、迷路のようなものだ。

 山が大きくざっくりと空を切るこの町の人間は、みな、自分達のやるべきことに真っ直ぐ進んでいるんじゃないか。


 眩しい。ヘッドライトが近づいてくる。

 はやい!

 走りを止めた二人の横に、ゲコの車がついた。運転席からゲコが降りてきた。

「いくけ」

 ゲコが乗ってきた車は、奇妙だ。

「これ、クラウンか」

 しかもけっこう前の。

「んだ、クラウン、九十一年式」

 ホワイト、親父たちが乗ってた懐かしい車。ボンネットには楷書体で。

「松風。まつかぜ?」

「松風。まあ、いいから乗れや。聞きてぇことは中で聞けってばよ」

 キャッチセールスに引っかかったかのような感覚で後部座席に乗る。ロールゲージの邪魔な後ろに。

 あっちゃんがナビシート、時計は、九時二五分。

「余裕だべ。十時には改札抜けてる」

「ほんとかよ」

「スノーでのベストが三十三分。東京行きの最終が十時十二分、それより後では馬越の駅に新幹線は止まらん」

 現実感がない。ほんとうに着くのか。

 というか、ほんとうに着かせようとしていることが不思議だった。恐怖さえ覚える。

「今日は三十分切ってみせるべ。あんな舞見せられて、こっちまで燃えてくる。神様も乗ってることだし」

 ゲコが後ろを見て笑った。その瞬間、背筋が凍った。

 神様!


「よし、いくでよ」

「ちょ、ちょっと、荷物、荷物取りに、実家によってくれ」

「荷物なんか後で送ってやるぜ」

「いや。仕事でもなんでも、いつも一緒のリュックだ。ねぇと逆に不安なんだよ」

 げん担ぎみたいなもんだ。相方に加えて「アイツ」もないんじゃ、例え間に合ったとしても、力は半分もでない。

「な、わがままな神さんだろ」

「わがままで気のよえぇ神様だ」

「松風」が動き出す。

 少し動くと、実家に向かってくれているようだった。

 前で二人がなにか話している。本当に疲れていると思った。後部座席のシートに深く体を預けると、ふっと、眠りに落ちていた。

「着いたぜ、ハル。時間がねんだ、なるべく早めにな」

「おう」

 五分と寝ていないだろうが、体はすっきりしていた。

 玄関へ向かう。足元の雪が鳴る。自分が「帰ってきた」ことを、足音が実感させてくれる。この夜は、なんだか懐かしい。

 懐かしがっている暇はない。実家の玄関を開けるこの緊張感、まだ抜けないな。

「ただいま」

「あ、おかえり。どうだった祭りは。うまくできたかい?」

「うん。ていうか、すぐ帰らなくちゃいけなくなった。外であっちゃんとゲコが待ってるんだ。荷物だけ持ってすぐいかんくちゃならん」

 二階にいってリュックを持つ。ぐるっと部屋を見回し、忘れ物がないかどうか。

 リュックをしみじみと眺めた。体の奥に、熱い火種が上がった。

 ――やってやる。やるしかねぇぞ。

 階段を降りながら、デジャヴ。母親がいることに、なんだかほっとした。

「親父とじいちゃんは?」

 祭りの寄り合いにいったよ。まだ帰ってこないだろう。母親の声は聞こえるが、玄関近くに姿は見えなかった。

 靴を履くのに少々時間がかかる。

「じゃあ、いくから。またそのうち帰ってくるからさ」

「ちょっと待ちな。ほら、これ持っていきな」

 漸く出てきた母親が、ほらと出したのは、アルミホイルにくるまったおにぎり、恐らく三つ。

「お前とお父さんたちの夜食にと思って作っといたんだよ。お父さんとおじいちゃんの分はあるから、これ持っていきな」

「うん」

 もらって手に取った。温かい。もう冷たくなっちゃったけどね。母親のそんな言葉が追いかけてきた。しかしそれは、充分に温かかった。

「じゃあ、いかぁ」

「気ぃつけて、またいつでも帰っておいで」

 ドアを開けて外に出る。寒さの先に、二人の待つ「松風」が鈍く光っていた、ドアを閉める直前。

「ありがとう」

 母親に、ちゃんと聞こえたかな。これでもう本当にこっちに残したものはない。

「いいのか」

「おう。わりぃな。じゃあ、今度こそ、頼む」

 松風が、二度三度大きくいななき、ググンと力強く、走り出した。


「なぁ、このエンジンて」

「ああ、いいべ! 水平対向エンジン、ボクサー」

「それってインプレッサの」

「おう。インプレッサ。軽量コンパクトで低重心、縦置き左右対称だから走りのバランスもいい。アンド、シンメトリカルAWDで、トランスミッション、サス、LSD、基本的にはインプのを使っちょうよ。要は、クラウンの皮かぶったインプってことだべ」

 言っていることはいまいちわからなかったが、ゲコの運転は思っていたより静かだ。

「しかも市販車のじゃねくて、WRCで使われてたもんを使ってる。まぁ、何年か前の型落ちだけどよ」

「そんなもんどうやって手に入れたんだ」

「ん?」

「ハル、秘密基地おぼえてっか?」

 あっちゃんが質問を引き取った。しかし、暢気にこんな話をしていて大丈夫なのか。

「秘密基地……、ああ、あったな、そういやあ」

 小学生の頃、町からちょっと離れた森の中に、やたら車の部品が集められた場所があって、そこを「秘密基地」とか言って三人でよく遊んでた。

 大人たちからは、あそこにいってはいけないと言われていたが、素直に聞くような子どもじゃない。

「あそこが?」

「某自動車メーカーのゴミ捨て場だったんだ。実際捨ててたのはメーカーの下請けだが。いわゆる不法投棄ってやつだ」

「ほう」

「でさ、そう、こいつひでんだぜ。その会社と取引したんだよ、レース用の部品を流してくれ、不法投棄を黙ってやっからって」

「へぇ。そもそもあの土地、おまえんちと関係あるんだっけ?」

「金は払った」

「あるわけねぇだんべ。で、今言ったエンジンだのサスだの、部品手に入れたらとっとと告発してうやむやにしちまった」

「おい!」

「しかも、そんなもん流してるのがばれたらあんたもヤバイだろとかなんとか言って、書類にしてないから足もつかない」

「人を犯罪者みてぇにいうな」

「立派な犯罪だろ。しかも金も払ってねんだろ」

「金は払った!」

「半分だろ」

「いや、二割」

「ブハッ!」

 まさかゲコがそこまでやるヤツだとは思ってなかった。

「まぁ、いいべ、おかげで今みんなの役に立ってんだから。峠に入った。こっから本気でいく、二人とも、つかまってろ!」

 松風のエンジンがひときわ唸りを上げる。グン、と体がシートに押さえつけられる。

 車は一気に加速し、スピードアップ。そして……。

「え?」

 体が、いや、車が横向きになった。前じゃなく、横に滑ってる! ドリフト!

 ――ちょっと待てよ、ここ雪の峠道だろうが! 

「ちょ、ま! ウオォォー!」

 GTカーには番組で乗ったことがある。プロのドライバーの助手席でサーキットを回った。

「こえー!」なんて派手に叫んでいたが、確かに未体験に速かったのは速かったが、安心感はあった。

 こういう「恐さ」はなかった。死ぬかも知れない、いや、たぶん死ぬ。

 限界的に恐怖を感じたときは声も出ない。新しい発見だ。トーク番組では使えないが……。

 偶然見えたゲコの横顔が、半笑いになっていた。「チーン」と音がした。なんか、お経が聞こえるような。

 お父さんお母さん、先立つ不幸を、お許しください……。


 車は無事に峠道を抜けたようだ。今は幾らか平坦な道を走っている。

 助手席のあっちゃんとゲコが普通に話をしていた。ちょっと、嫉妬した。嫉妬……。バカか。

「でも、今日は速かったな。気合が入ったか」

「それもあるけどよ、後ろにハルが乗ってて、トラクションもかかるし重量バランスもいいと思ったから、いつもより攻めたんだべ。最高のドライビングだったずら」

 途中の記憶ははっきりしない。「ずら」じゃねぇよ。

 後部座席に乗ってたおかげで運転しやすかったということだが、だからといってもう二度と乗りたくはない。

「今、何時だ」

「十時ちょうど。まあ、あと五分もしねぇでつくだべ。心配すんな」

 確かに心配している。しかしゲコの口から「心配」などと聞くと、なんだか別の言葉に聞こえる。かえって心配が募る。一旦置落ち着く意味でも、煙草を吸いたくなった。

「ゲコ、煙草吸っていい?」

 言いながらリュックの中を漁る。

「ちょっと待て」

「ん? 禁煙か?」

「いや」

 ゲコがカーステレオの音量を大きくした。車内に流れる音声。なんだこれ? ラジオ?

「警察無線」

「警察無線!」

 スピードメーターを覗くと。七十キロ。

「おい、そんなに出さなくてもいいんじゃねぇか」

「煙草は待ってくれ。見つかったみてぇだ」

「おい!」

「大丈夫、駅はすぐそこだべ。降りたらすぐ駅に飛び込め。最後まで見送ることできねぇけんど、がんばれや」

「がんばれよ、ハル」

 返事のしようがなかった。

 その言葉通り、駅には二、三分で着いていてしまった。こんな別れかたって……。

「いけ、ハル!」

「お、おう。ありがと。じゃな」

 車を降りてドアを閉めると、車はまた慌しく走り出した。最後に見た二人、笑ってたな。確かにパトカーのサイレンが聞こえる。

 あいつら、大丈夫かな。心配しても始まらない。

 ――俺は俺のやるべきことをやれ!

 最後、もうひとっ走り。切符を買って、階段を駆け上がり、「上り」のホームに立つ。

 十時八分。新幹線は、十時十二分。本当に、間に合った。

 自販機でホットコーヒー。椅子に座って一服つけると、漸く落ち着いた。

 シャツが汗でべったり、肌にくっついて気持ち悪い。

 背もたれに体重をかけると、そこでまた体の電池が切れかけた。

 朝東京を出て、夜の十時には東京行きの新幹線をホームで待つ。なんて、思ってもみなかった。

 ――なんだか夢のような一日だった……。

 あるいはドラマか映画でも見たよう。

 しかし、体に残る疲労感、「今日」という現実の証として、勲章として東京に持ち帰るものは、これだけ。

 いや、あと、ポケットの中にも。ムニュムニュ。あっちゃんからもらった、さきんこからだという小さなぬいぐるみ。

 三回四回感触を楽しんで、ポケットではなく、リュックに入れた。あ、そうか、これもか。

 閑散としたホームにけたたましいジングル。新幹線が入ってくる。夢の終わりを告げる、目覚まし時計のアナウンス。

 現実へと戻る新幹線が、入ってくる。目の前を新幹線が流れていく。徐々にスピードを落とし、ゆっくり止まる。

 新幹線は、混んでいた。東京行き各駅停車の最終なら、さもありなん。これを見越していたわけではないが、席は指定席を買っておいた。

 それが奏功した。かなり疲れてもいた。

 窓際の席に座る。ほどなく車内にアナウンスが流れる。ゆっくりゆっくり、動き出した。

 

 この新幹線が、過去から未来へと運んでいく。あるいは、夢から現実へ……。

 これ以上、「夢」に逃げるな!

「夢」すなわち「過去」と、向き合えよ。

 ――いや、もしかしたら、峠で事故って、ここが昏睡状態の中か……。

 あいつらがどう思ってたかはわからない。どれほど自信があったのかしれない。しかし、危険であることにかわりはなかろう。

 窓の外をじっと見ていた。窓ガラスに映る自分の顔、その向こうの闇。

 祭りの舞台で踊ることが目的であり、それを果たした今、充足感と達成感で心が満たされていてもおかしくない。

 しかし、心はひどく軽かった。金メダリストやチャンピオンが言うように、実感が湧いてくるのはもう少し後なのか。

 それとも本当に、それは大したことではないのかもしれない。

 もし、踊れていなかったら……。

 あっちゃんが言っていた、「これでよかったのか」と。

 ジュンは、いいやつだった。ほとんど話しもしてないけど、爽やかで男気のあるいい男だ。

 あいつから夢を奪った。

 ――東京で舞台に立つことから逃げた俺が、故郷では舞台に上がることが当然であると考えていた。

 俺しかいない、なんて思っていた。

 最上級の愚か者だ。お~ろ~か~ものよ、お前の流した涙を受けよお。

 マッチになってる場合じゃない。はっきりと「後悔」の二文字が心に浮かんだ。

 そう、ならば、自分を納得させる答えはこれしかない。

 ――東京で、舞台に立つこと。当たり前のように主役をはってみせろ!

 俺しかいねぇだろ!

 て感じで、威風堂々、ジャイアンよろしく、

 ――おまえのだろうが俺のだろうが、全部、俺のもんだ!

 自分にも故郷にも文句を言わせないようにするには、これしかない。

 二人には感謝してもしきれない。この新幹線に乗っていなかったら、きっとこの「答え」は得られなかった。

 あいつら、無事逃げたかな……。


 峠の山道、静かに滑る車があった。

「おぉぉぉぉ!」

「おいおいおいおいおい!」

 ドン。車は助手席側の頭から雪の壁にぶつかって、止まった。

「あたたた。あっちゃん、無事か」

「いててて、なんとかな。おまえも大丈夫か」

「うん、平気みてぇだ」

 運転席から一人出てきて、その後からもう一人出てきた。

「あっちゃー、やっちまってぃ」

「ダメか?」

 ゲコが車の周りを見ながら。

「どうだべ。怪我は大したことなさそうだから、動くのは動くと思うけど、左の前足が、ひょっとしたら吹き溜まりに入っちまったかもしんね。人間二人じゃ、ちょっと無理だべ」

 あっちゃんが、やれやれ、と首を左右に振った。

「星がきれいだな。久しぶりに見た気がすらぁ」

 これほどの星空はなかなか見れない。曇りが多いということもあるが、それよりもこの季節、夜外に出ることは稀だった。

 冬の夜は早い。外に出るときは、酒を飲むときだ。星空は、酒の肴にはならないから。

「どうすんだ、これから」

「歩くしかねぇべな。朝までには着くべ」

 二人の男は、雪道をとぼとぼと歩き始めた。

「しっかし、夢みてぇな一日だったな」

「だべな」

「祭りだけで手一杯だったのに、ハルが突然現れて、御雪舞踊って、最後に三人で車ん乗ってよ。なんか、現実味がねぇぜ」

「この寒さは夢じゃねぇべな」

「だからよ、夢から醒めたみてぇでよ。なんか、切ねぇ」

「仕方ね、夢は醒めるもんだ」

 夢は醒める。その言葉が、残酷なほど身に沁みる。

 夜の峠道に、二人の足音が響く。山が鼾をかいている。暫しの沈黙に、各々の夢を思う。

「ゲコ、おまえさぁ……、やっぱいいや、なんでもね」

「なんだべ。気色わりぃ。すまんけど、あっちゃん、俺にそっちの気はねぇべ。いくら彼女いねぇからって」

「んなんじゃねぇって! なんだろう、なんつうか」

 夢。自分の夢が一つ叶った。

 叶ったのか、醒めたのか。

 この寒さが、むしろ暖かいほどに、寒々しくて。事実、だいぶ体は温まってはきたが。

「なんつうか……、ハル、今どこら辺かな」

「あっちゃん、おらにはわかってる。さきんこのこと考えてたんだべ」

「は?」

 言われるまで全く意識していなかった。

 しかし、言われてみれば確かに聞こえる空耳……、じゃない、確かにそれは近くにあって、そう、いつでも……。

「こんどいい子紹介してやっから。三十すぎて童貞はねぇべ、いっくらなんだって」

「童貞じゃねっつってんだろうが! 二十二の時に捨てたって! しつこいぞ!」

「相手は二倍も年上の、おめぇんちにパートにきてたおばちゃんだべや。酒飲まされて、目が覚めたら裸で寝てたって」

「ちゃんと記憶はある」

「それが唯一の体験て、胸張って言えんのけ? 入れてから一分ももたずにいっちまったって、それでいいんけ? おばちゃんの熟れたので一分もたなかったなんて」

「お、おまえな! そんなこと、い、言い触らしてんじゃねぇだろうな」

「今度、昔の彼女紹介してやっから」

「誰だよ」

「高校の同級生の好美ちゃん」

「あの巨乳……、いや、お前、あの子と付き合ってたのか!」

「高校ニ年のときな」

 何度、何度彼女をおかずにしたことか。いったいどれほど、エロ本と彼女の顔写真をコラージュしたことか……。

「おめぇってやつは……」

 拳が震えた。怒りとは言うまい。自分の青春を汚された、口惜しさ……。鬼め!

「やめとくけ?」

「いや……、お願いします」

 再び訪れた沈黙に、男達はなにを思う。雪の峠に、優しく抱かれて。

 二人は静かに、空を見上げた。帰るべき場所は、まだ遠い。

 

 オーディションが行われるテレビ局の前に立つと、緊張で足が震えるようだった。

 都会の雑踏に、溶けて消えてしまいそう。局に入ってすぐのところにマツケンがいるのを見て、逃げ出したくなった。

 マイナスの思考に反発するように、足が前に出ていた。

「マネージャー、おはよう」

 一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。むしろ普段よりも落ち着いた足取りで近づいてきた。

「おはようハルちゃん。ゆっくり寝れた?」

 昨日の夜、アパートに戻ってきてすぐマツケンに電話した。会話らしい会話はなかったが、これほど内容のある電話は、きっと人生で初めてだったろう。

 北村と、ちゃんと話ができているのかいないのか、わからない。しかし、いずれにしても前向きな方向ではないんだろう。

 笑顔は普段通り。その心中は、一お笑い芸人には量り得ない。

「マネージャー、任しといてよ」

 ぐっと親指を立ててみせた。空元気以外の何ものでもない。

 しかし、さっきの震えが、今は武者震いに変わっていた。

 マツケンの口が開いた。なにかを言うのだと思った。

 しかし、なにも言わず、口を結んで、親指を立てて見せた。

 ――マツケン、人が好すぎるぜ。

 マツケンをそうさせたのは、「自分たち」だ。

 しかし、その「責任」を持ち込んだら、ここにきたのは単なる「記念」になってしまう。そんなものを背負っていたら、舞など踊れはしない。

 楽屋は大部屋。一人でじっと座っている「はるまげどん」に声をかけてくる芸人は、幸いにもいなかった。

 舞台に立てば所詮は一人。

 しかし、そこにいくまでに多くの人たちの助けがいる。

「偶然」という「必然」の重なりが、一人の人間を「そこ」まで運んでくる。

 それが「運命」の「運」。「命」は自分、己の意志。二つが合わさって、自分は漸く自分の「舞台」に立ち、舞うことができるのだ。

 ――おにぎりだ。

 昨日の夜、マツケンに電話した後、おにぎりを食べた。一口、口に入れた瞬間、思いが迸った。

 大きなおにぎりに包まれたシャケフレーク、そこに母親がいて、父親がいて、あっちゃん、ゲコ、故郷の顔がたくさん、さきんこ、まさおと家族、ささみち、晴彦、早苗ちゃん、あるさんに、えるさんに、見たことないえるさんの奥さんに、それに……。

 涙が溢れた。おにぎりが喉を通らないほどしゃくりあげ、嗚咽を漏らして泣いた。

「ありがとう、ありがとう、ございます」

 お笑い芸人が、おかしくて、泣きながら、笑っていた。

 

   はる


『お約束なんでいちおう触れておくけど、あっちゃん、字汚すぎ! 実は、この字見てなんか懐かしさが増すようになっちまった。俺も、長くはないかもしれん……。

 それはいいとして、結婚おめでとう!

 マジでびっくりしたよ。まさかあっちゃんがさきんこと結婚するとは!

 こないだゲコが東京きたときに聞いたんだけど、あっちゃんならきっと彼女を幸せにしてあげられるだろう。

 いきなり父親になった気分はどうだ?

 奥さんはもちろん、子どもたちの尻にしかれている父の姿が目に浮かぶ。文字だけは親父に似させないように注意しろ。

 こっちからも実はめでたい報告があるんだよね。

 あんときのオーディションが結局ダメだったってのは前にラインしたけど、そのあと、本格的にピンでやるようになって、実は妙に順調なんだよね。

 すぐ別のゴールデンのレギュラーが決まって、あと深夜だけど、初俺の冠番組が四月から始まる。

 そしてなんと、遂にきました、映画!

 もちろん主役じゃないんだけど、主役の友だち。来年の正月映画だ。詳しい話は今度、披露宴のときにでも聞かしてやるぜ。

 しかし、まさかこういう形で帰省することになるとは、考えてもなかったよ。

 帰るときはまた連絡すっからよ。みんなに会うの楽しみにしてます。

 しかし、手紙もいいな。

 俺はあっちゃんの字が見たくて、こうして手書きで手紙をだしているのかもしれない。

 パートのおばちゃんと浮気すんじゃねぇぞ。じゃあな。』


 レポート用紙をなるべくきれいに折りたたんで封筒に入れた。披露宴まで二週間、明日の朝仕事いきながら出すか。

 さすがに、ギリギリということはあるまい。

「あっちゃんが結婚か……」

 あっちゃんの奥手っぷりは昔からだ。男には偉そうなのに、女性にはてんで弱かった。

 初体験の話は、あっちゃんらしくて面白かった。

 そのあっちゃんが、これほどすぐに結婚までいくとは、まさに驚きだ。

 二月の終わり頃、ゲコがなんかの資格の研修だか更新だかで東京に出てきた。そのとき、あっちゃんの結婚について詳しく教えてくれた。


 祭りの前の正月、さきんこが町に子ども連れて突然帰ってきた。

 結婚して大阪に住んでから、町に戻ってきたのは初めてだった。

 帰ってくるまで誰一人知らされておらず、みんな驚いた。

 しかも、もう大阪には戻らないという。

 正月、同級生が集まる飲み会で、さきんこはそんな話をしていたという。

 あっちゃんが祭りの説明や支援金集めなどで家々を回っていたとき、さきんこの家を訪れるとたまたま彼女と子どもだけのことがあった(決して狙っていったわけではないと、あっちゃんは弁解していたようだが)。

 好機を逃すまいと、擦り寄ったのだな。

「なんかあったら相談に乗る。まあ、別に俺でなくてもいいんだが、遠慮なく言ってくれ。さきんこのこと、好きだから……、いや、俺じゃなくて、みんなが、みんなが」

 弱味につけ込む、卑劣な所業だ。風上にも置けない。

 あっちゃんの家とさきんこの家はそれほど近所じゃない。

 祭りが終わった後も「通りかかったから」「近くに用事があったから」と言っては、子どもにお土産を持ってくる。下心見え見え、破廉恥極まりない。

 子どもを篭絡するのに時間はかからなかった。それによって、さきんこは徐々にあっちゃんに心を許していく。子どもを見ながら、しみじみと語った。

「あの子たちが私の宝物。旦那のことは憎んだりしてない。私が選んだ、あの子たちのお父さんだもん。でも、もう二度と、あの人のもとには戻らない」

 彼女の手元には、その旦那からの手紙があった。

 大阪でなにがあったのか、詳しい事情までは聞いていない。しかし、彼女の態度からは、断固たる決意が滲み出ていた。

 それは、余人が軽々口を差し挟む余地のないものだった。

 彼女が戻ってきてから一ヶ月、とうとう旦那が彼女の実家を訪れた。しかも、なんと父親を伴って。

 テーブルを挟んで、彼女と旦那親子が向かい合う。

「用件はなんでしょう」

 およそ他人行儀な彼女の言葉。彼女の隣には二人の子どもが、一応真面目な顔で座っている。

 旦那の父親がまず言った。

「大事な話だ。子どもは向こうにやりなさい」

「子どもに聞かせられないような話は私も聞きません。子どもたちの同席が気に食わないなら、お引取りください」

 向こうが忌々しげにこちらを睨んだ。この人たちはなにも変わっていない。

「頼む。親父も反省してわざわざ付いてきてくれたんだ、戻ってきてくれ。お袋もおまえのことを気に病んで入院してる。頼む」

 私のことを?

 入院しているということの真偽は別として、気に病んでいるのは世間体でしょ。目の前にいる旦那の父親も、とても反省しているようには見えない。

 旦那は会社の先輩だった。外見は十人並みで目立つところはなかったが、真面目で仕事熱心で、誰に対しても優しい。

 そのくせ純粋というか、ちょっと天然な部分があって、時々後輩にも突っ込まれていた。

 そんなときも、嫌な顔一つせず、「ありがとう」とか「すまんすまん」と笑顔を返した。それがとても素敵に思えた。

 ゆったりとした器の大きな人だと思った。それが魅力だった。

 そんな旦那が、実は父親に全く逆らえない人間だとわかったとき、魅力は魅力でなくなった。

 この人は「大きな器」などではない。父親に従順な、父親にとって都合のいい「紙コップ」に過ぎないのだ。

 立ち上がりながら「失礼します」と言い、子ども二人の頭を優しく抑えて、彼女は部屋から出ていった。

 すぐに帰ってきて、二人の前に紙切れを広げた。

「これに名前とハンコ、お願いします」

 旦那の顔色が変わった。

「これ、離婚……、おい、ちょっと、冗談はよしてくれよ。考え直してくれ、な。この子の父親は僕だぞ。この子たちには」

「あなたは、確かにこの子の父親です。でも、あなたはそれ以上にその人の子どもなのよ」

 困ったように俯いてしまう。なにも言い返してこない。

 ここまできたことは見直してあげる。父親を引っ張ってきたことも。

 でも、あなたの頑張りはここまでなの。

「ね、あなたは、あなたの子どもの前で、父親であることより子どもであることを選ぶ。そういう人なのよ。自分でもわかってるでしょ」

 弱々しく項垂れる息子と、苦々しくそっぽを向く父親。対照的なようで、とてもよく似ている。

 こんな二人に付き合っていることがバカバカしい。子どもの教育にも、多大な悪影響だ。

 さきんこは、傍らの子ども二人に笑いかけると、小さく耳打ちした。二人がパタパタと部屋を出ていくと、テーブルの向こうに控える二人に言った。

「お願いです。これに名前を書いて帰ってください。あなたと結婚したことを、あなたの子どもを生んだことを、後悔させないで欲しいんです」

「後悔って、お前、そんなこと」

「私、こっちでもう好きな人ができちゃったんです」

 旦那の泣き出しそうな顔と、父親の怒りに溢れた顔と。よく似ている。

「汚らわしい女でしょ。そう、私って、ほんと節操がないの。好きになったら、もう世間とか関係ない。嫌いになってもそう」

 彼女がそう言って二人に笑いかけたとき、部屋の入り口に眼鏡をかけた男が、子ども二人に手を引かれて現れた。

「ど、どうも。えーっと、遠路はるばるご苦労です。ただいま紹介にあずかりました、わたくし雑賀晃と申すものです」

 言いながらさきんこの隣に正座で座ると、

「遠いところわざわざアレだけど、とっとと帰ってください」

 二人の顔の前で右手の親指を地球に向けて下げてみせた。親子の驚いた顔、とてもよく似ていたこと。

「そういうことなんで、早くサインとハンコ押してくれないかしら。そうしないと、新しい彼との婚姻届が出せませんの」


 何時間かけて大阪からやってきたかは知らないが、彼らは滞在一時間にも満たず彼女の家を後にした。

 そのときの彼女がどこまで本気だったのか、わからない。

 その時点では、あっちゃんはただ離婚のために利用されただけだというのが、ゲコを始めとする周りの人間の見方だ。

 あっちゃんが、そのとき家にいたのは偶然ではない。さきんこに呼ばれたというのもちょっと違う。

 事前に相談されたとき「家にいてやろうか」と言い出したのは、あっちゃんからだった。

 さきんこの両親を差し置いて、その現場に引っ張り出され、サムダウンする覚悟が初めからあったかどうかは、疑わしい。

 というのがゲコの見解である。異論はない。

 それから一ヶ月と経たず本当に入籍して婚姻届を出したのだから、まんざら利用されただけでもなかったのだろう。

 なんとなく、お似合いだ、と微笑ましく想像してみるが、

「そのうち捨てられるべ」

 というゲコだった。嫉妬のようでもある。

 こいつの言うことのどっからどこまで本心なのか、長いこと付き合っているが未だに「謎」だ。

「お似合い」と感じようが「一時的」と考えようが、親友の結婚を喜ばない親友はいない。

「ええか、こまけぇことはまた連絡する。あっちゃんには披露宴の当日にけぇるって、間違いなく連絡しとけ。前日にけぇってくること、絶対悟られるんでねぇぞ」

 こいつのことだ、きっとまた無茶苦茶なことを考えているに違いない。その結果、感動の涙になるか絶望の涙になるかは、わからないが……。

 きっと一生の思い出に残るに違いない。

「ラインが主になると思うが、間違ってターゲットに送るなんてヘマこくなよ。お互い、細心の注意を払って、残りの時間を過ごさねばなんねぇ。わかったか」

 男と男の友情を確認し合い、アパートに一泊して翌日、ゲコは帰っていった。

 三月も半ばだというのに、今年はなかなか暖かくならない。雪が降って東京の街に五センチも積もったのは四日ほど前だった。

 この時期の積雪は、毎年のことではある。

 といっても、ほんの数センチでも雪が積もると交通の手段などが心配になるのは、こっちの生活に染まりつつあるからだろう。

 五センチの積雪など、地元じゃ降ったうちに入らない。

 仕事から帰ってきて手紙を書き終えると、時計は二十四時になるところだった。

 シャワーを浴びて寝ようかと思いつつ、こたつで横になった。

 天井は、この部屋で恐らく最も整然としている部分だ。壁と同じ白っぽい壁紙が貼られた天井には、カメラなどには写らないいろいろなものが書き込まれ、映りこんでいた。

 北村は、結局帰ってこなかった。今は実家に帰っているということだが、失踪したときは埼玉にいたそうだ。

 一度この世界に入って三年ほどでやめていった後輩の実家に隠れていた。そのまま一度も姿を見せることなく、東京をあとに実家に帰っていった。

 相方が失踪して、こっちも地元にばっくれて、帰ってきてから仕事がやたら順調なため、相方との別離をさして寂しいとも悲しいとも感じないのは皮肉なことだ。

 仕事が「これから」というときに、あの人が自ら選んだ道だ、同情することではない。

 文句の二つや三つ言ってやる資格は充分にありそうだが、そんなことを言う気はさらさらなかった。

 自分の選んだ道で、今度は逃げずに踏ん張って欲しい、ただそう思っていた。

 コンビが解消してしまったことは寂しくも悲しくもなかったが、ただ、去っていった相方の背中を思うと、寂しさと後悔とが入り混じった。

 相方にしてやるのはそのくらいでいい、とも思った。冷たい男だ。

 スマホが鳴った。ラインは、早苗ちゃんから。「おやすみ」と。

 彼女とはラインを続けていた。ご飯を食べにいったりもするが、友だちから先には踏み込めないでいる。

 前の彼女のことがひっかかるようではあるが、それは、前進しないことに対する後付の理由に過ぎない。

 仕事が軌道に乗り始めたところだから……。

 それもやはり後付だ。いずれにしろ「理由」なんぞを考えているうちは「恋」とは呼べまい。自分の彼女に対する気持ちが充実しないのだ。

 天井を見飽きたので、シャワーを浴びた。決して、早苗ちゃんに対してお高くとまっているわけではない。

 彼女も、自分に対してまんざらでもないような気があるような気はするが、こっちでその気になれば、相手の答えなど考えずに「告白」までは突っ走る。

 そうやって、今まで何度堕ちてきたことか。そろそろ失恋の痛み、苦しさが恋しくなってきたな……。

 ちょっとPCいじって蒲団にくるまった。眠りはすぐに訪れた。


 カバン一つ背負って、ハイカットのブーツににカーゴパンツ、スタジアムジャンパー。この時季の東京にしてはやや厚着ともいえる格好であろう。

 男が向かったのは駅である。雪の跡形はすでにない。

 地下鉄鈍行乗り継いで、目指す場所は遥か彼方、春でも寒い山奥の町。男が生まれた町、名前は「雪の下町」。

 雪の下に、もうすぐハルが訪れる。


「あっちゃん、手紙がきてるわよ。薫、はいこれ、あっちゃんに渡してきて」

「うん。あっちゃん! てかみだって」

「おう、薫、ありがとう」

「ハルからだ」

「なんて?」

「うんうん、うん。ふーん」

「ハル、なんて」

「なんてなんて」

「なんてなんて」

「あいつ、もうすぐくるってさ」

「へー、ハル、もうすぐくるって?」

ハルくる! ハルくる! ハルくる! ハルくる!

「うん、もうすぐ、この町にハルがくるってさ」

「この家にはもうきてるのにね」


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