手紙
手紙
ドンドン、というノックがでかいか。
「ハルちゃーん! 生きてる? 松沢です! ハルちゃん!」
の声がでかいっちゅうねん。
返事をするのも億劫、なんとか立ち上がって殿中を歩く侍のように足を引き摺り引き摺り漸く玄関までたどり着く。
「ハルちゃーん、生きてるかい!」
――アパートではあんまり目立つなって、俺にはいつも言ってんのに……。
ドアの鍵を開けてノブに手をかけた、瞬間。
「ハルちゃん!」
ドアが凄い勢いで引っ張られ、前のめりに倒れそうになる。
「生きてた!」
「今死ぬかと思いました」
現れたマツケンの丸い顔、満面の笑み。心配しにきたんだか、なにしにきたんだか。
見ると、手には余りにも大きな袋を下げている。しかも、もう一つドアの脇に置いてあるし。
「すいません、ありがとうございます」
「ほんとに元気ないねぇ」
「あ、はぁ」
「こんなイカ臭い部屋にいたら、余計体悪くなりそうだよ」
「は、はあ」
この手のボケが、体調悪い時には一番こたえる。ボケなのか、事実なのか。
「冗談だよ冗談。ちょっと待ってな、今元気の出るもの作るから。いや、しかし寒いね、今日も」
マツケンは、言いながら中に侵入し、さらに奥へ奥へと部屋を蹂躙していく。
この状況、反抗する力を持たない部屋の主にとってはまさしく「侵攻」という言葉が相応しい。
「寝てて寝てて。ね、今暖かいもん作るから。それまでちょっと休んでて」
「はぁ、すいません」
言われた通り横になる。
「包丁、鍋、コンロに、まな板。一応揃ってるじゃん。おお、ミキサーもあるね。しかも意外と綺麗にしてある。もしかしてもう別の女が」
「もう」とか「別」とか言うなって。そんな女がいたらなにもあんたにきてもらうことはないっつうの。
「冷蔵庫。あーあ、ほんとになんにも入ってない。どうやら彼女はいないみたいだな」
通い妻か。イライラではなく、なんだか妙な、くすぐったいような気持ち……。
あんな丸い通い妻はゴメンだ。暑苦しいし、でも冬は温かそうだ……、なに考えてんだか……。
「コーラ。ダメだよこんなの飲んでちゃ。よかったよこれ準備してきて。よし、じゃあ、始めるか。ハルちゃん! ちょっと待っててよ! すぐ作るから!」
特別声を張らなくても、マツケンの声は全て筒抜けに聞こえてくる。
「昨日も寒かったからねぇ。まずご飯炊かないと。うわ! なにこれ! きたなっ! くさっ! だめだね、やっぱり男の一人は。早く彼女見つけてあげないと」
台所でなにかやってるマネージャーのことがめちゃめちゃ気になったが、やはりほっとしたのだろう、どうやら眠ってしまったらしい……。
「ハルちゃん、できたよ」
自分の部屋で目が覚めて、一発目に見るのが三十後半の男のツラじゃ、よくなるもんも悪くなるってんだ。
感謝の気持ちも忘れてそんな思いで体を起こした。
がしかし、部屋に充満する匂いは、そんな不埒な思いを差し引いても気分のいいものだった。暖かくて、美味しそうな……。
「ほれ、特製マツケン雑炊。熱いから気をつけて食べな」
そう言いながらお椀を手渡された。お椀とマツケンの顔を交互に見る。
「なに? 大丈夫だよ、うまいって!」
匂いを嗅ぐ。
「あのね、ハルちゃんが元気になってくれないと僕だって困るんだよ。大丈夫だって、毒なんか入ってないよ、うちの家族で毒見も済んでるんだから」
「いただきます」
フーフーして一口。
――熱い! そして。
「うまい! いや、マジうまいっす!」
「だろ! かみさんとか子どもが風邪ひいた時によく作るんだ。評判いいんだから。風邪のときはさっぱり味にしてるけど、豆板醤とか入れてピリ辛にすると、これがうまいんだ。風邪でなくてもいけるんだよ」
マツケンが自慢げに体を反らした。実際、うまい。ふんわりとき卵がまた優しい。
「はいよ、あとこれ」
「なんすか?」
「これまた、マツケン特製玉ねぎジュース」
「たま、ねぎ?」
その透明のグラスに入っている液体は、ジュースとかっていうようなハイエンドなものではない。少しとろみがついてる、もろたまねぎ臭いし。
「これも大丈夫! うちじゃみんな飲んでる。体にいいんだ。ダイエットとかにもいいんだけどさ」
急に不安になった。が。
――これもネタになるな。不味かったら、逆においしいな……。
軽い職業病といえる。体を張ってこその若手! 芸人に公も私もない!
「血管サラサラにして新陳代謝をよくする。風邪をひいたときはさ、汗かくといいって言うだろ。これ食ってこれ飲んで、あとはよっく休めばすぐ元気になるよ」
少し大袈裟なアクションで雑炊とジュースを指差し、目と目が合ってにっこり笑顔。体にはいいに違いない。匂いを嗅ぎつつ、恐る恐る口に含んだ。
「ん」
「ね? 案外いけるでしょ」
どうやって吐き出そうか考えていたのだが、確かに、思ったほどまずくはない。
むしろ市販の野菜ジュースやなんかに比べれば飲み易いくらい。マツケンの言葉に、一つ頷いた。
「でしょ、慣れれば癖になっちゃうよ。置いとくから、毎日ちょっとずつ飲みな。ホント体にいいから。風邪なんかすぐ治っちゃうよ」
実際、朝に比べれば格段によくなっている、気がした。
気が張っているせいもあるかもだけど。マツケン特製シリーズが栄養になったのは確かだろう。
そしてその笑顔と、優しさと、愛しさと、切なさと、心強さと……。
「じゃあ、風邪ひいてるのに長居しても悪いから」
そう言って荷物をまとめ始めた。いや、やっと思い出した、そう言えば。
「マツケンさん、なんか用事があったんじゃねんすか」
マツケンは背中をこっちに向けたまま、その丸い背中の向こうでなにか言った。
「まぁ、あったって言えばあったけど……」
珍しく煮え切らない。昨日のことだろうか……。こっちから積極的に切り出したい状態ではなかった。
「また後にするよ。ハルちゃんが元気になったら」
「そう、すか、すいません」
笑顔が少し弱くなっている。聞けない状況が、申し訳ない。
「じゃ、ハルちゃん、明日頼むよ。玉ねぎ飲んでぐっすり休めば、明日の朝にはすっかりよくなってるからさ」
テキパキと荷物をまとめてゴミをまとめて、せわしない感じでマツケンが立ち上がり、そして早くも歩き始めた。
その背中に向かって、咄嗟に声をかけた。
「マツケンさん」
「はい?」
マツケンが立ち止まり、振り向く。
「今日は、ありがとうございました」
「なんだよ、改まって」
大きな丸い顔が照れ臭そうに小さくなった。
「ハルちゃんは、ハルちゃんたちはうちのエースなんだから、バリバリ働いてもらわないと困るんだよ。トップとるためにも。だから、こんなことも、まぁ、マネージャーの仕事のうちってばうちかな。じゃあ」
「あ、はい」
トップと言った。トップ……。
「ああ、いい、出てこなくていい。寝てな寝てな」
「すんません」
「じゃあね」
「はい。お疲れ様です。ありがとうございました」
「お疲れ。あれだ、鍵だけは閉めときな」
バタン。
言葉の最後を言ったと同時にドアが閉まった。足音が聞こえなくなるのを待ってガチャッと鍵をしめた。
あのまま帰してよかったのかと、鍵をしめたところで考えた。まるで、こっちが弱みを握ってしまったような、ちょっとした罪悪感があった。
この体ではどうしようもなく、部屋に戻った。
テーブルの上の雑炊と玉ねぎジュースを、立ったままぼんやりと眺める。台所にいくと、そこはきれいに片付いていた。
きた時よりも美しく!
さすがマツケンだ。奥さんとうまくいってるのか、ちょっと心配になった。
コンロにはまだ雑炊の残りが入った鍋もある。
冷蔵庫の中は。卵と野菜、フルーツの缶詰。お、玉ねぎジュースが、ペットボトルに入って。こんなにあんのか。
缶チューハイも。こっちの好みをしっかり抑えている。さすがにそつがないな。
「ふう」
ちょっと長いこと活動しすぎた。体力が尽きた。
「エヴァンゲリオンか」
アンビリカルケーブルがないため、活動はかなり制限される。テーブルの雑炊をかたずけて、蒲団に横になった。
これでよかったのだろうと思った。
言いたいことを話さず、聞かず、それでいてそれなりに満足を分かち合えただろう、お互いに。
マツケンがなにを言いたかったのか、あまり考えないようにした。考えれば考えるだけ、心が体ともつれあってともに落ちていくようで。
「ハルちゃんが、元気になったら」
マツケンの言葉をそのまま口にした。
こっちの腹におさまっているものが、果たしてマツケンにどんな影響を及ぼすものであるか、今は見当もつかない。
やはり、少し後悔した。その事実だけは伝えておくべきかと思った。でも……。
敢えて言わなかったのではなく、言えなかったのだ。
体と心が言わせなかった。「がずがず」の「あるさん」から電話があったってことを……。
「『がずあるがずえる』の『ある』、っていえばわかるかな」
「あ、は、はい。あの、えーっと」
わかるような、わからないような。
「ごめんね、いきなり電話なんかしちゃって」
「いえ、あ、全然、全然大丈夫です」
パニック頭でまず考えたことは。
――どうして俺の電話番号知ってるんだろう?
ということだった。
もちろん、そんなこと聞けるわけもない。あるさんは、落ち着いた声で話を続けた。風邪で寝込んでいたことなど、どっかにすっ飛んだ。
「昨日は、ありがとう」
「いえ、あの、そんなの、別に」
「いや、本当に。芸能関係の人間なんてほとんどきてないし、まして芸人となれば、ホントにハル君だけだったから」
「いや、そんな……、もう、昔っから憧れだったっすから……」
はっとした。憧れが過去形だったこと。
そして「憧れ」という言葉が、あるいは皮肉っぽく聞こえてしまったかもしれないということに。
その危惧が、恐らく半分は当っていた。
「確かに、昔の俺たちはみんなの憧れになりえたかもな……」
「すんません、そんなつもりじゃ……」
「いやいや、こっちこそそんなつもりで言ったんじゃないよ。最初にも言ったけど、ハル君にはほんと感謝してる。昔俺たちに憧れ、目標にしていた芸人たちの中で、結局昨日きてくれたのはハル君だけだったんだから。あの頃つるんでたヤツラは、誰もこなかったんだよな」
あるさんは自分たちがまさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった頃の思い出をとうとうと語った。
銀座や六本木で派手に遊んだこと。後輩にも同期にも散々おごって、みんなから慕われていたこと、逆に上から疎ましく思われていたこと、いじめのようなものにもあっていたこと。
「結局派手にやりすぎたんだろうな。調子に乗りすぎちまったんだ」
人気が落ち、テレビに出なくなった頃のこと。その辺りの経緯も。
「結局あいつのわがままさ。そういうと怒られるかな。ギャラだったり他の出演者が気に食わなかったりするともう『出ない!』ってさ。収録の途中で怒って帰ったこともあったな。放送では、CM明けたらなんか俺しかいない、みたいな……」
あるさんは、さばさばと語った。「本物か?」という疑念はもうなく、すっかり聞き入っていた。
「そんなのもうダメに決まってる。そんな芸人、いくら人気があったって使うわけないし、当然、人気だってあっというまになくなった。忘れ去られたよな……」
そんなことないっすよ。言えるはずがない。
「そっから先は語るも無残な物語さ」
フッ、と、そこであるさんが鼻で笑った。このフレーズ、「がずがず」のネタで聞いたことがあった……。
「慕ってくれてると思ってた後輩たちも、落ち目になったとたん離れていった。ほんと辛かったぁ。その頃……、これ以上は将来ある若者に語るような話じゃないな」
「……」
「いまんなってなんとなく思うんだよね。これでよかったんじゃねぇかって。なんつうのかな、あいつ自身、こうなることを望んでたんじゃないかって」
「望んで……?」
聞き返すともなく聞いていた。
「もちろん最初は芸人として成功することを夢見てたわけだけど、なんか、余りにも急にいきすぎた。言ったら、まだ安全装置とかつけてないのに橋の上からバンジージャンプさせられた、みたいな感じかな。勢いに任せて一気にいって、当然その先は地面に激突、ドカン、て感じ。相方なんかマジで死んじまうし」
おどけたように言った。
その後の沈黙に、寂しさだけではない、懐かしさや、ほっとした安堵感(あるいは虚脱感)までもが含まれる。「させられた」とも言った。
それらのほとんど、きちんと処理するには脳みそがオーバーヒート気味だった。
「望み……、あいつは、帰ってきたかったんじゃないのかな、自分の生まれた場所に」
あるさんとえるさんは中学からの友だちだった。「帰ってきたかった」、それは友だちとしての言葉だ。城跡からの風景が思い浮かんだ。
「仕事もなくて、なにもせずに毎日酒飲んでふらふらしてたけど。今思い返してみると、そんな気がするんだよね。なんだろう、なんか寂しいね。わりぃな、こんな話聞かせちゃってよ、なんつうかさ……」
電話の向こう、声が少し震えていた。
「結局、あいつのことなんにもわかってなかったのかなぁ。なんでもわかってるつもりだった。あいつの求めるもの、やりたいこと、やって欲しいこと、みんなわかってると思ってた。俺にはわかってると思ってた。俺にしかわからないと思ってた……。なんだ、わかってなかったんだな……」
受話器から、鼻をすする音。
泣いているのか? ほとんど「初めまして」に近い人間との電話中に、そこまで……。
もしかしたら、あるさんは酔っぱらっているのかもしれない。
いや、酔っぱらっているに違いない。でなければ、ほとんど面識のない人間の前でそこまで率直に感情を吐き出すことなどできるわけがない。
自分の言葉で自分を泣かすなど、素面では、ありえない。
「俺の一人よがりだったんだな……。結局、あいつのことわかってやれなかった。わかってるつもりで、『俺はわかってる』ってことをあいつに押し付けていたんだな」
やめてください。
「あいつをずっと苦しめていたのかな」
それ以上、自分を追い詰めるのは。それは……。
「あいつのこと追い詰めた」
それ以上、言わないで。それは「誰かさん」だって、同じじゃないですか。
「もしかしたあいつを殺したのは俺かも」
「そんなことないっすよ! そんなことないっす! あるさんはそんなことないっす!」
「……」
「そんなこと言ったらだめですよ。えるさんを一番理解していたのがあるさんじゃなかったら、他に誰がいるんすか。あるさんしかいないっすよ。『がずがず』は、『ある』と『える』の二人じゃなきゃ、ダメなんすよ!」
言い返さずにはいられなかった。やっぱり、あるさんは酔っている。
「あ」
「わかんないっす、わかんないっすけど、俺なんかが言うことじゃないけど、でも、そんなこと言ったらだめっすよ」
そんなこと、口に出したらだめだ。普段意識しているヤツなんかいないけど。
「そんなの、ずりぃっすよ。えるさん死んじゃったのに、あるさんだけそんなこと言うなんて、ずりぃっす。こんなこと言ったら」
と言いつつ、その先は出なかった。また、沈黙がきた。
「ずりぃ」の意味、自分でもよくわかっていない。
目に映る光景を含めた自分の置かれた状況が、他人に対して攻撃的になりがちになっている。
もちろん、あるさんが「ずりぃ」のはえるさんに対して、というつもりだが。
「ずるい?」
「今さらそんなこと言ったってしょうないっすよ。悔しい気持ちはわかるけど、自分なんかには想像つかないっすけど、懺悔したい気持ちはわかるけど、いや、自分にはわからないっすけど、なんつうか」
「もしかして、酔っ払ってるの?」
なに言ってんだ、酔ってるのはそっちだべ。こっちは体調悪くてこんなイカ臭い部屋で蒲団から動けずにいるっつうのに!
「えるさんだって、きっと言いたいことがあったと思うんすよ、だけど言えなくて、死んじゃって、なのにそれを、あるさんが、えるさんのこと『わからない』とかって言っちゃったら、えるさんの言葉誰が聞くんすか。誰も聞けないじゃないっすか、あるさんしか」
また沈黙。自分で自分の発した言葉を反芻することができない。
自分の言葉に責任が持てない状態は、やばい。
よっぽど横になろうと思ったが、我慢した。枕元に置いてある水を一口、失礼します。
「すいません、なに言ってんだろ。実はちょっと体調悪くて、さっき薬飲んだもんで、ある意味酔ってるかもしれません」
全部言ってしまった。結局、全部「無責任」にしてしまった。
「昨日は寒かったからね。もしかして雪に降られたくちかな」
そんな優しい言葉で、こっちも少し落ち着いた。これまでで最もギャップの大きな言葉だったかもしれない。
「いや、ありがとう。昨日のことも含めて、改めてお礼を言う。ありがとう。言われてすっとしたよ。確かに逃げていた」
逃げていた。一昨日のことが浮かんできた。
「そうだよな、あいつの言葉、俺が聞いてやらなくて誰が聞いてやるんだって話だよな。うん。ほんとありがと」
「いや、そんな、恐縮です」
電話の向こうで爆笑。
「なんだそりゃ、梨本か」
「いあ、そういうつもりじゃ」
「面白いなぁ、やっぱり。俺たちが見込んだ通り、面白い!」
「へ?」
俺たちが? 見込んだ?
「えるともよく話してたんだよ、はるまげどんおもしれぇって」
「そんな、恐縮です、あ」
「わかってるじゃん。ほんとに体調悪いの? テレビよりおもしれぇんですけど」
「いや、ほんと、えっと」
「言わねぇのかよ」
あるさんさっき泣いてたのに、もうそんなに笑って、やっぱりずりぃよ。
「ほんとありがとう」
ほんとに恐縮だった。なんだかよくわからんけど、そんなにお礼を言われるなんて。
がんばれよ、応援してるから。最後にそう言って、電話は切れた。どおっと、疲れた。力が抜けてどさっと蒲団に倒れこんだ。
「なんだったんだ」
まるで夢のようだったな……。ブブー、ブブー。また着信。また。
「もしもし」
「ごめん、忘れてた。もう一個話したいことがあったんだ」
「はい」
あるさんの声は、すっかり明るかった。やっぱりずりぃや。
あるさんとの電話がその後もずっと気になっていたというわけでもない。
あるいはマツケンの「特製雑炊と特製玉ねぎジュース」(ドラエモン風で)が効いたのか、一時快方に向かった病状はマツケンが帰ったあと俄かに悪化した。
夜にも雑炊と玉ねぎジュースを胃に入れて、体を拭いて着替えて横になる。
目を瞑るとグルングルン部屋が回っていた。できの悪いソノシートから音が出るように、あるさんとの二度目の電話の話が頭の中を流れる。
あるさんの声は頗る明るかった。
一度は泣いたこと(本人に確認はしていないが、絶対泣いていた)など忘れてくれと言わんばかり、明るく、力のある声だった。
「ハル君、なんか迷ってんじゃねぇか?」
ズバッと直球。
「ほんと、芸人も芸能人も誰もきてくれなかった。きたのはほんとハル君だけ。ほとんどこないとは思ったけど、何人か、ほんと面倒みたやつらはくると思ってた。けど、きてくれたのは見事にハル君だけさ。会場でみたときは、そんな余裕はなかったんだけど、今日なってふっと思ったんさ、なんか抱えてるんじゃないかって」
沈黙を答えにするつもりはない。しかし、それは半ば答えになってしまうだろう。
この際だ、こっちも聞いてもらえばすっきりするかも、と思って口が動きかけた。
「別に、聞く気なんかないんさ。聞く気もねぇし。聞いても仕方ねぇし。成功するためのアドバイスとかコンビでうまくやってくためのアドバイスなんか、俺に言えることなんかない。さっきの感じだと、俺よりわかってるだろうし」
乱暴なようだが、納得できた。それでも一抹の寂しさは、体調のせい……、ばかりとも言えないようだった。
「ただ一つ、俺たちの経験から、これだけは言えることがある」
「なんですか?」
「自分を見失わないこと」
自分を見失わないこと?
「そう。面白いネタを作るとか、成功するための強いメンタリティを持つとか、本当に大事なのはそんなことじゃない。勢いが出てきて周りにチヤホヤされても、逆に坂道を転がり始めてなにをやってもうまくいかない、てときでも、自分を見失わないこと。常に自分と向き合うってこと」
「自分と向き合う」
「周りの変化に気を取られて自分を見失ったら、それこそゴム無しバンジー。真逆さま。よくて大怪我。悪ければ再起不能。最悪、死」
地面にたたきつけられてつぶれている自分を想像した。漫画のように地面に人形の穴を空けてめりこむ。
紙のようにぺらぺらになって、ひらひらと宙を舞う。
「死」。それはそんなに遠い次元の言葉ではない……。
「天国と地獄をみた人間が、これだけはって言うんだから間違いない」
経験者は語る。「自分を見失った」人間の末路、今となっては、語ることさえできなくなってしまったなんて。
「ほんとにさ、酒に溺れて体壊して、俺は栃木に帰ったほうがいいんじゃねぇかって何回も言った。でもあいつは東京に残った。あいつの心と体はボロボロだったんだ、だから地元に帰ったほうがあいつのためにいいんじゃないかと思った……」
ぼろぼろの廃人のような人間が暗い部屋でうずくまっている。小さい小さい後ろ姿。一つじゃなく、二つ……。
「あいつを言い訳にするのはもうやめよう。そう、地元に帰りたかったのは俺のほうだったんだ。逃げたかった」
紛れもなく、これこそ芸人「ある」として、山田一男の本音だったのだろう。
「もう疲れたんだ、あの、裏と表の世界、光と影の世界……、裏と影の世界に」
思いに満ちた言葉だ。生身の肌で、きっと嫌というほど味わったに違いない。
「一見きらびやかに見える世界でも、そんなのは表だけ、飾りだ。光あるところに闇があるとはよく言うけど、あの世界は、少なくとも俺たちにとっては闇だった。人気の絶頂にあるときでも、いや、昇れば昇るほどに、深い闇の中に紛れ込んでいた」
闇。そのための「自分」てことか。周りは闇だ。闇の中、「道」を見通す目を、灯りを自分でしっかり身に付けろ、そして失うなってことか。「闇」という言葉は、今の自分の状況とよく合っている。体調の悪いのもそうだが……。ぶるっと身震いした。
「脅かしちゃったかな。前途ある若者が、俺たちの後を追わないように祈ってるよ」
後を追わないように……。この人は、これからどこにいくだろう。
「あるさんは、これからどうするんですか?」
「昔のダチでさ、うちで働かないかって言ってくれてるヤツがいて、そこで世話になろうかと思ってる。これからはサラリーマンさね」
「そうですか。もう」
「もう芸能界に戻る気はない。独りじゃね。……、どうかな。今のところ、かな。まあでも、いい経験させてもらったよ、なんていうと相方が怒るかな。生きていばこそさ」
あるさんの笑顔が浮かんだ。それで、話したいことはあらかた話したのだろう。
「体調悪いんだっけ。じゃあそろそろ。まあ、多分ないだろうけど、もしなんか聞きたいことあったらいつでも連絡ちょうだいな。活躍を祈ってるよ、じゃあ」
「ありがとうございます。失礼します」
ふーっと大きく息を吐き出して、スマホを投げ出すように枕元に置いた。倒れるように蒲団に横になった。
やけに前向きになってたな、あの人。あるさんの電話に付き合ったら気持ち悪くなってきた。相手に合わせてこちらも感情を上げたり下げたり。
自分を見失わないこと。煮えた薬缶の中身のように渦巻く脳みそに辛うじて姿を保っていた一言。
今の自分がまさしくそれだ。自分たちが。「はるまげどん」というものが。見失いかけている……。
目を瞑ると世界が揺れていた。頭の血管が大きく脈打っている。体内で暴れ回る「なにか」、そんなイメージ、「なにか」の声まで聞こえるようだ。
――なんだこりゃ、マジでやべぇぞ。
拷問に耐えるように目をつむったままうんうん唸っていると、いつの間にか気を失うように眠り落ちていた。
マツケンがきたのはこれから一時間ほど後のことだった。
熱にうなされながら一夜を過ごす中で、ちょっと不思議な夢を見た。
きれいな女の人に手を引かれて坂道をのぼっていた。綺麗というか可愛い、ズバリ好みのタイプ。
二人は坂道をどんどん上っていく。道には他にもたくさん人がいて、なんかこっちを見たり話しかけたりしてくる。
芸人仲間、後輩若手、先輩。みんなこっちを見て、嬉しそうに、ちゃかすように、みんな笑顔だった。
どんどんどんどんのぼっていく。そのうちに地元の友達の顔が見えてきて。
――お、むーさん、もろこし先輩、あ、さきんこ。
そしてさらに、
――あっちゃん! ゲコ!
二人の笑顔の口が動いた。何を言ったのか聞き取れない。取りあえず笑顔を返して。
――あ! あるさん!
じっと俺の顔を見て、うん、と一つ頷いた。
次の瞬間、辺りは闇に包まれる。薄暗いなんてもんじゃない。本当の闇。足元も見えない。
すぐ前を歩いている彼女の姿も見えやしない。
――ちょ、なんだよこれ!
声は出なかった。
不安、恐れ。押しつぶされそうになる。暗闇に彼女の顔だけが浮かび上がった。
笑顔だった。その笑顔に、俺はただただ首を振り続けた。
――嫌だ、いく、進むんだ、前へ、前へ、俺の夢、みんなの夢なんだ、俺の夢なんだ、夢なんだ。
パッと辺りが光に包まれた。抜けた、白い世界。一人で立っている。手を引く彼女はもういない。
――観音様。
その瞬間、引き寄せられるように見た右手の空に、昨日新幹線から見た観音様が、そのままの姿で立っていた。
静かに目を開ける。見飽きたアパートの天井。
が、なんか新鮮。そのままゆっくり体を起こした。カーテンの隙間が明るくなっていた。朝の七時。
「白い世界。雪、だった、かな……。さきんこ、あんな不細工じゃない」
着ているものは汗でぐっしょり濡れていた。
かわりに、頭と体はすっきりと軽かった。
熱はひいていた。風邪はすっかり治っていた。ただ夢の中の「さきんこ」の顔だけ、いつまでも納得できなかった。
「あんな不細工じゃねぇ」
「雑炊と玉ねぎだね」
マツケンが耳元で囁いた。ちょっと離れたところには相方、どん北村がいる。
今日はコンビでの仕事だった。終わって楽屋で一休みしているところだった。
「その分、働いてもらうからね」
そういって肩をポンポンと叩き、親指を立て、ウィンクなぞしてくれて。悪寒がした。
マツケンがうちにきてから四日が経ってる。
昨日一昨日はピンでの仕事だったりマツケンが他に用事あったりで、マツケンと顔を合わせるのは今日がアレ以来だ。
マツケンはなにか考え違いをしている。風邪がよくなったのはあの雑炊のおかげでも、ましてや玉ねぎ汁のおかげでもない。
――観音様……。
不思議な夢の話は誰にもしていない。マツケンには悪いけど。
栃木にいった帰りに群馬に寄ったことも言ってない。そもそも、「いった」ということも、誰にも言っていなかった。
隠すつもりはないけど、誰からも聞かれないし、こっちから言うことでもない。
えるさんから電話があったことも言えてない。
なんだ、なんにも言ってないじゃないか。
風邪をひいたことだって、あのタイミングでマツケンから電話がこなければ、恐らくまだ誰にも知られていない。
芸人仲間相手に笑い話として話をするのはもう少し後になるだろう。
その場合、なぜ風邪をひいたか、ということについて言及する必要があるだろうか。「ちょっと旅にいった」くらいでいいんじゃないか。
――そう言えば、あのマツケンの電話……。
マツケンからまだ「用事」を聞いていない。
「なんか最近いいよねぇ」
と、マツケン。こっちが恥ずかしくなるほどにやけている。本音らしい。
正直、手応えはある。最近といっても本当に最近、正月休みが明けてからだが、お客さんの反応は上々だった。マネージャーでも他人から言われると嬉しいものだ。
「十六日までもう何日もないけど、二人がこの調子でやってけば、きっと大丈夫」
マツケンが二人の顔を交互に見て、うんうん、と頷いた。
十六日は春から始まる土曜ゴールデンのオーディションだった。受かればブレイク、落ちれば……、またどさ回りの日々。
実際には受かっただけで安泰なんてことはなく、そこからが本当の勝負になるのだが、スタートラインにつかないことには勝負もできない。今までにないほど真剣に狙いにいっていた。
「あとは体調に気をつけて。風邪なんかひいたらもともこもないからね。じゃ、お疲れさん、気をつけて帰ってね」
グッと立てた親指に返事を返した。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
最後にちょっと口元が緩みかけたがなんとか堪えた。
――あの辺が役者だな。
これで昨日の話はさらにしずらくなった。
「キタさん、いこう」
「おう、いくべ」
荷物をまとめて、二人でテレビ局を出た。
「うっわ、さっみぃ」
建物から一歩外に出ると、一気に寒さが襲ってくる。相方が言って、肩をすくめてニット帽を深く被り直した。
東京には東京の寒さがある。相方も雪の多い地域の生まれだが、東京で、むしろ寒がりじゃないかってほど着込んでいる。
「まじさみぃ。キタさん、今日どうする? 明日ちょっと早いけど」
時刻はフタサンヒトゴ、ロク。終電にはまだ少し間がある。
「おう、軽く打ち合わせっぺ。ドナるか」
「今日もドナりますか」
近くのマクドナルドに向かった。
マツケンが「いい」と言っていたが、いいのは客うけだけではない。二人の間の空気もかなり「いい」。
相方の目に険がなくなった。接し方も普通。こちらを遮断するような固さはない。
休み中に「苦しんだ」のはこっちだけではないだろう。
こちらがやろうと思っていたことを、向こうも心がけているようだった。休みの間で、同じ「答え」に至るとは。
まさか、
――ひょっとして、相方も風邪を?
「実は一昨日風邪ひいちゃって、死にそうだったよ」
と、さらっと切り出せばいいようなもの、なんだか憚られた。「俺もだよ」なんて帰されたら……。
「あるさん」のことについても聞いてこない。ひょっとしたら、相方もいったのか……。
考えていくと、どんどん「連休」のことが重くなり、沈んでいった。
なにかを隠すことでプラスになることもある。お互い、そこを沈めたことが「仕事」に対して好影響を及ぼしているように思えた。
仕事に集中していた。どちらからとなく声をかけ、仕事の合間、前後で話し合うようになっていた。
コンビを結成したころの、あの真剣で純粋な空気が戻ってきたようだった。
休みが明けて、三日ぶりに会った相方がキャップを被っていた。うすうす「薄い」ことに気づいてはいた。触れていいのかどうか、迷ったときには既に。
「キタさん、帽子、どうしたの」
聞いていた。
「ちょっとさ、最近、つうかお前、それ聞くかね」
語気は強かったが、それが「突っ込み」であることは、顔を見ればわかる。
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
「そうか」
と言いながら相方はキャップをとって頭を撫でた。
「そんなに気にならないって、キタさんなら」
「俺ならってなんだよ。意味わかんねぇし」
「大丈夫、個性、ていうか武器」
「フォローなってねぇよ」
相方はなんかぶつぶつ言いながら、それで会話は一旦終わった。
それが懐かしい雰囲気で、真面目に目頭が熱くなった。「いける! やってやる!」。頭に、心にそんな決意がはっきりと形になった。
それはきっと相方も同じだったに違いない。
「俺的にはやっぱ『クワガタ』のネタでいくのがいんじゃねぇかって思う」
提案に、相方はしっかりと首を振る。店内でも帽子は脱がない。
「俺は、やっぱ新しいの作るべきだと思う。思うし、作りたい。あのネタは確かにかなりうけたけど、それだけに知られ過ぎてる」
「今から作るってのも、逆にリスクが大きくねぇかね。時間的に」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇって。時間なんか言い訳にならねぇ。ここで勝負しなくてどおすんだよ」
相方の視線がまっすぐ伸びてきた。その視線を受け止めて、鳥肌が立った。
「やるか!」
決して「きしょい」とかではない。
真剣な眼差し、表情、そして「勝負」するという気概に、感動した。コンビを結成したあの瞬間が、今と重なった。
外に出ると、冷気が一気に体を押し包んできた。
「しっかしアレな。誰も気づかねぇのな。声一つもかからなかったぜ」
サングラスなどで顔を隠しているわけではない。相方は帽子を被っているが、もう一人は「テレビのまま」だ。「こっちを見てひそひそ」するOLもいなかった。
「オーラないんだろうな」
目が合うと、お互い笑みがこぼれた。ふと見上げた。相方も見上げていた。どっちが釣られたのか。
冬の夜空はエッジが効いた光でくっきり切り取られている。星を隠して自ら煌くネオンサイン、看板、オーロラヴィジョン。
それはしかし、ある意味星よりも遠い。
決して手が届かない、3D映画ほどのリアリティーもない、スクリーンに映された光、空間、追い求め突き詰めればそれは、北極星よりも遠い、冷たい光。
「なに、もう少しだ。ゴールデンウィークの頃には、変装せずに街を歩けなくなるぜ」
「だな」
「はるまげ、どーん!」
「どーん!」
芸能人を見る目ではなく、「アブナイ人を見る目」に刺されながら、二人は別れて帰っていった。
そうだ、もう少しのところまできている。ここで頑張らないでどうする。なんとしてもスタート地点に立つんだ。あいつらが自慢したくなるような芸人になるんだ。
今度こそ胸張って、帰るんだ。
体の内にふつふつと湧き上がる思い、面影。この寒さも、自分に対する励ましように感じていた。
相方がオーバーペース気味かもしれない。
「勝負」という自分の言葉で自分を追い詰めているようだった。当然だろう。
今までの芸人人生で最大のチャンス。今後の、これから十年先の人生に関わる。
相方は「勝負」という言葉をよく口にした。そんな相方を、ちょっと引いて見ているようだった。
――自分を見失うな。
自分を見失うな、自分らしく、自分の力で、自分のできる中で、自分の、自分が、自分を……。
相方の「勝負」という言葉と対応するように、頭と心と、体に「自分」と言い聞かせる。
相方の「勝負」がアクセルで、「自分」がブレーキ。相方に直接「止まれ」なんて言ったりしないが、何かと相方の意見、考えを「それは」と言って引き戻す、あるいは方向性を直そうとする。
もどかしく思っているだろう。ときには苛立ちさえ覚えているかもしれない。
しかし、向こうもよく自分をコントロールしているようだった。
――これでいい。見失うな。
そう確かに信じていた。なにかにつけて自分に言い聞かせ、刻み込んだ。
その反面、追い込まれた窮地を吹き飛ばすような相方の突破力ある発想には期待していた。
コンビを組んで十五年近く経つが、これまで見たことのない、「知らない北村」に期待していた。
あるさんはえるさんのこと「全部知っている」と思っていた、それが間違いだったと激しく後悔した。
――ならば俺は、「北村の未知数」に期待してみよう。
信じてみよう。
ポテンシャルは持っている。絶対ある。なんせ、「俺」が選んだ相方なんだから!
不安もある。絶対に、乗り越えてみせる。
二人だったら、絶対できる。
一月十二日。オーディションまであと四日。
今までは、基本的にこちらがネタのベースを考えて、相方が中心になってボケを膨らましていくという作り方がメインだった。
今回は、相方が考えてきた破滅的な「話」を、こっちの主導で所々デチューンして組み直しをしながら、バランスをとりメリハリを付けるという作り方をしていった。
お互いにストレスを感じながらの作業だったが、ここにきて漸く「らしさ」が出てきた。
――なんとか形になってきた。これなら勝負になる、かな。
「キタさん、ここは『電子レンジだろ』よりも『電子レンジじゃねんだから』の方が、その後のボケもすんなり入るような気がするんだけど」
「そうか? 俺としては勢いでスパッときてくれたほうがいいんだけど。ちょっと試してみるか」
事務所の会議室に二人の掛け合いが響く。
五反田でビルを間借りする小さい事務所の中の小さい会議室での掛け合いは、事務所中に響き渡ってお釣りがくるほどだが、深夜十二時を過ぎ一時になんなんとしているこの時間、事務所にいるのは二人だけだった。
――キタさん、かなり無理してがんばってるな。
なんせ、肉体的にも精神的にもストップアンドゴーを全力で繰り返しているようなものだ、疲れていない方がむしろおかしい。
「ちょっと休憩しよう。外出ねぇかい」
「もうこんな時間か」
日付がいつかわったのか、二人とも気づいていなかった。時間がわかった瞬間、どっと疲れた。頭も体も、栄養不足だ。
「牛いこ、牛」
若手芸人の友だち、牛、すなわち、牛丼屋さん。
二人、牛丼を腹にかっこみ、事務所に戻って更に一時間ほどネタをつめると、そのまま二人は事務所に泊まった。
朝、近くの健康ランドで汗を流し、それぞれの仕事場に別れていった。
午前九時ちょっと前、ロケバスで移動中、マツケンから電話がかかってきた。
ピンで仕事の場合は、マツケンはどっちかにつく。今日は相方のほうにいっているはずだ。
「はい」
「やばい! やばいよ!」
マツケンのいつにない真剣な声が耳飛び込んでくる。
「どうしたんすか?」
「キタちゃんがこないんだよ!」
「へ?」
一瞬頭の中が真っ白になった。
「携帯も電波届かないし。メールはしといたけど。どうしたんだろう。なんかあったかな、事故にでも巻き込まれたかな」
事故。
「実は、朝まで一緒にいたんすよ。夜中までネタ作ってて、そのまま事務所泊まって、朝一緒に出てきたんだけど」
「ほんと! なんか変わったとこなかった?」
疲れてはいた。こっちが感じていた以上に疲れていたのかもしれない。
しかし、それ以上におかしいと思うことはなかった。
「そうっすねぇ。特になかったかな。ちょっと疲れてはいただろうけど。うーん」
しかし……。
「じゃあ、やっぱり事故か、それか事件にでも巻き込まれたか。とりあえず、こっちは連絡待つしかないし」
「俺も電話してみます」
意味があるかどうかはわからないけど、とにかく、なにかできることを。
「こんな話ししといてなんだけど、ハルちゃんは仕事に集中して。うん、じゃあ」
「はい、あ、マ」
ツーツーツー、切れた。普段に輪をかけて慌しい。
マツケンが「事故」と言った瞬間、というか、きてないと聞いた瞬間、浮かんだのは相方の背中だった。
真っ白い頭の中、こちらに背を向ける相方。サブリミナル効果のように一瞬で消えた。
恐らく、マツケンも同じことを真っ先に想像したに違いない。
そして同じく「消した」に違いない。
――相方は今日は確か横浜だ。電車で三十分。事故か事件に巻き込まれた……。
そのほうが「まだマシ」と考えている自分がいた。
健康ランドを出た時間を考えれば、仕事の前に一時間近い余裕があるはず。
もしなにかに巻き込まれ、警察などに身柄を確保されているなら、恐らく事務所に、マツケンに連絡がいくはずだ。
相方が痴漢でもして、身元を頑なに隠しているというなら別だが……。
むしろ、それでもいい。
北村が、生きているなら……。
驚きやショックは少なかった。いや、頭が真っ白になったとき、決して心の「沈み」は小さくなかったはず。
しかし、それがほんの一瞬だった。すぐに平静を取り戻し、現状を認識した。
相方の心配をしている場合ではない。ロケバスが止まる。仕事だ!
午前中は都内で情報番組の生放送に出演。
白装束で、成人式を迎える女の子から、成人として気持ちを新たにしてもらうために氷水をかけられるという前向き(?)な企画をこなした。
仕事が始まれば集中力はあった。むしろテンションは高いかもしれない。
不安を振り切るために、アクセルを踏むならべた踏みしないと!
あの顔が、妙に懐かしい。帽子で隠したテッペンが、なんだか愛おしい……。
マツケンは、番組スタッフに頭を下げ続けているという。移動中、電話をしてみたが、取り乱していたのは朝だけだった。
「プロデューサーとか局のお偉いさんに怒られる怒られる、もう使わねぇぞ、とか言われて、ほんと参っちゃったよ」
と、いつものおどけた調子に戻っていた。さすがだった。動揺がないはずないのに。こっちの様子を聞くことも忘れない。
「こっちは大丈夫。しっかし、あの人なにやってんだか」
昼過ぎからは、局に入って番組収録。
笑歌! テンカウント!
「さー、今日も始まりました、わらうた! テーン! カウンッ! 今週はいったいどんな曲がランクインしてるんでしょうか! じゃあ早速いってみよう! 今週の、十位!」
派手なDJで始まるこの番組。その週のCD売上トップテンに入っている曲をタレントさんがカラオケ形式で歌う。
暫くなかったこの手の番組だが、局を変えて復活した。
出演者は若手芸人からベテラン俳優まで多岐に渡り、幅広い層の人たち見られていて視聴率がそこそこいいらしい。
最初はコンビで出たのだが、二回目からは一人で出ている。相方は余り歌が好きじゃなかった。多少音痴でもあった。気持ちいいのに……。
相方に、同情さえ覚える。
逃げているにしろ、きっと苦しいに違いない。出てこい。連絡しろ。自首しろ! 故郷のお母さんも泣いているぞ!
「さー、今日この曲を歌うのは、ただいま人気急上昇! 今日はいったいどんなパフォーマンスを見せてくれるのか! 歌って走れるお笑い芸人! はるまげどん、ハル!」
キタさん、いってくらぁ。
「明日もハルちゃんの方にはちょっといけないかもだけど、頼むよ。よろしくね。じゃあね」
「はい、だいじょぶ……」
今日一日の仕事は一先ず終わった。どおっと、体が重くなった。打ち上げにも誘われたが、断った。
結局、今日一日北村とは連絡がつかなかった。
楽屋に一人でいることなんて、珍しくない。過ごし慣れた楽屋が、今日は広く感じる。
溜息に続いて、耳鳴り。ゾクゾクっと鳥肌が立った。
最悪中の最悪が、脳裡を過ぎっては消えていく。部屋の白壁に、「最悪」が乱反射して、その音が鼓膜を叩き、脳のシナプスを抜けて心に流れる。
非常に不愉快だった。音は声であり、目だ。ひそひそと囁き、白い眼を向ける。ドアの外から若いマネージャーが声をかける。
「おう、わかった」
もう少し待っててくれということだった。
――キタさんのことか。
囁きが大きくなる。ちょっとここにはいれない。待っててくれと言われたが、楽屋を出てしまった。外で待てばいい。
「どうしたの? 元気ないじゃん。ん?」
声をかけられた。
「お疲れ様です。ちょっと体調悪くて」
「働きすぎなんじゃないの。どう、これから、ちょっと、いく?」
人を抱くような仕種をしてみせて。
「いや、すいません、今日はほんとに。明日も早いんで」
「仕事仕事か。ちゃんと息抜きしないと、潰れちゃうよ。こっちもちゃんと、抜かないと」
股間に伸びた手を軽く腰を引いて避ける。
「そうっすね、はい」
そこでぐっと顔を近づけてきて。
「死相が出てる」
「え?」
「ま、がんばんな、無茶できんのも若いうちだから」
言葉を残して、颯爽とテレビ局の玄関を出ていった。香水の、いい匂いが納豆の糸のようにあとを引いていた。
――ところで……。
「すいません、ハルさん。お待たせしました。いきましょうか」
若いマネージャーの晴彦。ピン仕事でマツケンがこないときは晴彦の出番だ。
「おう」
「今の誰ですか?」
「さぁ」
昭和のトレンディ俳優を彷彿とさせるシャツとパンツのコーディネートにトレーナーの使い方、その佇まい。
――あの格好にあの馴れ馴れしさ……、ただもんじゃない……。
記憶の野に刺さった小骨は、局の外に出た途端、風に吹き飛ばされてなくなった。
キタさん、一つだけ、言っておきたいことがある。俺より先に、寝てはいけない、俺より先に……。
最悪中の「最悪」を予想させないでくれ。大丈夫だよな? あんた、それを恐れてえるさんの葬儀にいかなかったくらいだから。俺はそれを、考えには入れんぜ。頼む、これだけは。だから早く、誰にでもいい、連絡をしてくれ……。
晴彦と夕飯を食べて帰ってきた。地下鉄の駅構内を風が吹き抜ける。
階段を上がり出口が近づくと、風の運ぶ空気が一層冷たくなった。道路に出た途端、思わず声が漏れた。
「さぶっ」
ほっぺたに冷気が突き刺さる。どっかでなにかが風に軋んで音を立てる。ギシギシ。こういう風の強い日は……。
「やっぱり」
風が、東京の空気をきれいにしてくれる。星がきれいに瞬いていた。
コンビニでピザマンを買った。コートのポケットに入れると、ホッカイロのようにそこだけ温まった。
星空を見上げて故郷を想い、相方を思う。まさかこの寒空にどこぞで野宿などしてはいないだろうな。
マツケンが、夜相方のアパートを訪れたとき部屋にはいなかった。大家さんに頼んで鍵を開けてもらい、中を調べた。
散らかりっぱなしの部屋を想像したが、予想外にすっきり片付いていた。
それが逆に心配になって、少し部屋の中を捜索したという。目に入りやすいテーブルの付近やベッドの周りに「封書」のようなものは見当たらなかったという。
てことを後になって聞いた。北村は、顔に似ずきれい好きなのだ。
散らかり放題の部屋を呆然と見下ろす。自分の部屋に、北村はあまりきたがらなかった。
そんな部屋でも外よりは幾らか暖かい。郵便物を炬燵の上に放り投げ、スウェットに着替えつつ冷蔵庫から缶ビールを一本取り、それから炬燵に潜り込んだ。
テレビをつける。この時間帯はお笑い芸人の天下だ。
ゴールデンタイムでひな壇に座る芸人たちが主役としてMCをしたり、コンビで、あるいはピンでテレビ画面を独占する。
くわえ煙草で郵便物を物色すると、ダイレクトメールやなんかの請求書に紛れて、
「年賀状?」
差出人は同じ事務所の後輩。ちょっとした面白話にしたいんだろうが。
「このことにはずっと触れずにおこう」
テレビを見て笑えたのはほんの僅かだった。
アルコールが入ると、体の力がさらに抜ける。吸殻で溢れた灰皿に煙草を埋めて、そのまま炬燵で横になり、目を瞑った。このまま眠ってしまえばいい、と思った。
が、眠気はむしろ遠ざかる。
耳鳴りがしてきた。耳鳴りは、霊が近くにいる証だと、怪奇心霊番組の再現ドラマでやっていた。
鳥肌が立たないように我慢していたが、耳鳴りはやがて囁きになり、そして。はっきりとした「声」になった。
話しかけられているわけではない。会話の内容など聞き取ろうとはしないが、脈絡のある言葉ではなかった。
テレビから笑い声が聞こえてきた。瞬間、
「ああ」
呻き声が漏れた。耐え難い恐怖だった。
一人、一人ぼっち。
仕事どうする?
明日はコンビでクイズ番組だ。別にピンでもやれるだろう。
しかし、ピンで、一人で、できるのか?
この先、一人でやっていけるのか?
オーディションは?
炬燵の中で横になり、体をくの字に折り曲げて丸くなる。自分を暖めるのは炬燵と、自分の体だけ。
「大丈夫、大丈夫だ! 帰ってくる! できる!」
強く目を閉じる。
うるさい! どっかにいってくれ! 一人にしてくれ!
誰か俺を包んでくれ!
俺を一人に、しないでくれ……。
涙が流れた。横向きの顔を横切る冷たい感触、くすぐったい。眼を開くことはできない。
今の俺には誰もいない。相方も、仲間も、彼女も、故郷も……。戦え、逃げるな。思うな、涙……。
ふーっと大きく息を吐き、ぱっと目を開いた。
見慣れた天井、なるほど、ここから逃れることは容易ではない。炬燵のぬくもりは、口の中を乾燥させる。
テレビからは後から差し込まれた笑い声。勝手に笑ってくれるから、こっちは好きに泣けるのだ。
トイレにいって台所で冷蔵庫を開ける。まだ玉ねぎ臭い気がする。
モノはとっくに終わっている。まずくはなかったが、「終わったんでまたください」と言うことはできない。
北村も飲んでみればいい。きっと、元気になるだろう。ウーロン茶の2リッターをラッパ飲みした。
テレビを消して、再び炬燵で横になった。仰向けに、目をつむった。こっちだって、正直ギリギリだった。
――きたさん、今どこで、なにしてるんだい。
一時は顔を見るのも嫌だった。声を聞くのも辛かった。
「会えない」となると、すこぶる寂しい。
――キタさんには、頑張る理由、自分だけだったのかな。
頑張るのには理由がいる。最後まで頑張って「ここ」に居据わるには自分一人の力では無理なのだ。
決して一人ってことはなかっただろう。家族親戚、仲間。
なによりも。
――俺の存在は。俺には力が足りなかったかな。
そもそも、先に「ここ」から逃げ出したのはこっちの方だ。逃げた先で力をもらって帰ってきた。
そんな場所が、北村にはなかったのかな……。
「頑張れ」て言われてきれたのは誰だっけ?
その件に関しては、今度きっちり謝る。あるいは、報いる。何事かを、なすことによって。例えば……。
キッと目を開いた。
北村が帰ってこないなら、こっちにだって考えがある。消したつもりで消しきれない、鉛筆でノートに書いた跡のように、鉛筆で柔らかく塗りつぶせば、浮かび上がってくる白い文字のように。
闇夜に舞う、粉雪のように。
一月十四日は、澄み渡る青空だった。アパートを朝七時過ぎに出る。風がまだ強く、体感ではかなり寒い。
早朝、朝まだき、マツケンから電話があった。
「夜中に、キタちゃんからメールがあってさ」
どうやら「最悪中の最悪」はなさそうだ。ほっとしたのなんか、ほんの束の間。メールは「ごめん」と一言だけ。
電話をしたが出ず。電話で話そう、とメールして、すぐに返事はこなかった。そのまま寝てしまい、朝目が覚めると、また一言「ごめん」。
「これが。いいことかどうかわからないんだけど、もしかしたらハルちゃんにも嫌な思いさせちゃうかもだけど」
突然だが、今日の一発目、北村の現場にいって欲しいということだった。本来の仕事よりも二時間ほど早い。
それでも、ほぼ間違いなく本来の現場には遅刻するだろう。
「うちの若手押したんだけど、向こうがうんて言ってくれなくてさ、さすがにね」
「わかりました。いきます」
「ごめんね。僕も先回り先回り、謝って回るから。今日も晴彦と一緒に、よろしく」
「わかりました」
いろいろ言おうとした。聞きたいこともあった。
口にすると、いらんことまで話してしまいそうなので、言わなかった。変な間が空いてしまった、最後にもう一度「わかりました」と繰り返した。
ピンでも十分やっていける。そんな風に思っていた時期があった。
――俺はこんなに依存していたのか……。
自分の弱さを痛感した。
受け入れてしまえば、あとは真っ直ぐな道が続いているだけだ。
ある大好きな漫画のフレーズ。
今までだって、時に悩みながら進んできた。まだ道を折れるタイミングじゃない。それを決めるのは北村でも誰でもない。「自分」だ。
――あいつがいたからここまでこれた。
きっかけを作ってくれたのもキタさんだし、もしキタさんに会わなかったら、コンビ組んでなかったら……。
ずっと下を向いて歩いていた。電車の床を見ていた。ずっと俯いたまま、進んでいた。
いつからだろう?
朝、抜けるような空を見た。
そう、朝は「見上げた」んだ。立ち止まらずに空を見上げた。見上げて、立ち止まった。
建物に区切られた青い道が続いている。滑らかな雲を突き抜け、乗り越え、踏み越えて。
昨日の夜も星空を見上げていた。風が強かった。北村のことを思っていたんだな。
――キタさん、どこにいるんだべ。
北村のことを考えつつ、体は北の方を向いていた。
「おしっ」
小さく言って、気合を入れた。
不安が消えることはない。それでも、前へ進む力が、不安を抱えたままでも進んでいく力が湧いてくるようだった。
現場は、ある種異様な雰囲気だ。自分と空気がなじまないのがはっきりわかる。完全アウェー。
「おはようございます」
マツケンを見つけた。「おはよう」。目と目が合うと、どちらからともなく笑みが漏れた。
隣の晴彦はまだちょっと顔が硬い。
三人固まると、そこに視線、というか関心が集まるのがわかる。卑猥な感情が集中する。
と、感じる。
マツケンの笑顔は、普段と変わらないものだった。指でオーケーサインを作ってみせる。
「こっちは大丈夫。あとは晴彦と、ちょっと打ち合わせとかして。アシスタントのアイドルもかわいいし、問題ないでしょう。僕はすぐお台場にいくから」
「まだ、向こうには」
「ぜんぜん。これからいってみて。こっちのプロデューサーとディレクターにはなるべく早く解放してくれとは言ってある。いい人そうでよかったよ」
最後少し顔を近づけて、小さな声で言った。
「わかりました。サクサクとやっつけちゃいます」
マツケンの視線が硬くなった。大丈夫、わかってますって。手を抜いたりなんかしない。最初から、飛ばしていきます。
「じゃあ、晴彦、あとよろしく」
「あとよろしく」
「はい、え? ハルさん?」
「マネージャー! お願いします!」
早くも歩き出していたマツケンを呼び止め、腰を折って頭を下げた。
「まかしといて」
グッと親指を立て、いつも以上に勢いよく離れていった。そして、まだ幾分表情が硬い晴彦にも。
「お願いします」
と、軽く頭を下げた。その頭を慌てて追い越すように、晴彦が深々「こっちこそ、お願いします」と頭を下げた。
「よっし。やるか」
「はい!」
アウェーとかビジターとか、そんなの関係ない。絶対に負けられない戦いが、ここにもある!
「シャ! シャァ、いこ!」
「どうしたんですか、ハルさん、今日はやたらテンション高いですけど」
アシスタントの早苗ちゃんが、ちょっとびっくりした顔で半笑い。
「相方が行方不明なんすよ」
スタッフからどっと笑い声が上がった。
「えー! それ大変じゃないですか」
「うん。だから今日は急遽予定を変更して、相方を、探しにいきたいと思います!」
スタッフ笑い。
「いやいやいや、ダメですダメです。今日はこの汐留の、この冬話題のスポットを視聴者の皆さんに」
「いいです。もう、そんなのほっといて、みんなで手分けして探しにいきましょ。じゃあ俺はこっちいくんで、早苗ちゃんは向こう探して。で、カメラさんはあっちのほうに」
「ダメです。違いますよ! 今日は」
「なに言うてるんですか。こっちも人生かかってますから」
「ダメですダメです。そんなの自分で勝手にやってくださいよ。はいはい、いきますよ」
「つめた! なんや、かわいい顔して、鬼か!」
「はいはい、じゃあ、いってきまーす」
「おーい、ちょっと」
早苗ちゃんに腕をひかれて歩き出す。
「はい、カット。ごめんもうワンテイク。ハルくんごめん」
北村のくだりを入れずに、普通のパターンでワンテイク。どっちを使うかはわからないということだったが。
「じゃあ移動しまーす」
Dに言われた通り取り直して、ロケハンは移動を開始。
取り直しにはなったが、現場のつかみはオッケー。
アシスタントの早苗ちゃん、最近リポーターとして露出も増えているが、アイドル上がりで、頭の回転も速いし、度胸もいい。
相方が失踪中だということは知らせてあるが、一回目の掛け合いは完全なアドリブだった。思った以上にうまくやってくれた。彼女に感謝。
晴彦も笑顔だった。晴彦に向かって親指を立てる。向こうも同じように。事務所を潰すわけにはいかない。そこはみんなの、居場所なんだ。
スタッフにほんとに感謝。
土曜の昼間にやってる情報番組の中のワンコーナーで、放送は十五分ほどだそうだ。
取り直したのはアタマだけで、それからはすんなり取れ高オッケーを出してくれた。
相方はゲストとして呼ばれていたのだが、もったいない。これほどやりやすい仕事は久しぶりだったな。
「ハルさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
早苗ちゃんが挨拶にきてくれた。
「ごめんね、こっちのわがままで、なんか急がせちゃって」
この前に、晴彦と二人でスタッフ全員に頭を下げまくってきた。みんな笑顔で励ましてくれた。アウェーどころじゃない。完全なホームじゃんか。
「ぜんぜんぜんぜん。でも、北村さんの話、本当なんですか」
「マジ。死んじゃいないみたいだけど、どこにいんのかわからないんだって。早く出てこいって感じだよ」
「一人じゃ大変ですよね。わたし、はるまげどん好きだったんですよ」
「ほんとに! ありがと! 仕事もそうだけど、ぶっちゃけ、いないと不安だよね」
――なに言ってんだ、俺。初対面の歳下かわいこちゃんに。
「いつも一緒になんかいないけど、連絡がつかないってなるとすっげー不安。こんなに不安になると思ってなかった。まあでも、がんばるしかないよね。開き直ってさ、やるしかないよね。うん。うん」
そう、やるしかない。一人だって、はるまげどんを背負っていかないと。
「頑張ってください」
「ありがと。頑張ります。早苗ちゃんがはるまげどん好きだって知ったら、相方もすぐ出てくるかもね」
相方はアイドルが好きだった。早苗ちゃんの名前は聞いたことないけど、チェックしてたかな。今日のこと知らなかったか。
「あの、今日この後って、まだお仕事あるんですか」
「そうだ、すぐいかなきゃなんだよね。これもともと相方の仕事だったの俺がきて、次はもともと俺の仕事でさ、すぐお台場いかなきゃなんだ」
当初の入り時間は過ぎている。しかし、今朝の予想よりはだいぶ早かった。といって、のんびりなどしていられない。
「初めから遅刻の予定だったんだけど、みんなのおかげで予想より早いや。今日はありがと、じゃあ、やば、晴彦から着信あったんだ。気づかなかったな」
苦笑いのような笑顔を彼女に向けて、ズボンのポケットから取り出したスマホで晴彦にかけなそうとした。
「あの、番号とライン、交換してもらっていいですか」
「あ」
慌てて電源ボタンを連射した。つながってはいない。
「マジか。いや、もちろんもちろん」
交換し終わったところで晴彦からかかってきた。
「ごめん、だいじょぶ、すぐいく。電車だべ? 地下鉄か。了解、はい」
アイドルと連絡先など交換すれば、胸は躍る。
「じゃあ、いきます。ありがとう」
「頑張ってください」
「早苗ちゃんは、仕事?」
「はい」
「じゃあ、頑張って」
スマホを持った手を軽く上げて、別れた。
なるほど、社交辞令のようなものか。ファンだと言ってたからな。
晴彦のもとに向かいながら、考えた。
この少しの罪悪感。
相方と別れる、という暗示のようにも思った。本来なら、相方が知り合うはずだった、それを今度も自分だけ。抜け駆けのように。
少し胸が痛んだが、裏を返せば、その後また「戻る」ということでもある。
歩きながら空を見上げた。さっきよりも雲が多い。太陽が雲に隠れ、そして現れ、またすぐに隠れた。忘れていた季節を思い出した。
「ふゆ」という言葉が無意識から引き出してきた「なにか」に、心がリアクションする。体を急かす。
仕事に集中しなければならない。「冬」を吸い込むと、乾いた空気が体と心から潤いを奪い去った。
マツケンの顔を思い出し、ただ晴彦と合流することだけを考えた。ラインを交換したことは、すっかり離れていた。
お台場では深夜のバラエティ番組の収録だった。
アイドルとの仕事もいいが、お笑い芸人同士でわいわいやる番組はやっぱり楽しい。
出演者はほとんど同世代の芸人たち。好き勝手暴れまくった。
本番中は相方のことを散々いじられたが、収録が終われば「がんばれよ」とみんなが励ましてくれた。
「ハルならピンでも全然やってけるだろ」
「なあ。サイコよりもうけるって。間違いねぇよ」
サイコとはサイコ・口。「さいこ・くち」というピン芸人。辮髪で独特の語り口を持つ芸人で、麻薬常習者的なコアなファンを持つ。今のところ、深夜以外ではみれまい。
「俺に勝ちたいならマッスルスパーク覚えてからこい、この野郎」
こいつらにはほんとに救われる。
それで、話をほどほどに引き上げてきた。次の収録の入りまでにはまだ時間があるが、あの場にい続けたら自分の現在位置を見失いそうで逆に恐くなった。
まだ暫くは不安の中にいなければならない。
クイズバラエティ番組の収録は無難にこなした。
相方のことはみんな知っているだろうが、収録中に触れられることはなかった。
というか、始まる前も終わってからも、その話題はあえて避けられているようだった。
「ハルくん、打ち上げ行くけど、どうする?」
一緒に出ていた先輩芸人に声をかけられた。
「すんません、今日はちょっと帰ります。すんません」
体力的に限界ということはない。が、終わったとたんに糸が切れたようだった。ここまで誰かに操られていたのか……。
暫くぶりで自分の足で立つと、こんなにも体が重かったのか。
さらには、マツケンは収録が始まるのを見届けて事務所に帰って、明日からのスケジュール調整をするということだった。
二十二時をとっくに過ぎて、もう二十三時になろうとしている。まだ事務所で電話やメールをしているのだろうか。
携帯に北村情報が送られてきていないということは、その後なんの進展もないということだ。
そんなマツケンの姿を思い出すと、ノコノコ打ち上げという気分はさらに減衰する。
誘ってくれた先輩は、それ以上しつこく誘うことはなかった。気を遣ってのことであろうが、軽く苛立ち、軽く惨めでもあった。
局の入り口に晴彦が待っていた。
「飯でも食いにいくか?」
「はい。どこがいいすかね。肉すか。今日は自分も疲れました」
「明日も同じようなもんだぜ。肉もいいけど、実は、ちょっと誘われちゃってさ」
「あれ、打ち上げ班はさっきいきましたよ。ザビさんが、ハルさんはいかないって言ってたんすけど」
「打ち上げじゃないよ。うーんとね。ま、いってみるか。新橋だって」
「はい。でも、大丈夫すかね」
「大丈夫だべ。かちあったりしねぇだろうよ」
「あと、マツケンさんのこと」
確かに、みんなでワイワイという気にはならない。しかし、これからいこうとしているのはそういうのとはちょっと違う。厳しい明日のために、きっと活力になるだろう、そう、明日のために……。
「よし」
局から外に出て。
「事務所どっちだ。五反田あっち? マツケンさん、ごめんなさい」
割と大きな声ではっきり言って、事務所のある五反田に向かって頭を下げた。晴彦もそれに倣った。
「これできっと届いただろう。よし、いくべ」
晴彦も連れていくというメールを返信して、相手からの了解を得ていた。
共犯者が欲しかったわけではない。晴彦が明日からも仕事頑張るように、だ。
マツケンに対する引け目のようなものも、きっと仕事を張り切るための逆説的な材料になるだろう、という計算もあって。
新橋まで出るゆりかもめの中は、ガンガンに効いている暖房の暖かさとはまた別種の温もりで溢れていた。
正月の微かな余韻と冬の寒さをびっしりと詰め込んだコートの暖かさ。誰もが当然のように身にまとう中で、二人にはむせかえるほど、コートを脱ぎたくなるほど、ただただ暖かかった。
駅から路上に出ると、足元から寒さが上ってくる。コートに完全に心を委ねると、やっと人並みだった。
少し歩くと、見えてきた。お酒も飲めるパスタ屋さんということだ。
「あれ、ちょっと待ってください、ハルさん。あれって……、まさか」
「ん? ああ、ああ、うん。そう、だと、思う」
「マジっすか、いや、ほんとっすか、ハルさん、いつの間に!」
晴彦の余りに大袈裟な興奮の仕方に、ひょっとしたらどっきりか、とも頭を過ぎる。逆に仕込まれたかなぁ。
とはいえ、例えどっきりだとしても、芸人が、ここで引くわけにはいかない。
「こんばんは。お疲れ様。まさかこんなにすぐラインくれるなんて思わなくて、びっくりしちゃった」
「お疲れ様です。仕事終わって疲れてるかなと思ったけど。迷惑じゃなかったですか?」
朝一で見た笑顔を、一日の終わりにまた見ることになるとは。
夜の光に浮かぶ早苗ちゃんは、一層輝いて見えた。彼女の唇が動くたび、下半身が熱くなる。かなり疲れているようだな。この、変態!
冷たい風が強かった。加えて、雲が出てきたらしい。昨日あれほどきれいに見えた星空が、今日は街の灯りに空を覆う雲が浮かび上がっている。
アパートに帰り、郵便受けを開けると、一通の封筒。
「関口……?」
誰だかはっきり思い出せないまま、取りあえず部屋の中に入った。着替えて炬燵に潜り、開けてみた。
宛名は「直江春一」になっているから、間違いってことはないだろう。
不思議なもので、中の便箋を取り出す瞬間、ぱっと閃いた。
差出人は関口裕美。夫関口満男、「がずあるがずえる」、えるさんの奥さん……。
『突然の手紙、申し訳ございません。ご迷惑とは思いましたが、あるさんにハルさんの話を聞いてどうしても一言お礼がいいたくて手紙を書きました。
先日は寒い中、遠いところまでわざわざありがとうございました。主人もきっと喜んでいることと思います。
最近は芸能界の人たちとの付き合いもほとんどなくて、口には出しませんでしたが、本人も寂しかったと思います。今となってはわかりませんけども。
あの人も疲れたんだと思います。短いながらも波乱に富んだ人生でしたから。好き勝手なことやって、周りの人にたくさん迷惑かけて、そんなどうしょもない自分に疲れたんだと思います。
あの人が生きている間、私は栃木の実家には一度も帰ってきたことがありませんでした。
今回、初めて実家のほうにきてみてわかりました。あの人は、私に見せたくなかったんです。自分がこんな田舎で生まれたってことを。
そういう人だったんです。馬鹿みたいに体面にこだわって、カッコ悪いとか、田舎とか、大嫌いな人でした。
口ではそんなことばかり言ってましたけど、でも本心は違ってたんだと思います。
今、漸く心の整理がついてきて、思うんです。あの人は本当は帰ってきたかったんだって。
飛び降りたのも、飛んで栃木に帰ろうとしたんです、多分。酔うとよく言ってました、「鳥になりたい」って。
本当は誰よりも故郷が好きだったのに。
こういう形でも帰ってこれて、きっと、あの人はこれでよかったんだと思います。
新年早々、縁起の悪い話を長々と申し訳ございませんでした。
どうぞ、栃木にくる用事があったらいつでも寄ってください。これからもハルさんのご活躍をテレビで応援しています。失礼します。』
きれいな女性の筆致で。
あるさんに以前、「えるさんのこと一番理解しているのはあるさんです」と言ったが、もう一人いた。
しかもこの人は「全然わかってなかった」なんて泣き言は言わない。
さんざ一人で泣いたに違いない。「全部わかろうとしていた」人と、「ただ受け止めていた」人の違い。
この手紙を読んで、はっとした。
えるさんと「相方」がかぶる。体面にこだわって、融通が利かなくて。
違うのは、芸人としての絶頂を味わっていないことと、奥さんがいないこと。
えるさんと自分がかぶる。故郷を隠すように生きていること、故郷が好きなこと。
違うのは、多分だけど、えるさんにとっての故郷は「心の故郷」であるが、自分にとっては現実に「前に進む力」をくれる場所であるということ。
かけがえのない仲間がいること。
手紙を炬燵の上に置いて、横になった。灯りが暗い。交換しなければと、少し前から思っていた。
――飛びたい。
窓ガラスがガタガタ鳴っている。風が強い。
同じように、炬燵で横になって天井見上げている相方の姿が浮かんだ。
あいつは実家にいるんじゃなかろうか。
マツケンが実家に電話したときは「知らない」と言っただけだったそうだ。
実家のこと詳しく聞いたことはないが、「お笑い芸人目指して東京に出る」とか言う息子を笑顔で送り出す親はそうそういるものではない。地方の田舎なら特に。
が、心配しない親もいない。言葉は悪いが、「匿っている」ことだって考えられる。そんな相方を、罵り責める気にはならなかった。
炬燵から出て立ち上がった。窓の方へ近寄っていき、閉めてある薄緑の汚いカーテンを開けた。
さっきまでは窓ガラスが激しく鳴っていた。
今も鳴っている。しかし、さっきほどじゃない。
窓ガラスが、部屋の明りを取り込んで鏡のように自分の姿を映していた。ガラスに映る自分を一睨みして、静かに窓を開けた。
そこは、実家の窓だった――。
バァッと吹き込んできた。風と、白いもの。雪が降っていた。
驚きはしたが、「やっぱり」という感触もどこかにあったらしい。
降り始めたとこで、道路にはまだ積もっていない。降りが結構強い。時おり吹く風に、吹雪のように横に流れた。
それは雪の日特有の静けさだった。雪が、無駄な音を吸収する。
かさかさと雪が屋根に当たる音。車の音は常よりも遠い。この静けさが、「やっぱり」と思わせたんだろう。
この静けさが、相方と故郷を結びつけた。心を冬色に染めた。心をセンシティブにしたに違いない。
「手紙」が、この「冬」を呼んできたのだ。
何歳かはわからない。ある年の初雪は夜だった。
家の誰かに言われたのか。それとも、今日のようになんとなく呼ばれるように窓の外を覗いたのか。夜の闇に舞う初めての雪を、寒ささえ味方にしてじっと眺めていた。
いつしかそれは、えるさんの葬儀の後、のぼった城跡から眺めた光景になっていた。
――手紙、手紙だ。あっちゃんからの手紙……。
窓を閉めた。本棚の上、無造作に置かれた手紙。親父の手紙。母親は、泣いちゃうから電車の中で読むなと言ったが、書いてあったのはほとんど世間話と家の近況だった。
「あった」
あっちゃんからの手紙と、書きかけの返事。それとレポート用紙を持って再び炬燵に入った。
あっちゃんからきた二通目の手紙を一読して、自分の書きかけの返事をじっと見つめる。それをぐしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。
新しいレポート用紙を一枚はいで、さっと一筆啓上仕り。折り畳んで封筒にしまった。
すぐまた炬燵を出て、窓に映る自分を睨みつける。
――飛べ! この雪の中を、飛んで見せろ!
窓を開ける。ぶつかってくる寒さに顔を背けず、向き合った。街灯に、白くなりかけた道路が浮かんでいた。